【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

Haiku Column 「今月の秀句」❼

2017年09月16日 00時59分22秒 | 月刊誌「くまがわ春秋」
『くまがわ『くまがわ春秋』9月号!
〜俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」⑦〜

◆『くまがわ春秋』9月号が発行されました。
◆俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」⑦が掲載されています。
◆この企画によって、二行書きによる「切れ」と「取り合わせ」を取り入れたHaikuを提唱して行きます。
●選句:永田満徳/直訳:向瀬美音

Numero aout de [Kumagawa shunnjuuくまがわ春秋」!
〜Les meilleurs Haikus du mois de Haiku Colum de Haiku Universite〜
◆Le numero de aout de Kumagawa春秋 vient d'etre publie.
◆il contient les meilleurs haikus du mois selectionnes par M. Nagata.
◆Selon ce plan nous allons continuer a publier des haikus en deux lignes avec kire et toriawase.

The september issue of 「Kumagawa shunnjuuくまがわ春秋」!
〜Haiku Colum of Haiku University [Monthly best Haikus]〜
◆the september issue of Kumagawa春秋 has just been published.
◆It contains the best haikus of the month sekected by M. Nagata.
◆according to the plan, we will continue to publish 2 lines haikus with kire and toriawase.
●Selected and Commented by Mitsunori NAGATA/Translated by Mine MUKOSE

今月の秀句【9月】
1.
Nuky Kristijno

the moon in the lake
a still fishing rod waiting for the fish
〔Commentaire de M. Nagata〕
The lake lit by the moon,fishing pole is hanging.Without big game,watching the lake makes us happy and gives us the richness of the mind.
ナッキー

湖の月
釣竿はまだ待っている
〔永田満徳評〕
月光に照らされた湖。釣竿は糸を垂れたまま、釣果がなくても、湖面を眺めているだけで豊かな心持ちになっているのである。
2.
Mohammed Benfare

coucher Atlantique
Les yeux flirtrent avec derniers rayons
〔Commentaire de M. Nagata〕
We see a big sun and the sunset all over the sky on the ocean.Being reluctant to part from the breathtaking sunset,it is well written 「flirtrent」
モハメッドB

大西洋の日没
目は最後の夕日と付き合う
〔永田満徳評〕
大海原に沈む大きな太陽と空一杯の夕焼けが目に浮かぶ。息をのむほどの「日没」を惜しんで、「付き合う」と表現したところがにくい。
3.
Brendon

slow afternoon
The gentle hum of a worker bee
〔Commentaire de M. Nagata〕
In the relaxing afternoon, even the subtle buzz of worker bee is making spring warm weather. This haiku describes the calm and peaceful atmosphere of spring.
ブレンドン

ゆっくりした午後
働き蜂のブンブン言う音
〔永田満徳評〕
ゆったりとした午後の一時。「働き蜂」の羽音さえも、春の陽気を誘うものでしかない。春の駘蕩たる雰囲気をよく描いている。

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第20号【「草枕」②】 夏目漱石『草枕』 

2017年09月15日 11時08分40秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2017年9月15日発行

はじめての夏目漱石『草枕』② 

~非人情に関わる画工神経衰弱説~
                           永田 満徳

一 写生

『草枕』が「俳句的小説」であるゆえんは、「俳句の方法」と対となる形になっていると、「はじめての夏目漱石俳句」(『KUMAMOTO』第13号)で述べている。『草枕』が「俳句の方法」を応用して描かれているかどうかは、畢竟(ひっきょう)、漱石という作家(語り手)が「草枕」をどう描いた(語った)のかということで、その確認作業をすることに他ならない。今回は「写生」という「俳句の方法」で切り込んでみた。
俳句に於ける「俳句の方法」の根本的なものは、正岡子規が「写実(写生)の目的を以(もっ)て天然(自然)の風光を探ること、尤(もっと)も俳句に適せり」「俳句大要」(新聞「日本」、明治28年)と唱えた「写実(写生)」である。西洋画論の「写生」なる言葉を子規に教えたのは洋画家の中村不折である。『草枕』の主人公が俳人ではなくて、画工であるのはここら辺りの事情があるかもしれない。「写生」が意味を持つのは、子規が、明治30(一八九七)年の長編時評「明治二十九年の俳句界」(新聞「日本」)で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。首藤基澄氏の『「仕方がない」日本人』によれば、「人情の美」を切り離して、「自然の美」に焦点を当てているのが『草枕』だということである。
いずれにしても、漱石自身が「余が『草枕』」(明治30年11月)の自作解説「美を生命とする俳句的小説もあってよい」、あるいは森田末松宛書簡(明治39年9月9日)「草枕の主張が第一に感覚的美にある」として、『草枕』が「美」を描いた小説であることを強調している理由がこの「写生」の「美」にあったといってよい。

二 写生と非人情

「写生」をするときに、最も重要になるのは、漱石も「写生文」(明治40年)の中で「余(よ)の尤(もっと)も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である」と述べている「心的状態」、つまり心理的姿勢、簡単に言えば心構えである。

恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だらう。しかし自身が其(その)局に当れば利害の旋風(つむじ)に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩(くら)んで仕舞(しま)ふ。従つてどこに詩があるか自身には解(げ)しかねる。
これがわかる為(た)めには、わかる丈(だけ)の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観(み)て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居(い)る。見たり読んだりする間丈(だけ)は詩人である。
『草枕』[一]

すでに『草枕』の第一章の中で、「余裕のある第三者の地位」という言葉が出てきているにもかかわらず、この言葉に触れることはあっても、特に注目し、取り上げて論じられることはなかった。しかし、首藤基澄氏は俳句実作者ならではの着眼点で、画工の「余裕のある第三者の地位」を「非人情」と同列に扱い、「漱石は人情の美を切り離して『第三者』の立場に置き、『詩境』を味わおうとする」と的確に捉えている。私もまた、子規のいうところの「天然(自然)の風光を探る」際の「写生」の「心的状態」を「『第三者』の立場」に置くことであると思っている。『草枕』で決まって問題視される「非人情」は「第三者」の「心的状態」=心持ちになることで、「不人情」とは似ても非なるものである。それは、『草枕』の中で、「非人情」と「不人情」とが使い分けられていることからもわかる。

  非人情と名づくべきもの、即(すなわ)ち道徳抜きの文学にして、此種の文学には道徳的分子入り込み来る余地なきなり。(中略)由来(ゆらい)東洋の文学には此(この)(非人情的、没道徳的=永田注)趣味深きが如(ごと)く、吾が国俳文学にありて殊(こと)に然(しか)りとす。       
『文学論』

漱石が「非人情」からなる「俳文学」を「道徳抜きの文学」と断言していることと、現代の俳句のノウハウ本がいずれも「自分の思いを述べようとしない」「日頃からもっている感想、意見、信条、思想、そういったものを排除するように心がけてください」(仁平勝)、「できるだけよけいなことを言わない」(復本一郎)と戒めていることとは軌を一にしている。
正岡子規は「明治二十九年の俳句界」の中で、

  俳句は写生写実に偏して殆(ほとん)ど意匠なる者なし

と述べ、また、熊本の俳人池松迂(う)巷(こう)に宛てた書簡には、

家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景を見給へ。実景は自ら句になりて、而(しか)も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其(その)時直(すぐ)に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置(おい)た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の暁(ぎょう)靄(あい)、荒村の末枯(うらがれ)、頽籬(たいり)の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須(すべから)く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨(へいげい)せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其(その)快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。

という一節がある。このように、むしろ、子規の方が「写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし」と言い放ち、迂巷に「実景を見給へ」と「机上詩人」になることに対して警告していることでは徹底している。子規のこの「実景」尊重こそ、対象を「第三者」の立場に置くこと、つまり「非人情」の「心的状態」にすることを直弟子漱石に思い悟らせた原因であろう。
三 非人情

画工は、『草枕』の第一章で、これからの旅の態度として、次のように述べている。

唯(ただ)、物は見様でどうでもなる。(中略)一人の男、一人の女も見様次第で如何様(いかよう)とも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世(うきよ)小路(こうじ)の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時位(くらい)な淡い心持ちにはなれさうなものだ。
[一]

しばらく此(この)旅中に起る出来事と、旅中に出逢(であ)ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。丸(まる)で人情を棄てる訳(わけ)には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序(つい)でに、可成(なるべく)節倹してそこ迄(まで)は漕ぎ付けたいものだ。
[一]

「非人情」とまでいけなくとも、少なくとも「人間」を「見立て」でみようとする。すると、心労が「節約」でき、「淡い心持ち」になれるという。「見立て」は「俳句の方法」の点で言えば、「擬える」ことで、「比喩」である。しかし、『草枕』では「非人情」と同じく、対象との間に一定の距離を置く「心的状態」を表す言葉になる。これは漱石独自の面白い「俳句的な方法」の使用方である。「有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」[一]という文章の「純客観」はもちろん「非人情」のことである。
従って、「非人情」が「第三者」、「純客観」な立場であるならば、「見立て」はより客観的な立場である。こういう立場で、那古井への旅が始まる。
 画工がこれほど「非人情」に拘るのは、

小生は禅を解せず又非人情世界にも住居せず只頻年(ひんねん)人事の煩瑣(はんさ)にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進するのみにて何の所得も無之思ふに世の中には余と同感の人も有之べく此等の人にかゝる境界のある事を教へ又はしばらくでも此裡に逍遥(しょうよう)せしめたらばよからうとの精神から草枕を草し候小生自身すら自分の慰籍(いしゃ)に書きたるものに過ぎず候              
(明治39年8月31日書簡)

とあるように、『草枕』の執筆動機に示された「人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進する」状況が背景にある。
このことから、那古井への旅の動機は画工が神経衰弱を患っていたか、それに近い状況ではなかったかと推測する。

四 画工は神経衰弱である

俳人中村草田男の場合を例にすると、

其(その)後、大学の過程に於(おい)て、激しい神経衰弱を患って、再び休学せざるを得ない仕儀に立ちいたった時に、ふと思いついて俳句文学に携わりはじめたのも、それは、ただ当面の必要上そうせざるを得なかっただけであって、意識的に深い動機に基づいていたわけではない。小説、戯曲類はもとより、短歌の如(ごと)きものを読んでも、そこには必ず人事の諸相が採り上げられているだけに、直(ただ)ちに深く案じいらざるを得ない結果となって、疲労しつつも鋭敏になっている私の神経には刺戟(しげき)が強過ぎ、ひたすらにその重圧が耐え難かった。しかるに、俳句文芸は、殆(ほとん)んど平穏な自然界のみを対象とし、あるいはそれに類似した季節的風俗の外形だけを写しているものが大部分であって、読んでみてもなやまされることなく、鉛筆と手帖とを片手に、「写生」に郊外に出かければ、兎(と)に角(かく)、その間は、草木の間に魂を悠遊(ゆうゆう)させて、人生を直視することからまぬかれ、何よりも無為の時間の遅々として経過しがたい苦痛からのがれることができた。
              『俳句を作る人に』(昭和31年7月)

草田男は「『写生』に郊外に出かけ」、画工は山路を登る。それ以降の草田男と画工の感慨とがそっくりそのまま重なり合う。一々例を挙げても切りがないので省略するが、要は画工の言を借りて言えば、「寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」[一]ということである。それ以上に重要なことは、画工が山路を登る前もまた、草田男と同じ状況であったと思われることである。例えば、「普通の芝居や小説では人情を免かれぬ」「取柄は利(り)慾(よく)が交らぬと云ふ点に存するかも知れぬが、交らぬ丈(だけ)に其(その)他の情緒は常よりは余計に活動する」ので、「それが嫌だ」[一]という画工と、「小説、戯曲類はもとより、短歌」は「人事の諸相が採り上げられている」ので、「ひたすらにその重圧が耐え難かった」という草田男とは非常に似通っていて、画工と草田男の類似性が感じられて面白い。
首藤基澄氏は、

……「草枕」は、「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石が、「仕方がなく」「神経衰弱に罹らない工夫」を張りめぐらせて獲得した癒しの世界だったということになる。「神経衰弱に罹らない」ための「仕方がない」態度、「非人情」による魂の救恤(きゅうじゅつ)だったといい換えてもいい。  
          「漱石の『仕方がない』態度―現代日本の開化」

と、漱石の「現代文明の開化」という講演録の内容を深く検討した結果、「『仕方がない』開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」像を導き出し上で、『草枕』の主題を提出している。
なお、森田草平宛の書簡には、次のような文章がある。

画工は紛々たる俗人情を陋(ろう)とするのである。ことに二十世紀の俗人情を陋(ろう)するのである。否(いな)之を陋(ろう)とするの極俗人情たる芝居すらもいやになつた。あき果てたのである。夫(それ)だから非人情の旅をしてしばらくでも飄浪(ひょうろう)しやうといふのである。たとひ全(まった)く非人情で押し通せなくても尤(もっと)も非人情に近い人情(能を見るときの如(ごと)き)で人間を見やうといふのである。
                 (明治39年9月30日付)

この書簡で、画工が「神経衰弱」を患っているとは一言も言っていない。しかし、重要なのは、画工が那古井への旅の前の精神状態を「俗人情」(「極純人情」とも言っている)として嫌い、「非人情」に親近感を覚えていることである。「俗人情」と「非人情」とを明確に対置している。
首藤基澄氏の結論部分に出てくる「神経衰弱に罹った漱石」の言葉や中村草田男の文章を手掛かりにして考えてみると、この「俗人情」と画工の「神経衰弱に罹った」精神状態とが同義であることは否定しようがない。これほどの精神状態であればこそ、画工が「非人情」を再三つぶやき、「非人情」を堅持しようとするのも、「煦々(くく)たる春日に背中をあぶって、椽側(えんがわ)に花の影と共に寐(ね)ころんで居(い)るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕(お)ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸(いき)もしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間許(ばか)かり暮して見たい」と思うのも無理のないことである。
これらのことから、非人情世界を志向する前提に神経衰弱が存在したとして、画工神経衰弱説を唱えることはあながちこじつけだとは思わない。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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第3回日奈久 de 川柳句会

2017年09月05日 01時29分55秒 | 日奈久 de 川柳句会
日奈久 de 川柳句会!

〜第3回開催〜

【日時】2017年9月23日(土)秋分の日
  10:45受付開始12:00投句締切
  13:00開会 ~16:00閉会
【場所】日奈久ゆめ倉庫(日奈久温泉観光案内所)
熊本県八代市日奈久中町516 TEL 0965-38-0267 
【主催】ららの会 (代表 黒川孤遊)
〈協 賛〉「九月は日奈久で山頭火」実行委員会
熊本県川柳協会・俳句大学・ハイクライフマガジン『100年俳句計画』
〈後 援〉熊本日日新聞社・月刊「俳句界」(文學の森)
【問合】Facebook永田満徳 または
黒川 : kuromieta@yahoo.co.jp
いわさき : saki50ys@gamma.ocn.ne.jp
◆山頭火懸賞句会にふさわしく、「自由律を楽しみましょう」という企画です。
◆「9月は日奈久で山頭火」実行委員会協賛事業で、熊本震災復興句会です。
◆永田満徳は事務局長として参加します。
◆第1回は67名、第2回は60名の参加を頂き、熊本県外の方が40名程度でした。第3回は70名以上のご参加を見込んでいます。

画像:日奈久 de 川柳句会チラシ

●と き  2017年9月23日(土)秋分の日
      10:45受付開始12:00投句締切
      13:00開会 ~16:00閉会
●ところ  日奈久ゆめ倉庫(日奈久温泉観光案内所)
   熊本県八代市日奈久中町516 TEL 0965-38-0267 
●題   「 ゴール 」… いわさき楊子(熊本)選   
各題2句  「 くらくら 」… さわだまゆみ(宮崎)選      
     「 前  」… 西 村 正 紘 (佐賀)選
     「 残 暑 」… 牛 村 蘇 山 (東京)選
     「 赤   」… 渡 邊 桂 太 (大川)選 
●賞    各題秀句2句に熊本の名産品贈呈
●参加費  2,000円 (懇親会費含む)
●主 催  ららの会 (代表 黒川孤遊)
〈協 賛〉 「九月は日奈久で山頭火」実行委員会 熊本県川柳協会  
ハイクライフマガジン『100年俳句計画』  俳句大学
〈後 援〉 熊本日日新聞社  月刊「俳句界」(文學の森)
問い合せ 黒川 : kuromieta@yahoo.co.jp
いわさき : saki50ys@gamma.ocn.ne.jp
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第一回「二百日」俳句大会

2017年09月01日 00時00分29秒 | 俳句大会
第一回「二百日」俳句大会レポート

平成29年9月1日(金)、阿蘇内牧の山王閣において開催された。
 夏目漱石の短篇小説『二百十日』の舞台は阿蘇。明治32年の夏、五高同僚の山川信次郎とともに内牧に泊まり、阿蘇神社に参拝し、阿蘇中岳登山を試みた。阿蘇への旅を背景として書かれたのが『二百十日』である。この『二百十日』を記念した俳句大会が初めて開かれた。計212句70名の投句があった。講話と俳句大会の表彰式が行われた。
講話は、俳人協会幹事・俳句大学学長の永田満徳氏は「熊本時代の漱石俳句」と題して、「熊本時代の千句あまりの漱石俳句は正岡子規の漱石評の「活動」通りで、「写生」はもとより、「連想」「空想」「デフォルメ」などのあらゆるレトリックを使い、幅広い俳句世界を詠んでいる。『草枕』は「俳句的小説」と漱石自ら言っているが、俳句的レトリックが使われており、世界で唯一の俳句小説である。俳句は詠んだ場所やその時の気持ちが鮮明に記憶に残る。漱石は旅中に詠んだ俳句の気持ちに立ち返って、つまり俳句が記憶装置として働いて、後年、『草枕』『二百十日』を書いたのではないか。その意味でも、熊本時代に詠んだ俳句が小説に与えた影響は大きい」と語った。
 表彰に続いて、選者の永田満徳氏が講評を行った。大会大賞の「阿蘇見えぬ時も阿蘇あり大夕立 金田佳子」については「大夕立」の斡旋がよく、阿蘇が身近に存在することを的確に描いて共感性が高い。後援者賞の阿蘇市長賞の「阿蘇からの朝日貰ひて稲架を組む 中﨑公夫」については「貰ひて」に神の山阿蘇の朝日を讃仰する気持ちが表現されている。阿蘇ジオパークガイド協会賞の「湧く水を崇める暮し新豆腐 古荘浩子」は湧水とともにある阿蘇の暮らしと恵みを描いて過不足がない。月刊「俳句界」文學の森賞の「二百十日首寝違へてしまひけり 加藤いろは」は二百十日という季語の本意を掴んでいて、取り合わせの妙を味わわせてくる。

[選者賞]永田満徳 選
〔特選〕
阿蘇見えぬ時も阿蘇あり大夕立
         金田 佳子
〔秀逸〕
阿蘇からの朝日貰ひて稲架を組む
         中﨑 公夫
湧く水を崇める暮し新豆腐
         古荘 浩子
二百十日首寝違へてしまひけり
         加藤いろは
一面の黄すげ夕日を招きけり
         西田 典子
佳作
手廂におさまり切れず阿蘇青嶺
         吉野 倫生
雲海の底をパトカー救急車
         八木ケサエ
カルデラや風の巡りて泉湧く
         田島 三閒
地震の疵闇に沈めて黄菅かな
         川口 二子
肥後豊後行き来してゐる赤とんぼ
         若松 節子
白鷺の白のきはだつ距離にあり
         田川ひろ子
ふるさとは二つありけり燕去ぬ
         向瀬 美音
母の背の曲線やさし花野道
         上田 輝子
山は根子畑は花蕎麦阿蘇路行く
         山口 為男
放牧の仔牛初秋の舌ざはり
         吉岡 靜生 

今年は夏目漱石生誕150年の記念年でもあり、さまざまな催しが開かれている。漱石が熊本にいた4年3ヶ月の間に体験したことを後年の小説にいかして文学活動をしたことは地元にとってはありがたい。参加者からもっと観光として取り上げる必要があるのではないかという意見もあった。加えて観光だけではなく、漱石の文学や俳句をもっと身近に感じる機会が増えることを望みたい。
(レポート・西村楊子)


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