午後4時過ぎだった。電話が鳴ったので受話器を取った。「もしもし」と言うが、返事がない。耳を澄ましてみるとガサゴソと音がする。間違いなく電話はつながってはいる。いたずらな無言電話かと思っていると、「パパちゃん、ママちゃん、パパ、ママ、アイちゃん、アンパンマン」と知っている単語を全て並べる。1歳半の孫娘だ。私が名前を呼ぶと「はーい。パパちゃん、アンパンマン」と答える。しばらく会話にならない会話が続いたが、「バイバイ」と一方的に切られた。
長女が電話してきたのだろうけれど、「ママに代わって」と言っても、1歳半の孫娘には通じなかった。何のための電話だったのか、必要ならまたかかってくるだろうと思ったが、一向にかかってこない。遊びのつもりでかけてきたのだろう。1歳半の赤子がどれほどの会話力があるのか、私は自分の子どもの時を思い起こそうとするがよく分かない。赤子を見ていて分かるのは、親のあるいは周りの人を真似して言葉を覚えていくことだ。子どもが行なう動作も大人たちの動きを見ながら覚えたものだ。
生まれたばかりの赤子は目が見えないけれど、まだうまくつかめない小さな手で、乳房をまさぐり乳首に吸い付く。これはどう見ても本能である。けれど、言語は周りを見ながら覚えていくようだ。だから、周りが日本語なら日本語を、英語なら英語を話せるようになっていく。昔、インドでオオカミに育てられた少女が2人いた。1歳くらいの子は人間の手も戻されると比較的早く言葉を覚えたそうだが、8歳くらいの子は何時までも覚えることができなかった。けれども皮肉なことに、早く人間化した子の方が先に死んでしまった。オオカミはきれい好きで、排尿や排便の後は親が舐めてきれいにするそうだが、人間化した少女は尿毒症で亡くなった。
小倉千加子さんが『セックス神話解体新書』の中で、そんなことを書いていた。小倉さんはこの著書の中で、男女の野生児の例から、セックスは本能ではなく後から学習したものだと説いていた。母性本能などという言葉も実際は本能という言葉をつけているけれど、後天的に学ぶものなのかも知れない。赤子が周りの人々に笑顔を振り撒くのは、弱い自分の立場を知っているが故に防衛の本能が働いていると長女のダンナは分析していたけれど、それはきっと正しいと私も思う。人間はいったいどこまでが本能で、どこからが学習の成果なのだろう。
大学に入ったばかりの頃、「理性は自分を守るためのものであって、理想を求めるためのものではない」などと、真剣に論議したことがあった。理性は人が生き抜くため功利的なもっと言えば狡賢い智恵なのだという主張である。赤子が笑みを振り撒くのと同じというのである。欲深な自我が露骨であれば、誰もが付き合おうとはしない。けれども状況をわきまえ、理性的な振る舞いが出来る人物なら、それだけで人は受け入れられる。これは生きるための智恵であり、人が持っている本能ではないのかと言い合った。
愛し合うことも本能であると同時に理性でもあるように私は思っている。男たちはセクシーな女に惹かれるけれど、実際に好きになるとセクシーなだけではない何かが働く。性的な欲望と同時に説明しがたい何かが存在する。どうも人間はすっきりと割り切れない。
長女が電話してきたのだろうけれど、「ママに代わって」と言っても、1歳半の孫娘には通じなかった。何のための電話だったのか、必要ならまたかかってくるだろうと思ったが、一向にかかってこない。遊びのつもりでかけてきたのだろう。1歳半の赤子がどれほどの会話力があるのか、私は自分の子どもの時を思い起こそうとするがよく分かない。赤子を見ていて分かるのは、親のあるいは周りの人を真似して言葉を覚えていくことだ。子どもが行なう動作も大人たちの動きを見ながら覚えたものだ。
生まれたばかりの赤子は目が見えないけれど、まだうまくつかめない小さな手で、乳房をまさぐり乳首に吸い付く。これはどう見ても本能である。けれど、言語は周りを見ながら覚えていくようだ。だから、周りが日本語なら日本語を、英語なら英語を話せるようになっていく。昔、インドでオオカミに育てられた少女が2人いた。1歳くらいの子は人間の手も戻されると比較的早く言葉を覚えたそうだが、8歳くらいの子は何時までも覚えることができなかった。けれども皮肉なことに、早く人間化した子の方が先に死んでしまった。オオカミはきれい好きで、排尿や排便の後は親が舐めてきれいにするそうだが、人間化した少女は尿毒症で亡くなった。
小倉千加子さんが『セックス神話解体新書』の中で、そんなことを書いていた。小倉さんはこの著書の中で、男女の野生児の例から、セックスは本能ではなく後から学習したものだと説いていた。母性本能などという言葉も実際は本能という言葉をつけているけれど、後天的に学ぶものなのかも知れない。赤子が周りの人々に笑顔を振り撒くのは、弱い自分の立場を知っているが故に防衛の本能が働いていると長女のダンナは分析していたけれど、それはきっと正しいと私も思う。人間はいったいどこまでが本能で、どこからが学習の成果なのだろう。
大学に入ったばかりの頃、「理性は自分を守るためのものであって、理想を求めるためのものではない」などと、真剣に論議したことがあった。理性は人が生き抜くため功利的なもっと言えば狡賢い智恵なのだという主張である。赤子が笑みを振り撒くのと同じというのである。欲深な自我が露骨であれば、誰もが付き合おうとはしない。けれども状況をわきまえ、理性的な振る舞いが出来る人物なら、それだけで人は受け入れられる。これは生きるための智恵であり、人が持っている本能ではないのかと言い合った。
愛し合うことも本能であると同時に理性でもあるように私は思っている。男たちはセクシーな女に惹かれるけれど、実際に好きになるとセクシーなだけではない何かが働く。性的な欲望と同時に説明しがたい何かが存在する。どうも人間はすっきりと割り切れない。