NPO法人 くまもと文化振興会
2015年9月15日発行
はじめての中村汀女
~肥後の猛婦の反骨精神~
永田満徳
初めに
中村汀女は昭和十九(一九四四)年二月に『汀女句集』を出版している。この句集は第一句『春雪』(昭15・3)の全ての俳句を取り込んでいるため、実質的には第一句集ともいうべきものである。次の昭和二十三年三有社出版の句集『花影』と併せた初期の二つの句集には汀女俳句として愛唱されている句がほとんど含まれている、この時期の俳句によって、世に汀女の名声を確立されたと言っても過言ではない。
汀女は明治三十三(一九〇〇)年四月、飽託郡江津村(現熊本市中央区画図町上江津)生まれ。画図小学校、大正五年には熊本県立高等女学校(現第一高等学校)卒業後母の厳しい躾(しつけ)のもとで裁縫、家事を習った。生花を指導した山崎貞嗣に贈られた斎号「瞭雲斎花汀女」の「汀女」を俳号とする。
一 熊本俳句史に於ける汀女
正岡子規が唱えた新派俳句を熊本にもたらしたのは漱石であった。明治三十一年春、五高学生らが内坪井の漱石宅で、念願の運座を開くに至る。この座は「紫溟吟社」と命名される。翌三十二年秋、「紫溟吟社」は五高外からも一般人が加入してきて、会はますます活況を呈することになる。池松迂巷の尽力で、九州日日新聞社(現熊本日日新聞)の紙上に翌年一月から「紫溟吟社詠」が発表されるようになり、漱石の周辺を越えて、新派俳句が広く知れ渡ることとなった。漱石離熊の翌三四年、紫溟吟社は機関誌「銀杏」を創刊し、活動は軌道に乗るが、会員の卒業や転任、戦争への出征等で、翌三五年五月に「銀杏」は休刊する。しかし、紫溟吟社の精神は、後に九州四天王の一人に数えられた井上微笑が精力的に発行した「白扇会報」に引き継がれることになる。「白扇会報」終刊後、微笑の才能を惜しんだ友人の斡旋で、九州日日新聞の「熊本会俳壇」の選者になったが、大正二年には熊本俳壇の重鎮となる広瀬楚雨に譲ることになる。広瀬楚雨は「紫溟吟社」に加わった一般人の一人である。大正七年はその広瀬楚雨も熊本を離れることになり、新選者になったのが三浦十八(じゅうはち)公(こう)であり、二十九歳の若さであった。大正十八年になると、常連の投句者が出揃い、その中に中村汀女がいた。この俳壇の特色は有季定型俳句を重んじて、新傾向俳句いわゆる自由律俳句を排斥していることである。汀女は初心者ゆえにその影響を受けて、有季定型を逸脱することのない俳句を作っている。夏目漱石が種を蒔(ま)いた新派俳句有季定型の世界で開花した俳人ということになる。
中村汀女は熊本の俳句史のなかで育てられ、育った俳人であったと言わなければならない。
二 二人の師との巡り合い
汀女一八歳である大正七年のある日、前庭の垣根に生えている寒菊を見て、「我に返り見直す隅に寒菊赤し」という句が浮かび、俳句とはこんなものかと俳句に目覚めて、父の愛読していた「九州日日新聞」の俳句欄に投句してみると、選者三浦十八公の目に留まることとなる。その十八公から大変お誉めの手紙を貰い、それを契機に俳句を作る気になるのである。ここで注目したいのは汀女に対する十八公の慧眼(けいがん)である。十八公無くして汀女無しという感が強く、汀女は名伯楽に出会ったということである。大正八・九年が「九州日日新聞」の俳句欄が最盛期であったことも幸いしている。翌大正八年には十八公の勧誘によって『ホトトギス』に投句してみたところ、一句でも入選すると大喜びした時代で、いきなり初投句で四句入選するという早熟の才を示すこととなる。
税務監督局の夫の転勤に伴って俳句から遠ざかっていた三十二歳の汀女が昭和七年に杉田久女が発行した個人俳誌『花衣』に投句を再開することになり、約十年ぶりに作句への意欲が沸き起こる。昭和七年には『ホトトギス』発行所にいた高浜虚子を訪れ、ついでに虚子の次女である星野立子を知ることとなる。この二人はのちに「ホトトギス」派女流の双璧と呼ばれることとなる。汀女は高浜虚子によって、当時珍しかった「女流の俳句」(虚子)の作り手として育てられ、「男性を凌ぐ」(虚子)位置を与えられることになる。
中村汀女は俳人としての出発点を熊本の俳壇の隆盛期に出会い、熊本を離れては中央俳壇の大御所高浜虚子の恩恵に浴するという幸運に恵まれたことになる。
三 汀女俳句の特色
ここでは、初期の『汀女句集』と『花影』を主に取り上げて、句風の特色に触れてみたい。『汀女句集』は第一句集『春雪』を含み、最終稿を除くと第一章が最も句数が多い。その章の題名が〈湖畔抄江津〉となっていて、「江津湖畔に私の句想はいつも馳せてゆく」(『汀女句集』序文)に端的に表される江津湖及び湖畔の村での生活を詠んでいる。
政争の激しかった「江図」の村長斉藤平四郎の一人娘であって、その雰囲気を肌で感じる環境であったにも拘(かかわ)らず、政治或いは世事を離れて、日常を見たまま感じたままを表現する素直な表現はともすれば陳腐で月並みな俳句に堕することになる。例えば、
身かはせば色変る鯉や秋の水
という句以外は俳句として今一歩という点が少なくない。
初期において既に現れていて、のちに「「私の句法」(昭43)を語った「心にあふれ、そのまま消し去るにしのびないもの( 注)を十七字にする」ことを信条とする態度は俳句を再開し始めた昭和七年以降に一気に才能を発揮させることになる。『汀女句集』では、汀女の代表句として名高い、
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな(昭7)
を始めてとして、
たんぽぽや日はいつまでも大空に(昭9)
稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ(昭9)
中空にとまらんとする落花かな(昭十)
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな(昭十)
ゆで玉子むけばかがやく花曇(昭11)
などがある。吾子俳句として有名な句では、
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る(昭11)
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや(昭12)
などもこの時期である。『花影』では次の句も汀女の代表句の一つである。、
外(と)にも出よ触るるばかりに春の月(昭21)
汀女の名句は偶発的に突発的にできた訳ではない。家庭に入れば、良妻賢母としての立場を弁(わきま)え、主婦という「ひとりの女の明け暮れ」(「汀女自画像」)を技巧に走ることなく、心に動かされた(注)ものを平易に描いたところに生まれた事実を忘れてはならない。
終わりに
汀女が家庭内の事柄を読むことに対して「台所俳句」と男性俳人から揶揄(やゆ)されたことは承知のことである。汀女はその「台所俳句」という呼称を逆手にとって、「女性の職場ともいえるのは、家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がどうしていけないか」(「汀女自画像」)と一蹴していて、肥後の猛婦の一面を覗(のぞ)かせている。この汀女の反骨精神ともいうべき宣言が男性上位の俳句界に一石を投じることになり、俳句の素材の範囲を拡大させることになった。
身近に作句の材料があることを示してくれた功績は計り知れないものがある。
注 「俳句をたのしく|作句と鑑賞」(昭和43年)には作句の心構えと要領として「作り事は避ける」「技巧に走らぬこと」「誇張はしないこと」を説いている。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)