【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

蓮田善明-「死」と「芸術」のはざまで- (死は文化である)(小説『有心』)(三島由紀夫)

1988年01月01日 00時00分00秒 | 論文

蓮田善明-「死」と「芸術」のはざまで-

初出  「うぶゐ」三九号  熊本市立必由館高校 2004・3

本稿は『熊本の文学 第二巻』(審美社、1988・11)と「有心」(熊本近代文学館報 第62号)の両本文を再構成し、加筆したものである。


      一 初めに
 戦後ながらくタブー視されてきた日本浪曼派に対する再評価の気運のなかで、日本浪曼派を考察するときのカテゴリーを、雑誌『日本浪曼派』に属した者たちにとどめず、もっと広くその周辺の雑誌『文芸文化』や『文芸世紀』の同人たちにまで拡大するのが一般的になってきている。そこに共通するのは、「昭和十年代の〈日本への回帰〉の文芸思潮を主導した流派、ないしは傾向そのもの」(大久保典夫)であろう。日本浪曼派(狭義には雑誌『日本浪曼派』)の文学運動は、いわゆる〈不安〉の時代といわれる昭和十年代の社会状況と深くかかわっており、「コップ」(プロレタリア文化連盟)への壊滅的弾圧後の不安と思想の混乱を背景とした知識人内部の危機意識克服のために鼓舞(こぶ)された浪曼精神の営みであって、それは一種の精神革命・文化闘争の趣きを持っていた。そこで、日本浪曼派の実質を文学作品の成果としてみた場合、小高根二郎氏のように、「この運動の主導者として保田与重郎の名を真ッ先に担ぎだすのが常識だが、戦後十五年の年月の濾過を経てみると、政治的或いはジャーナリスティックな浅(ママ)滓は洗い流され、結局、文学自体の骨だけになってみると、後に残るのは……評論の蓮田善明、小説の太宰治、詩では伊東静雄になってしまう」(「詩学」臨時増刊、昭36・9)と述べ、〈評論家〉としての蓮田善明を高く評価しつつ、」さらに『蓮田善明とその死』でその持論を積極的に展開しているのが特筆にあたいする。小高根氏はまた、「日本浪曼派とは何か」(「解釈と鑑賞」昭54・1)の中で、『日本浪曼派』の主導者保田与重郎と対応させるべきなのは、その同人として活躍した亀井勝一郎ではなく、むしろ『文芸文化』の中心人物蓮田善明であって、この両者がおのおの思想として探り当てた古典の文学者の系譜や運命の照応と交差にこそ日本浪曼派の正体が隠されているという注目すべき指摘を行っている。しかも、その論調の延長線の上に立って、蓮田善明を編集兼名義人として清水文雄・栗山理一・池田勉の広島文理大学出身者四人を同人とする月刊国文学雑誌『文芸文化』(創刊昭13.7~終刊昭19・8。全70冊)は、文芸雑誌『日本浪曼派』(創刊昭10・3~終刊昭13・8。全29冊)の亜流というものでなく、国文学雑誌というカテゴリーを越えて、実質的には日本浪曼派の主軸を形成していたとまで言い切っている。
二 略歴
蓮田善明は、明治三十七年七月二十八日、熊本県鹿本郡植木町一四金蓮(こんれん)寺に、住職慈善の三男として生まれる。地元の植木尋常小学校から県立中学校済々黌に進学すると、級友の丸山学(元熊本商科大学学長)等と回覧雑誌を作って、短歌・俳句・詩を発表し、文芸に親しむようになる。広島高等師範学校時代には、生涯の師斎藤清衛教授から強い感化を受け、国文学研究の指針を見出し、新たに校内会雑誌に評論を書き始める。岐阜二中学校・諏訪中学校の各校で教えたのち、昭和八年四月、広島文理科大学(現、広島大学)国語国文学科に再入学、研究紀要『国文学試論』を創刊して、池田勉の言葉(「文芸文化」創刊の辞)を借りれば、〈古典精神〉への信従・顕彰に努力する。それは、台中商業学校から成城高等学校に転任したとき、『文芸文化』を創刊することによって本格的な活動となる。このときからわずか五年ほどの間に刊行された著書は、『鴎外の方法』『予言と回想』『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事紀学抄』『忠誠心とみやび』『花のひもとき』などがあり、死後には『有心』『陣中日記・をらびうた』などがある。これらの著書はいずれも、蓮田が成城高校在職のまま二度にわたって〈応召のさなか、肉体と血汐で探り当てた〉(小高根)軍人にして文学者の思索の跡をとどめているものばかりである。
蓮田善明は、昭和二十年八月十九日、敗戦を中隊長(中尉)として迎えての四日後、応召先のマレー半島ジョホールバルの連隊本部玄関前で、かねてから背信の疑いをかけていた上官連隊長(大佐)を射殺し、その数分後に同じピストルを顳(こめかみ)に当てて自裁を遂げる。その時、痙攣(けいれん)する左手に握り締めていたものは、「日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文面の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。まさしく憂国の士としての自決だったといえよう。ただし、これが敗戦の動揺による偶発的な行為というよりも〈日本の捨石になる〉ことにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もない自覚された行為であったことは『蓮田善明とその死』に詳しい。仮に蓮田の死があくまでも覚悟の行為であったとするならば、今日において蓮田の文学と思想とのかかわりで大変重要な意味を持ってくる。蓮田の知己者の中にも、死に至る過程に何らかの必然があるという捉え方をしたものがいる。まず、蓮田が常日頃尊敬してい、スラバヤで奇遇の機をえた佐藤春夫は、ある返信に「蓮田君としてはそれより外に方法もなかつた必然の行き方と小生は深い哀悼の感を持ちます」(「光耀」昭21・10)と書き、いち早く蓮田の自裁に同情を寄せている。次に、蓮田を師と仰ぐ三島由紀夫は、蓮田の死から十四年後、『蓮田善明とその死』を執筆を始めた小高根氏宛に「蓮田善明氏の自決に関する御一文(冒頭の第一章で『死の謎』と題して〈蓮田善明をとりめぐっていた謎〉に言及している=筆者註)を読み、感佩に堪ヘず、一筆御礼を申し述ベたくなりました。しかし小生としては、氏の思想がかかる行動に直結したことは、さして謎とは思へませぬ。それより、直結しなかつたら、そのはうがふしぎだと思ひます」(昭34・8)と述べ、蓮田の自死の必然性を強く訴えている。これは『私の遍歴時代』の中で「蓮田氏はのちに、敗戦と共に自決によつてその思想を貫き通した」と触れていることと同じく、蓮田の自決が思想上の完結であったとみている。このようにみるならば、蓮田の自裁はあたかも生の総体をたちどころに逆照射するに足る強烈な光源のようなものである。生の終焉(しゅうえん)におかれた光源が強烈な光芒で蓮田の全生涯を照射するとき、生の総体は照らし出された部分の起伏のみ鮮明に浮かび上がってくる。
     三 「有心」―純粋な生―
「有心」は、阿蘇の湯治場である宿に数日間宿泊したのち、阿蘇の火口を見るために登山を試み、火口の噴煙を目にしたところで終わる小説である。昭和十六年一月二十九日より一週間、阿蘇の中腹垂玉温泉に滞在した経験を踏まえている。
阿蘇の温泉に赴くのは、「現実と自分との二枚の像が一寸ずれてゐてぴつたりと密着しない感じ」、つまり現実との違和感を覚え、静養をすることによって「体を作り直」すためである。第一次応召で一年八カ月ぶりに帰還し、日本に上陸したとたんに、波止場で昏倒したという話からも類推できるが、〈死は文化だ〉と確認した戦場で培われた緊張の糸が内地の「もの倦い生活」によって断ち切られたことによる精神の変調だと考えられる。
 ともあれ、この現実と自分との〈ずれ〉をどのように修復するのかが「有心」の課題である。その課題を解決するのに、散歩することもままならない狭い崖の上の宿は格好の場所だったといわなければならない。「火鉢に寄りついて、鉄瓶を眺めてゐるよりほかはなかつた」ところでの思索はもちろん自己の内部と向き合うこととなるが、しかしこの小説の「自分」はむしろ外部をよく観察し、精緻に分析する。この科学者的な眼差しに捉えられた物は徐々に現実と自分の関係を明らかにしていく。その一つが「障子」である。障子というものが外界と内界を隔てるものでありながら、内外の均衡を微妙に保っていることに気付く。それは「無」という概念にあやうく達するもので、現実と自分との関係について一つのヒントを得ることとなる。もう一つが浴客達の裸である。いうまでもなく、「皮膚」は障子における内と外との変奏である。浴客達の発育した肉体が「技巧の及び難い、天の作品であり、最も生きてゐるもの」のは、「天から与へられたものを純粋にはたらかせてゐる」からである。肉体それ自身が「純粋な生」そのものを謳歌しているようにみえる。この内と外を巡る思索の深化を手助けしているのが手遊びのために持ち込んだ鴨長明の「方丈記」やリルケの「ロダン」である。「方丈記」における隠遁が外界と関係を意識的に絶つことで、また「ロダン」における観察が外界の実体を浮かび上がらせることで、「純粋な生」といったものが導き出される。障子にしても、裸にしても、内と外を超越したところにこの「純粋な生の充ち溢れる」世界が現出することの暗喩である。
要するに、「純粋な生」とは技巧を加えない、本然のままに生きる生を指す言葉である。「末梢的な感覚」におびやかされる〈都会〉から抜け出してこそ可能になる世界で、阿蘇という〈田舎〉にのみ見出される世界である。「有心」が〈田舎〉の発見というテーマを持った作品であることは注意していい。その〈田舎〉を体現しているのはあの若い女である。湯船の中で誰に気兼ねすることなく遊ぶこの娘はまことに天真爛漫という他はない。まもなくのこと、許婚の戦死の報を聞いて、誰憚ることなく嗚咽する娘の姿に、「不思議な調和」を感じるのはこの娘が「純粋な生」を生きることの手本を示してくれているからに他ならない。その泣声を聞いて、「布団を頭からかぶると、ぶるぶるふるへる唇を噛んで咽び泣いた」のはまさしく娘の「純粋な生」に促されたことによる。そして、その「涙を拭つた」あと、「何か大きな軽さをふと覚えた」のも当然といえば当然である。
自分の内部に取り込まれた「純粋な生」が涙となってほとばしり出たときに、阿蘇登山を思い付くのである。「純粋な生」を受け付ける場所として、阿蘇の荒涼たる風景と「激しい」噴煙ほどふさわしいところはなかった。この〈激しさ〉は自分と呼応するものであり、ここに至って、完全に現実と自分との〈ずれ〉は修復されるのである。
とするならば、現実と自分との〈ずれ〉は「末梢的な感覚」を持ち込まないかたちで、戦場の緊張をそのまま内地に持ち込むことによって解決したことになる。阿蘇登山の途中で戦場での感慨に耽ることからも理解できる。第二次応召の慌ただしい車掌室の中で推敲し、筆を置いたこともこの小説で掴んだ「純粋な生」が戦場と直結していることの何よりの証拠である。こう考えて初めて、保田輿重郎の「この作品を読めば、彼の自殺は当然とも考えられる」という直感の鋭さに思い至ることができる。
従って、「観念小説とはまつたく別の発想において、抽象とか思想とかいふものがどういふ状態で生まれるかを描かうとしてゐる」という桶谷秀昭の指摘を参考にするならば、「有心」という小説は〈田舎〉に見出される「純粋の生」を思惟的に追求し、思想にまで高めた作品だといえる。そこに「有心」のユニークさがある。
     四 神韻の文学
蓮田善明の文章は戦時下の総力戦の危機感を反映しており、あの異常ですらあった雰囲気を経験していない人間にはその作品を充分に理解することができないように思われる。
〈文学とは、かかるきびしい現実に対して迫り、そこから昇華する精神の浪曼を消息するものではあるまいか。古代も今も〉(「蓮田善明とその死」より引用)。
昭和十年代の文学者は一般に、明治・大正時代と違って、安定した地盤も確固たる文学概念もない地点から文学の営為を探し求めて悪戦苦闘した痛ましい姿勢にいろどられている。昭和十年代の国粋主義の蔓延(まんえん)のさなかに刊行された蓮田の『本居宣長』(昭18.4、新潮社)にしても、今日の「穏やかな人々の眉をひそめさせ胆を寒からしめよう文句」(塚本康彦)が随処に見られるが、本居宣長の漢意 (からごころ) 排除の思想を〈憤りつつ〉(註1)敷衍しようと努める一途な姿勢にひとつの《信仰告白》の書として受け取れないことはない。そういう受け取り方をすれば、激越な慷慨(こうがい)家としての蓮田の真情あふれる純真な美しさといったものは確かに感じ取ることができる。このような信仰に近い心の叫びが日本の国粋主義者の核心にあったと思われる。
弱冠十七歳の時、蓮田善明は回覧雑誌『護謨樹』に「人は死ぬものである」という題の詩を発表していて、早くも「死」の問題を直視し、その解決に苦慮していることが知られる。
「人生とは何ぞや」よりも「如何に生くべきか」の問題である。「如何に生くべきか」の解決は「如何に死すべきか」を解決し得る所に生るゝ結果である。(「護謨樹」26号、大9・9)
青少年期特有の人生への問いに苦悩する蓮田が「如何に死すべきか」の解決を優先させていることに注意したい。「如何に生くべきか」と「如何に死すべきか」の二律背反する課題は本質的に表裏一体のものである。なぜなら、「生きる」ことの意味は、少なくとも生甲斐のある人生を送ることに他ならず、何らかの目標に向って一回限りの生を燃焼させてゆくことであって、それは何ものかのために「死にうる」という自覚とまったく同義だからである。つまり、いかに「死ぬ」かという問題を除外しては、いかに「生きる」かという問題はありえなかった。それは、蓮田が生きなければならなかった戦時体制という特殊な時代が強いた人間の存在様式のひとつであったといえる。
 それから三ヵ月後に書かれた文章では、次のように言っている。
「死」か「芸術」か、自分の悩ましい歎声はこれである。が、自分には「死」も「芸術」も与へられないのだ。この二つの中の一つを求め得ることができたならば、満足して、自分は目をつむることができるのだ。たゞそれ迄(いつのことかわからないが)は、苦悩せねばならない悲しい運命にある。(「護謨樹」28号、大9・12)
「生」と「死」の課題を前にして「死」を優先させた蓮田は、この文章では「生」を「芸術」に生きることと限定している。蓮田の生涯において最も〈悩ましい〉重要な課題が「死」か、それとも「芸術」(「生」の燃焼の対象として)かの二者択一にあって、ひたすらその課題のみを考える哲学的な相貌を蓮田の表情に読み取ることができる。そして、切迫した時代背景の中で、「死」も「芸術」も同時に手中に収めようとして〈苦悩せねばならない悲しい運命〉をたどることになるのだが、それは晩年においてみごとに成就する。あの終戦直後の事件を知悉(ちしつ)している者には、これらの生死をめぐる断想が自分自身の生涯と運命を予告していることに驚かされるだろう。
蓮田善明は、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が泥沼的に拡大される時期に、二度召集を受けて出兵している。初めの時は中国戦線に赴いて転戦、貫通銃創を負って帰還する。二度目の時は南方戦線に派遣されて終戦を迎えるが、ついに日本の土を踏むことはなかった。初めて戦場に赴く蓮田が池田勉に向かって「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」(「文芸文化」『文芸文化』昭13・12月号)と言って微笑んだことの意味は、〈戦ひ〉の単なる美化とみるだけでなく、〈戦ひ〉に行くことに並々ならぬ期待と決意を抱いていたことを証するに足りる。そして、実際に得ることのできた戦場の体験は、その経験後に書かれた唯一の小説『有心』十六(昭60・8、島津書房)の中で、「幾度も死を決せねばならない(中略)。一度死線を通ると、次に別な心持の、も一つ死を決するものが求められるのである。何か死を決してかゝるものを「生」が求めてでもゐるやうな、そのくせ、「生」にひたりきつた心持で、次第に放胆になつて行き、それと共に又簡単にではあるが深刻に、死といふことをも知つて、勝つ(か負けるかといふことは考へられないけれど)か負けるかの勝負を各瞬間に競つてゐる」と触れている通り、敵・味方が一瞬一瞬に生死をかけて激しくせめぎ合う戦場の緊迫感であった。このような日常生活とは違って緊迫した瞬間の連続である戦場は、実は蓮田にとって、「発射音をきくとすぐ陣地の壕の中に身をかくし、炸烈するのを待つ間、生命といふものだけがとがつてゐる。(中略)しかし『詩』が見えるのはかゝる時と処とである」(清水文雄宛、昭14・7・7)のであり、むしろ生命の充実を確認させ、しかも文学と関わることのできる〈時と処〉を提供してくれる貴重な場所である。それだからこそ、第一次応召の帰還直後の一時期内地の生活に感じた異和感も、あるいは丹羽文雄に報道文学者として直接的な参加を望んだ(「文学古意」)のも、その精神の反映であって、何も奇異なことではなかったのである。さらに云えば、戦線にあった蓮田が当時好色不敬の文学とされていた『源氏物語』を「生きてゐる限りの煩悩」で愛読し、「確か二回目を梅枝あたりまで行つた時、帰還の命令を受けた時の心惜しさは今も覚えてゐる」「所感」『文芸文化』昭17・2月号)といった述懐は、決して戦意高揚のための誇張ではなく、戦場に〈期待と楽しみ〉(註2)を覚えた者のいつわりのない心情の表明だったと素直に受け取っていい。つまり、蓮田にとっての戦場は、生を燃焼させる場としても、文学を体験させる場としても最も条件の整った絶好なところであった。換言すると、赤紙一枚で無慈悲に召集される戦場を何ものにも換えがたい恩寵のようなものとして受け入れているのである。これはしかし、五高出身の作家梅崎春生が『日の果て』の中で「顔色は蒼黒く濁り、眼は憤るよう血走っていた。これが戦場の顔であった。そのまま持って来た戦場の表情であった」と描いているような野獣さながらの表情を持つに至る悲惨な戦場の実態とはほど遠い感じを与える。戦争の惨劇を知り尽くしている戦後の人間には到底推測しがたい蓮田の戦争観を理解するには、さらに次のような文章を読んでみることである。
○命令は既に「死ね」との道である。死ねと命ずるものは又己を「花」たらしめるものである。唯一片の花たれ――何たる厳粛ぞ。何たる詩ぞ。
○弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である。究極の冷厳、自然そのもの。
○「死ね」の声きく彼方こそ詩である。
(「詩のための雑感」『文芸文化』昭14・6月号)
塹壕の中から寄せられたこのいくつかの短章には、死を直視した戦場体験に裏打ちされる蓮田特有の「死」と「芸術」(ここでは「詩」)のきわどい課題がある方向をもって提出されている。それは蓮田が戦場における「死」の瞬間に垣間(かいま)みられる「詩」精神を〈厳粛〉〈冷厳〉なものと考えるところに現れている。つまり、一種の死の賛美につながる要素を孕(はら)んでいる考えであるものの、そこにこそ、「死」と「芸術」の課題を不即不離の関係において捉え、その両者の関係を絶対的な存在として押し上げようとする蓮田の思想が吐露(とろ)されている。
当時三十五歳の蓮田善明は、画期的な論文「青春の詩宗―大津皇子論―」(「文芸文化」昭13・11月号)の中で、悲劇の詩人大津皇子に仮託して、この「死」と「芸術」(ここでは「文化」)を止揚した思想を一つの時代精神として語っている。此の詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知つてゐるかの如くである。(中略)予は、かゝる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。新しい時代を表明するためには若くして死ぬ――我々の明治の若い詩人たちを想ひたい。それは世代の戦ひである。かういふ若い死によつて新しい世代は斃れるのでなく却つて新しい時代をその墓標の上に立てるのである。年齢も不思議に精神の構想となる。(中略)然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる。戦中世代が自らの死の意味を納得したいと念じていたとき、蓮田はこの魅惑的な文章を表明することになるが、今日でも〈変転が日常である革命期の死の論理〉(小高根)として否定しようにも否定しがたい説得力を持つといったら語弊があろうか。歴史の進歩の過程では確かにその時代の若者たち自身によって数多くの尊い犠牲が払われてきているし、実際、明治維新前後の激動の時代に血気盛んな若者が開国と撰夷、勤皇と佐幕の間を揺れ動きながら変革の流れに身を投じ斃れていっている。あるいは、この時の蓮田の念頭に革命的ロマンティシズムを表明しながら二十五歳という若さで自死した〈明治の若い詩人〉北村透谷の姿が浮かんでいたのかもしれない。というのは、『北村透谷選集』はやがて中国戦線に携えていくことになる数少ない本のひとつであったからである。それはともかく、蓮田が若者たちの時代への役割を熱望していたことはまちがいなく、そのあまりといっては何だが、新しい「文化」創造のための時代的な課題として少なくとも自己犠牲の必要性と夭逝の価値をうたいあげている。つまり、一口で云うならば、創造性豊かな「文化」の犠牲(いけにえ)としての夭逝は、そうすることによってのみ、〈新しい時代を表明〉しえるし、〈新しい時代をその墓標の上に立てる〉ことができるのである。蓮田がここで特に夭逝の問題を取り上げるのは、純粋に生きることを人生の至上価値とみるとしたら、天逝こそが最も望ましく時と処をえた死に方に他ならないからである。また、夭逝者たちが何よりも時代精神の純粋な形象者であったからでもある。蓮田はこのような時代精神のまったき体現者として若者の存在を推奨しつつ、老成を拒否した若者に〈世代の戦ひ〉を担わせるとともに、若さゆえに〈年齢も不思議に精神の構想となる〉特権を与えることとなる。従って、若者唯一論ともいうベきこの論文がくしくも三島由紀夫の「死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることのできない」(『蓮田善明とその死』序文)という言葉に代表されるような呪縛的な魅力を持つ秘密は、ニ十四歳で非業の死を遂げた大津皇子の「青春の文学」を通して、いつの時代でも変らない若者のあるベき理想像を示そうとした「永遠の青春」論にあったと思われる。それにしても、犠牲なしとは創造もありえないという思想(註3)は、蓮田の固定観念のようなもので、「まことの古風は、犠牲の屍の中から、やはり絶えたかと見えた古風のいきどほり以て衛られつゝその犠牲の屍を払つて生ひ出でゝくる」(「志貴皇子」『神韻の文学』所収)という言葉にもうかがえる。このような思想が国体護持の名目で宣揚された「滅私奉公」の精神にかすめ取られる危険(註4)を充分に持っていたことは言うまでもない。
しかし、いずれにせよ、蓮田善明は、日常化された臨戦体制の死を〈死ぬことが今日の自分の文化だ〉と定義づけることによって、生活信条にまで「死」を崇高化し、「死」への道を自分に課せられた主義であると確信する。『鴎外の方法』(昭14・11、子文書房)における「戦死――にわれわれは芸術を見なければならない。戦死が詩であることを、はつきり知らなければならない」という文章も、そのことのヴァリエーションにすぎず、「死」を戦いによるものと〈はつきり〉と位置づけたもので、これにより「戦死」こそが「芸術」であると規定することになる。これらの文章が与えた衝撃について、蓮田の友入たちは次のように述べている
「磬余の池に鳴く鴨を今日のみ見て雲隠りなんとすることが皇子は自分の文化であると自識して居られたといふ。今日に於ては戦ひに行くことが、文化であるといふ凛烈たる姿勢の詩清を蓮田にきいて、僕は一人頼しいと思つた。この決意は一億の民心を日本の歴史の創造に駆り立てるべきである」(池田勉「文芸文化」『文芸文化』昭13・12月号)。
「蓮田は『死もて文化を書く』といつた。これは彼の今回の応召を機としての偉大なる発見であつた。(中略)それは我ら若者が共通に各自の胸に、どうと云つて明瞭に言ひ表せないけれど、痛切に熱烈に懐いてゐる所のものを、彼が実に凱(ママ)切に言つてくれたのである。それは単にあるがまゝを言葉に言ひあらはしてくれたといふのでなく、あるものをぐつと引き上げ、ひき絞つて焦点を与へてくれた感じである」(清水文雄「みやび」『文芸文化』昭14・3月号)。
このような文章からは、『文芸文化』の仲間の中ではただ一人戦場での体験をもつ蓮田の実践家としての言動がストレートにその周囲の人々に与えた影響力の強さを思い知ることができる。いやそれ以上に、ここには〈死ぬことが文化だ〉という言葉があの時代の精神を的確に把握していたことを物語っている。また、翻って考えるならば、蓮田が自らの死の意味に何らかの結論を与えようと努めた態度にしても、確実な死が約束されていた戦中世代の内心とは無関係でないのであって、どちらも「死」を平静に迎えられる思想的根拠は何かを突き詰めて考えなければならなかった点で恐ろしく共通している。従って、狭い借屋住いの中で子供はうるさいから早く寝せろと叱りながら勉学に精励していたという蓮田夫人敏子さんの話(昭61・3・1)からも、軍務のあいまを縫っていつも机に向っていたという第二次応召時の当番兵だった渡辺常一氏の話(昭61・2・21)からも蓮田の日常生活の一端を窺い知ることができるが、どちらかと云うと喧騒な時代の空気を腹一杯吸い込みつつも時代の進むべき道を確信するまで模索をしつづけた、いわば時代とともに歩み、時代とともに生きた文学者であったのである。
ともあれ、〈死は文化だ〉に代表される文芸観の確立は、青少年期に苦慮していた「死」と「芸術」の課題を一挙に統一して解決することができた結果である。そして、評論家として探り当てた文芸観は、ただちに戦場において書き継がれた文学作品、その名の通り『陣中日記』『陣中詩集』を通して実践することになる。例えば、『陣中日記』の扉書きの「わが遺骨なり」という奇抜な言葉や、死地に赴く大津の皇子の遺歌に対して「実にひしひしたり」という感想を寄せている書き出し日の記述からもおおよそ予想できるのだが、この日記には《遺書》に相等しい気持ちで書こうとした蓮田の決意、あるいは覚悟がひそんでいる。しかも、この日記が日を置かずに書き込まれている背景にも、単に日記の体裁になぞらえたというだけでなく、「死」を覚悟したものの立場から視界に入るものや脳裏に浮かぶもののすべてをいとおしむ気持ちで描き込もうとすろ姿勢が貫かれている。それは、一種の「賜死」である応召が生還の見込みが千載一遇のチャンスでしかなかったからというよりも、蓮田の場合、むしろ戦場に赴く心構えがすでに〈死ぬことが今日の自分の文化だ〉と確信し、人よりも一倍「死」の覚悟をととのえていたからである。とはいっても、〈死は文化だ〉という言葉そのものはスローガン的な意味合いの濃いものであるから、生のある限りではどうしても「死」への〈決意〉(註5)といった姿勢を取らざるをえない。そこで、〈死をもて文化を書く〉ことを片時も忘れずに「賜死」の戦場を駆けずり回っている蓮田の熱いまぶたには、恐らく、前にも引用した「弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である」という、いわゆる今わの際に宿るとされる〈末期(まつご)の眼(め)〉を通してみられる瞬間の映像が夢見られていたに違いない。これこそが蓮田が希求していたあの「死」と引き換えに与えられる「芸術」の具体的なイメージに他ならない。つまり、「死」=「芸術」(「文化」)の等式は、この〈末期の眼〉の獲得によって初めて芸術(文学)の具体的な形象(作品)を創り出すことができるようになるのである。従って、「死」を背後にして書かれた『陣中日記』は、これらの意識が反映されたものであって、切羽詰まったものの〈末期の眼〉を通しての持続的な記録の書として稀有(けう)の存在であるとともに、蓮田の全生命をかけて渾身の力で書かれた畢生(ひっせい)の書としても特別な存在であるといえよう。一方、『陣中日記』を欄筆してから書かれたものと思われる『陣中詩集』は、いくつかの稀(まれ)にみる清烈な詩篇を収めているが、もとより戦場の悲惨さや残酷さの反措定(アンチ・テーゼ)として描いたものでなく、やはり「死」を覚悟したものの〈末期の眼〉に写る生きとし生けるものの姿や情景を真摯(しんし)に書き止めようとしたものである。その好例としての「偶詩」という作品は、題そのものが作者の心境をある物に仮託して述べていることを示しているが、それだけに戦場における蓮田の心境が最も如実に表現されている。
独りねておのれと見れば
ともしびにわが身を照らし
いのちなるかも
足かげを壁にうつして
虫けらの蟲の音をきく
この詩からは、真夜中、「虫けらの蟲の音」に耳をすまして聞き入っている蓮田の姿と彼の憧憬した〈みやび〉な中世歌人の面影とが二重写しのように浮かび上がってくるが、単なる〈みやび〉やかな観照的な態度とは違い、そのかそけき〈蟲の音〉に呼び覚まされた〈わが身〉ひとりの「いのち」の規則正しい鼓動の尊さをこよなく慈しむ蓮田の心情が強く表現されている。つまりこれは、静かに息づく「いのち」に対する秘やかな自覚というよりも、昼間の戦闘のあいだに研ぎ澄まされて先鋭になった「死」に対時(たいじ)される「生」=「いのち」に対しての強烈な自覚なのである。けだし、一時の猶予もない「いのち」に対するこの強烈な自覚を抜きにしては、不眠に悩む蓮田の眠れないまま意識せざるを得ない絶対の孤独感を読み取ることができないし、例えば夜闇に光る「夜光時計」や夜更けに鳴く「こほろぎ」、さらに暁にみる「病院にて」の蝋燭(ろうそく)の跡などに寄せる蓮田の繊細できめ細やかな愛着心の表れを理解することもできないだろう。このように眺めてくると、第一次応召時に書かれた『陣中日記』『陣中詩集』の両作品は、「戦死」こそ「芸術」だと覚悟したものの〈末期の眼〉を通してみた「陣中」∥戦場のルポルタージュであったのである。またそれだけに、「蓮田の直身により直接的であつた」(清水文雄『陣中日記.・をらびうた』解説)といわれるように蓮田の作品にかける意気込みも強かったといわなければならない。ちなみに、作家が〈末期の眼〉を文章活動の原点に据えようとする態度は、何も蓮田に限られたことではなく、首藤基澄先生によると、福永武彦が「死者の眼」という言葉で問題にしていることに触れて、「川端康成は『末期の眼』を問題にし、誰よりも堀辰雄が多くを語っている」(「福永武彦の世界」審美社)とし、文学史的には芸術派と呼ばれる作家の系譜に多く見られる姿勢であるということである。とすると、蓮田もまた、端的に云って芸術派作家の系譜に位置しえるといえまいか。蓮田はその意味において、生そのものを彫り刻むように戦時下の精神《たましひ》(註6)の問題を剔出(てきしゆつ)しようとした文学者であって、世にいう好戦的なアジテーターとしてたやすく裁断できない作家としての文学的生命を持っていると思われる。
三 結びに
しかし、蓮田善明の評論家としての文学的生命は日本の敗戦とともに終ったといえる。なぜなら、蓮田が十五年戦争にみていたものは、いわゆる「死ぬことが今日の自分の文化だ」という精神風景であって、自己の信じる文学理念の実現をそこに見出していたからである。戦争が終結したときに蓮田が念願していた〈死もて文化を書く〉機会も消滅したわけであり、その時点で蓮田の評論家としての文学的生命も終結したわけである。従って、敗戦後の生きながらえた生など考えられず、自己の文学的生命の終焉を予感しながら、敗戦によって失われた〈死をもて文化を書く〉機会をいずれどのようなかたちでも手に入れなくてはならなかった。それが敗戦から四日後の自決である。蓮田が上官を死の道づれにした問題は、相手が〈奸賊〉でありさえすればよく、「奸賊を斬り皇国日本の捨石になる」ことがすなわち〈死をもて文化を書く〉という思想の実践に他ならなかった。そこに思想家として自らの思想に殉じた蓮田の一貫した姿がある。これはしかし、戦時中の右翼イデオローグが辿ったファナティシズムの当然の帰結だと簡単に片づけてしまえるものではない。日本浪曼派の人々にあった必ずしも言行一致を伴わない大言壮語のこだまの中にあって、真に「死ぬ」ことの意義を訴えて実践したことは結果がどうあれ、文学者の非転向の問題を投げかけているからである。何ものかのために殉じるということは、昭和期のマルクス主義思想への殉教とそれからの離脱・転向の歴史的な経過を通して、「殉教の精神にもし価値があるなら、殉教対象がキリスト教であろうとユダヤ教であろうと神道であろうと、その心情的価値は変りはない」(「散華」)という作家高橋和巳の問題提起となって現在に至っていることを記して置くのも無意味ではなかろう。
註1 『本居宣長』執筆の感想に「憤りつつ『からごころ』をはらふことを言挙げした」(「文芸文化」昭18・3月号後記)とある。
2 第二次応召に赴く蓮田は、大阪駅で伊東静雄と別れる際に「前に戦場の経験ある上に、学徒出陣で自分は前よりも一層軍隊生活に期待と楽しみがある」といったという(「伊東静雄日記」昭18.・10・26)。
3 渡辺京二氏の『熊本県人』(人物往来社、昭48・6)や『神風連とその時代』(葦書房、昭52・8)によれば、肥後の勤皇思想家林桜園は、圧倒的な軍事力を背景とした欧米諸国の異種文化にさらされている日本が焦土化を恐れずに戦争を起こせばその灰燼の中から新しい国民の精神が誕生するという考えを持っていたとされるが、蓮田の思想との類似性が認められる。そこで、神風連の思想的な導師である林桜園、神風連の遺子石原醜男に教化を受けた蓮田善明(「神風連のこころ」『文芸文化』昭17・11月号)、小説『奔馬』で神風連を取り扱った三島由紀夫の三者とは神風連を媒介とした関係が成り立つが、詳しくは拙論「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」(『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編・審美社、1966。3)に譲りたい。。
4 橋川文三が『日本浪曼派批判序説』(未来社、昭40・4)の中で、自己の浪曼派的体験を「私たちの感じとった日本浪曼派は、まさに『私たちは死なねばならぬ!』という以外のものではなかった」と語気強く述べていることに、そのことが端的に表現されている。
5 蓮田の文学を決意の文学とでも言い換えることができるほど意志的な姿勢をあらわす言葉が頻出する。それはまさに総力戦下の特異さの反映に他ならない。
6 蓮田が意を払った内面の世界とは要するに「やまとたましひ」という日本人としてのアイデンティテーをいかに確立するかであって、古典研究もまた、「『やまとたましひをかたむける』上に何としても神ながらの古伝のこころことばを振るひおこし言霊のさきはひをさながらに招ぎ致すベき」(註1前掲書)ことに重点が置かれた。
〔参考文献〕
「陣中日記・をらびうた」(古川書房、昭51・7)
「蓮田善明全集 全一巻」(島津書房、平成元年四月)
小高根二郎『蓮田善明とその死』(筑摩書房、昭45・3。のちに改刊島津書房、昭54・8)   
本稿は、右文献に多くの示唆を得た。ここに謝す。

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