安岡真著
「三島事件 その心的基層」書評
評・永田満徳(近代文学研究者)
本書の主題は「三島事件の心的機序の解明」であると明確に語られている。
まず、瞠目したのは、所属するはずだった連隊が戦地に行かず、戦後「無事家族の元に復員していた」事実である。入隊検査で不合格になり、「即日帰郷」になったことで感じた三島の〈負い目〉〈挫折〉、そして〈昇華〉は〈妄想〉であったのである。また、「聖セバスチャン殉教」図はのちに〈死〉の象徴と化し、自己解釈を行っているという指摘は三島の思考傾向を示していて、さもありなんである。いずれも、西洋文学への広範な知識が発揮され、地道に調査して明らかになる事実が鏤められていて、読み応えのある著書である。
ところで、〈神風連〉が主題となっていると言っていい『奔馬』は、飯沼勲が〈死〉の象徴として、三島事件の〈教科書〉〈シナリオ〉であり、〈導火線〉であるとの指摘はうべなえる。ただ、蓮田善明の〈死〉を「突然啓示のように私の久しい迷蒙を照らし出した」とし、神風連が〈日本精神〉の「原質的な」「ファナティックな純粋実験」であったという見識を披瀝する三島の晩年の真意は〈熊本〉という視点でないと見えてこないと思っているので、もう少し掘り下げて貰いたかった。
三島事件は、「天皇陛下万歳」と叫んで割腹自殺した三島と「天皇」との関係性に行き着く。拒まれた「旧陸軍」の「よみがえり」と「ひ弱な公威(三島=評者注)」の「自己救済」があり、そのために「『天皇』を必要とした」というくだりに至っては十二分に説得力があり、一貫した論述の手堅さが際立つ。
著者は「あとがきに代えて」で、最後の小説四部作『豊饒の海』の〈円環〉は「二十歳だった自分自身からの窮極の懺悔」と締め括っている。そういう意味で、本書は「三島由紀夫評伝」としても読めるもので、虚構化の著しい作家三島と言えども、個人の行動や思想は個人の体験以外から生まれることはないことをいかんなく知らしめる本である。