友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

試験は丸暗記で

2011年06月30日 21時38分49秒 | Weblog
 これだけ暑い日が続くと何もしたくなくなる。カミさんは元気で、中学時代の友だちと会うために2泊3日で信州へ出かけた。東京と名古屋から集まるには丁度よい場所で、行き先にも事欠かない。私たちも一時、中学の仲間でよく集まったが、どうしても音頭取りがいないと続かないようだ。30代や40代なら危険な年齢だけれど、もうすぐに70歳に近いこの歳ではそういうロマンも生まれてこないから寂しい気もする。

 NHKの火曜日午後10時からは問題作のドラマが続いた。今、放映されている『下流の宴』も結構おもしろい。そう言いながら毎週キチンと見ているわけではないから偉そうなことは言えない。これは私の悪いクセで、映画でもドラマでも芝居でも、始まってしばらくは凄く関心があり、最後がどうなるのかと見るけれど、中間部分は見なくても苦にならない。連続ドラマもその時間の始まりと終りが見られれば真ん中はどうでもいい。多分、自分が想像した展開だっただろうと勝手に思ってしまう。

 作者はあるいは演出家は、こうした問題を持っているのか、うん、それでどう結論を出したのだろうか。そんな風に思って作品を見てしまう。今週の『下流の宴』で最も注目したのは大学受験の合格法だった。受験の神様と呼ばれている男が医学部への合格を目指すプーちゃんに、「考えるからダメなんだ。答えを丸暗記しろ」と言う。えっ、そうだったの?勉強とは必死になって答えを導き出すものだと思っていたが、受験は丸暗記でよかったのだと50年も経て気が付いた。

 中学までは勉強しなくてもテストの回答は出来た。ところが高校へ入り、どうして大学へ入ることばかりが勉強の目的なのかと思うようになって、勉強への取り組みが不誠実になった。これではいけないなと思って考えるけれど、全くわからない。答えがはっきり出ている数学や物理などなぜ勉強するのだろう。英語を話す人々の気持ちが知りたかったのに、日本人とは語法の違う文法をなぜ勉強するのだろう。出来ないことを棚に上げ、どんどん後向きになっていった。

 「試験でよい点を取りたければ、暗記すればいい」と英語の得意な友人が教えてくれたけれど、馬鹿らしいと耳を傾けなかった。しかし、彼は正しいことを教えてくれたのだ。試験は暗記となぜ気が付かなかったのか。中国の役人となるための試験である科挙も丸暗記ではなかったか。偉そうに、応用問題を出してくれればいいのになどとよくまあ分不相応のことを言っていたものだ。いまさら、中・高校時代に戻りたくはないし、おそらくやっぱり丸暗記もできず同じ結果であることも目に見えている。

 もしとか、だったらとか、人は昔を振り返るけれど、どうにもならないことに固執することはない。明日もまだひとり暮らしなのだから、さてどうするかと考えた方が楽しいではないだろうか。また、各地で地震が起きている。明日はどうなるのかと不安もあるが、なるようにしかならないだろう。
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熱中症になりかけた

2011年06月29日 22時30分31秒 | Weblog
 暑い。午後9時30分の室内で33度もある。こんな日だったのに、今日は井戸掘りに出かけた。場所が狭くて作業がしにくいだけでなく、風が通らないのでより暑さを感じた。いつものメンバーよりも少ない4人での作業だったから、もし誰かひとりでも気分が悪くなるようならすぐに中止しようと約束して取り掛かった。けれども2メートルも掘り進まないうちに瓦礫か石かにぶつかった。3度試してみたけれど、10センチか20センチほど掘り進むと同じように硬いものにぶつかる。これでは掘れないから今日はここまでにしようと言うことになった。太陽は暑く輝いている。私たちはひたすら水を飲んで凌いでいた。

 人は極限状態で何を思うのだろう。東日本震災に遭った人々がそういう中でも冷静に秩序を持って行動していたと世界から賞賛された。第2次世界大戦中の東京で、疎開する人々で上野駅はごった返していたが、それでも人々は順番を待って行動していたそうだ。プロレタリア作家から転向した高見順氏がそんな日記に書いているという。明治政府の中心となった薩長は西洋と対抗するために教育と産業に力点を置いた。極限状態にありながらパニックを起こさずに行動できたのはその教育の成果だろう。

 軍国主義教育とか民主主義教育とかいろいろあるけれど、戦中もそして今日も、人々が秩序だって行動できるのは教育のおかげである。教育の基本はどのような体制の社会であっても、まず社会に役に立つ人間を作ることであるが、そのためには人として他人を思いやることを教えている。民主主義は自己中心的だと非難する人がいるけれど、自分が生きることはひとりでは生きられないので、つまり他人がいてはじめて自分が生きていることを認識するのが民主主義である。他人を意識しなければ自分の幸せも不幸もない。だからこそ他人を思いやる心を育てることが大事になるし、教育はそれを教えて来た。

 確かに民族的にも日本人は他人を思いやる心を共有の財産として来たのかも知れないが、おそらくそれは教育の成果であろう。教育が広く行き渡るというのは、コミュニケーッション能力を高めるということだ。共有する情緒とか感情が濃密であれば、結びつきも深い。そこには争いを避けたい思考が働く。教育はこうしたコミュニケーッション能力を高めることにある。パニックや暴動が押さえられたのもこの共通の理解力にあると思う。先進国が比較的理性的なのはそのためだと思うけれど、逆に相手を思いやるがために不正を正すことに躊躇してしまうことにもなりかねない。

 暑さの中で恋する人を思いやることが出来るのであれば、極めて冷静な理性と思うけれど、しかし逆に、そうした極限状態にありながら自分の恋人のことしか頭に無いのは理性的なのだろうかという疑問も浮ぶ。人の欲望とこれを抑える理性とは矛盾するけれど同時に一体的なものなのかも知れない。今晩も熱帯夜だという。どんな夢を見るのだろうか。
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好きか嫌いか

2011年06月28日 22時07分34秒 | Weblog
 最高気温は34.7度だったというが、本当に暑かった。昨日の夕方までにサルビアを大小の34鉢に180本植えたが、今日の夕方に見ると10本が枯れそうになっている。1鉢に6本と欲張ったのがいけなかったようだ。私はサルビアの葉の緑と花の赤との強いコントラストが好きで、どうしても隙間なく植えたくなる。けれども風通しが悪くなって虫もつく。それに今日のような酷暑になるとやはり水揚げの悪いサルビアは生き残れないようだ。

 サルビアを買い求めた時に支払った金額を見て、「毎年、そんなにお金をかけているの?」と次女は驚いていた。夏の草花に支払った金額は2万円ほどだが、これに土作りの肥料が加わるから実際の出費はもう少し増える。我が家の鉢の数を数えてみると、サルビアの他に夏の草花が10鉢、宿根性の草木が10鉢でその最大の鉢がデェイゴだ。春の初め、なかなか芽が出てこなかったので心配したけれど、今では昨年以上に大きく育っている。アジサイの4鉢は今もまだ咲いている。バラも12鉢に増えた。

 ギボシやミカンやキンモクセイの他に水仙やスミレなどは大きな鉢に植えている。最も数が多いのはランタナで大小合わせて80鉢くらいある。そうしたお金のことだけで考えれば、春のチューリップは1万円を投資しても花が楽しめるのはわずか1週間でしかない。夏の草花は今から秋までの長期にわたって楽しむことが出来るのだから、2万円でも安いと思う。草花が私たちにくれる楽しみはだからお金では換算できないものがあると思う。

 恋愛をしたことがある人なら誰でも経験したことだと思うけれど、愛しいと思う心はお金では換算できないのと同じだと思う。私がどんなに「あなたはきれいだ」と言ったとしても、言われた本人は「そんなことない」と思っているかも知れない。きれいとか好きとかは主観的なものだ。私はサルビアの赤と緑の強いバランスが好きだけれど、それを「いいね」と言う人と「嫌だね」と言う人がいる。「嫌だね」と言う人を非難する気はないし、すべきではないだろう。

 私は画家のダリが好きだけれど、同じスペイン人画家でもピカソにはそれほど惹かれない。ピカソの次に画商らから担がれたビッフェの方が魅力的に思うけれど、そんなに商売にならなかったが絵は凄いと思う画家たちはまだまだ他にたくさんいる。基準を超えたなら、誰でも有名な画家や小説家や芸術家になれるのかと言えば、決してそういうわけにはいかない。菅直人総理大臣が内閣の改造を行ったが、与党である民主党の議員総会で首相を速やかに辞めるべきだとか、辞める党首に答弁を求めても意味がないとか、なぜそこまで首相の地位に留まろうとするのかとか、恥ずかしくなるように質問が相次いだ。

 菅さんが好きか嫌いかと言うだけなら、私は期待が大きかっただけに嫌いになった。好き嫌いですむようなことはそれでいいけれど、それだけではなくもっと先を見ながら考えることがいつかきっと必要になってくると思う。
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人並みの幸せを捨てなければならない

2011年06月27日 22時24分53秒 | Weblog
 54歳で父はこの世を去ったと思っていたけれど、本当なのか確信が持てない。母がなくなって2年後に父は旅立った。母よりも父の方が年下であったことも葬儀の時に知ったように記憶している。私はずっーと、母が明治42年生まれで父が明治44年生まれと信じて来たけれど、そういえば一度も戸籍謄本でしっかりと見たわけではなかった。馬鹿げている。何をいまさら、知りたいのかと自分でも思うけれど、母が父よりも2歳年上であるとして、ふたりが何時どこで知り合い結婚に至ったかは知りたいと思う。

 父の遺品の中に、昭和23年から27年にかけて書かれたと思われるノートが何冊かある。非常に几帳面にきれいな文字で書かれている。『季節』と題したノートには詩が書かれている。『落枇杷』と題したノートは縦書きで、小説なのだろうかと思われる文章が書かれている。何も題が書かれていないノートは日記のようだ。それからもう1冊、『東洋倫理学史』と書かれたノートは、講義をまとめたもので、父らしくキチンとまとめてある。おそらく戦前に勉強したものであろう。その後の余白の最初のページは『足跡』と表題があり、23.11.24の記がある。

 「晩方は霧が大変深かった」で始まっているけれど、そこで「思いがけない電報を受け取った」が、「発信人は以前ちょっとした機会に会って知っていたがその人が何故自分に相談しなければならないように急用があるのか。その急用とは一体どんなことか、それに対して自分が一体行っていいのか悪いのか見当もつかなかった。そんな急用の相談を受ける程の知り合いではないのでいっそう迷った」とある。次は11.26で、「私は電報を受け取った時から考えていたが、いつも考えが問題の中心からはづれて暗い方へ淋しい方へと向かってしまって」と続いている。日記というよりは小説のようだ。

 「浜木綿ってどんな植物?花が咲くの?」「白くて清楚です。あなたのように」という会話がある。昭和23年といえば、私はまだ4歳だ。父は37歳か。父は小説家になりたかったのだと姉から聞いたことがある。色白の女の人に恋していたのだろうか。けれども父は小学校の校長を勤めて生涯を終えた。私が知っている父は小説のような文字を書く人ではなく、小さなスケッチブックに雑誌などに載ったイラストを模写している姿が印象に残っている。本棚には学術書の他にその頃人気の小説家の本もあったから、小説家への夢は最後まで抱いていたのだろうか。

 私は小説も書けなかったし、絵描きにもなれなかった。芸術を自分の天職としていたら、決して人並みの幸せなどは求めなかったであろう。狂気の人になりきれなければ芸術家にはなれない。そういう意味で、私は失格者だった。普通の芸術家でもいいとは思わなかった。そこそこに売れる芸術家などクソ食らえと思っていた。自分こそは真の芸術家を目指すとなれば、人並みの幸せを捨てなければならない。私は父と同様にそれが出来なかった。
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人生は「たまたま」だと思う

2011年06月26日 22時29分18秒 | Weblog
 「お姉ちゃんは本当に凄い人だよね。だって看護師は自分の天職だと言い切れるんだから」と次女が言う。どんな職業に就くか、子どもの頃はいろいろと考える。けれども中学から高校へ進む段階である程度の幅も決まってくる。普通高校と専門高校では次に進むのに後者であればさらに限られてくる。それでも、普通高校の生徒と同じ大学へ進む人もいる。何になりたいか、ハッキリしている子はいいけれど、漠然としたものであれば「大学へ行ってから考えればいい」と大学へ進むことになる。

 こんなにたくさんの人が大学へ進む国は他に無いのではないだろうか。もし、入学試験で全ての人生が決まるようなら大変なことだけれど、実際に生きてきてみれば何てことはないように思う。たかが試験、たかが一時のこと、嫌ならば何度でもやり直せばいい。子どもの頃から、これになると決めてやり遂げられる人は少ないだろう。多くの人が「たまたま」受かった学校で、またその次に「たまたま」就いた仕事で、何となく努力するようになるものだ。仕事が合わないとか上司とうまくいかないとか、いろいろな理由で転職する人もいる。

 何が自分の天職なのか、考えたところで「ハッキリこれだ」と言える仕事に巡り合える人はそんなにいないだろう。何となくやっているうちに、仕事が次第に面白くなってくるのがおそらく圧倒的ではないだろうか。どんな仕事であっても、成し遂げるのは面白いことで、だんだんと仕事にのめり込むようになる。中学からの友だちも進学したかった高校が受験できずかなり落ち込んでいた。それでも大学へ進学し大学祭の役員などを務め、民間会社の営業マンとなって水を得た魚のように働いていた。

 大学を中退した中学からの友だちは、同じ中学の友だちの会社で働いた後に、もう少し大きな会社に勤め、営業に回った。何億円という額の商談をまとめ、営業が天職のような友だちもいる。「たまたま」巡り合った仕事が人生を決定付けることはいくらでもある。次女は結婚して専業主婦の道を選んだ。彼女は小さな時から、掃除や洗濯などの家事が好きで、大好きなダンナのために料理を作ることに憧れてきたのだから、その夢を実現させたわけだ。しかし、専業主婦にちょっと物足りなさを感じているのかも知れない。

 「パパは何が一番自分に合っていた?」と次女が聞く。「学校の先生も、新聞作りも、国会議員の秘書も、地方議員も、みんな面白かったし自分に合っていると思ったよ。一番嫌だったのは、学生の時のアルバイトでやったデパートの鴨の味噌漬け売りだね。ぜんぜんお客が来なくて、売れないことがこんなに苦しいのかと思った。叔父さんのところの料理店の仕事も、歯科医の技工の仕事も、仕事は面白かったけれど、先の楽しみが無かったから続けることは出来なかった」。たまたま私はいろんな仕事をさせてもらった。自分から望んだこともあったが、多くは偶然の成り行きでそうなった。

 長女が看護師は天職と言っていると聞いて、我が子なのに「立派だな」と感心してしまった。長女も次女も今が一番楽しい時かも知れない。ガンバレと言いたくなった。
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熱中症と節電

2011年06月25日 10時38分19秒 | Weblog
 朝早く、82歳の姉から電話が入った。「ちょっと教えて欲しいんだけど、33度を越すと熱中症になると言うけど、そういう時はどうしたらいいのかね。今ね、部屋の中の温度計は31度近い。湿度は60%だけれど、湿度が何%になったら熱中症になるの?」。ちょっとたまげてしまったけれど本人は真面目に心配している。昨夜も暑くて寝られなかったとか、頭が痛くなったのは熱中症にかかったせいなのかとか、痛み止めを飲んだけれどいいのかとか、やはり一人暮らしだから相談する相手がいないので、嫁に行った娘のところに電話することは出来ないからとか、言い訳までもして電話で話す。

 「33度で誰でもが熱中症になるわけではないから、それは心配要らないけど、水分補給を欠かさないことと、風通しをよくして部屋の温度も下げないとね」と話すと、「ベランダの緑のカーテンもあんまり役に立たんみたいで、開けっ放しにしておいても30度以下にならないがどうしたものかね」と言う。「クーラーは使えるように掃除してあるの?」と聞くと、「それはもうしてもらってある」と言う。「暑くて気持ちが悪いようなら、クーラーを入れて快適な室温にした方がいいよ」と勧めると、「クーラーなんか使っていいのかね?節電しないといかんのじゃーないの?」と言う。「熱中症になるよりはいいんじゃーない」と答えるが、やはり戦前生まれの人は律儀だなと思う。

 昨日は誕生会の人たちはゴルフに出かけた。ゴルフが出来ない私はいつも反省会だけに呼び出されるが、年長者がいない。聞くとゴルフを始めた頃はなんともなかったけれど、途中でビールを飲みながらプレイをしていたら「気分が悪い」と言い出したそうだ。昼食は人一倍食べる人なのにこの日は半分ほどしか食べなかった。お酒が好きで毎晩飲んでいるのに、「今日は遠慮する。反省会は皆さんでやってくれ」と言って、休まれたそうだ。曇りから雨になる天気予報だったのに、好天に恵まれたそうで、風はあったけれどやはり暑さに身体がついていけなかったのだろう。このところの急激な暑さに年寄りは身体が慣れない。お見舞いの電話をした時、「何かあれば遠慮なく救急車を呼んでくださいね」と奥さんにお願いしたけれど、そうか、私の姉も部屋に居たのに熱中症になりかけていたのかと思った。

 昨夜、反省会では取り留めのない話のひとつに給食費の未納問題があった。「どうして取り立てないのか。担任や校長が負担するのか」と言うので、「それはない。結局、税金で補うことになる」と説明すると、「給食券を買わせて食べさせればいい」と言う。「多分、それでも同じだろう。親の考え方がそもそも違うのだから」となり、「民主党は子ども手当の支給よりも、給食費や修学旅行の積立金など学校で要るものを無償にする方がはるかに実効性が高いのに」「それではお金が見えないから票にならないと考えているのさ」「本当に世の中は矛盾したことが多すぎる」などなどと、お酒とともに話が弾んだ。熱中症にかかった友だちは大丈夫だっただろうか。姉からの電話でちょっと心配になった。
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貧困とテロ

2011年06月23日 20時57分34秒 | Weblog
 昨日に続いて今日も暑い。夕方、草木に水を遣ろうとルーフバルコニーに出て驚いた。10匹近いミミズが干からびている。朝、見回った時には何もなかったのに、この暑さのせいで鉢から出て来たようだ。それにしてもどのようにして出て来たのかと思って鉢を見ると、鉢の底にある排水用の穴から出て来たものと、土の表面に出て来て、それから鉢を乗り越えたものといるようだ。土の表面近くに何匹ものミミズがいるのが確認できた。

 土の中が異様に暑いのか、土の中の酸素(?)が足りないのか、あるいは朝方はまだ昨夜の雨が残っているようだったので水遣りをしなかったために水不足なのか、これは土を少し耕してみるとそれほど水分がないわけではなかった。どうも暑さから逃れるためだったような気がする。土の中に居ればエサ(何を食べているのだろう?)には困らないし、異性にだってひょっとしたら出会うことも出来るのに、どうしてわざわざ危険の多い外界へ出て行こうとするのだろう。外の世界はそれほど夢があるのだろうか。

 いやいや、ミミズにそんな考えはないだろうから、居るところが危険かそれとも不具合な環境になってきたのだろう。これはどう見てもこの暑さのせいだ。我が家に配られてくる宗教団体の冊子を見ていたら、『テロ なぜ起きるのか』と『貧困はなくなる』という見出しが目に付いた。テロはキリストの時代からあったようで、いや正確にはもっと以前からあった。圧倒的な軍事力あるいは警察力で抑えられていると、人は暴力を持って戦う。「虐げが賢い者に気違いじみた行動をとらせる」と聖書(伝道の書)にもあるそうだ。人の歴史はそんなことの繰り返しと言ってもいい。

 人類の誕生から飢えはあったかも知れないが、貧困が生まれたのはもっと後になってからであろう。その冊子でも地球上の10億人が貧困にあるが、「西ヨーロッパや北アメリカに住む大半は、それがどのようなものかを知りません」と書いている。そして、貧困は人間が作り出したものなのだと指摘し、「原因は人々や政府が自らの利益を守ろうとすることにある」と述べている。貧困問題は「テロ」とも結びついて、人類の課題と言ってもよいだろう。

 今朝の朝日新聞の『天声人語』に、武器のない島があるとナポレオンを驚かした話が載っていた。そこでナポレオンは「武器がなくてどうやって戦争をするのだ」と聞く。「いえ、戦争というものを知らないのです」と答えるという話だ。この島は沖縄で、中国にも薩摩にも貢物を送り、平和外交で戦争を避けて来た。しかしこの沖縄の智恵も、各国が領土を広げ植民地を作る時代には通用しなかった。日本の領土となり、本土の防波堤となってたくさんの人々が亡くなった。今は日本の都道府県の中で最も貧しい県になっている。

 ミミズのように暑いからといって、外界に出て行くことは死を意味する。けれども、外の世界には夢や希望があるように思えてならない。出て行く時、死ぬことを誰も予想しないだろう。新しい世界で思う存分に生きてみたいと思うだろう。そしていつか人は、貧困もテロもない新しい世界をきっと造りだすと思う。
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夏至の夜は最も妖怪の世界に近づくという

2011年06月22日 22時05分50秒 | Weblog
 今日は夏至。各地で最高気温が30度を越す真夏日となった。青空の下、太陽がぎらぎらと照りつけるというわけではなかったのに、暑さでびっしょりと汗をかいてしまった。曇り空であったが蒸し暑く、息をするのも面倒な気がした。夏にはこんな風に、何もしたくない病になる時がある。友人にも体調不良に陥っている人もいるし、同年で亡くなった人もいる。そんな話を聞くとまだ自分は健康なのだなと思う。

 トヨタ自動車をはじめとする自動車各社が増産に向けて本格稼動するという。東日本大震災の影響で停滞していた国内生産を急回復させるものだ。「人をラインに多く投入し生産台数を上げる」ため、各社はそれぞれ期間従業員を大幅に増員する計画だ。トヨタは3~4千人も増員するという。景気が上向いて来た証拠だと言うが、景気がよいことがそんなにも大事なことなのかと思ってしまう。

 大量生産が生まれたのは産業革命からだ。それまでは極めて効率が悪く、全てを自分で作っていたか、もう少し進んで分業の仕組みが出来つつあった。刀も刃を造る人と柄や鞘を造る人とは分かれていただろう。着物も糸を造る人、布を織る人、縫い上げる人に分かれていたと思う。それが一気に大量に造られるようになって、物は溢れたけれど、1つの物の価格は安くなったかもしれないが、物の価値は変わったのだろうか。

 大量生産できるようになり、近年では物が溢れるようになったのだから、そんなに生産する必要はなくなったはずだ。労働の効率は極めて高くなった。つまり、これまでは8時間労働で社会を支えていたのであれば、これからは6時間労働でもよくなったはずだ。今、若い人たちは大学を出ても就職先がないというけれど、労働時間を短くすればより多くの人に働く場所を提供することにもなる。右肩上がりの時代の8時間労働をどうして維持し続けるのか、私には理解できない。

 トヨタなどが労働者を大量に雇用するというが、それは期間従業員というパート労働者でしかない。好きな時に好きな時間だけ働ける労働形態の多様性はあるべきだと思う。それはあくまでも働く側の希望であって、雇用する側が好きな時に雇って好きな時に解雇することではない。雇用は最低でも1年単位でなければならないだろう。そうでなければ働く側に生活の目途というか、もっというなら生涯設計が立たないではないか。

 期間従業員はどれだけの単位での雇用なのかわからないけれど、そもそも会社は個々の従業員と雇用契約を交わすわけではなく、派遣会社との契約である。この労働形態を無くさなくてはならないと思う。なぜ労働組合はこうした労働形態を許すのか、私には理解できない。ひどい会社ではパート労働者を1ヵ月単位で働かせるところもあると聞く。全く使い捨てである。人は物を使い捨ててきたけれど、人そのものも使い捨てていることに憤りはないのだろうか。

 夏至の夜は妖怪の世界に最も近づくそうだけれど、人間そのものが妖怪になってしまっていないかと思う。
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長生きできるより美味しいものが食べたい

2011年06月21日 22時06分19秒 | Weblog
 今朝のテレビで、菅さんが「そんなに見たくなければ、そんなに見たくないのであれば、これを通しなさいという作戦で参ります」とニコニコ顔で演説していた。何のことかというと、再生可能エネルギー(自然エネルギー)法案を可決しなさい、そうすれば引退し顔を見なくてすみますよということらしい。この集会には加藤登紀子さんの姿も見えたが、主役はソフトバンクの孫正義氏のようだ。演説をする菅さんの表情は活き活きとしていて、かつての市民運動家に戻ったかのように見えた。

 原子力発電を推進したい既成の経済界と、これに対抗する新興勢力といった図柄なのだろう。テレビの司会者が「なぜ、菅さんでは復興できないのか全くわからない。なにがなんでも菅さんを降ろしたいとしか見えない。こんな政治空白を作っていていいのか」と言っていた。確かに菅さんは思ったほど能力のある首相ではなかったけれど、だからと言って大きな政策的な間違いがあったわけではないのに、民主党の内部でも「菅さんでは復興できない」とは何を意味するのだろう。利権を巡るキナ臭さが漂っていると思うのは当然だろう。

 中国経済の発展が、役人の賄賂を基盤とした低賃金労働によるものだとわかったけれど、日本の戦後復興も似たようなものだったと教えられた。そうした不正なお金が動くことで経済活動が活発な内は、人々もそれほど不平を口にしない。けれどもそんなことがいつまでも続くわけはない。「中国のこれまでの歴史は全てそうだと言ってもいいほど、虐げられた人々の怒りが爆発して国が変わっている」と先輩が言う。中国人も日本人も「あきらめる」層が多く存在するけれど、日本人の方がおとなしいような気がするとまで言う。日本でも百姓一揆はあったし、戦後の歴史の中では安保闘争もあったが、比較的生活は恵まれていたのだろうか。

 原子力発電のように、最終処理の見通しの立たないものでもいったん進めてしまうとこれを止めることはできないと断言してもいいくらいだ。これはマズイとわかってきても、「それでは止めましょう」とはならない。これが政治のというか経済の不思議なところだ。震災を受けた直後は世界から絶賛されるほど助け合いと思いやりに溢れていたのに、いざ見舞金だとか義援金だとか、お金が支払われる段階になると、同じ被災者同士が「不公平だ」といがみ合うような事態も生まれてきた。

 何もなかった時はあんなに他人のことを思いやることが出来ていたのに、人はお金の前ではこんなにも弱いものなのか。そういえば、営業経験者からこんな話を聞いたことがある。交渉が難航したなら、現金を積んで見せると人の心は動くものだと。悲しいかなそれが現実なんかも知れない。そうした目の前の損得が豊かさを作り出してきたのだから。けれど、今晩の食べ物に困らないのであれば、一度くらいこれから先のことを考えても無駄ではないような気がするのは私だけなのだろうか。そうは言っても、今晩お酒をやめれば1日長生きできるとわかっていても、長生きできるより今晩美味しいものが食べたいのが人の常かも知れない。私自身も間違いなくその類だなあーと思う。
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父親の役割

2011年06月20日 19時09分59秒 | Weblog
 10日間ほど我が家に帰って来ていた次女が今日、茨城県へ帰って行った。中学時代の友だちやバンコクにいた時の友だち、こちらで会いたいと思っていた人、そして何よりも姉と姪っ子に会って長い時間話せたことがよかったと言う。ダンナは仕事で忙しく、家に帰って来るのは遅い時間が多く、まともに話す時間がないという中間管理職の典型的な家庭である。専業主婦で子どもがいないから、テレビしか話し相手がいない。「週に2から3日働きたい」と言うのも、あまりにも人恋しいということらしい。

 30代や40代の専業主婦の多くは「孤独」という難病に悩まされているらしい。「孤独」とか「寂しい」と突きつけられても、ダンナたちとしてもどうしようもない。仕事はどんどん厳しくなってきているし、妻を労わる気持ちはあっても時間的にも精神的にも余裕がないのが現実だろう。働きに出たり、同じ趣味や愛好の仲間に出会えたなら、少し気持ちも和らぐかも知れないので、「働くのはいいのじゃーないの」と励ました。家の中にばかり居たのでは確かに気が滅入るだろうし、それでは友だちにも巡り合えない。

 社会で働いている主婦は、社会とのつながりもあり、自分が社会的にも評価されていることで不安はあるけれど満足もある。専業主婦はダンナしか評価してくれないばかりか、夜遅くしか帰宅しないとなれば評価そのものがなくなる。居ても居なくてもどうでもいい存在なのだろうかとマイナス思考が広がってしまう。そして、自分の人生は何なのか、自分は何のために生きているのか、そんな風に考えてますます落ち込んでしまうようだ。

 次女がこちらに居たおかげで、私は「父の日」を祝ってもらい、手提げカバンとパジャマをプレゼントしてもらったし、日頃はなかなか食べられない牛肉を存分に食べさせてもらった。ワインを飲み、牛肉を食べながら、父親とはどういうものなのだろうと思った。50代までの私は、私を前面に押し出すことが多かった。それはあなたたちの父親はこういう考えのこういう美意識の男なのだということを伝えなきゃーという意識が強かった。理解するとか納得するとか、そんなことよりも、何を話したか何を強調していたかが主眼だった。

 昨日はふと、黙ってにこにこしていることが父親の役割なのかも知れないと思った。娘や娘のダンナたちとは生きて来た時代が違い、求めて来た価値が違う。それが世代の違いなのだから今更何を言うことがあるだろうかと思ってしまったのだ。それは吉本隆明という思想家が、『老いの幸福論』で子育ての話を書いているが、あまりにも当たり前のことばかりで、親と子というものは特別な存在でありながら全く普通の関係なのだと思ったからだ。子どもたちが普通に幸せに生きていくことを願うけれど、だからと言って親には自分の人生があり、家庭というつながりはあるけれど、人は個として生きていることに変わりない。
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