【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

牛村蘇山句集『喰ふ喰ふ喰ふ』序文

2018年09月19日 00時00分00秒 | 句集序文・跋文
牛村蘇山句集『喰ふ喰ふ喰ふ』序文
    
                          永田 満徳
牛村蘇山氏が第一句集を上梓された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏められて、一つの節目となったこの句集には蘇山俳句の全てが表現されている。

喰ふ喰ふ喰ふ空空空や小春風

句集の題名となった句である。「喰ふ喰ふ喰ふ」は人間のみならず、生きとし生けるものはまず「食べなくては生きてゆけない」(後記)という信念が籠った措辞で、「空空空」は色即是空の空である。「喰ふ」「空」は同音で繋がり、広大で深遠な世界を詠んで、俳句という短詩型の醍醐味を示す句である。
 巻頭句二句から骨太な俳句が並ぶ。

  告知ありへしやげてさうらふ昼蛙
  ぺちやくちやと後の世のこと土雛

 前者は輪禍にあった蛙がこの世を呪詛するすざましさ、後者は冥界に赴く雛がこの世に未練を残すことのない潔さが詠み込まれている。
 この諧謔的表現は蘇山俳句に生かされ、句集全体の特色をなすものであり、蘇山俳句の出現は新たに俳句の世界の地平を開くものである。
冒頭の二句に続く二句をみても、蘇山俳句の自在性は無類である。

青饅やさばさばさばとお暇を
六角の穴六角の意志地蜂飛ぶ

小料理屋を辞する場面にしても、蜂の巣立ちの場面にしても、擬態語、押韻などの俳句の技法が縦横に生かされている。

二月二十六日ゴム鉄砲が食卓に
東京は軟骨となりホワイトデー

 続く二句もまた蘇山俳句の特徴がみられる。二・二六事件とゴム鉄砲、あるいは軟弱な東京とホワイトデーとの取り合わせはみごとで、発想の融通無碍さが際立つ。
 「東京は」の句は現代の俳句への告発と受け取れないことはない。従って、広範な知識に裏打ちされたアイロニカルな視線で切り取られた蘇山俳句は現代俳句への挑戦でもある。
 蘇山氏が日本経済新聞の記者であったことは蘇山俳句を考えるとき極めて重要である。新聞記者の資質は何と言っても、世に対する絶えざる関心である。

  野遊びに人の顔してゐたりけり
  人間が一枚になる春真昼

「人間」への注視は新聞記者としての関心度の深さを表している。この二句の「人」「人間」には多重な人間が含まれていて、読み手によって多くの読みを可能にするものである。
早稲田大学を出て、日本経済新聞社に入った蘇山氏は、後記によると、その熊本支局長として熊本に来る直前の東京本社時代、激務稼業といわれる編集部門のデスクをしていて、明け方に家に帰って、コツンコツンの脳みそをほぐすのが酒と句集を読むことであり、中村草田男集がいつも手元にあったという。

人界へホッピーの泡冬ふかむ

軽佻浮薄な人間世界への関心には人間探求派の中村草田男との接点を垣間見ることができる。
 人あるいは人の世への注視は風刺という形で詠まれて、蘇山俳句の独擅場と言っていいほどである。

切り抜きの痴話やひとひら春の雪

 新聞の社会面には人間の諸相が取り上げられて、現代社会を映す鏡と言っていい。掲句は愚かであり、それゆえ人間の真実の姿が出ている「痴話」にひとひらの「春の雪」を取り合せることによって無限の人間理解を示している。

語尾上げて俱楽部といふや春の蠅
  七癖をどうのかうのと四月馬鹿
  ぴかぴかのお墓売ります花いちご

「語尾上げて」は定年後も帰属意識を持ち続けている人物への揶揄であることが「春の蠅」との取り合わせで示されている。「七癖を」は人物評をとやかく話題にすることの愚を「四月馬鹿」という季語を持ってくることによって指摘している。「ぴかぴかの」は死後も人の価値が墓の値段で決まるかのような商売に対しての捻りがなんと効いていることか。
「株」を素材にしている句が多く、仕事柄経済書から離れたことは一度もないという経済記者としての面目躍如である。

株価下がる風船ビルを越えて行く
  青饅や根ほり葉ほりと株のこと
厠にて株の云々寒の雨

日本経済新聞社では経済取材一筋、企業取材や市場取材に明け暮れ、企業社会の日本的な「和」のおだやかな世界もおぞましい暗部も多く見てきたという。蘇山氏の複眼的な視点は記者という仕事によって養われたものであろう。

  春の夢ここらでガニ股直さんと
  麦秋や足の裏なるわが履歴
  百円ショップこの身いかほどちちろ虫

物の両面を見る態度が自己に向かうとき、「春の夢」が自分の「ガニ股」であり、「わが履歴」が手相ではなく「足の裏」であり、「百円ショップ」並みのわが「身」であるという表現となる。自嘲というにはユーモラスすぎて、俳諧味が横溢していると言わなければならない。自分を笑うだけの心の余裕が窺える。自己をこれだけ笑えるのは人間洞察が深いからである。
ここで注目したいのは親鸞思想に傾倒していることである。愛読書『歎異抄』の「さるべき業縁のもよほせば、いかなるふるまひもすべし」の言葉に蘇山氏の人間理解の淵源がある。人間は業=行為と縁=条件が整えば、なんでもする、なんでもしでかすという認識は鋭い。蘇山氏は他人のなした罪を自分とは無関係の他人事のように眺め、自分を棚に上げて鋭く批判する人に対して、「行為」と「条件」という環境が整ったならば自分は果たして罪を犯さないと言えるかどうかと考える。

黒百合やあしたはきつと嘘をつく

自他の悪を知ればこそ、「あしたはきつと嘘をつく」と言えるのである。
 蘇山氏は無類の人好きで、酒席の場には必ず数人の仲間がいる。人間の内奥の真実を知れば知るほど、人間の存在が愛おしいのである。

鶏鍋や駄洒落軽口茶利冗句

呑み食いしゃべる飲食の場からも数々の秀句が生み出されている。

ぐい呑みや夜な夜な春のかくれんぼ
ほろり呑む酢海鼠ほろりほろりかな

 日が暮れるか暮れないかの頃から酒の虫が騒ぎ出し、飲みに出る様を「かくれんぼ」とは言い得て妙である。そして、「酢海鼠」を肴に「ほろり」と呑む酒に至福の時を過ごす。ここに、日常生活を楽しむ蘇山氏の姿が浮き彫りにされている。
句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。視点の面白さ、滑稽味など枚挙に遑がない。その一つ一つに触れることは限りがないので、最後に心惹かれる句を取り上げておきたい。

出自など聞いてどうする古雛
蚯蚓くしやくしや本人証明迫らるる
淫の字のなにやらやさし谷崎忌
炙りたやあの満月の裏表
このたびは駄じやれですまぬぞ鮟鱇よ
 

平成三十年六月吉日
                              永田満徳
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Haiku Column 「今月の秀句」⓳

2018年09月15日 00時00分34秒 | 月刊誌「くまがわ春秋」

〜俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」⓳〜

◆『くまがわ春秋』9月号が発行されました。
◆俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」⓳が掲載されています。
◆例えば、ある日本の国際俳句大会で「難民の/口元に差し出す/マイクロフォン」の俳句が大会賞を受賞しているように、三行書きにしただけで散文的な国際俳句が標準になっていることに危惧を覚えて、俳句の本質かつ型である「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句を提唱して行きます。
◆2017年7月にフランス語圏、イタリア語圏、英語圏の55人が参加する機関紙「HAIKU」を発行しました。12月20日発行の2号では91人が参加しました。また、5月31日発行の3号では96人が参加し、320ページを数えます。
◆最近では華文二行俳句のコンテストを行い、華文圏に広がりを見せています。
◆どうぞご理解ご支援をお願いします。

September aout de [Kumagawa shunnjuuくまがわ春秋」!
〜Haikus du mois de Haiku Colum de Haiku Universite〜
◆Le September de aout de Kumagawa春秋 vient d'etre publie.
◆il contient les meilleurs haikus du mois selectionnes par M. Nagata.
◆Selon ce plan nous allons continuer a publier des haikus en deux lignes avec kire et toriawase.

The September issue of 「Kumagawa shunnjuuくまがわ春秋」!
〜Haiku Colum of Haiku University [Monthly best Haikus]〜
◆the September issue of Kumagawa春秋 has just been published.
◆It contains the best haikus of the month selected by M. Nagata.
◆according to the plan, we will continue to publish 2 lines haikus with kire and toriawase

今月の秀句(くまがわ春秋9月号)

Pascale Dehoux

Départ du fils ~
Les pales du ventilateur tournent sans fin
[Commented by Mitsunori Nagata]
Son fils est parti en laissant le ventilateur tourner. Elle décrit précisement l’indépendance de son fils. Du côté de sa mère, inquiétude et espoir.
【美音訳】
パスカル ドウウ

息子の出発
絶えず回る扇風機の羽
〔永田満徳評〕
息子の旅立に際して、「扇風機」が息子の部屋に取り残されている情景である。子の自立への期待と不安という永遠のテーマを的確に描いている。


Agus Maulana Sunjaya

rainy season
dusting haiku book on the shelf
[Commented by Mitsunori Nagata]
This is a good example of toriawase of kigo.
Because of the rainy season, he cannot go out to get inspiration of haiku
【美音訳】
アグス マウラナ スンジャヤ

梅雨
本棚の埃をかぶった俳句手帳
〔永田満徳評〕
埃を被った「俳句手帳」とは俳句を作るために吟行しようにも「梅雨」の長雨で外出できないことを意味している。季語との「取り合わせ」の見本の句である。



Isni Heryanto

Dad's last testimony
deep autumn
[Commented by Mitsunori Nagata]
She has a testimony of her father which is more precious than any proverb and she feels the deepness of autumn. It is a good example to trust her feelings in kigo.
【美音訳】
イス二 ヘルヤント

父の最後の遺書
秋深し
〔永田満徳評〕
どんな格言よりも心に沁みる父親からの「遺言」を手にして、秋の深まりをつくづく感じているのである。作者の気持ちを季語に託した句である。

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第二回「二百十日」俳句大会レポート

2018年09月01日 22時24分34秒 | 俳句大会
第二回「二百十日」俳句大会レポート

平成30年9月1日(土)、漱石の阿蘇を舞台とした小説『二百十日』を記念した第二回「二百十日」俳句大会が阿蘇内牧の山王閣において開催された。主催は「二百十日」俳句大会実行員会。昨年をこえる74名、計262句の投句があった。台湾からの投句もあり、俳句の国際化も身近に感じることとなった。俳句大会では講話と表彰式が行われた。
まず俳人協会幹事・俳句大学学長の永田満徳氏(「未来図」同人)が「漱石俳句のレトリック」と題して講話を行った。漱石が熊本時代に詠んだ千句あまりの俳句は「写生」「季語」「取合せ」「省略」「比喩」「擬人化」はもとより、「連想」「空想」「デフォルメ」「同化」などのあらゆるレトリックを使い、幅広い俳句世界を自分のものとしている。近年、熊本の小天を舞台にした小説『草枕』が注目を浴びているのは自由な小説の世界を構築しているからである。レトリックを駆使した漱石俳句も技巧的と否定することなく、現代の俳人もレトリックを多彩に使って、もっと自由に詠んでいいのではないか。私自身、漱石が言った「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」に倣って詠んでいきたいし、漱石俳句の特色を取り入れて、自由に作句してもらいたいものだと語った。
 表彰に続いて選者の永田満徳氏が講評を行った。大会大賞の「源流は阿蘇の山々田代掻く 朝倉一敬」については阿蘇の伏流水を引いて行う田代掻くという表現に阿蘇の豊かな恵みへの感謝が表明されている。阿蘇市長賞の「カルデラにころがり落ちしはたたがみ 古荘浩子」はカルデラだからこそころがり落ちるという擬人化が成功している。阿蘇ジオパークガイド協会賞の「行けど萩京大火山研究所 若松節子」は上五が「行けど萩行けど薄の原広し」という漱石の俳句を下敷きにしていて、阿蘇の建物との意外な取り合わせに心惹かれる。熊本県俳句協会賞は「ひと心地ついて宇奈利の阿蘇訛 藤井蘭西」は阿蘇の御田祭になくてはならぬ白装束の女性の宇奈利を地元ならではの季語として取り上げ、行事を終えた後の安堵感を阿蘇訛に表現している。月刊「俳句界」文學の森賞の「余生なる阿蘇は相棒雲の峰 牛村蘇山」は残りの人生を阿蘇とともに豊かに送ろうとする人とその希望が雲の峰に象徴されている。

[選者賞]永田満徳 選
特選
源流は阿蘇の山々田代掻く
          朝倉 一敬
〔秀逸〕
余生なる阿蘇は相棒雲の峰
          牛村 蘇山
カルデラにころがり落ちしはたたがみ       
古荘 浩子
行けど萩京大火山研究所
若松 節子
ひと心地ついて宇奈利の阿蘇訛       
藤井 蘭西
〔佳作〕
阿蘇を背に一歩も退かぬ兜虫       
山田 節子
鮎を焼く父の荒塩化粧塩
中上ひろし
阿蘇の子の笑みころころと猫じやらし       
菅野 隆明
雨垂れがバケツ打ちゐる震災忌       
岡山 裕美
阿蘇谷の青田のそよぎ身ぬちまで       
松下美奈子
中・高・根子・烏帽子・杵島の岳淑気       
和田 信裕
夕映を畳む山襞阿蘇は秋
西田 典子
天涯に二百十日の二人旅
坂本 節子
帆のごとくわが白シャツや草千里       
加藤いろは
きちきちを飛ばして進む草千里       
洪  郁芬

漱石は熊本にいた4年3ヶ月の間に実に多くの体験をした。私的には結婚し長女をもうけたこと、五高教師としての仕事のかたわら俳句を千句あまりも詠んだこと、そして熊本や九州の各地を旅してまわったことなど。
明治32年の夏、第五高等学校の同僚の山川信次郎とともに内牧に泊まり、阿蘇神社に参拝し、阿蘇中岳登山を試みた。その旅そのままを詠んだ俳句が残っている。
朝寒み白木の宮に詣でけり
鳥も飛ばず二百十日の鳴子かな
灰に濡れて立つや薄と萩の中
漱石が日本文学に残した足跡は言うまでもないが、熊本での体験を俳句や小説に書いたことに地元の者として感謝と誇りをおぼえる。
(レポート・西村楊子)
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