友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

それでは良い年をお迎えください

2017年12月30日 17時05分03秒 | Weblog

  今日は朝から大忙しだった。昨日買ってきたパンジーを植え、チューリップとバラに水やりをして、次に玄関の掃除にかかった。これだけで午前中が潰れてしまった。午後は窓ガラスに続いて、電灯の掃除をしていたらカミさんが、「洗面所やお風呂の換気扇も掃除するって、加藤さんが言ってたわよね」と言う。加藤さん?あの加藤さんか。懐かしい。もう、亡くなって何年経つのだろう。

 加藤さんは私よりも一回り上の申年で、私が自治会長の時、書記を引き受けてくれ、総代会(議会のようなもの)の議事録を回覧板で住民に知らせる提案をしてくれた。自治会長経験者からの理不尽な要求を受けた時も同席して私を助けてくれた。一緒に旅行に行ったし、各家庭での飲み会にも気楽に参加してくれた。

 掃除をしながら、人間が動物と違うのは「掃除をするから」ではないかと思った。掃除もただするのではなく、きれいにするためにどうしたらよいかと考える。掃除機をかけ、次に雑巾で拭き、ピカピカにしようとする。お風呂の掃除をしていて、これだけこびりついている黒カビは、どんなに洗剤で洗っても落ちないからどうしたものかと思っていた時、仙台の次女のお勧めのスポンジを思い出した。

 使ってみると見事に落ちる。いや落ちると言うより、スポンジが黒カビを吸収していく。さすがに専業主婦は家事情報に詳しいと感心した。次女は昔から家事好きだ。やり出すとトコトンやってしまわないと気が済まない。あの子が家にいた時は一緒に、フローリングの床に雑巾がけしたものだ。まるで姑か小姑のように、手抜きを許さなかった。うるさいバアーさんにならなければ良いがと思ったが、女の子が生まれたからそんな心配は無さそうだ。

 さて、明日は大晦日。明後日は元旦。ブログは明日から3日まで、お休みします。読んでくださってありがとう。来年も頑張るつまりです。それでは良い年をお迎えください。

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お正月に向けて

2017年12月29日 17時23分17秒 | Weblog

  午前中に年賀状を書き上げ、郵便局に出かけた。駐車場はいっぱいで、職員の人が駐車の整理していた。郵便局に入ると、市の国際交流協会の女性職員に出会った。「お世話になりました。来年もよろしくお願いします」と挨拶され、「こちらこそ。よいお年を」と返す。昨夜、小2の孫娘を我が家で預かった時、あの子は盛んに「よいお年を」と繰り返していたが、「そうか、お正月はもうすぐなのだ」と実感する。

 小2の孫娘を迎えに行った時、「ガスボンベを買ってきて」とメールを受け、途中のスパーに寄った。ちょうどそこに、刃物研ぎ屋さんが店を出していた。私の街にも昔は2軒の研ぎ屋さんがあったが、今はどちらも締まっている。正月に来る姪っ子のダンナはいつも蟹をさばいてくれるが、出刃包丁の刃がボロボロになっているがとても気になっていた。関の刃物センターまで行こうかとまで思っていたので、これは絶好の機会だと思って出かけて行った。

 園芸売り場に立派なパンジーが並べてあった。チューリップは植え込んだが、パンジーのために11鉢残してあり、年内には買ってきたいと思っていたので、少々高かったがパンジーも買った。料理は2日にするとしても、重い酒類は買っておこうと酒屋にも寄り、ビールと日本酒を買った。スーパーも酒屋も郵便局も、どこも混んでいた。カミさんが「この車のお守りなんか、ぜんぜん痛んでいないから来年だって使えるのにね」と不謹慎なことを口にする。

 日本人は正月を大事にしてきた。特別に贅沢をするわけではない(もちろん贅沢をする人はいるが)、新しいものに代えることで1年の穢れを落としてきた。ささやかでも新しくすることで、幸せを呼び込もうとしてきた。現代人は、信仰ではなく行事としてそれを受け継いでいる。元旦に見る太陽が清々しいのは(昨日と変わらないのに)、そう思って見るからだろう。私はそうした日本人の風習は尊い気がする。

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良かれと思ってしたことなのに

2017年12月28日 17時12分04秒 | Weblog

  良かれと思ってしたことが、相手には「苦痛」だった。この頃、そんなことばかりで気が滅入る。昨日はカミさんの実家で、恒例の忘年会だった。いつもはノンアルコールビールの義妹が「息子も忘年会」というので、全く久しぶりにお酒を飲んだ。仕事の都合から車で来ていたからお酒を飲むことが無く、義弟も「明日帰ればいいから泊まっていったらどうか」と言っても、「息子がいるから」と帰って行く。

 昨日はタクシーで来たので、義弟もとても喜んで気分良く、大いに話に花が咲いた。そんな中で義妹が、「ダンナはこの家に来るのが嫌だった」と言う。姉、弟、妹の3人兄弟で、妹のダンナが年齢では一番年上なのに、妹の夫ということで「ぞんざいに扱われた」と言うのだ。「じゃー、誰が仕切っていたの?」と聞くと、「お兄さんじゃない」と私を指す。

 実家は私の職場に近かったから、いつも出入りしていたし、義父も義母も私を姉の婿ということで大事にしてくれた。私は年上である義妹のダンナに敬意を払っていたつもりだったが、彼からすれば「年下なのに」という思いが強かったのかも知れない。義妹が「離婚したい」と言い出した時、その相談に乗り、家庭裁判所も一緒に行った。私としてはできる限りの支援をしたつもりでいたが、義妹の口からは「いつも言うことが違う」という非難だった。

 その時、その時、言うことが違っていたとしても、私としては間違ったことを言ったつもりはなかったが、受け取る方はそう思えなかったのだ。「離婚はしたいが籍は抜かない」と言う妹の考えが結局、私には理解できなかったから、私のアドバイスは「空の言葉」だったのだろう。長女が私に「パパは死ねと言った」と非難したように、私にそんなつもりはなくても、傷つく人が居たことが私を苦しめる。

 

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「市民の敵は市民の無関心」

2017年12月26日 18時23分28秒 | Weblog

  テレビドラマ『民衆の敵』、最終回を観た。女性が主役を演じたドラマが全て最終回を迎えた。米倉涼子さんの『ドクターX』、井上真央さんの『明日の約束』、そして篠原涼子さんの『民衆の敵』だ。『明日の約束』は学校でのいじめを扱いながら、親子の溝にも迫る秀作だった。『民衆の敵』はいったい何がテーマなのかと思っていたが、見事に重い現実を突きつけられた。

 一般的な常識に欠ける若い母親が、報酬がよいからと市議に立候補し当選する。私の経験ではありえない話だ。市議となった篠原さんは「市民の声」を丹念に集めて、議会に反映させていく。そこは立派だが、現実の議員の世界はそんなに甘くない。「出る杭は打たれる」。議員の控室も、議員同士のやり取りも、あんなにフレンドリーではなく、もっと陰湿だ。市の将来を見据えての論議というより、ライバルを蹴落とすことに皆必死だ。

 議会としてはかなり虚構だと思うが、篠原さんと高橋さんのやり取りは面白かった。市民の声をどう実現していくかでふたりは真っ向から対立する。そもそも「市民の声」とは何かが問われる。当たり前だと思われる政策であっても、そこにはプラスとマイナスがある。ドラマでは産業廃棄物処理場を建設するか否かが問題であったが、高齢者福祉を実現しようとすると子どもの福祉まで予算が回らない、そうなるとどうするかということになる。

 「多数を守るためには少数を切り捨てることも必要」。「多数はそれでいいが、少数はどうするの」。「愚かな民衆を導くためには、民衆に全てを伝えない方がスムーズにいく」。「それは民衆をバカにした政策だ」。「一人のために多数を犠牲にするのはおかしいでしょう」。「一人を大切にしない政治はダメ」。「理想に近づくためには多少の犠牲は仕方ないでしょう」。こんなやり取りが続く。

 そして、「民衆の敵は、市民の無関心」と言い、「世の中を変えるのは、あなたです」と指摘する。代議員制度を補完するものとして、住民自らが議論し合う場を設けていく。私も議会制民主主義が究極の民主主義とは思えない。今、その変化に期待したい。

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愛の形に答えはない

2017年12月25日 18時29分31秒 | Weblog

  私の中学からの友だちがブログに、初恋の人との別れを書いていた。「月並みだが、時間という縦軸と空間という横軸が交差して、弾けるように生まれた愛は、誰が何と言おうと唯一無二のものであり、やがて、その愛はは相手への思いやりへと昇華されていく」。美しい愛の物語だ。確かにあの頃の私たちは初心だった。彼は彼女の手を握り、そのぬくもりを知っているようだが、私は結婚するまで手を握ることもできなかった。

 そんな私が生徒たちに、「慌てて結婚はするな。お試し期間があった方がいい」と言っていた。なかなか結婚しない子には「結婚だけが人生ではないが、異性の肌も知らずに一生を終わるのは寂しすぎる人生だよ」とも話した。愛し合ているから結婚というのは、私たちの時代の考え方で、愛し合っていても結婚という形を取らない人たちもいる。

 愛の形を他人がどうこう言うのは失礼な話だ。自民党の山東昭子議員が、「子どもを4人産んだ女性に表彰状を」と発言していたが、子どもを産むのは国家のためではないし、産むか産まないかはふたりが決めることだ。少子化に歯止めをかける提案だと言うから呆れる。そんなことで少子化が止められると考える頭脳が情けない。

 そもそも少子化で何が悪いと言うのだろう。経済が落ち込み、現状を維持できなくなると言う。だったら少子化にふさわしい社会に切り替えていくべきだろう。いつまでも右肩上がりの社会がベストという考えは捨てた方がいい。人は機械や動物ではない。人の上に立つ人たちは、「今よりもさらに」と望むけれど、結局はその下の人々が死に物狂いで働くことになる。

 働くことが嫌だと思う人はよほど理不尽な労働を強いられているのだろう。多くの人は働くことで幸せを得ようとする。勤勉であることで人類は豊かさを手に入れたから。キリストは「分け与えなさい」と説いた。初恋の人と結婚は出来なかったが、彼が失ったものを手に入れた人もいる訳だから、それを恨むよりは祝福しよう。神を讃えて。

 

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イヴの夢は儚い

2017年12月24日 17時28分08秒 | Weblog

  「クリスマスなんて嫌いだ。なんでよその宗教のお祝いをするのか、私には理解できない。7日後に食べる年越しそばの方が大事な行事だ」と怒っていた人がいた。キリスト教を信じていないのに、教会に行ったことも無いのに、キリストの誕生を祝う気持ちにはならないという訳だ。しかし、こういう「愛国」的な人は少ないだろう。

 キリスト教が日本に伝えられたのは戦国時代。「神は身分に関係なくすべての人を等しく愛される」とでも説教していたはずだ。生活が厳しかったから、人々は信じることで生きる喜びを得たのだろう。仏教は各々の「悟り」を求めたが、キリスト教では聞いたこともない「愛」が語られた。明治以降は西洋化とともにキリスト教は人々の中に入り込み、戦後はクリスマスが人々の生活の中に定着していった。

 「よその宗教」であろうと、何でもこだわらずに受け入れるのは日本人の長所だ。冷たい水の中に入って修行するわけでもない。讃美歌が神を讃える歌であろうと構わない。それで楽しいひと時を迎えられるなら理屈などいらない。お母さんたちは子どもに、「いい子にしていれば必ずサンタさんがプレゼントを持って来てくれる」と言い聞かせている。

 ひとりの老人のところに天使がやって来て、「あなたの望みは何でもかなえてあげる」と言う。老人はうれしくなって、「どうか、あなたのすべすべした肌に触わり、プリンプリンのお尻にキスさせてください」と言った。天使は驚いて、「なんて助平な爺なの。あなたには罰しか与えない」と怒って行ってしまった。

 老人ががっかりしていると別の天使がやって来て、「あなたが悪いわけではないわ。あの子は若すぎて何も知らないの。代わりに私のお乳を吸わせてあげる」と言い、着ていた天使の白衣を脱いで乳房を差し出した。老人は喜び、ゆっくりお乳を吸い始めた。その時、目覚まし時計が鳴り、「何寝ぼけているの。だらしない口してるわよ」と声が響いた。現実はやっぱり厳しい。

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演劇がブームになってきたの?

2017年12月23日 17時22分51秒 | Weblog

  クリスマス・イヴは明日だけれど、昨日、千種文化小劇場で劇団「テアトロ・マジコ」による『エンジェル・イヴ』を観た。若い俳優が多いだけに、一人ひとり、力が入り過ぎていた。俳優たちにできるだけ出演場面を多くするためなのか、単純な物語なのに複雑なストリーと演出で、いったい何?という感じだった。

 ヨーロッパのどこかの下町に、天使の像があって、そこにはポストのようなものが置いてあり、イヴの夜までに人々が手紙を書いて入れておくと願いが叶うという。貿易商のサミュエルが神様への橋渡し役らしいが、実は彼がその願いに応えていた。街の権力者は天使の像の前に人々が集まり暴動を起こすことを恐れていた。

 そんな背景の下で、サミュエルの地下室に宝物が隠されているとウワサが広がる。煙突掃除の子どもが地下室に閉じ込められていた女の子を救い出すが、女の子を助け出そうとしていたのは他にもいて、ここから話がややこやしくなっていく。最後は警察署長が密輸にかかわっていたので一件落着となるが、すっきりとこなかった。

 ただ、煙突掃除の子どもが求めていた母親と出会うことのできた場面は、何故か私は涙していた。人の心がひとつに溶け合うことができた、そんな場面ではいつも涙が流れてしまう。シナリオをもう少し精査し、動き回る演出を抑えるなら、大人受けするのではと私は思った。千種文化小劇場は円形ホールで収容人数も少ないから、演劇の原点というような劇場で私は好きだ。

 照明もかなり凝っていたが、靄をもうけた演出のためか、舞台が見にくい時もあり、客席も「寒い」と感じられた。名古屋にも伝統的な劇団はあるが、こうした若い人たちを中心とする斬新的な劇団も育ってきているようだ。そういえば、大学のサークルとしても劇団も増えていると聞く。また、昔のような演劇がブームになってきたのだろうか。

 

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時を重ねることは変質することでもある

2017年12月21日 17時24分25秒 | Weblog

  年賀状が刷りあがってきたので、早速、「筆まめ」で宛名の印刷をする。宛名も手書きでするのが誠意かも知れないが、勘弁してもらっている。その代わり、裏面は手書きにしている。裏面のイラストはこの1年の唯一の私の作品である。隣の部屋に居た長女たちが出て行ったので、ここをアトリエにして絵を描くつもりでいたが、いまだに出来ていない。アトリエが出来たとしても、さて何をどう描くか、きっと悩むことだろう。

 宛先を見ながら裏面に言葉を書き始めてみた。1枚書ければ後も続きやすいが、言葉が出てこないと休憩になってしまう。それに書き始めてみると、焦点が合わない。普段はメガネをとれば、近くはよく見えるのに、メガネをかけても外しても、どうも見にくい。書いているとすぐ疲れてくる。目がきれいに見えないと書く文字も形が悪い。手に力が入ってしまうのか、長く書き続けられない。

 やっぱり歳には勝てない。まあ、ボチボチやって行こう。お昼のテレビはどの局も大相撲の問題で私は食傷気味だ。暴力現場に居ながら止められなかった白鵬や鶴竜が、減俸されるのは仕方ない。暴力を振るった日馬富士に引退勧告も、師匠の伊勢ケ浜親方が理事から退くのも当然だろう。それでもきっと、このままでは終わらない気がする。相撲が神事であるなら、興行は止めたらいい。

 歌舞伎も相撲も神社や寺院の境内で行われ、次第に形が整えられてきた。伝統芸能はそういうものだろう。それが儲かるとなると、変質するのも仕方ないことだ。大相撲がどれだけ収入があって、どのように配分されるのか知らないが、親方衆は皆いい車に乗っているから取り分も多いのだろう。力士会(代表は白鵬)が、「土日を休みにして欲しい」と提案すれば、「まるで労働組合だ」と言う評論家がいたが、きっとそういう時代になるだろう。時を重ねることは変質することなのだから。

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自己満足と自己矛盾

2017年12月20日 17時25分14秒 | Weblog

  姉の見舞いに行って来た。私が姉の前に立つと、一瞬は嬉しそうな顔をしたのに、「どうしたの?」と言う。「みんなでお見舞いに来たよ」と答えると、キョロキョロと周りを見た。そして、一瞬、明るい表情になったのにすぐ難しい顔をした。部屋でおしゃべりをして、姪っ子の息子たち、姉にすれば孫たちが正月に帰って来られるか、そんな話や、義弟がメダカを飼っているので、どんな風に世話をしているかなどを話す。

 また、我が家の孫たちの成長ぶりを分かってもらおうと、写真や動画を見せる。「可愛いね」と笑ってくれる。私はそこで、1月3日の我が家での「新年会」を来年で最後にしようと思っていることを話すつもりでいたが、姉を見ていて止めてしまった。何も姉に告げなくても、3日にみんなが来てくれた時に話せばいいと思い直した。本当は姉に「新年会は止める」と告げることで、墓石の撤去に続けて、親族の集まりも無くす私の意思を伝えたかったが、ただの自己満足と分かった。

 昨夜の誕生日会の忘年会は、相変わらず皆よくしゃべった。宴会の後はカラオケに行く予定だったが、カラオケ店が休業日と分かり、結局マンションに戻って「2次会」となった。北朝鮮問題から大相撲問題、生い立ちや家族のつながり、「海外旅行に行きたい」という現実的な問題など幅広かった。日本酒の好きな人は日本酒を、ワインの好きな人はワインを、私は「(明日)姉のところに車で見舞いに行く」ので、ビールだけにしておいた。

 政治の話が好きな人たちは、私のために選挙を一生懸命で手伝ってくれたが、話を聞いているとかなり愛国的で、私の考えとは正反対だ。首長選挙や地方議員選挙だから、国政にかかわるような論議はしてこなかったが、それにしても選挙と政治信条はこんなにかけ離れていたのかと、私自身の矛盾を痛感した。心からの友であるが、思想的には全く違う。そんなものだろうと思い、私は自己満足した。

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マンションの大掃除と胃の痛み

2017年12月18日 17時20分28秒 | Weblog

  朝方はまだチラホラと雪が舞っていたから、マンションの大掃除はないだろうと思っていた。ところが午前8時40分頃に、「午前9時より大掃除を行います。大変冷えておりますので寒さ対策をしてご参加ください」と放送が入った。私たちの友だちの娘さんの声だ。今年は子ども会の役員のため、自治会で「こき使われている」そうだ。昨日はそういう訳で、朝から花壇に落ちた桜の葉を拾い集めた。

 落ち葉は冷たくて、指先の感覚がなくなるほどだった。参加者は女性が多いが男性も何人かはいる。寒いのに本当にご苦労様だった。自分たちの住まいを自分たちできれいにする、こんな当たり前のことだが、最近は若い人の参加が少ない。昔は子どもたちもずいぶん多かったのに、子どもは数える程しかいない。日常は清掃会社の人たちがきれいにしてくれているが、こんな日はお祭り気分でもっと多くの人に出てきてもらいたい。

 このところずぅーと胃が痛い。胃が痛いのに酒など飲んでいるから治る訳もない。先日、市の保健センターから「要精密検査の結果がまだ出ていない」と電話が入った。仕方ないと覚悟を決め、医院に行って来た。「市販の薬を飲んでもなかなか治らない。明日は忘年会があるし、新年会もあるので」と言うと、「市販の薬は飲まないでください。年明けに胃カメラ検査をしましょう」と宣告される。ということは、忘年会や新年会は飲みすぎなければいいってことかと解釈した。

 胃が痛くなったことのない人には分からないだろうが、シクシクと痛みが続くと何もしたくなくなる。夏目漱石も胃の痛みに七転八倒したようだが、胃がえぐられるような痛みの時は息も出来ない。憂鬱で無気力になる。そんな時に、「来年の春に向けて地域から市議を出したいから、文書を作ってくれ」と言ってくる古い友だちがいる。何とかしなくてはと思う。あまり先走ると逆に潰されてしまうことを話しておこう。あれ、そんなことを考えていたら胃の痛みを忘れている。

 明日の午前中は孫娘とのデート、午後は誕生日会の忘年会のためブログは休みます。

 

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