テレビでは今年の運勢を取り上げていた。今年がどんな年になるのか、評論家たちが予想するというものだ。プロ野球の優勝チームを多くの評論家が当てられないように、先のことを当てるのはデータが揃っている野球でも難しいのだから、現実社会がどんな展開となるかは実のところ誰も分からないだろう。かといって、大きく変わることはないだろうから、彼らが言っていることが全く外れることもないと思った。
兜町では「羊辛抱」と言われるそうだ。景気が上がることもなければ下がることもないという意味のようだ。上がり下がりはあるけれど大きな変化を求めず辛抱することが肝心というわけだ。先の見通しがあるなら我慢も出来るけれど、どうなるのか分からない時にどれだけ我慢が出来るかである。高校生の時、好きな相手が自分を見てくれるまでひたすら待つ友だちと、何が何でも好きだと伝えたくて先走る友だちがいたけど、どっちも成功しなかった。
友だちと話していたら、「未来の中に羊がいると言う人もいるけれど、私は、羊は未来を連れて来るの方がいいと思う」と言う。未来という漢字の中に羊が見えるということなのだろうか。十二支では未をひつじと読ませているからだろうか。希望がなければ人は生きていけない。イスラエルに包囲されたガザ地区に住む子どもが「私たちには未来はない」と言っていたけれど、胸が詰まる思いだ。なぜ、大人は子どもの未来を奪っているのか、子どもに未来を与えることが大人の務めなのに。
『はじめてのおつかい』というテレビ番組があるが、ただ3歳くらいの子どもがひとりで買い物にいくというだけのことなのに、見ているとどうしても涙が止まらない。あんなに小さな子どもでも一生懸命で親の期待に応えようとする。そのいじらしさが涙を誘う。大人になるとどうしてあの直向きさを失ってしまうのだろう。いや、70歳になっても恋している友だちは先が見えないのに、ひたすら彼女からの連絡を待っているから、そういう人もいるということなのかも知れない。