今年は「大政奉還から150年」と中日新聞の日曜版が特集していた。大政奉還から150年、終戦からは72年、この150年の歴史の流れはびっくりするほど速い。「大政奉還」があって、徳川幕府は終わったと覚えていたが、じゃあなぜ、戊辰戦争が起きて薩長連合軍が江戸に向かって進軍したのだろう。そんなことは考えずにただ年代だけを覚えていた。
考えてみれば、徳川幕府の力は低下していた。日本は領地をいただいて主に従う封建制にあっても、各地の藩もその下の町や村も、独裁というよりも合議を習慣としてきた。徳川幕府の体制も、将軍の下に何人かの老中がいて、幕府を維持してきた。ところが、老中の筆頭である井伊大老が出勤途中に暗殺されるほど、治安維持ができなくなっていた。
将軍、徳川慶喜は幕府の力が限界にきていると判断したから、外様大名である土佐藩や芸州藩からの建白書を受け入れ、大政奉還を決意した。もともと将軍は天皇の配下の兵士の統領に過ぎないから、慶喜は政権を天皇に返上し、天皇を中心とする新政府に加わる腹づもりだっただろう。戦争をせずに、新時代を迎えるはずであったと思う。
ところが朝廷は、天皇はまだ10代の若者だったから、生き残り貴族の中に頭の働く者がいて、薩摩藩と長州藩に「討幕の密勅」を下した。慶喜が二条城で、40藩の重臣を前に大政奉還を表明した翌日にである。貴族ではなく、薩摩藩か長州藩の誰かが仕組んだのかも知れない。来年のNHK大河ドラマ「西郷隆盛」で、その辺の新事実が出てくるかも知れない。
「明治維新によって我が国は近代国家となった」と学校で教えられた気がするが、それはあくまでも結果に過ぎない。本当は徳川幕府と外様大名の権力争いだが、たまたま西洋の事情を知る者が、新しい国の手本を西洋諸国から拝借したのだろう。大政奉還とは違うが、民進党の前原代表の「希望の党から公認を」の戦術、「名を捨てて実を取る」つもりも、どんでん返しになりそうだ。