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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

今日はハロウィン

2012年10月31日 19時05分44秒 | Weblog

 今日はハロウィン。カボチャの中身をくりぬいたジャックラタンで有名になった。元々は古代ヨーロッパ北部に住む人々、ケルト人のお祭りである。ケルト人は10月31日を1年の終わりと考え、この夜は死者の霊が家族を尋ねてくる、そして精霊や魔女もやってくる、そんな風になったようだ。大晦日と盆が一緒になったような日である。私はキリスト教国でもこうした行事があると思っていたけれど、キリスト教とは関係のない古くからあった土俗宗教の行事だった。キリスト教では神以外を崇めてはならない、にもかかわらず土着の宗教行事は残っているのだ。

 日本では何でも行事に取り入れる。クリスマスもバレンタインもハロウィンも、恵方を向いて巻き寿司を食べることも随分一般化した。企業の戦略だとか、商業主義に踊らされているとか、批判する人もいるけれど、みんなで楽しめる行事は多い方がいいように思う。ハロウィンに子どもたちが仮装したりして、家々を廻ってお菓子をねだるようだけれど、日本でも昔は「お月見どろぼう」と言って、子どもたちが近所を廻ってお供えの団子やお菓子をもらっていた。子どものいたずらや甘えを大人たちも大目に見ていたのだ。子どもは地域の宝という考え方が合ったのだと思う。

 子どもたちの無邪気な遊びや悪戯はいいけれど、国会中継を見ていたら虚しくなってしまった。国の仕組みや社会のあり方を変えるには時間がかかるということだろうけれど、それにしても議会のやり取りというのは、どこでもあんな風に空々しいのだろう。質問者は一生懸命に核心に迫ろうとするけれど、答弁者はどこでも的外れな答弁をいかにも誠意を持っているかのように答えている。不誠実な答弁であったり間違った答弁なら、さらに質問者は核心に迫ることも出来るだろう。けれども、そんな風に追い込んでみて、それが何なのだろう。自己満足に過ぎないような気もするが、それでも少し前進したことも確かなのかも知れない。

 明日からもう11月だ。秋はなぜか人恋しくなる。ひとりでぼんやりと変わりゆく季節を眺めるのもいい。山は少しずつ紅葉が進んでいるし、山まで行かなくても街路樹のケヤキはかなり色が変わってきた。まだ貰い手のない我が家のナンキンハゼはもうすっかり赤くなった。空は澄み高くなったし、空気は冷たさを増した。こうなるとやはり、人肌が恋しくなる。明日は木曽の紅葉を尋ねて出かける。先回、講演に来てくれた大学の先生が隠れた紅葉の名所に連れて行ってくれるし、夜は、小学校の時の同級生が会いに来てくれる。

 そんなわけで、明日のブログはお休みです。

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市民が主役の街づくり

2012年10月30日 18時18分32秒 | Weblog

 市から委託を受けて、児童公園で井戸掘りをしている。厳密に言えば、井戸の方は95%ほど完成し、今は周囲の工事に時間を注ぎ込んでいる。井戸掘り工事は掘るだけでなく、ポンプの土台や水の受け皿などを整備し、手押しポンプを取り付けて完成である。ところが市から、「お母さんたちが花壇を造りたいという要望が出ているので、指導して一緒にやってもらえないか」と言われた。そもそも市民とNPOが協同して街づくりをしようという事業であるから、断る理由はない。

 私はそんなに本格的でなくても、素人だが好きな人がみんなで造った花壇程度のものを考えていた。ところがメンバーのひとりで庭造りの専門家が、「そんな恥ずかしい仕事は出来ない」と言い出し、彼の先導で行なうことにした。ポンプの土台もレンガを積み上げ、花壇もポンプの土台に合わせてレンガを積み、手押しポンプと花壇を一体としたデザインの本格的なものになった。専門の業者に少しも劣らない立派な出来栄えである。専門業者が受ければ百万円以上の金額だろうが、市の予算額はその3分の1でしかない。

 それをグダグダ言う気はないけれど、なるほどと思うことがあった。今日、私たちがレンガ積みをしていたら、私と同年輩くらいの女性がやって来て、「トイレは造らないのかね」とおっしゃる。この市では、児童公園からトイレを撤去する方針で、したがってこの児童公園にはトイレはありませんと話したが、高齢の女性は納得しない。「ここには大勢の子どもが遊びに来ているのよ。トイレがなければどこでするの。どうして児童公園なのに、子どものことを考えないの」と詰め寄られた。

 確かに子どもは間際まで遊びに夢中になっているから、いざ、オシッコという時は困るだろう。家はすぐ近くなのだから、家に帰ればいいと言うが、途中で漏れてしまうのがオチだ。それくらい、子どもは遊びに夢中である。市に聞いてみると、都市公園にはトイレはあるそうだ。ではなぜ児童公園にはないのか、児童公園にもトイレがあるところもあるが、これを無くす方針なのはなぜなのか。市の言い分は、「使い方が悪い。壊す。いたずらされる場所になる。汚れたトイレは誰がきれいにするのか。壊された器具は取り替えに費用がかかる。トイレでいたずらされても目に届かない」等々。

 市としては市民からの苦情を受けたくないのだ。トイレがないという苦情よりも、トイレが汚い、壊れたままだ、いたずらされたらどうするといった声を聞く方が嫌ということなのだろう。どういう公園を造るのか、公園をどのように維持するのか、地域の市民が考え運営していく、地域を自分たちの、もっと言えば市を自分たちの、財産と考えることが必要だろう。この事業は、市民が主役になって街づくりを自ら行なう第1歩だという。もっと市民同士の話し合いの場が必要なのかも知れない。

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犬が大統領に立候補していた

2012年10月29日 18時23分16秒 | Weblog

 クラス会は盛り上がりました。私はクラスの仲間の一人ひとりの人生に感動を覚えました。みんなでここまで来られたという思いがしました。みんなそれぞれに偉大な能力があることもよくわかりました。昨日のクラス会を担任が見たなら、担任は亡くなっていますが、きっと喜んだに違いありません。先生が1年、長い人は3年間、共に過ごした生徒たちがこんなに立派になったことを誇りに思っているでしょう。また、酔っ払って、怒鳴っているだけの『白いブランコ』を涙ながらに歌ったかも知れません。級長の私としては、最後までまとめ役を果たさなくてはと思いました。まとめ役の努めはクラス会に出席することで、それ以上のことはありません。

 さて、個々の感想についてはまた別の機会としよう。世界のニュースという番組で、イタリアの大統領選挙に犬が立候補しているのを見た。もちろん犬が立候補できないし、投票は無効となる。それにしてもイタリアでは犬の立候補を選挙管理委員会は受け付けるのだろうか。おそらく勝手に立候補という形を取っているのだろう。選挙運動をしているのは飼い主で、街頭演説もワンちゃんに代わって飼い主が行なっていた。演説の内容は、「こんな政治なら犬でも出来る。政治家は全員辞職せよ」というものだった。聴衆から大きな拍手が寄せられ、そのひとりは「(犬の名前)に投票する」と言っていた。

 政治不信への民衆の怒りの行動なのだろうが、全く面白いことを考える人がいる。ギリシアに続いて、イタリアとスペインは財政再建のためユーロから再建政策を厳しく求められている。公務員の賃金カットや税金の増額や福祉の切り下げなど、国民生活を根本から揺るがす改革を迫られている。そのような結果を招いたのは政治家たちだから、「政治家たちは辞任せよ」と言っているのだ。どこの国も右肩上がりの経済の時には、どんどん借金をしてさらに景気をよくする政策を採って来た。その結果は財政の大破綻で、結局国民が被ることになる。

 戦争が続いたヨーロッパから戦争をなくすためにつくられたユーロだったのに、その理想が危機に直面している。支援を受けるギリシア、イタリア、スペインで民衆のデモが起きている。スペインの北部バスクでは独立運動が再熱してきた。まだどうなるのか分からないけれど、もっと小さな国へ別れていくのかも知れない。民主主義は都市国家という形の中で生まれた。国が小さな自治体になれば、軍隊を持つことは負担が大きくて出来なくなるだろうから、その方が理想の形に近づくことなのかも知れない。

 70歳にならんとする私たちと違って、私たちの子どもの世代は裕福な環境の中で育った。80歳の、だから決して本人は戦場に行くことがない、老政治家と若い私たちの子ども世代の政治家が一緒になって、「強い国をつくろう」と合唱して来ている。直接的には政治家が政治を決めるが、その政治家を選んだのは有権者である。イタリアの大統領選挙の皮肉ではないけれど、「政治家はいらない」社会にすることが大事ではないのかと私は思うが、どうだろうか。

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人間とゾンビ

2012年10月27日 18時20分44秒 | Weblog

 大学祭で演劇部が上演する作品を見てきた。昨年、その大学に入学した娘を持つ父親が、親バカぶりを発揮して「ぜひ、見に行ってやって」というのが始まりだった。その後も、名古屋の小さな劇場で見せてもらった。さすがに学生だけあって、2つの作品はともに奇想天外で面白かった。ストリーは自分たちで書いたものだろうけれど、それがなかなかの出来だ。大学祭で見た方は童話「100万回生きたねこ」を下敷きにしたもので、もうひとつはやはり童話「チビくろサンボ」を下敷きにしたものだった。

 この2つは有名な劇団の演劇とは違って、学生らしいアバンギャルドに溢れていた。ところが今回見た演劇は随分と大人しくなっていた。言い方が悪いかも知れないが、高校生の演劇がうまくなっているといった感じだった。今回の出し物は「やわらかいパン」という題名で、雑誌記者がゾンビの国へ迷い込んで、これを記事にするというものだった。パンがどこに関係するのかというと、ゾンビの国の長老が作ったパンを食べるとゾンビになれるという設定である。出来の悪い記者が、たまたま迷い込んだところがゾンビの国で、そこで長老の娘の心優しいゾンビに出会い、彼女のおかげでゾンビの国の取材が出来た。

 この劇は、人とゾンビとの比較を通して人間社会を考えようとするオーソドックスなものになっていた。人間社会は毎日毎日いろんな規則やノルマに縛られ、働かなくてはならないが、ゾンビの国ではみんなが汚い格好をしているのでフアッションに構う必要がない。食べ物はもちろん人肉なのだが、最近では野菜を食べるようになっていて、自給自足の生活をしている。人間社会での落ちこぼれの記者はゾンビの社会に一瞬だが憧れる。人間社会に憧れていたゾンビの長老の娘は、「やっぱりゾンビの社会が自分の居場所」と言う。

 自分に無いもの、自分たちに欠如しているものに憧れるものだ。けれどもそれは虚しい。そう言ってしまっては余りにも常識的ではないだろうか。今の若者たちの方が冷静に先を読んでいるとよく言われるけれど、こうして物分りのよい、大人しくなった演劇を見せられると、年寄りの私の方が「そんなことでいいのだろうか」と思ってしまう。欲望のままに突き進んだり、理想ばかりを追い求めて現実を知らない、そういうハチャメチャな情熱を若者たちに求めることは無理なのだろうか。

 明日は、中学の時のクラス会である。みんなはどんな思いでいるのだろう。前回のクラス会の時、自分の息子や娘が結婚しないと嘆いていたけれど、結婚したのだろうか、やはりまだしないままだろうか。私たちはなぜ結婚したのだろう。生きてきた意味を問うことは愚かなことだと思うけれど、たまにはふと考えることが合ってもよいだろう。そんな訳で、明日はブログを休みます。

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おせっかいではダメなのか

2012年10月26日 19時24分25秒 | Weblog

 東京都の石原知事が、辞任して国政に復帰する記者会見を開いていた。会見室に入って来る時から、顔いっぱいに笑みを浮かべていた。報道陣の多さに大いに満足した様子だった。私は80歳の年寄りはそんなに頑張るものではないと考えているので、石原さんの決断は老害以外の何物でもないと思っている。健康でやる気があるのに、高齢だからやめろというのは差別だと言われそうだけれど、年寄りはどんなに健康でやる気があっても身を引く時を知らなくてはならない。

 記者会見をテレビで見ていると、大阪市の橋下市長とよく似ている。どんな質問かは覚えていないが、「そんな質問をするとは思わなかった。まさに愚問だ」と断言していた。記者にとっては、自分の質問を愚問と一蹴されてはたまらないだろう。そんなつまらない質問をしてしまったのか、間違った質問をしてしまったのか、いろいろ悩むだろう。もっとも、最近の記者の質問の中には、どうしてこんなつまらないことを聞くのだろうというものが確かにある。どういう答えを引き出すためなのか、意図の分からないものもある。

 石原さんにしても橋下さんにしても、記者をビビらせる能力に長けている。けれどもそれは相手に対する思いやりがないということだ。先日、病院に若い父親が、3歳くらいとまだハイハイしか出来ない1歳くらいの、ふたりの男の子を連れて来ていた。小さな病院で、ましてやその時間帯は患者も少なかった。受付嬢は3枚ほどの質問用紙と体温計を渡して、全ての項目に答えるようにと指示していた。父親は下の男の子をあやしながら、質問項目に回答を記入していた。上の男の子は退屈なのか、ソファーに登ったり、隣りのソファーへ移ったりを繰り返していた。

 「ボク、危ないからじっとしていなさい」と受付嬢がきつい調子で言った。確かにソファーから落ちることもあるだろう。それならしばらくの間でよいのだから、ふたりの子のどちらかひとりの面倒をみてあげたらよいのに。患者はいない、看護婦さんもヒマなはずだ。受付嬢だったその気になれば、男の子の面倒くらい見られるだろう。けれどもきっと、人には持分があり、出過ぎたことをしてはいけないのだ。石原さん、「愚問だ」と切り捨てる前に、ちょっと意図を汲んで答えてやってもいいのにと思った。

 私はカミさんから「おせっかい過ぎる」とか、他の人からも「甘すぎる」と指摘されることがあるが、おせっかいしない方がおかしいのではないのと思ってしまう。困っているならお手伝いしたいと思うことが、出過ぎたことだとは思わない。「優しい」と言う人もいるけれど、臓器移植には反対であるし、70歳過ぎれば生きることに貪欲であってはならないと思っている。高齢者はなるべく速やかにこの世を去るべきだと考えている。人にはそれぞれ定まった運命がある。受け入れることが大切だと思っているのだ。

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これは政治の仕事である

2012年10月25日 18時29分44秒 | Weblog

 プロ野球の日本シリーズに向けて、セ・リーグのクライマックスシリーズで中日ドラゴンズが3連勝し、あれ?ドラゴンズが勝つのかと一瞬思った。けれど、中日が王手をかけた第4戦、石井選手がヒットし、巨人が1点差で競り勝った。ベンチはまるで優勝したかのような喜びようだった。ああ、これで巨人がクライマックスも制するだろう。何しろ今年の巨人は、開幕当初は負け続けだったのに、いつの間にかトップの地位を築いていた。「このクライマックスシリーズも目いっぱい戦い、東京ドームが稼げるように、仕組まれているのだ」とプロ野球通は言うが、そんな大逆転劇があるからこそ、プロ野球ファンは面白くてたまらないのだろう。

 今朝、先日掘った井戸の工事で出かけた。手押しポンプの土台を造り、土曜日にポンプをセットするためだ。この公園の隣りでは有料老人ホームが建設されており、近々完成する。私たちが作業にかかろうとしていると、顔見知りになったガードマンがやって来た。「いよいよ完成ですね。それにしても立派な建物ですね」と言うと、「世の中は全て、金ですよ。余ほど金が無くちゃー入れません」と首をすくめて話す。今、地域では有料老人ホームが次々と建てられている。ここの建築主は既に4箇所で大規模なホームを建てている。

 中日新聞を読んでいたら、純資産が百万ドルを超えるお金持ちが昨年に比べて、46万人も増えたという記事があった。どこの国かと思ったら、日本のことである。日本はアメリカに次いでお金持ちが多いらしいが、私の周りを見ても実感が湧かない。純資産が百万ドルを超えるお金持ちは358万人とある。百万ドルというと約1億円か、358万人程いても不思議ではないか、そんな気もするけれど、数字で理解できても実感はない。私の友だちは、ロト6で何億円か当てる夢を見ている。「もし、突然姿を見なくなったら、その時はカリブで海を眺めて酒を飲んでいると思ってください」と言うが、なかなか姿を消す気配はない。

 年金生活者では公営の養護老人ホームでも生活出来ないと言われている。受け取る年金以上にお金がかかるからだ。年金でも厚生年金の人は良いけれど、国民年金では生きていくこともままならない。昨年度の日本人の平均年収は4百万円ほどと言われている。20代なら2百万円台、30代なら3百万円台、40代なら4百万円台らしい。50代、60代となると5百万円台とか、これは統計の取り方で随分開きがある。個人によっては20代でも8百万円の年収がある人もいるし、50代でも2百万円台という人もいる。

 高額費用の老人ホームが建設されていくが、一方で医者にかかることも出来ない老人もいる。国の福祉政策は破綻状態だ。野球のように一発大逆転といかなくても、せめてみんなが安心して暮らせるようにならないのだろうか。毎年3万人の人が自殺している。少なくとも生活苦で死ぬことのないように、みんなで助け合うことは出来ないのだろうか。私は残念ながら、358万人のひとりではないけれど、みんなが力を合わせれば何とかなるようなお金持ちの国なのだから、よい案はないのかと思う。これは政治の仕事である。

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週刊朝日と橋下市長

2012年10月24日 18時20分39秒 | Weblog

 大阪市の橋下市長が、「週刊朝日」が掲載した記事のことで、激しく怒っていた。私は記事を読んでいないが、テレビニュースなどで報じられた限りでは、橋下市長が怒るのも無理はないと思った。自分の考えや行動で批判されるのであれば、政治家なのだから仕方ないことで、受けて立って反論すればいい。反論もせずに入院して批判をかわそうとするのは卑怯者のやることだ。けれども、週刊誌ではDNAやら祖父のことやらを取り上げ、地区を差別するような記述があるという。生い立ちや環境からその人を分析する評論はあるけれど、問題点は橋下市長が何をしようとしているかであり、それがどのような展開となるかであろう。

 ただ、気になったのは橋下市長が記者会見で、朝日新聞社をこき下ろしていたことだ。朝日新聞社の記者がツイッターで橋下市長を批判したこともあって、朝日新聞を「敵」にしていた。「週刊朝日」と朝日新聞は子会社と親会社ではあるけれど、編集権は別であり、今回の記事の責任は「週刊朝日」の編集部にある。弁護士でもある橋下市長がそれを知らないわけはないから、「週刊朝日」イコール「朝日新聞」はマスコミという権力者で、弱い者いじめをしている。橋下市長は一歩も引かずにマスコミ権力と戦っていると世間に見せているのだ。橋下さんがうまいのは、一般の国民の「マスコミは人をいたぶって悦にいっている」という気持ちを汲み上げているからだ。

 「週刊朝日」は直ちに連載を打ち切り、次号の最初のページを使って謝罪文を載せた。ところがその「週刊朝日」が、市役所に「放りこまれた。人としての礼儀を知らぬ、犬畜生にも劣る」と橋下さんは激高していた。確かに謝罪を掲載した週刊誌を「放りこむ」のは失礼だろう。ところが今朝のフジテレビの「特ダネ」では、橋下市長が「妹が持ってきたもので、事実誤認だった」と謝っていた。つまり「朝日新聞は庶民の敵」とレッテルを貼った、それに税金の無駄使いと戦う、冷たい役所の人間を叩く、橋下市長の戦う姿勢は充分にアピールできたわけだ。

 橋下市長はいつも公開の場で堂々と意見を戦わせればいいと発言する。そして自分は「公務員なら国家に忠誠を尽くすのが当たり前でしょう」と言い切る。「日の丸、君が代に敬意を示してこそ公務員だ」と断言する。なぜなのか、そのことには一切触れない。橋下さんが「当たり前でしょう」と思っていることは説明する必要がないし、反論は許さない。公務員が反論すれば、労働運動だと弾劾する。学者が反論すれば、政治の現場を知らない学者馬鹿とこき下ろす。気に入らないことを書くマスコミは出入り禁止だと言う。

 私は小さな町で小さな新聞を発行してきた。役所の担当の気に入らない記事を書いたために、取材拒否に遭ったことがある。別にそのことで困ることはなかったけれど、その部署の職員が「謝って欲しい」と頼みに来た。権力というものはこういうものだと、頭ではなく身を持って理解できた。報道する側は慎重でなくてはならない。何を伝えることが国民の益になるのか、充分な吟味が必要であるし、何よりも驕ることがあってはならない。

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永遠なものは何だろう

2012年10月23日 20時45分59秒 | Weblog

 永遠なものは何だろう。宇宙は永遠なのだろうか。天文学者は星の消滅とか誕生とかを発見したと言っていたから、宇宙は永遠なものではないのかも知れない。星を造っているものは、分散したり結合したりしても、永遠に存在するのだろうか。それにしても、宇宙はどうやって出来たのだろう。そんなことを考えると、やっぱり神様が全ての始まりであり終わりと考えるのが一番理屈に合うような気がする。しかし、じゃあ、神様はどうやって生まれたのだろうと、堂々巡りに陥ってしまう。

 人はどうして永遠なものを手に入れたいのだろう。自分が永遠ではない存在だと知っているからなのだろうか。永遠に変わらないものといえば、「永久の愛を誓う」のように、不変であってほしいという願望もある。もちろん誓った時は永遠を目指したはずだ。綾小路きみまろさんではないけれど、あれからウン十年も経つと永遠に変わらないものは存在しないと思うようになる。永遠はむしろ、心の持ち方にあるとも言える。だから人は、人を愛することが出来るのだろう。

 愛知県東部の山中にいた野生の猿が、どうして捕らえられ、東山動物園で飼育されることになったのか、詳しいことは知らないが、その野生の猿が今度も動物園から脱走した。過去にも何度か脱走した経験のある猿のようだ。名前が「ムコドノ」というのも面白い。カミさんと義母に頭を押さえつけられていた「必殺仕掛け人」からの連想で生まれた名前だろうか。何しろこの野生の猿は中学生くらいの時に捕獲され、東山動物園のサル山に入れられた。そこは中年のメス猿が大勢いるハーレムで、動物園としては活きのよい野性のオス猿が欲しかったのだろう。「ムコドノ」は子どもを儲けたけれど、居心地はよくなかったのか、何度か逃げ出した。

 「山に帰りたかったのか、動物園に帰りたかったのか、本人の意思を尊重したい」と河村市長は言う。本当にどっちなのかと男たちは考える。女性がいっぱいいるハーレムなら天国ではないかと思う人もいるけれど、にもかかわらず逃げ出してしまったのだから、ハーレムは以外に天国とは異なるのかも知れない。兵庫県尼崎市の事件は、人の関係がよく分からない。64歳のオツボネというよりも女王が家族や親族に君臨する異様な関係だ。なぜ、そこから脱出する人が出てこなかったのかも不思議だ。

 いじめとか宗教とか、集団になるとそこに考えられない力関係が生まれてしまう。よほどの強い意志がなければズルズルと地獄の沼に引きずり込まれてしまう。弱い人は自分が助かりたいために、ボスの犬になって働くようになる。64歳の女性に逆らえない状況が一度生まれると、それはますます強固なものになっていく。誰もが恐怖におびえながら、凶行に手を貸し、地獄の淵を広げ深くしていく。人の中にある陰湿なものが拡大する構図だ。普通の神経の持ち主でも、戦場に送られると非情な行動も平気になるという。いや、殺人という非情な行為を平気で行なうことが出来るように訓練するのだ。

 永遠に解けない人の心理なのだろうか。出来ることなら永遠に平和が続きますように。出来ることなら永遠に愛が続きますように。

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助けてくれる人は必ずいる

2012年10月22日 18時18分51秒 | Weblog

 今度の日曜日に、中学校の時のクラス会がある。幹事から「あんたが言っていた、中学時代の思い出のものを持ってくる話だけど、中学の卒業アルバムをみんな持っとらんのだが、持っとる?」と電話があった。「持っているよ」と答えると、「小学校のも持っとる?」と言うので、「ああ、持っているけど」と答えると、「ほんなら、高校のは?」と聞く。「持っているけど、高校は行かない子もいたし、いいんじゃない」と言うと、「うんじゃー、小学校と中学校の卒業アルバムを持ってきてね」と頼まれた。もちろん言いだしっぺであるし、話が広がるだろうから持って行くつもりだ。

 クラス会の幹事も大変だ。でも、人生を長く生きてきたのだから誰でも出来る。それで現在の幹事が次の幹事を指名して、みんなが役を引き受けるやり方にした。日時と場所を決め、クラスのみんなに通知をして参加者を集め、忘れている者もいるかも知れないので、返事のない者には電話をして参加を促す。当日は挨拶をして、会計を済ませれば、全てが終わる。次の引き受け手が決まらなければ次回も引き受ければいい。難しく考える必要はない。幹事同士で何度か集まれば、自然に連帯感も生まれてくる。

 クラス会などはそんな具合でいいのだろうけれど、町内会とかの地域コミュニティになると、運営は難問が山積みのようだ。中学からの友だちも地域の役員になって苦労している。私の住むマンションの自治会長も「どうしましょう」と頭を抱えている。住民に高齢者が多くなってきたこと、分譲マンションだったけれど賃貸しの部屋が増え、管理費や修繕積立金の未納者が増えた。築40年近くなり、どのように建物を維持していくのか、住民の融和をどのように図っていくのか、悩みは尽きないと言う。

 現在の役員さんは若い人が多くて、しかも三交代勤務もあり、これ以上は無理が言えないとぼやく。このマンションは自主管理を貫いてきた。基本はみんなで決めて、みんなで負う。役員さんだけでは管理は出来ないので、日常業務は管理事務所の職員が行っている。長期の修繕については特別の委員会を作って検討させている。夏祭りや運動会、敬老会、新年会などの行事も行なっている。子供会も活発であるし、各種のサークル活動も盛んだ。会長の嘆きは理解できないわけではないけれど、まずは会長自身がどのような自治会にしていきたいのかを明確にして、他の役員や委員会の人たちに働きかける以外にないと思う。

 「助けてくれる人が本当にいますか?」と言うけれど、私は「必ずいますよ」と断言してきた。助けてくれる人を見出すのはリーダーの務めだ。民主主義がどういうものか分からないけれど、まとめ役の人は必要だろう。その人がみんなの意思と違ってくれば辞めさせることが出来る決まりも必要だろう。提案する人がいなければ、みんなで行なうことも出来ない。みんなが仲良しであればスムーズにいくものだ。1千所帯以下のコミュニティならお互いの顔も分かるだろう。自治がうまくいくようなら、今の世界の各国が到達したような議会制民主主義も形が変わっていくもか知れない。

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午前4時に子どもたちが

2012年10月21日 19時14分16秒 | Weblog

 午前4時ごろだったか、近くのコンビニから大きな声が聞こえてきた。どうも中学生か高校生くらいの若者たちが何やら奇声を上げている。夏はそんなことが多かったけれど、まだ寒くはないので子どもたちには今も集まりやすいのかも知れない。そういえば、これは昼間だったけれど、パトカーが5・6人の自転車に乗った中学生風の子どもたちを追い回していた。子どもらはパトカーに向かって悪態をつき、パトカーは拡声器で「止まれ」とか「許さんぞ」とか叫んでいた。子どもたちは午前4時に、どうやって家を出てきたのだろう。これからどこへ行くというのだろう。

 午前4時に子どもが家を出て行く、あるいは午前4時に子どもが家にいない、そんなに子どものことに無関心な親がいるのだろうか。私は娘たちに、未成年のうちは午後11時までには帰宅するようにきつく言っていた。高校を卒業してからは大目に見ようと努めたけれど、それでも娘たちは午前零時を過ぎることはなかったと思う。遅くまで営業している店もあり、間に合うように帰るつもりでも多少遅れることはあるだろう。シンデレラ姫にならないようにと娘たちも努めてくれたと思う。それは我が家の常識だったが、世間の常識でもあると思ってきた。

 子どもが集団で、ホームレスに暴行したり、あるいは街角の店の看板を壊したり、とんでもない悪さをすることは新聞で見たり噂話で聞くことはある。私たちの頃はどうだったのだろうと振り返ってみると、やはり夜に自転車で街中を走ったことがあった。エロ雑誌を回し読みしていて、ひとりが生徒指導部に呼び出されたからどうしようと、ウソ話をでっち上げてみんなをビビらせたこともあった。しかし、どんなに悪いことをしていたとしても、午後10時を越えたことはなかったのではないか。ましてや友だちの家に夜中になって上がりこむことはなかった。コンビにも外食産業もなかったから、神社とか寺とか学校が夜のたまり場だった。

 この町でも、他人の家に上がりこんだだけでなく、いつの間にかその家で生活するようになり、何があったのか分からないけれど、殺人事件が起きた。どうして知らない人が自分の家に住み着いたのか、親ならばなぜ注意しなかったのかと不思議に思う。他人の生活に無関心というか、出来るだけ干渉しない方がよいと考える人が多くなった。近代は農耕時代のように集団で行なう必要がなくなり、個人の能力に対価が支払われる。人と人との結びつきは希薄になり、地域のつながりも消えた。

 子どもたちが群れを作るのはその最後のあがきの姿なのかも知れない。私たちのような退職した高齢者が井戸掘りに興じるのも、集団への回帰なのかも知れない。馬鹿な話をしながらも、井戸掘りという事業の完成に向けて、みんながそれぞれに手を出し口を出し、結局は協力していく、そのことに充足感があるのだろう。祭りの翌日の西条市は普段の顔になっていた。何よりも驚いたのは、あれだけあちこちにビールの缶や酒のビンが散らかっていたのに、全くチリひとつなくきれいな街になっていた。祭りを愛することは、街を愛すること、人を愛することのようだ。

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