第四回「二百十日」俳句大会 レポート
阿蘇を舞台とした夏目漱石の小説『二百十日』を記念した第四回「二百十日」俳句大会が、令和二年八月二十九日(土)、阿蘇ホテル一番館で開催された。主催は「二百十日」俳句大会実行員会。応募数・投句数ともに昨年をはるかにこえる九十三名、計三百三十句の投句があった。参加者も、パンデミックの中、四十席を用意した会場がほぼ満席になった。
来賓挨拶は阿蘇市長代理観光課長の秦美保子氏、月刊「俳句界」文學の森社長の寺田敬子氏、くまもと漱石倶楽部会長の吉村隆之氏。そのあと講話は緒方宏章氏の「『二百十日』の旅」で、漱石の阿蘇登山の行程を、「正岡子規へ送りたる句稿(その三十四 九月五日)に基づき、踏査したもの。大津から善五郎谷に至る道筋の史跡・文学碑を、新古の写真を交えつつ解説された。特に、西巌殿寺から善五郎谷(漱石が道に迷った所)への道は、九州自然歩道と重なる部分もあるようで、興味深い話であった。
昨年からの画期的な試みは、選者それぞれの特選一句、秀逸四句の選評が文字化されて、プリントアウトされたことである。受賞者の名誉は言うまでもなく、一般の応募者にとっても、貴重な教訓になると思う。「二百十日」の旅は、漱石にとって「厄日」だったかもしれないが、本大会は、発足以来、快晴つづきである。
講話の後は、入選句の披講、表彰に続いて選評が行われた。事前投句の選者の奥坂まや氏、五島高資氏は欠席のため選評は代読となり、その後、永田満徳氏が選評を行った。なお、大会賞6句は3人の選者の特選、秀逸から各後援団体が選んだ。(紙面の関係で、選評は大会賞入賞句のみの掲載)
■大会大賞
島陰に島ある二百十日かな 宮木登美江
五島高資氏評
『蜻蛉日記』には、死んだ人に会えるところという意味で五島が「みみらくの島」と詠まれている。その中に、<いづことか音にのみ聞くみみらくの島隠れにし人を尋ねむ>という藤原長能ながよしの歌があるが、掲句の「島影」にもそのような異界の雰囲気が感じられた。現実の「島」を包摂する「島影」に作者は真実の世界を洞見しているのかもしれない。台風などの嵐が多く厄日とも呼ばれる二百十日は、風祭で安寧を願う神聖な日でもある。神と人が接するという意味で異界とも共鳴する。
■阿蘇市長賞
雲海の海石となりし阿蘇五岳 村上 重夫
永田満徳氏評
世界有数のカルデラの「雲海」に浮かび上がる「阿蘇五岳」を「海石」と見立てたところがむろんよいが、それ以上に、万葉集にも出てくる「海石」という神秘的な古語を持ってきたことが手柄である。「海石」は「いくり」と読み、海の中にある岩、暗礁のことである。2300年前からの神話・伝説に彩られた阿蘇の風物にふさわしい言葉の使用で、心惹かれる。
■阿蘇ジオパークガイド協会賞
七夕や短冊にただ《寂しい》と 中村 暢夫
奥坂まや氏評
七夕の短冊は、本来、習字の上達を願って七夕竹に結びつけるものでした。近年は、様々な願い事を記して吊るすのが主流になっていますが、掲句の短冊にはただ一言「寂しい」」とのみ書いてあったのです。願い事も、それぞれの人間の率直な気持を表わしたものに違いないのですが、この「寂しい」の一語は、ただ感情を真摯に述べて何も願ってはいないだけに、ひときわ心を打ちます。短冊に記したからには、何かを願う気持はあるのでしょうが、あまりにも深い寂しさが、願いを具体的に述べるのを不可能にしているのが伝わってきます。短冊のこの一語を目にした者は、願っても詮無い寂しさ、人間存在の本来の寂しさに向き合うことになるのです。
■熊本県俳句協会賞
天籟のかすかなうねり芒原 古荘 浩子
五島高資氏評
天籟は、天然に発する響き。広大な芒原も風が吹けば穂波がうねる。天地の交歓がそこに感じられる。
■俳人協会熊本県支部賞
うつし世に蝸牛となりて神の里 日永田渓葉
永田満徳氏評
「蝸牛」(かたつむり)という生まれ変わりが素材になっている。悪いことをすると虫に転生するということなのであまり喜べないが、今の世の喧騒とコロナ禍をよそにして、急がず騒がず、ゆったりとしたかわいらしいカタツムリであるならば「蝸牛」に転生しても悪くない。「神の里」とあるからには、ある徳のある、高貴なお方が「蝸牛」に身をやつして、「うつし世」、つまり現世に出現したと受け取れるところもおもしろい。
■熊本県現代俳句協会賞
噴煙を己が纏ひて阿蘇良夜 田代 幸子
奥坂まや氏評
月光の美しい夜は、噴煙も阿蘇の山脈が纏う薄衣のように感じられることでしょう。月に照らされて耿々と輝く、阿蘇の堂々たる姿が見えてきます。
■月刊「俳句界」文學の森賞
阿蘇よりの水ほとばしり夏は来ぬ 山田 節子
奥坂まや氏評
阿蘇の四度の噴火で降り積もった火山灰は、雨水をろ過してきれいな地下水を作ってくれるといいます。熊本市の水道水は、すべて地下水なのも、阿蘇連山のおかげ。阿蘇からの水が直接、水道からほとばしるなんて、羨ましい限りです。水が一番大事な夏の季節は、とりわけ阿蘇の有難みが沁みることでしょう。
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講話の「『二百十日』の旅」を聞きながら、「草枕の道」を連想した。
熊本市内の自宅から、迷い迷い、夕暮れ近くまで歩き、小天温泉の那古井館に一泊したことがある。早春の、疲労と感動の一日だった。
「二百十日」の道も、九州自然歩道がからんでいるようなので、立野から奥の道ならば、面白いのではないか。特に、漱石が道に迷って終日さまよったという辺りを、ほどほどにさまよってみたい気がする。「草枕の道」は、数多くの人の努力で出来たのだそうだ。頭が下がる。実にありがたい。「二百十日」の道も、緒方宏章氏の土台の上に、どなたか仕上げを、と虫のいいことを考えている。
(レポート・古賀一正)
月刊「俳句界」11月号(縮小版)掲載