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「草枕交流館」紹介
NPO法人 くまもと文化振興会
2015年3月15日発行
《はじめての与謝野鉄幹》
「大阿蘇」考
1 『五足の靴』と与謝野鉄幹の短歌
『五足の靴』は明治40年7月28日から8月27日まで、九州西部中心に約1ヶ月旅した、5人(与謝野寛(鉄幹)、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里=五足の靴)による紀行文である。与謝野鉄幹はその旅で阿蘇を訪れた折に作った短歌を詠んでいるが、再度阿蘇を訪れた際に、次のように語っている。
阿蘇の湯がよかつたね。何といつても阿蘇は世界一の火山とゐばれるよ。だが歌から云へば阿蘇の歌は無かたつたんですよ。清少納言の父の清原元輔も阿蘇に来たらしいんだが一つも山をうたつてゐない、僕が始めてだ。それからよくこゝにゐる舊友の松村辰喜君等が「大阿蘇」なんて大の字をつけるが之も僕が最初に言い出したのだ。何でも明治四十年頃ですよ。僕の門に集まった大學時代の北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里四君を僕が引率者といふ格で栃木から阿蘇へ登山した時「大阿蘇の古きくだきの一角を天に捧げて香の炉とする」との一首を作つたのがはじめらしい、今では當時學生の四君が大家となり各方面に活躍してゐるのを思つて阿蘇は又いい感慨だ
『九州日々新聞』「内牧にて―阿蘇の話をする」昭和7年8月日(土)
つまり、「阿蘇」に“大”の字を使ったのは与謝野鉄幹が最初だというのである。確かに、与謝野鉄幹の「相聞」(明治年)の中に「五足の靴」来蘇中の短歌首が掲載れている。しかも、『五足の靴』の旅中の作品はこの阿蘇を詠んだものだけである。この「相聞」は『明星』全盛時代の作品を集めたものである。鉄幹には詩歌集が多く、唯一歌集のみのものはこの「相聞」だけで、与謝野晶子が編集したことでも知られている。
大阿蘇の古きくだけの一角を天に捧げて香の炉とする
深潟の鼎沸りて地鳴しぬわれ証し賜べ大阿蘇の山
黒けぶりに真直に揚りそのもとにとどろと鳴りぬ大阿蘇の山
「大阿蘇」という言葉を含む3首は「古き」「地鳴」する阿蘇の雄々しさを詠んだ短歌で、短歌革新のさきがけとして登場し、御歌所派の歌を軟弱なものと批判して、の歌を唱えた与謝野鉄幹らしいものである。
与謝野鉄幹が最初に「阿蘇」に“大”の字を使ったかどうかの当否はともかくとして、「大阿蘇」という言葉が明治年以後にどのように使われているかを辿ってみた。そして、そこから浮かび上がってきたものについても言及したい。
教育者
注目すべき第一は、多くの校歌に「大阿蘇」という言葉が使われているということである。例えば、必由館高校の校歌第二章に「大阿蘇」の歌詞がある。
大阿蘇に 映ゆる朝雲
金峰に 匂う夕霧
環境の 恵みにわれら
美しき 虹を仰ぎて
逞しく 錬磨に励む
作詞者は山口白陽である、山口白陽は大正年、熊本県立師範学校を卒業後、阿蘇郡内の小学校にて教鞭を執るかたわら白陽と号して、文筆活動を活発に行っている。特に作詞を手がけ、今日にいたるまで多くの学校で愛唱されている。彼が作詞した300を超える小学校・中学校・高校・大学の校歌、果ては会社の社歌には多数「大阿蘇」という言葉が使われている。「大阿蘇」(「阿蘇」も含む)の使われ方をみると、阿蘇の山と全く関係のない天草、球磨人吉などの校歌にはさすがに見えないが、熊本市内などの、阿蘇に近いところの校歌は必ずと言っていいほど「大阿蘇」(「阿蘇」も含む)の詞が見える。これは白陽が阿蘇一の宮出身であることも無関係ではない。教育の場において、白陽の歌詞を通して、「大阿蘇」が広く知れ渡り、定着したことは事実である。小説、俳句、短歌等さまざまな分野の創作を行っているので、与謝野鉄幹の「大阿蘇」の短歌を目にして、「大阿蘇」を使った可能性が高い。
② 文学者
第二に、文学者で、例えば国民的詩人である三好達治の存在である。三好達治は阿蘇登山の経験をもとにした詩『大阿蘇』と『草千里浜』の二篇を発表している。この「阿蘇詩二篇」の中にも2箇所に「大阿蘇」という言葉が使われている。
『大阿蘇』(『雑記帳』昭和)は題名そののものが「大阿蘇」であり、。また、『草千里濱』(『むらさき』昭和・9)では、
杖により四方をし眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶの牧
名もかなし艸千里濱
として、最後の連に出てくる。特に、三好達治の『大阿蘇』は中学校の教科書に載っている関係もあり、「大阿蘇」という言葉は三好達治によって全国的にも知れ渡ったということがいえる。
さらに、蔵原伸二郎の詩にも「大阿蘇」の語句がある。蔵原伸二郎は阿蘇町黒川村(現阿蘇市)生まれ。詩人。本名惟賢。慶応大学在学中に萩原朔太郎の影響を受けて詩作を始める。昭和年の処女詩集『東洋の満月』で「おれは谷と火山の町で生まれた」「あの日暮の火山地の高原へ走ってゆかう」と歌い、大都市の近代文明を否定、原始的な阿蘇の自然への回帰を願う。昭和年1月発表の『故郷の山』(『文芸汎論』)の最終連は「大阿蘇山は/神さびにけり」とあり、まさしく神々しい「大阿蘇」に対する賛歌である。また、『大阿蘇』(詩集『旗』昭和・3)と題そのものが「大阿蘇」となっている詩もまた、『故郷の山』と同工異曲で、「煙吐き立ち高知れる/大阿蘇山は勇しきかな」と、「大阿蘇」の雄々しさを強調することによって阿蘇を賛美している。その点では与謝野鉄幹の短歌と同じ趣向で、鉄幹の影響がなきにしもあらずといった感がある。『天来臣民』(『文芸汎論』昭和16年)では、「わたしは/あのおそるべき/大阿蘇の山奥から出て来た/火山は私の少年に火を燃やし/祖先は純粋日本人の血を遺伝した」と述べ、阿蘇氏の直系の誇りが前面に打ち出され、阿蘇の火の山そのものと化した詩人の意識が描かれている。
③ 観光振興者
第三に、観光振興者の間にも使われるようになったということである。大正10年8月に、阿蘇を国立公園化しようとして、阿蘇谷・南郷谷の町村の役場と温泉主を中心とした期成会結成の協議が行われたが、その名称が「大阿蘇国立公園期成会」である。関東大震災により、国立公園の問題は一時下火となるものの、大阿蘇国立公園期成会の運動を一層発展させるため、新たに県レベルの大阿蘇国立公園協会が設立されることになった。そういう運動の中でさかんに「大阿蘇」という言葉が飛び交ったものと思われる。昭和2年8月に国立公園候補地基礎調査のために、田村剛博士が熊本県の嘱託により2、3週間阿蘇を中心に調査をしている。その時の「大阿蘇風景調査書」(頁、奥付なし)には「陥落カルデラノナス外輪山ヲ有スル大阿蘇ハソノ風景ノ量ニ於テ世界ニソノ大ヲ誇リ得ル本邦唯一ノ風景地デアル」と大阿蘇(高岳などの五岳、外輪山、波野高原などを含んだ大風景地)の天然公園としての価値を絶賛している。その一方で、阿蘇国立公園指定を目前にして道路整備・観光バスや旅館ホテルの経営などを視野にいれた「大阿蘇観光道株式会社」が熊本の財界人によって設立されることになった。「大阿蘇観光道株式会社」は「大阿蘇登山バス会社」を買収し、翌年1月1日から坊中駅―山上広場間のバス運行を引き継いだ。昭和年には、九州産業交通の子会社として、貸切バス専業の「大阿蘇観光バス株式会社」が設立され、会社名にも使われるようになった。現在、「大阿蘇」の名称はごく一般的に企業名として使われている。
これらの「大阿蘇」の名称の一般化には、国立公園化の運動とともに、『阿蘇市史』に掲載されている「阿蘇登山の説明」、いわゆる観光バスガイドブックの存在を見逃すことができない。この昭和7年頃の作成である観光バスのアナウンス原稿には「大阿蘇」という言葉が7箇所出てくる。このガイドの説明は阿蘇登山バスに乗る人は地元の人でも聞いていたという。従って、「大阿蘇」という言葉が否応なく、阿蘇登山バスに乗った人の耳の中に入ってきただろう。観光振興者が阿蘇に「大」を付けるのは、阿蘇が観光地としてすばらしいものであることを宣伝する意味があったようである。
このようにして、「大阿蘇」という言葉は、3つの事柄から広く使われるようになったといえるだろう。一つの言葉にも歴史があり、1つの言葉にも注目すべきことを実感させる例である。
3 与謝野鉄幹と松村辰喜
さて、与謝野鉄幹「『大阿蘇』考」で浮上してきた人物がいる。松村辰喜という人物である。松村辰喜は五十も過ぎてから阿蘇の国立公園化に邁進する。そのとき、“阿蘇の泥亀の大風呂敷”と陰口を叩かれ、誰も相手にしなかったという。この松村辰喜は与謝野鉄幹とかなり親密な関係にあったことが与謝野鉄幹の来熊の様子でわかる。まず、『五足の靴』の(二十) 画津湖(8月29日)の章には
楼上では松村氏の韓国王妃当夜の懐舊談が初まる。大院君が深夜異邦の志士に護せられ王妃を刺さむとするに、悠悠冷水を引いて身を拭ひ、かに髪を結び、衣裳を此か彼かと撰び改め、更に天地四方の神を拝し、祖宗を祀り、して漸くに乗る、此間費すこと三時間。志士等もどかしがりて促せば、大事を挙ぐるにか軽々なるべけむやと云ふ。之が為に予定の時間より五時間も遅れて、王城の正門に達した頃は既に白々と夜が明けた……。
先ほどの『九州日々新聞』(昭和7年8月)の記事には「阿蘇は又いい感慨だ」に続いて、
と「大阿蘇」論を一くさり、丁度その座へ阿蘇国立公園理事の松村さんが現れたので「なつかしや肥後の辰喜は」の舊歌その儘に、事件の朝鮮時代の懐舊談に青春が甦る。
というくだりがある。
この二つの記事から分かることは、与謝野鉄幹と松村辰喜とは会えば必ず閔妃暗殺事件への「懐旧談」にふけっていることである。これらのことから、与謝野鉄幹の度々の来熊は、後藤是山の熱心な招聘・仲介があったとしても、松村辰喜に再会することを期待する気持があったことはまちがいない。閔妃暗殺事件とは、明治28(1895)年10月8日、親露に傾いていく朝鮮の皇后・閔妃が大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、日本軍を中心に大院君を担ぎ出そうとした勢力によって、景福宮で殺害され、遺体も焼却された事件である。松村辰喜は与謝野鉄幹とともに義塾教師であり、閔妃暗殺に関与したとされるが、証拠不十分として釈放された。閔妃暗殺事件への関与云々はともかく、与謝野鉄幹と松村辰喜の関係の深さは「閔妃事件の朝鮮時代」に求められるだろう。「舊友の松村辰喜君等が『大阿蘇』なんて大の字をつける」(前掲)のはこの関係の深さと関連はあったのか。昭和初年、市街地の拡大に併せて、「大都市法」が制定された。その結果、大東京・大大阪・大京都など名称が使われ始め、熊本も大熊本というようになった。松村辰喜は熊本市会議員としてその名称を推進する立場であったので、「阿蘇」に大の字をつけたのは与謝野鉄幹の影響ではないと言い切ることもできる。しかし、与謝野鉄幹の側にしてみれば自分の影響・関連はあったとみているといっていい。ここにもまた、与謝野鉄幹の、松村辰喜に対する親密感・信頼感の表れを感じる。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)