友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

尊敬できる人

2007年06月30日 23時43分29秒 | Weblog
 私がいろいろうるさく言うので、孫娘に「おせっかいはダサイ」ときっぱりと言われてしまった。私が言っていることは普通のことで、たとえば「食事の後はすぐ歯磨きをしなさい」とか「座っていても食事の用意はできません。何か手伝うことは?と聞くのが普通でしょう」とか「おはようございますとか、こんにちはとかが言えない人は人間じゃーないです」といった類のことばかりだ。

 しかし、娘たちもそうだったが、こうした普通のこともしつこく強要すれば当然反発が生まれてくる。そればかりか、彼女たちがやる前に、あるいは言う前に、口に出せば、当然なことながら「おせっかいはダサイ」ということになる。その人のためになると思って言うこともやることも、実は受け取り手次第であるということが長い間私はわからなかった。人を責めることはあっても自分に落ち度があるとは思っていなかったのだ。

 私の人生の中で出会った女性で、この女性には参ったと思う人がいる。この女性と仕事をしたいと思い、次女を出産したばかりの産室に彼女を訪ねてお願いした。彼女の存在があって始めて、私の地域新聞は実効性のあるものとなった。大学教授の妻である彼女は夫とは別の大学で溌剌と働いている。私を海外旅行に初めて連れ出してくれたのも彼女だ。アメリカに初めて連れて行ってくれたのも彼女である。私にとって彼女は誠に大きな存在で、これは彼女の夫や私の妻にも理解できない、私自身にも何と言っていいのかわからない、不可思議で特別な関係といっていい。

 もし、この世に男と女の関係以外の人の関係が成り立つならば、彼女とはそうした超越した関係だとずっと思っていた。私がメールで「あなたはどう思いますか」と彼女に尋ねたところ、私の友だちである彼女の夫から「あなたという言い方はやめていただきたい」とメールが届いてビックリした。私は女性を「あなた」と呼んでしまうが、それをイヤだと受け止める人もいる。イヤだと思われるようなことは決してしてはならないのに、それに気がつかなかった自分を責めた。

 彼女の言葉でもっとも印象的だったのは「尊敬できる人を友人に、尊敬できて愛することができる人を夫に」である。そのことを孫娘に話したら、「尊敬できる人よりも私よりも成績の悪い人の方がいい」と言う。現実の生活を知らない孫娘はまだ人の価値というか、パートナーとなるべき人の価値がわかっていないようだ。一緒に作っていくのか、それとも自分が思い描く絵の中に添えるのか、生きていくということがどういう展開となるのか、まあそのうち彼女も理解する日が来るであろうと思っている。

 孫娘がポツリと「パパとママはどうだったんかなあー」と言う。それもまた、彼女がいつか理解する日が来るんじゃあないか。夫でも妻でも、相手を尊敬でき、しかもいとおしく思えることが一番大事だろう。孫娘がそんな相手にいつ出会うのか、楽しみでもあり気がかりでもある。
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パンツをはく女たち

2007年06月29日 23時06分25秒 | Weblog
 7月に発行する大和塾の機関誌『風』に、私が敬愛する元高校教師が“奥ゆかしさの持つ美しさ“について書いている。古来、日本人は過度な表現を嫌い、「遊びの世界、空白の世界をもっと大切にして」きた。そういう美意識を大事に思うから、冒頭のところで「つけまつげ まゆずみ くちべに 次々と 少女化け行く 昼の車内に」という歌を引用し、「化粧というものは、面前で今こうしてやっておりますとでもいうように見せるものであろうか」と嫌悪を表している。

 「車内で化粧」が論議されるようになったのはいつごろからだろうか。最近では余りにも多くの女性が「車内で化粧」するので、もう免疫ができてしまった感がある。私自身は、女性が化粧をするのを見るのは好きだ。日本の小説だったか映画だったかは定かではないが、好きな女が化粧をする姿を男が見ている場面があったように思う。

 車内で化粧することが気に障る人は、しかし本や新聞を読む人の行為は気にしない。化粧する人も新聞や本を読む人も、意識としては同じだと私は思う。車内に占める自分の空間を自分が必要なように使ってはいるが、それで他人に迷惑をかけているわけではない、そんな意識だろう。ところで女性たちはなぜ化粧をするのだろう。「男性がひげを剃るあるいは伸ばすのと同じよ」と言うならよく理解できる。自分をよく見せたいということなのだから。

 話は飛ぶかもしれないが、日本の女子高校生のスカートは都会から田舎まで短い。どうして短いスカートをはくようになったのかということをラジオで「知性も教養もダメなら、見せるしかないじゃあーないですか」と話していたのを聞いた気がするが、的を射ていると思う。もちろん彼女たちは無意識であろうが、「女」であることを見せつけているわけだ。ところが高校を卒業すると、女子大生もOLも圧倒的にズボンである。今はパンツと言うのが正しいようだが、高校生の時は見せつけていた生足(と言うそうだ)を隠しているのだ。

 パンツのほうが行動しやすいということだろうけれど、会社や大学では「性」を意識させる必要がないということなのだろうか。いや、パンツ姿の彼女たちは時折、へそやお尻を見せつけているから、やはり「女」を見せつけていると言えなくもない。「車内で化粧」も案外、女性たちの「性」の見せつけなのかもしれない。女性たちがどんどん「性」を見せつけてきているのに、男性たちは今だに「着物のすそからチラッと見えた足」にエロスを感じている。もっともそんなことを言うのは年寄りばかりであるが。
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宮沢喜一氏の死

2007年06月28日 23時27分59秒 | Weblog
 先ほどのテレビで、宮沢喜一元首相が亡くなられたことを知った。この日の朝まで、新聞を読んでいたというから、極楽往生である。こんな風に死ねるケースはそんなにはないだろう。テレビは、保守本流の人と称えていた。保守本流とは何を指すのか。憲法第9条を守りながら日米安保条約を堅持するというものらしい。はっきり言うなら、日米安保条約を堅持しながら、憲法第9条の条文はそのままで、よくわからないところはよくわからないウヤムヤでいこうというものだ。

 宮沢さんはそういう意味でハト派と言われている。安倍さんや小泉さんはハッキリ憲法を改正すべきと主張する点で宮沢さんとは異なる。しかし、どう見ても宮沢さんのような政治家は少なくなった。安倍さんに代表されるような、あるいは塩崎官房長官に代表されるような、若い保守政治家が多くなってきた。多いということは、つまりはこちらが保守本流になってきたということだ。彼らはいずれもかなりの愛国主義者だ。「なぜ外国の言うことを聞くかなくてはならないのか」と強く主張する。「わが国は長い歴史と豊かな見識と優れた技術を有する美しい国である。外国にとやかくいう言われはない」。そうした意識が濃厚だ。

 政治家ではない若い連中と話していても、同じような意見をたびたび聞くことがある。人からいろいろ言われることがキライな人たちだ。確かに私たちも若い頃は人から、しかも年寄りから、訳のわからない自分勝手な言い分を聞かされることはよく思わなかった。いつの時代も若者と年寄りは相反する存在なのだと思う。だから彼ら若者が、ナショナリズム的であってもそれは私たち年寄りが生み出してしまったものかもしれないと、自分たちを反省すべきだと思う。

 しかし、それでも若い人たちに「自分がよければ他の人はどうでも良いと考えてはいけない。全ての人々が生きていける社会にしなくてはならない」と言っておきたい。「そんなことはわかっている」と言うなら、じゃーそのためにはどうしていくのか、答えを出していかなくてはならないと言いたい。「そんなことは実現不可能な夢物語だ」と言うなら、「不可能を可能にして欲しい」とお願いしたい。これから若い人々がどんどん政治の世界にも進出してくるだろうが、彼らがどんな主張をするのか、楽しみであり怖いような気持ちでもある。
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残念無念

2007年06月27日 21時30分19秒 | Weblog
 孫娘は中学1年生。ただ今はじめての1学期試験を迎えている。中間試験では学年で何位という良い成績を取った。この成績は私もカミさんも孫娘の母親もその妹に当たる叔母も、要するに我が家の家族の中では誰も取ったことのない成績である。そんな話を77歳になった姉にしたところ、「私は取っていたわよ」と言われてしまった。

 姉はしっかり勉強をしてきたようだが、私はいつも逃げていた。試験があるからと勉強しだしたのは高校生になってからだったように思う。高校に入って、初めての国語の試験でトップだったことがつまずきの原因だった。私の高校は地域の中学校から優秀な成績の者がやってくる。それなのに、ナンだ、たいしたことないではないか、そう思ってしまった。けれども、高校での最初の中間試験の結果はさんざんなものだった。これまで一度も経験したことのない屈辱的な結果だった。と言いながら、実は何も覚えていない。

 こんな馬鹿な連中を相手にしながら、全く太刀打ちできない自分をなんとかしようと考えなかった。勉強が好きな者には勉強させておけばよい。自分は勉強よりも、社会の仕組みや人生の意義に関心がある。みんなは勉強勉強と言うけれども、そもそも高校は何のためにあるのか。大学試験に合格することだけが高校の目的であるなら、予備校と変らない。私は予備校に来たわけではなく、人生の意義とか人を好きになることとか、ヘルマン・ヘッセや伊藤左千夫の青春を夢見ていたので、試験勉強は通ればいい、つまりは赤座布団でなければそれでよいと決めていた。

 今、孫娘の勉強振りを見ていると、自分も彼女のように真面目に勉強に精を出していたならもう少し違う人生を歩いていただろうと思う。そんなことを言うとまたまた次女に怒られそうだが、やはり自分が選択してきた道ではあるが、別の選択をすれば当然だけれど別の人生があったはずだ。けれど、じゃー別な人生を歩いただろうかと考えると、やはりどこまでいっても自分は自分だろうなと思う。『国家の品格』を書いた藤原正彦さんが、「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです」と書いているが、誠にそのとおりであろう。

 人はわかっていてもなかなか自分を見直すことは難しいようだ。でもきっとそれができる人は大きく羽ばたくことができる人なのだろう。気付くのが遅かった。残念無念であるが、これが私の人生である。
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眠いよと言いながら

2007年06月26日 22時45分23秒 | Weblog
 もうすぐ午後10時になるのだが、やたらと眠い。睡魔に襲われている。原因は昨夜のことだ。いつもながら、夕食が済めばコックリコックリと始めるカミさん。昨夜は、孫娘が期末試験の英語があるからというので、その勉強のために午後11時過ぎから付き合わされたようだ。いつもなら眠ってしまうカミさんも孫娘との勉強で興奮したのか、私がパソコンを終えて、居間に戻るとまだ起きていた。午前0時を過ぎていたので、サア早く寝なくちゃあーと思っていると、「ネエー何に飲む?」と言う。そうか、逆に遅くなってしまって眠れないのかと理解はできた。けれども、この時間からお酒を飲みだすと、私のほうがすぐに眠れなくなる。

 「じゃーワインをオンザロックにして飲むか」と、二人でテレビを見ながら、なんだかんだと話しながら、飲んでいたがそのうちに、酔いが回ってきたのか、どうやって眠ったのか覚えていない。記憶では午前2時近かったように思うけれど、何を話していたのか、どんなテレビだったのかも覚えていない。いやだねえー。こんな風にして覚えのない年寄りになっていくのかねえ。

 そんなわけで、今晩はサアー早く寝るぞと思っていたら、またまた孫娘が先ほどやってきて「明日は技術の試験なのだけれど、この図形のことがわからない」と聞いてくる。つい今まで、夢うつつだった私の頭もキリキリと覚めていく。夕食に飲んだお酒のおかげで、気持ちよく夢の中を彷徨っていたのに、一挙に現実に引き戻されてしまった。図形を見ながら「こんな形になるんじゃーないか」と説明する。今晩はパソコンもお休みにして、サアー寝るぞという勢いだったのに、こんなにもパソコンを打つ羽目になってしまった。でも、また孫娘が現れないうちに眠ってしまおう。お休み。
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思いやりって何だ

2007年06月25日 23時58分57秒 | Weblog
 最近、よく聞く言葉に「思いやり」がある。私は子どもたちに「人には優しく、自分には厳しく」と言い聞かせてきた。「思いやり」を持ちなさいということも同じ意味合いだと思っている。選挙で、立候補者が「思いやりのある社会こそが大切」と訴えているのを聞いた。この選挙では、他の立候補者も「思いやりのある子どもが育つ社会に致しましょう」と演説していた。現在の社会は「思いやり」に欠けていると二人の立候補者は考えて、そう訴えることが多くの共感を呼ぶと判断しているのだろう。

 今朝、中日新聞を読んでいたら、『くらしの作文』のコーナーに、62歳の父親が結婚した息子に贈る言葉が載っていた。その最後は「人生の荒波も乗り越えてほしい。そして、他人を思いやる一人の人間として、二人で羽ばたいていってほしい」と結んであった。人生で一番大切なものは、「他人への思いやり」であることは多くの人が認めるところだ。逆説的に言えば、多くの人が「思いやり」を求めているということでもある。

 電車の中で、席を譲ることももちろん「思いやり」である。席を譲る人が、本当はもう少し座っていたかったのに席を譲るなら、それを私は「思いやり」だと思う。けれども、席に座る気がなかった者が席を譲るのを「思いやり」だとは思えない。車を運転していて、出会い頭に「どうぞ、お先に」というのも「思いやり」ではあるが、それくらいのことを「思いやり」だと思っては欲しくない。

 「思いやり」には自己犠牲が伴うものだと私は思っている。自己犠牲を伴わない「思いやり」はマナーと言ってよいのではないか。自己犠牲という言い方はオーバーかもしれないが、「思いやり」にはそれくらいの覚悟が必要だ。自分の取り分を削ってでも人に与えられることができなければ、「思いやり」とはいえないのではないか。資本主義社会は理屈で作られたわけではなく、人の歴史の積み重ねで作り上げられた社会だ。民主主義はその副産物だ。だから、これが最終地点でもなければ、最高のものでもない。

 現在の社会で、多くの人が「思いやり」を大切にしようと言うことは、社会が持つ欠陥を補うものと考えているからだろう。多くのものを持つものは、持たないものに分けなくてはならない。たとえ自分の取り分が少なくなろうと、進んでそうしなくてはならない。相手の気持ちを考えなさいというなら、その思いをさらに積極的な行動に移すことだと思う。たとえそのためにわが身がボロボロになろうともそうすることが、「思いやり」というものだ。自己犠牲を伴わない「思いやり」はマナーでしかない。
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発想の転換

2007年06月24日 23時29分04秒 | Weblog
 昨日の朝日新聞の『生活相談』を読んで、なるほどと納得させられた。相談内容は「話し方が威圧的であったり、何かあるとキレ気味に言い返したりしてトラブルを起こすことがあります。どうすれば良くなるでしょうか?」というものであった。回答者の創作家、明川哲也さんの答えは誠に明快だった。ちょっと長くなるけれど、ここに引用しておく。

  「威圧的だったり、キレ気味に言い返したりしてトラブルを起こすのなら、威 圧的じゃなかったり、キレ気味に言い返したりしなければいいだけではないでし ょうか。はい、おしまい。短気なものですいません。でも、これじゃあんまりで すから、ちょっと補足説明をしますね。
  人は何のために生きるかということに関して、たくさんの人がたくさんのこと を言っています。幸せになるために。生きる意味を知るために。愛するために。 子孫を作るために。色々です。だから考えれば考えるほど、何のためにという問 いかけは難しくなります。
  でも、人は何のために生きないのかということなら、そう難しくはありませ  ん。たとえばボクは、大きな家を買うためにいきません。近頃はやりの細身のス ーツを着るために生きません。株価の上げ下げに一喜一憂するために生きませ  ん。いばる人になるために生きません。武器を持ち、誰かを殺すために生きませ ん。
  (略)生きることの意味を考えると難しくなる。でも少なくとも、威圧的にな ったり、キレ気味になったりするために生きているのではない。だとすれば頭に 血が上った時は、アヘッとでも笑って、私はこのために生きないきっぱりやり過 ごすべきです」

 そうなのかと、この若い創作家に教えられた。何のために自分は生きているのか、その答えが欲しくて、結論ばかりを求めていた。確かに彼が言うように、愛するためとか生きる意味を知るためとか、答えを追い求めてきた。「発想の転換」をしてみればいいという彼の指摘に、なるほどそういう考え方もあったのかと納得した。自分が大切と思えないことには血道をあげない、それでよいのだと思う。

 折りしも、大和塾の機関誌の発行に向けていただいた原稿の中に、「風 疎竹に来る 風 過ぎて竹に声を留めず」についての一文があった。この一句は中国の『菜根譚』にあり、この句に続けて「雁、寒潬を渡る。雁去りて潬に影を留めず。故に君子事きたりて心始めて現る。事去りて心随って空し」とある。寄稿者は言う。「事が済んだら何時までもくよくよしないこと」「これが私たち高齢者の生き方ではないか」と。
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土曜の夜のテレビ

2007年06月23日 23時06分18秒 | Weblog
 土曜の夜はなぜか、おもしろいテレビがない。そこでついついNHKテレビの「日本のこれから」を見てしまった。おもしろいことは確かにおもしろいのだが、2時間半は長すぎる。司会の三宅アナウンサーは本当によくやっているなと思う。今日のテーマは4つあったようだが、途中から見たので①はわからない。次の②が成果主義、③が長時間労働、④がすぐ辞める若者だったように思う。

 民間テレビで、ビートたけしが司会をしている政治をネタにした討論番組は、余りのうるささに一度途中まで見て、止めてしまった。そのことを思えばやはりNHKはそれなりのレベルを保っていると評価できる。民間でもNHKでも、こんな風に人々がそれぞれに自分の言いたいことを主張できるというのは良いことだと思う。情報の一般化というか情報発信の一般化はどんどん進むべきだと私は思っている。

 ところが、私の友人の大学教授は「言いたいことが言えているように見えながら、その実は何も見えていないことは軽々しく評価すべきことではないですよ。たとえば、情報公開は今ではどこの自治体も行っていますが、全ての情報を公開していますか?行政は自分たちに都合の悪い情報は決して公開はしていません。そうじゃーないですか」と言う。確かに彼の言うとおりで、自治体がいう情報公開はいかにも全ての情報を公開しているように、住民の皆さんに思わせているだけである。情報公開条例では、個人に関することや首長ができないと判断するものは公開できないと条件がつけられている。

 社会が進歩し、短い時間で物が生産できるようになれば、労働時間は短縮されると思ってきた。ところがどうだろう。私は経済通ではないので、たんなる感じでしかないのかもしれないが、まだ、生産能力の低かった産業革命以前と、生産能力が著しく上がった産業革命直後、あるいはものすごく生産能力が上がっている現在で、人の労働時間は著しく短縮されたのだろうか、あまり変らないのではないかと私は思っている。数字できちんと示してくれるような学者がいたらぜひ教えて欲しい。

 人類の生活は歴史とともに格段の進歩を遂げてきた。にもかかわらず、やはり朝早くから夜遅くまで人々は働き続けている。なぜなのだろう。人々は働くことで豊かな生活を実現することができるはずなのに、テレビもケイタイもない時代の人々と同じようになぜ必死で働き続けなくてはならないのか。「一生懸命に働いた者が報われる社会でなくてはならない」と安倍総理も言うし、今日のテレビ討論でも経営者の方ばかりでなく、働く若者もそう主張する。だから、能力のある者が報われることを肯定しよう。そこで、報われない者、一生懸命努力したけれど報われない者がどうしても存在するし、もっと言えば努力できない者だって存在するが、努力した者が報われる社会にすることはそれでよいとして、できない者をどうするというのだろうか。
 ここが政治の一番肝心なところのように私は思う。
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生徒諸君!

2007年06月22日 23時34分25秒 | Weblog
 金曜日はテレビドラマ『生徒諸君』の日だ。しかも今日は最終日だというので、見た。見たけれども実はよくわからない。文部科学省の役人が「私の決定が教育委員会の決定です」というセリフは余りにも馬鹿げているし、いやいや馬鹿げていることをあげればキリがないように思うけれど、まあドラマだからと見過ごすことにした。

 それにしても『生徒諸君』の作者は何が伝えたかったのだろうか、そこが私は一番知りたい。テレビドラマにしても映画にしても芝居でも、作者は何かしら伝えたいものがあるから作るのだと思うけれど、じゃーこのドラマで作者は何が伝えたかったのだろうと考えると、「負けないで生きろ」ということなのだろうか。もしそうであるなら、余りにも軽いというのが私の感想である。現実のとらえ方も、人と人とのとらえ方も、実際に私たちが生きている社会はそんなものじゃーないよと言いたくなる。

 藤原正彦さんの『国家の品格』を読み始めて、ガッカリしている。ガッカリというよりも無性に腹が立っている。『国家の品格』に対する批判の文書や書籍も出ているのだろうが、今の私はそれを知らずにいる。だから分不相応にも、もし『国家の品格』に対する反論が出ていないようならば、力不足とたとえ言われても、私は書きたい、書かなくてはならないと思っている。藤原正彦さんの『若き数学者のアメリカ』はおもしろかった。友人の大学教授を思いながら、彼もまたこんな思いだったのだろうかと読み進めた。私が感じなかったことを藤原正彦さんは感じ取っているし、私が考えたようなことを考えていると共鳴する部分もあった。

 しかし、『国家の品格』は初めの部分こそ、私も同じだと思いながら読めたけれど、途中からこの人とは相当な開きがあると感じるようになった。それでもまだ最後まで読み終えていないので、反論はすべきでないと思っている。バンコクにいる次女が「人の批判ばかりする」と私に言うが、私はもちろん藤原正彦さんとその点では一致していて、私が思ったことや感じたことを主張しているのであって、これに従うことを強要する気持ちは全くない。そういう点では、藤原さんも私も個人主義だ。もっとも藤原さんはこうした個人主義を非難しているが。

 中学の時のクラス会をこの秋に行う。その打ち合わせをしていた時、亡くなられた私たちの担任の話で盛り上がったが、「初めて受け持ちとなった1年の時は、恐怖の1年間だった」と聞いて、ビックリするとともにそういうことも真実だっただろうなと思った。私は3年の時が始めての担任だった。熱血漢で少々ピントがずれているんじゃーないのと思えるところがあった先生だったが、私が教師になった時、この担任と同じことを自分がしていた。「3年の時は人が変わったみたいだったから誰もあの1年の時のことは言わないと思うけれど」と言う彼女の言葉も正しいだろう。

 担任は、「夜回り先生」を先取りしたような先生だった。中学を卒業した後も、先生のお宅にはよくお邪魔した。大学1年の時に、高校の新聞部だった連中と私の中学高校の友だちを集めて合宿をした時も、どうしてかは覚えていないが、私が先生をこの合宿に連れてきた。私にはよき兄のような先生だったが、全部が全部良いわけではないということだろう。
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生き絶え絶えの自民党

2007年06月21日 23時08分28秒 | Weblog
 昨日の参議院本会議で、教育関連の3法と航空自衛隊のイラク派遣を2年間延長する改正イラク復興支援特別措置法が、自民党と公明党の賛成多数で可決、成立した。そして、安倍総理は今日、公明党の太田党首と会談し、明日の衆議院本会議で12日間の会期の延長を可決し、社会保険庁関連法案と年金時効撤廃特例法案の成立を目指すと言う。安倍さんを見ていると、人間としての躊躇がないと思う。人は意外にも不安や自己嫌悪に陥るものだが、安倍総理はそうした人としても弱味を見せない人のようだ。

 あのヒットラーでさえ、自分の決断に迷い、苦しみ、躊躇したり自己嫌悪に陥ったりしている。もちろんヒットラーは、人々の前では堂々とあるいは癇癪を爆発させ、自分の意思を通したのだろうが、安倍総理は喜怒哀楽の感情を一切表わさずに、何が何でもやってしまおうとしている。参議院選挙での自民党の後退は芽に見えているのに、なおかつ押し切ろうとするからにはよほどの自信があるのだろう。

 そもそも自民党は、地域や団体の利益を代弁することで、議員もまた甘い汁を吸い、利害の一致で今日までやってきた政党だ。政策的には全く呉越同舟の議員たちでありながら、個々の利益を守るという唯一の一致点で結ばれてきた政党だ。しかし、考えてみればわかることだが、私たちが暮らすこの地球そのものが、このままでは生存できないまで時点に来ているのに、いつまでも地域のエゴ、組織のエゴにしがみついていて良いはずがない。政治家には地域や団体にとらわれない世界的なあるいは未来的な視野と思考が求められている。だから当然、自民党政権はつぶれていく運命にある。

 公明党は、名も無き底辺の人々の政党であり、戦争に反対し平和に貢献する政党を標榜して発足した政党だ。しかし、与党となってからの公明党は初心を全く無視している。創価学会の新聞を1年間読ませていただいたが、宗教団体としての深みは全く感じられなかった。エホバの人々の足元にも及ばない。エホバの冊子はそれでも「探究心」があるが、創価新聞はただただ池田大作の神格化を謳いつづけている。信徒でない私には異様としか思えなかった。公明党は生き絶え絶えの自民党を支え、どこへ行こうとしているのだろう。

 自民党のような将来プランを持たない場当たり的な政策がいつまでも続くわけがない。地方の政治もまた同じだ。日本では地方から、住民そのものが主人公であり住民自らが将来を見据え、自分たちの社会のあり方を決めていこうという意識が芽生え始めている。それはまず首長の中に現れてきたが、そうした首長がまだ長続きできないのが現実だ。人々が己のエゴを捨て、全ての人々と社会の未来に力点を置いて考えられるようになれば、素晴らしい社会に向かうことができると思う。
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