【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第2号【三島由紀夫】―三島由紀夫と熊本 (蓮田善明)(神風連)

2013年05月31日 07時31分42秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2013年3月15日発行

《はじめての三島由紀夫》
                           
三島由紀夫と〈熊本〉
~熊本は第二のふるさと~
                        
永田満徳

 三島由紀夫の人生で最も重要な青少年期と晩年において、「熊本」がどんなに大きな存在であったかが明らかになってきている。特に晩年、「第二のふるさと」として「熊本」を位置づけしていたことは注目に値する。

  一 三島由紀夫の青少年期の「熊本」との接点

 三島由紀夫(本名・平岡公威)の青少年期でまず挙げなければならないのは、東文彦である。彼は三島より五歳年上で、学習院校友会雑誌『輔仁会雑誌』にともに寄稿し、年長者という立場もあって、三島作品のよき理解者であり、相談者であった。三島の父は当時の官僚の常として実用の学門しか認めなかったため、三島の文学活動を厳しく禁止していた。それに対して、東の父季彦は文彦が発行、編集を担当し、三島の文学活動の拠点であった同人雑誌『赤絵』の資金援助するほどであった。三島はそこでは水を得た魚のように、その雑誌の連絡係となって動いている。父の反対に会い、苦境にあえいでいた三島の才能を育んでくれたのは東季彦であったといっても過言ではない。季彦の妻、文彦の母菊枝は実は熊本市の本山出身で、手記「城下の人」の著者石光真清の次女である。詳しくは阿部誠氏の『東文彦 祖父石光真清からの系譜』(太陽書房、2005年)の記述に譲るとするが、文彦は祖父にあたる真清の、昭和十八年七月出版された「城下の人」の表紙と口絵を描いている。この「城下の人」は、『赤絵』の発行と同時進行中の、東家挙げての出版であったので、三島はその本の話題を聞き、目にしていた可能性が強い。真清は「城下の人」の中で神風連を好意的に描いている。三島が後に「神風連」を扱うきっかけになったと思うのはあながち穿った見方とはいえない。
次に、言うまでもなく、終生の恩師で、「私のよき師であった」(「師弟」)清水文雄である。清水は父が銅山技師であったため、熊本の五木村で生まれている。学習院中等科の時、三島はこの清水先生のクラスの生徒となり、国文法と作文を教わる。その清水が一日置きの舎監になるや、三島は頻繁に訪ねて、古典文学に目を開かれていく。そして、清水は三島の初期の代表作「花ざかりの森」に深く感銘し、国文学雑誌『文芸文化』掲載を同人に推奨した結果、全員一致で掲載が決まる。
 その『文芸文化』の編集兼名義人であったのが熊本の植木町出身の蓮田善明である。蓮田は「花ざかりの森」に注目し、三島由紀夫のことを「われわれ自身の年少者」「悠久な日本の歴史の申し子」であると、『文芸文化』編集後記で最大限に賛美し、文壇デビューを後押ししている。蓮田が自分の家で「三島由紀夫」と書いた紙を広げて、『文芸文化』同人に確認しているのを目撃したと蓮田敏子夫人が証言しているように、三島のペンネームにも深く関わっている。蓮田はノーベル賞候補に再三取り沙汰された三島由紀夫の誕生に多大な貢献をしていると言わなければならない。

  二 三島由紀夫の晩年の「熊本」との接点

 三島由紀夫の晩年では、何よりも明治九年に熊本で決起された「神風連の変」の思想、事跡の影響である。四部作『豊饒の海』の第二部、傑作との評価がある「奔馬」を一口で言えば、〈神風連史話〉に傾倒する主人公飯沼勲が昭和の神風連を標榜しながら昭和維新を企て、その挫折ののちに海に臨んで割腹自殺をする物語である。三島の「神風連」思想そのものが描かれているといっても間違いない。自衛隊市ヶ谷駐屯地で起こした事件、三島の自決は「神風連」、あるいは「奔馬」をなぞったものであるという評論家がいるくらいである。「奔馬」取材に協力した神風連研究家荒木精之宛ての手紙に「神風連は小生の精神史に一つの変革を齎した」と言い、昭和四十二年元旦の「年頭の迷い」(「読売新聞」)では、神風連の変の副頭領、四十二歳で戦死した加屋霽堅を取り上げ、「自分も英雄たる最終年齢に間に合う」と述べている。
 忘れてならないのは、小高根二郎著『蓮田善明とその死』(筑摩書房、昭54)によって、晩年の三島由紀夫において蓮田善明が再復活することである。蓮田善明は昭和二十年終戦直後、憂国の情によって自決している。昭和四十年から四十三年にかけて連載された『蓮田善明とその死』の読後感を小高根に寄せているが、そこで、三島はしかと蓮田との「血縁」を確認している。三島の死の直前、文芸評論家で親友の村松剛に「蓮田善明は俺に日本の後を頼むと言って出征したんだ」(『三島由紀夫の世界』)としんみりとした口調で言っている。
ところで、東京生まれの東京育ちの三島がどうして神風連の存在を知り、興味を持ったのかは誰しも疑問を持つところである。「城下の人」の存在以外にもう一つ考えられる。昭和十七年の『文芸文化』を見ると、下の段に「神風連のこころ」という蓮田の文章があり、これは書評というよりむしろ蓮田なりの神風連観を披歴した感がある。同じ頁の上の段に、三島は平岡公威の署名で、「伊勢物語のこと」と題する文章を寄稿している。従って、三島は当然、蓮田の文章を読んでいるはずである。そう思うのは、三島が熊本での神風連取材を前にして林房雄との対談『対話 日本人論』(番町書房・昭 41・10) で語っている三島の神風連理解と蓮田の神風連理解とが非常に似通っているからである。『蓮田善明とその死』によって、蓮田の生き様をまざまざと知らされた三島は改めて蓮田の「神風連のこころ」の内容を思い起こしたに違いない。このように、蓮田と神風連とが結び付き、想起されてきたと考えるのは自然であろう。

  三 三島由紀夫と「熊本」

 昭和四十一年八月二十七日から三十一日にかけた「奔馬」取材に全行程同行した三島の友人福島次郎は『剣と寒紅 三島由紀夫』の中で、三島由紀夫が熊本城の天守閣の四方の窓から遠望しながら、蓮田善明、清水文雄、神風連、それに福島次郎のいずれもが熊本出身、所縁であることを指摘して、「何もかもが熊本に関連しているみたいで||何の因縁かなあって気がしたよ。熊本は、ぼくの第二のふるさとになりそうだ」と話したことを書いている。そういう意味でも、荒木精之宛ての手紙で、熊本は「心のふるさと」「日本人としての故郷」であると認めている「奔馬」取材の礼状が単なる礼状でないことは明らかで、三島由紀夫の本音を吐露しているといっていい。
                           (ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)



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第1号【夏目漱石】 夏目漱石と熊本

2013年05月31日 06時51分54秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2012年12月15日発行

《はじめての夏目漱石》

熊本で文学の基礎をきずく

永田満徳
                      
   第五高等学校教授
 熊本時代は明治二九年四月、漱石二十九歳から約四年三ヶ月間である。しかし、五高教授の肩書きのまま英国留学、明治三十六年三月に辞職しているので、五高教授としての任期の期間は七年間に及ぶ。人生の壮年期、充実期のほとんどを熊本と関わっていたことは注目していい。
漱石の五高赴任は文部省の日本人教師化策の一つであった。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という外国人お雇い教師の後任としての特別任務と、月百円の高給取りとしての特別待遇を受けての赴任であった。
授業は厳格で、テキスト一冊全部やり終えるので進度が速く、今日重視されている実用英語にも理解があり、入試問題に導入する見識を持っていた。よんどころない理由がない限り、欠勤はせず、週二十四時間の授業を受け持つほかに、明治二十九年九月からは生徒の要望に応えて午前七時より課外講義を行っている。漕艇部の二代目部長にも就任している。福岡・佐賀の中学校の視察を命ぜられ、佐賀県尋常中学校では急遽校長に講演を請われ、高等学校の教授の立場で中学生に語りかけている。この学校視察などは「視学官」的な役割を担っていたと思われる。第七回目の開校紀念式では職員総代として祝詞を読んでいることや、校務においては管理職の職務に属する人事異動に深く関わり、不適格教師の追放に関与するなど、教師陣の強化に心を砕いている。明治三三年四月には教頭心得になっていることからもえるように、五高職員のなかで中枢の立場に立っていたといえる。
このように、夏目漱石は教育行政側の期待に応えるべく、第五高等学校の発展に尽力し、ひいては明治期の学制の確立に貢献した教育者、教育官僚であった。
紫溟吟社
熊本時代、多くの俳句を作り、夏目漱石俳句全体の四割、つまり千句余りである。正岡子規が唱えた新派俳句を熊本にもたらしたのは漱石であった。
明治三十一年春、五高学生の蒲生紫川 (栄)と厨川千江 (肇)が俳句に興味を持ち、井川淵の漱石家を訪ねたことが事の発端である。特に千江の俳句熱は旺盛で、同じ五高生の白仁白楊(後の坂元)、寺田寅日子(寅彦)ら十一人を誘い、十月二日、井川淵から越した内坪井の漱石宅で、念願の運座を開くに至る。この座は「紫溟吟社」と命名される。翌三十二年秋、「紫溟吟社」は五高外からも池松、渋川らが加入してきて、会はますます活況を呈することになる。迂巷の尽力で、九州日日新聞社の紙上に翌年一月から「紫溟吟社詠」が発表されるようになり、漱石の周辺を越えて、新派俳句が広く知れ渡ることとなった。
漱石離熊の翌三四年、紫溟吟社は機関誌「銀杏」を創刊し、活動は軌道に乗るが、会員の卒業や転任、戦争への出征等で、翌三五年五月に「銀杏」は休刊する。しかし、紫溟吟社の精神は、後に九州四天王の一人に数えられた井上微笑が精力的に発行した「白扇会報」に引き継がれた。
   転居
引っ越しの回数の多さも有名である。明治二十九年はまず親友でもある菅虎雄の家(薬園町)に身を寄せた。光琳寺(現下通町)の家で結婚して、合羽町(現坪井町)と居を移し、明治三十年には大江村の家(現熊本市新屋敷、水前寺公園裏手に移築)、明治三十一年には井川渕町の家、内坪井の家(現夏目漱石内坪井旧居)と転居を続けている。さらには明治三十三年北千反畑町の家(現存北千反畑町)へと越している。住環境が悪い(光琳寺)、家の造作が悪く、家賃が高い(合羽町)、家主の都合(大江村)、鏡子夫人の白川投身事件(井川渕)など、引っ越さざるを得ない事情もあったようである。
   朝日新聞社記者
東京帝大や一高で教鞭をとりながら執筆した『吾が輩は猫である』や『坊っちゃん』は大好評を博した。「朝日」にしても、「読売」にしても、文芸面での紙面の強化、充実のためには、一躍流行作家となった夏目漱石はのどから手が出るほど欲しい人材であった。
「朝日」で最初にアプローチしたのは熊本出身の大阪朝日新聞社の鳥居である。『草枕』に感動し、早速漱石に手紙を書き、随筆を依頼する。多忙を理由に断られるが、すでに社内工作で新進作家漱石を認知させていた。これが布石となって、明治四〇年二月、同じく熊本出身の東京朝日新聞社の主筆であった池辺三山が漱石招聘に動き出す。五高時代の教え子である坂元雪鳥を使者にして接触を始め、好感触を得るや、漱石の希望を全面的に容れて、即座に条件を詰めた。「読売」よりはるかに理想的な条件を提示され、漱石は執筆に専念するべく、朝日新聞入社を決意する。この知らせを待っていた東京朝日社会部長の、熊本時代の俳句仲間であった渋川耳玄が大変喜んだという。こうして、朝日新聞社記者となって書いた漱石の小説は、ほぼすべてが朝日新聞紙上において独占発表されることになった。
漱石の朝日新聞社入社に際して、熊本ゆかりの人物が深く関わっていたことは忘れてはいけない。
  『草枕』
『草枕』は明治三十九年九月、「新小説」に発表された。同僚の山川信次郎の案内で、明治三十年十二月の末に小天(現天水町)の前田案山子邸(現前田家別邸)を訪れた経験が元になっている。那美のモデルは案山子の長女で、奔放不軌な性格であったという。
「山路を登りながら、かう考へた」に始まる冒頭部分や、「おい、と声を掛けたが返事がない」の峠の茶屋の場面など、よく知られた名文句がある。取り立てて筋のない小説であるが、「一画工がたまたま一美人にして」、「画工が、或は前から、或は後ろから、或は左から、或は右からと、様々な方面から観察する」(「余が草枕」)ところに、一応の流れを見ることができる。
謎めいたセリフを投げ掛けたり、意想外な現れ方、立ち去り方をしたりして、画工を翻弄する那古井の志保田の嬢様である那美がヒロインである。その那美の才色、機峰に魅力を感じないものはいない。五章の滑稽な髪結床の親方の場面と八章の高尚ともいうべき観海寺の和尚の場面とは「俗」と「雅」とが取り合わせられて、多彩で、豊かな世界が展開されている。七章の風呂場の場面はむろんのこと、十章の鏡が池の場面も捨てがたい。いよいよ十三章(最終章)の川下り、停車場の場面であるが、画工が那美に「憐れ」を見て取って、画題を完成して終わる。
非人情の美、いわゆる出世間的な詩境探求の旅が「汽車が見える所を現実世界と言ふ」(十三章)という現実世界において、人のこころの働き、つまり「憐れ」を核として完成したというべきであろう。
『二百十日』
『二百十日』は明治三九年十月、「中央公論」に発表された。明治三十二年八月末から九月初めにかけて阿蘇登山を試みた体験が生かされているが、この折も、山川信次郎が同行している。漱石が投宿したのは内牧温泉の養神館(現山王閣)である。
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」という「半熟卵」の受け答えや「ビールはござりませんばってん、ならござります」というビール問答などは有名であるが、田舎の温泉宿の様子が活写されている。圭さんと碌さんの二人の会話体で終始する、どこか落語の掛け合いのような小説である。
その温泉宿で、自称豆腐屋の倅である圭さんは金持ちや華族というものを批判する。翌日の朝から阿蘇山に向かうけれど、途中で道に迷うは、圭さんは穴ぼこに落ちてしまうはで、散々な目に遭う。どうにか碌さんに助け上げられて、宿に帰る。しかし、圭さんはその翌日、帰ろうとする碌さんを説き伏せて、また阿蘇山に登ることを約束させる。「二人の顔の上では二百十日の阿蘇が轟々と百年の不平を限りなき碧空に吐き出して居る」という文章で終わる。
圭さんが再び阿蘇山に登ろうとする箇所に、世俗の憂さを吹き飛ばそうとする生のエネルギーの根源が描かれているとみていい。

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井上微笑①[球磨から近代俳句の興隆に尽力した]

2013年05月31日 02時14分10秒 | 週刊ひとよし
井上微笑は夏目漱石と同じ年、慶応3年(1868)生まれ。34歳の時、紫溟吟社の漱石選に入選する。
明治34年、俳句雑誌「白扇会報」を私費で発行し、最盛時の会員数537名、北は北海道、南は台湾までに及んだ。会員には、夏目漱石、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪などが名を連ねている。
夏目漱石が創設した紫溟吟社の衰退後、紫溟吟社の仕事を引き続き、再び熊本の近代俳句を興隆しようとした。
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『寒祭』自選15句

2013年05月30日 07時07分10秒 | 句集
自薦15句
(レトリックを駆使した句集)
墓場よりをんな出でくる桜かな
こそばゆき地球ならんか潮干狩
山茱萸やほつれほつれの黄なる夢
犀の角この世の春を突いてみよ
蓮の葉や日出づるくにの日を盛りて
あめんぼに雨ならぬ雨ふりだしぬ
原城趾日暮れの蟬の地鳴りとも
いにしへはいまぞと落つる那智の滝
通勤車月の出づれば旅となる
青春は霧より生れて霧に消ゆ
山の気のいきほひに鮎落ちにけり
大いなる御空を背負ひ藺草植う
タクシーに放り込んだる霜夜の身
筋肉はをのこの衣装寒祭
日本てふ平たきものよ餅を食ぶ
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