NPO法人 くまもと文化振興会
2014年6月15日発行
《はじめての井上微笑》
地方からの発信=中央俳壇に衝撃を与える
永田満徳
俳句との出会い
井上微笑。本名は藤太郎。慶応三年(一八六七)、福岡県甘木市(現朝倉市秋月)に生まれ、福岡中学・英吉利法律学校(現中央大学)に学び、明治二十五年(一八九二)、球磨郡湯前町役場の書記となり、七十歳の生涯を閉じるまで湯前の地を離れることはなかった。明治三十三年、微笑三十四歳の時、紫溟吟社の第四回兼題「更衣」(夏目漱石選)と第五回兼題「蚤」(松瀬青々選)に初入選を果たす。「此の処女作は一句麗々しく他と列記発表された。次が松瀬青々選の蚤、それにも一句出た。私は鬼の首を二ツ取った」(「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号)と述べているように大変な喜びようで、この入選を契機にますます句作に熱中する。微笑の俳句熱に油を注いだのは、多良木の郡立病院長須藤郷生や薬局長田代紫浜、医者久木田杉門等と知り合いになったことである。彼等が作っていた白扇句会に参加するようになり、後には微笑がこの句会の中心的な役割を担うこととなる。
井上微笑と白扇会報
「白扇廻報」は明治三十六年に創刊され、「白扇回報」・「白扇会会報」「白扇会報」とその名称をわずかに変えながら、四十一年に終刊する。「白扇会報」は紙代・送料以外すべて私費によって発行されている。「白扇会報」の最盛時の会員数は五三七名に及び、北は東北から南は台湾まで、日露戦争中は戦地に送られた。この俳句雑誌が日本の近代俳句史上で特筆されるのは、会員の中で近代俳句を推進した人々が名前を連ねていることである。選者、寄稿者を列挙してみると、夏目漱石・高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・坂本四方太・石井露月・松瀬青々・野田別天楼・寒川鼠骨等。これらの人物はいわゆる子規派、新派俳句と称される人々である。
井上微笑と夏目漱石
「白扇会報」の大立役者は夏目漱石である。微笑は漱石に対して選句、俳句の寄稿を頼んでいる。漱石にとっては英国帰国直後より『吾輩は猫である』で作家デビューするまでの、慌ただしい三年の間であったにもかかわらず、自分自身が依頼に応じられない場合は高浜虚子、河東碧梧桐らを紹介している。夏目漱石書簡は、現在七通存在している。明治三十六年五月十日付の第一書簡から明治三十八年一月五日付の最終書簡である。その第三書簡では「拝啓、白扇会報第九号わざわざ御送付被下難有存候、右会報は活版ならぬ処大に雅味あるやに虚子とも申合候、内容も面白く拝見仕候、近頃地方俳句会の吟什見るべきもの多く、却つて本場の東京を凌ぐ佳句もまゝ見受候様に存候、ほととぎす抔にても地方俳句会の句の中には大にふるうて居るのがあると先日四方太と話し申候」と書いているように、「白扇会報」を最大の賛辞とも受け取れる言葉で誉めそやしている。このように、一地方誌に過ぎなかった「白扇会報」を中央俳壇に押し上げてくれたのが夏目漱石であった。当時、湯前という僻遠の地で、中央俳壇に衝撃を与え、広範囲の読者を得ることができた事実は無視できない。
白扇会報と中央俳壇
ところで、正岡子規の俳句革新が明治三十年創刊の俳誌『ホトトギス』と新聞『日本』俳句欄を根城に展開されたことは周知の事実である。子規の病没後、碧梧桐が『日本』俳句欄を、虚子が『ホトトギス』を受け持つわけだが、四十年頃から碧梧桐が従来の五七五調の形にとらわれない新傾向の句を発表するようになり、虚子が碧梧桐派の行きすぎを尻目に、大正元年頃から〈守旧派〉の立場を明らかにして俳壇に復帰し活動を開始する。こうした中央俳句界の動きと「白扇会報」の活動時期とを重ねてみると、この時期は、碧梧桐と虚子との対立が激化する前の、子規派、新派俳句の幸福な時期であり、俳句革新運動の黎明期であったことが浮かび上がってくる。こういう時期であったがゆえに、「白扇会報」が新派俳句の有力な人達を選者・寄稿者に加えることができたのだろう。その意味から言っても、この「白扇会報」は当時の研究資料として大変貴重である。
俳句の信者
「白扇会報」終刊後、微笑の才能を惜しんだ友人の斡旋で、九州日日新聞の「新俳壇」の選者になったが、二年で広瀬楚雨にゆずってしまう。中央俳句界の激しい動きの中、俳句における「九州の四天王」のうちで微笑ただ一人最後まで有季定型を守り続けた。「私は多年俳句の信者である。(中略)私は恐らく俳句を一生棄てないであらう」(「俳句ニ就テ」)とまで言い切る俳句への強い執着にただ感心するばかりである。これは、本人の一徹な性情によるものであるけれども、漱石によって俳句開眼した時の喜びと有季定型を守った漱石への信奉をその後も長く持ち続けたということもできよう。
最後に「白扇会報」時代の代表的な句を紹介しておきたい。
抱く雛に小さき寝息のかかるなり
鮟鱇の口開けしまま別れけり
閻王の一喝や牡丹崩るべし
どうろこうろ今朝蟷螂の生れけり
まひまひや我が思ふ字に舞ふて見よ
微笑の俳句は、淡々とした中に滋味あふれるものが多く、精読して初めて理解できるしろものである。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)