【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

Haiku Column 「今月の秀句」❶

2017年03月22日 00時41分23秒 | 月刊誌「くまがわ春秋」
『くまがわ春秋』3月号!

〜俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」①〜

『くまがわ春秋』(2017年3月発行)に俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」の連載を開始しました。


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今月の秀句
Selected Haiku of this Month

世界に二行書きによる〈切れ〉と〈取り合わせ〉を取り入れたHaikuを提案する
We would like to propose Two-Line Haiku ,the combination of KIRE and TORIAWASE

永田満徳選評・向瀬美音訳
Selected and Commented by Mitsunori NAGATA/Translated by Mine MUKOSE


BIKKO(ビコ)

Thé à la menthe
sur l'eau la pleine lune à peine voilée
ミントティー
その上に飛びそうな満月


Marie Jeanne(マリージャンヌ)

sur ses mains la cartographie du temps
passe une hirondelle
手の中に時間の地図
燕来る


Benoit Robail(ブノワ)

Tiré de la terre un premier pissenlit
le printemps s'en vient
土に引っ張られて最初のタンポポ
春が来た
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第18号【三島由紀夫③】(三島由紀夫の誕生・直筆原稿)(蓮田善明)(花ざかりの森)

2017年03月14日 13時57分35秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2017年3月15日発行

《はじめての三島由紀夫③》
三島由紀夫のペンネームの誕生
                  永田 満徳

   一 三島由紀夫の筆名、ペンネーム

 三島由紀夫の「花ざかりの森」などの初期四作品の原稿が見つかった。長らく所在が掴めなかったものである。所有していたのは蓮田善明の長男、晶一氏、今は、くまもと文学・歴史館に寄贈されている。
 特に注目すべきは、「花ざかりの森」の署名である。本名の「平岡公威」と書いた後、二本の線で消して、「三島由紀夫」と書き直している。ちなみに、三島由紀夫の本名は平岡公威。一六歳の時から「三島由紀夫」という筆名、つまりペンネームを使っていたことになる。
 植木(現・北区植木町)の蓮田善明夫人敏子さん宅に蓮田善明のことを取材するために再三訪れた折に、敏子未亡人から直接三島由紀夫というペンネームは、「文芸文化」の同人たちが集合していた蓮田善明宅で決ったということを聞いていた。三島由紀夫と知り合いであり、蓮田善明のことを詳しく知りたいと言っていたことから蓮田敏子さん宅に案内した福島次郎は、すでに『剣と寒紅 三島由紀夫』(文藝春秋、1998.03)で、その折のことを「私が、座敷にお茶を持っていった、恰度その時、主人が、じゃ、三島由紀夫に決定しますが、みんな異存はありませんかと言い、賛成の拍手がおきておりました」と書いている。蓮田敏子さんは蓮田善明による「三島由紀夫」のペンネーム決定の場面を語っているのである。
私は私なりに、いずれ公に発表してみたいと考えていた。しかし、公にするには確証が持てないでいた。そこに、「花ざかりの森」の原稿の発見である。蓮田敏子さんの話と今回見つかった「花ざかりの森」の署名の跡とを総合して考えると、「三島由紀夫」のペンネーム誕生の瞬間を鮮やかに復元できる。
清水文雄の証言では、三島由紀夫はペンネームで発表することに難色を示していたということである、そのことから、「花ざかりの森」を「平岡公威」と署名したまま持参したと思われる。しかし、蓮田敏子さんの証言にあるように、蓮田善明が「三島由紀夫」に決定した後に、三島由紀夫はその場で、「花ざかりの森」の表紙に「三島由紀夫」と署名したのである。「平岡公威」から「三島由紀夫」への書き直しは、文筆家として「三島由紀夫」が誕生した瞬間を物語っている。蓮田善明が「三島由紀夫」という筆名、ペンネームの誕生に決定的に関わっていることは重要である。
ただ、「三島由紀夫」というペンネームそのものについては、由紀夫自身、「『文芸文化』のころ」と題する文章で「三島由紀夫という筆名は、学生の身で校外の雑誌に名前を出すことを憚って、清水教授と相談して、この連載が決ったときに作った」と述べていて、学習院中等科時代の恩師、清水文雄(五木村出身)が名付けたとされている。歌人「伊藤左千夫」の名前からヒントを得たとも、静岡県の地名である「三島」を用いたとも、電話帳からいい加減に選んだとも言われている。

   二 「花ざかりの森」と蓮田善明

 「花ざかりの森」は「文芸文化」に昭和十六年九月から十二月に掲載された。三島自身が「私はもはや愛さない」と全否定する作品であるが、一族の記憶が時を超えて共有される内容で、「追憶は『現在』のもっとも清純な証なのだ」という箇所に現実に手触りを感じない三島の性向がみられ、「生がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととりあわせに」という終わりの部分に三島の遺作となった四部作『豊饒の海』のラストを思わせるような終り方となっているという見方もある。「花ざかりの森」は処女作にその作家のすべてがあると言えなくもない作品である。
「花ざかりの森」と言えば、蓮田善明が「文芸文化」の「後記」(昭和十六年九月号)で、「『花ざかりの森』の作者は全くの年少者である」と紹介し、「この年少者の作者は、併し悠久の日本の歴史の請し子である」と持ち上げ、「全く我々の中から生まれたものであることを直ぐ覚った」とこれ以上ないほどの措辞で激賞している作品である。この文章は蓮田善明の名伯楽ぶりを示した点で特出される。
「『花ざかりの森』のころ」には「花ざかりの森」のささやかな出版記念会を灯火管制下に行っていることが書かれている。「先輩知友にはげまされた一夕の思い出があまり美しいから、私にはその後、あらゆる出版記念会はこれに比べればニセモノだと思われ、私のために催してくれるという会を一切固辞して、今日に及んでいるくらいである」と述べ、「集った客はみな、当夜そこにいるべき重要な客のいないことを残念がった。それは「文芸文化」の指導者ともいうべき蓮田善明氏である。この本の上梓をどんなにか喜んでくれたにちがいない」とまで言って、出征した蓮田善明の不在を惜しんでいる。三島由紀夫にとって、それほど「花ざかりの森」と「蓮田善明」とは深い繋がりがあるのである。

  三 みやびが敵を撃つ

 ところで、三島由紀夫が「花ざかりの森」の推挽に対する蓮田善明への恩義よりも深い繋がりを感じさせるものは古典に対する三島由紀夫の考えである。「『文芸文化』のころ』という文章の中で、蓮田善明の「文芸文化」第十六巻第十一号(昭和十八年十一月号)の「心ある言」を引用して、古典における「『みやび』それ自身が夷俗をうつ心であるから、『みやびある』というのがすなわち『こころあり』ということになり」と「みやび」が「夷俗をうつ」という蓮田善明の「みやび」論に理解を示して、三島の「大衆憎悪の念」はこの蓮田善明の「みやび」の教説に負うていると述べている。
そもそも、蓮田善明の無二の親友でもある清水文雄は蓮田善明が「みやびが敵を撃つ」と口にしていたことを明らかにしている。三島由紀夫は小高根二郎著『蓮田善明とその死』の「序」(筑摩書房、1970年3月。島津書房、1979年8月)で、蓮田の享年に近づくにつれて、蓮田の怒りの対象が「日本の知識人」であり、「最大の『内部の敵』に対する怒りだった」として、三島由紀夫自身が「蓮田氏の怒りは私のものになった」と言い切っている。三島はみやびの〈敵〉を「日本近代知識人の性格」に帰している。「突然啓示のように私の久しい迷蒙を照らし出した」とする蓮田の「死」そのものが「みやびが敵を撃つ」ことを実証してみせたと言わんばかりの筆致である。
昭和四十五年七月七日付「サンケイ新聞」夕刊に、このまま行ったら「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」(「私の中の二十五年」)と警世の言葉を述べて、その五ヵ月後に自死した三島由紀夫の根底には蓮田善明の「みやび」論が関わっているとみるのは私だけであろうか。
このように、「みやびが敵を撃つ」という蓮田善明の「みやび」論が「文芸文化」や「花ざかりの森」の懐旧の中から紡ぎ出されていることから、蓮田の「みやび」論がいかに三島由紀夫の脳裏に焼き付いていたかが理解できる。若き日の三島と蓮田との繋がりはこの「花ざかりの森」とそのペンネームの誕生だけにとどまらず、文学に対する考え方、処世に対する構えの源泉になっていることを指摘しなければならない。

   四 「みやび」論

 三島由紀夫が古今集の「力をも入れずして天地を動かし」の序文の言葉について、「今、私は、自分の帰ってゆくところは古今集しかないような気がしている。その『みやび』の裡に、文学固有のもっとも無力なものを要素として力があり」と述べている「みやび」の言説は決して政治的ではなく、むしろ反政治的である。戦前は行動の有効性、戦後は言葉の有効性を絶対化した点で全く同じで、古今集は「言葉の有効性には何ら関わらない別次元の志を述べていた」として、「古今集のとりこ」になっていることを告白している。
この三島由紀夫の古今集回帰を表明している「古今集と新古今和歌集」が昭和四十二年三月で、「『花ざかりの森』のころ」「『文芸文化』のころ」の文章も、昭和四十三年一月が初出である。この時期から政治的言動とともに、蓮田善明に対する言及が増えてくる。例えば、小高根二郎の雑誌『果樹園』に昭和三十四年から昭和四十三年まで断続連載された「蓮田善明とその死」によって、三島由紀夫の中に蓮田善明が再復活してくるが、その読後感を小高根に寄せて、三島は蓮田との「結縁」を確認している。三島の死の直前、文芸評論家で親友の村松剛に「蓮田善明は俺に日本の後を頼むと言って出征したんだ」(『三島由紀夫の世界』)としんみりとした口調で言っている。
 蓮田善明が関わる「文芸文化」や「花ざかりの森」に関する三島由紀夫の文章が蓮田善明の再復活と無関係ではなく、蓮田善明の「みやびが敵を撃つ」という「みやび」論と古今集への斟酌とが晩年の三島由紀夫の脳裏に分かちがたく結びついているのである。そういう中で、何より大切なのは、蓮田善明は「みやびが敵を撃つ」という内実を詳しく語らず逝ってしまったが、三島由紀夫の「みやび」論にしかと継承発展されているということである。そういう意味でも、三島由紀夫と蓮田善明との「結縁」が想像以上に深いものがある。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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