友々素敵

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日本相撲協会は解体した方がいい

2011年02月02日 21時21分23秒 | Weblog
 大相撲の力士の携帯電話に、八百長行為に関与していたとみられるメールが残されていた問題で、日本相撲協会の放駒理事長は2日、東京・両国国技館で記者会見し、「今回の問題は相撲界の根幹を揺るがす問題だ。調査委員会を立ち上げて、徹底的に調査し、もし仮に事実が判明したら厳しく対処する」と、厳罰で臨む考えを述べた。ああ、やっぱりなと私は思った。私がそう思ったのは、放駒理事長の厳罰で臨むという声明ではなく、八百長行為に対してである。

 相撲は日本の伝統であることは間違いないけれど、江戸時代に確立された相撲は興行であった。見物人からお金を取って見せる演芸と同じ大衆の娯楽であった。興行主は地元の有力者つまりは今で言うヤクザが担っていた。歌舞伎の役者もそうだけれど、力士も客からお呼びがかかれば出かけていってご機嫌をとる商売である。だから当然だと思うけれど、場所を盛り上げることが必要であったから、八百長は行なわれてきたはずだ。江戸時代の相撲取りで、八百長を頼まれたが怒って相手の力士の腕を折ってしまった力士もいたのではなかったか。

 7勝7敗で千秋楽を迎えた力士が8勝6敗の力士に勝ち星を譲ってくれるように頼むことはありうるだろう。それで、相手が番付を落とさずにすむのであれば、義侠に逸る男なら負けることもあるだろう。涙や義理に弱い私も頼まれたらそうしてしまうだろう。いいじゃないか、どうせこれは見世物だ。見ている人々も納得するだろう。しかし、今、スポーツとなった相撲では許されない。見ている側は常に真剣勝負と信じている。こうなってはとにかく強くならなければ相撲取りではないわけだが、そこが本当に難しいところだ。

 野球やサッカーのようにチームプレイで行なうスポーツは、個人の力量をチームでカバーすることが出来る。いやむしろ、個人の力量の足し算をはるかに超えた力が生まれる。しかし、相撲やマラソンや、個人の力量が全ての競技は、持って生まれた天性の力が大きいばかりか、運や不運が大きく作用する。相撲は1年に何場所もあって、取り返す機会も多いけれど、オリンピックでの個人競技は4年のサイクルにうまく当たらなければ、どんなに力があっても優勝することは難しいと言われている。

 相撲がこんなにも清廉でないのは、もともと興行であったからだ。日本の伝統としての国技にしたいのであれば、興行を無くせばいい。相撲部屋を廃止して、大学や高校あるいは社会人の全国大会を開催したどうだろう。あんなべらぼうに高い桟敷席なんか止めて、誰もが応援できる甲子園大会のようにすればいい。歌舞伎もそうだけれど、日本の伝統ということに胡坐をかいて、滅茶苦茶に高いお金を取っている。いつかはそんなものに肘鉄を食らわせなければならないと思う。

 スポーツにプロは馴染まないと思うけれど、それでもプロスポーツを見たいのであれば、観客がレベルを上げるしかない。相撲で言えば、やはり日本相撲協会の解体だと思う。
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