【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

柴田翔『鳥の影』論

2023年07月19日 07時57分41秒 | 論文

柴田翔『鳥の影』論

(初出 「方位」10号 三章文庫 1986.12)

       永田満徳

初めに

「烏の影」は、昭和四十六年十一月に筑摩書房より刊行された作品集『鳥の影』の巻頭作品である。初出は文芸雑誌『人間として』(昭和四五年三月・筑摩書房)であるが、この雑誌は現代社会とそこに生きる人間の追求という課題をになって発刊されたものである。時期としても現代の問題が最も先鋭化した時期で、三島由紀夫の自決とそれがもたらした問題、公害とそれが人類に及ぼす影響の問題、それに大学の制度改革を叫ぶ全共闘運動の問題などの切実な問題が重なり起こっている。「鳥の影」の魅力のひとつは、柴田翔のその他の作品にも云えることだが、登場人物のすべてに現代という時代の刻印が色濃く刻み込まれていることである。それは、柴田翔の文学姿勢そのものの中にみとめられることで、「柴田翔が作品で追求する課題は、時代そのものの、すなわち私たち自身の課題である」(真継伸彦『立ち盡す明日』解説、新潮文庫)からであり、さらに云えば、「作家柴田翔氏が現在と現実を深く受けとめている」(大橋健三郎『燕のいる風景』解説、新潮文庫)からに他ならない。

一 作品について

 「鳥の影」は破滅小説である。その中で横切る〈鳥の影〉は、同期のトップを切って課長代理に昇進した第一線級のビジネスマン則雄一家の破滅を象徴している(1)。主人公則雄がエリートの常道をいとも簡単に踏みはずして破滅する過程は次のように五つに箇条書きすることができる。

①       級友山本の誘いで「潮田古稀祝賀会」に参加する。

②       潮田の通夜に出席した夜信江と出合う。

③       信江と再度の交渉をもつ。

④       街で出合った少女といっしょに連れ込み宿に入いる。

⑤       逮捕後、自分の行為を素直に述べて自殺をする。

なお、この小説はこのように、週刊雑誌の特別記事に掲載されてもおかしくないような、ある意味では通俗的でありふれた筋書きになっている。そこで、柴田翔のその他の作品についてではあるが、大岡昇平が「人物は類型的、筋は通俗的」(『朝日新聞』夕刊、昭42・6・29)だと批判しているのも一概に否定できない。だが、〈現代の知的エリート、知識人の苦悩を努めて描こうとする柴田翔の文学姿勢にこそ、福永武彦同様「こういうロマネスクな小説を書こうという意志は認めてやりたい」(『群像』創作合評、昭40・7)という気持ちを持っている。

 柴田翔は、主人公則雄の〈自己破滅〉が性格破綻や金銭的トラブルによるものでなく、あくまでも正常な知的エリートのそれであったことを強調して描いている。そして、ここで特に注目したいのは、則雄が本来、理智的で、どちらかというとニヒルな人物であって、時として兆した心の動揺不安までも自分の心の「弱さの反映にしか過ぎない」と割り切るような「得体の知れぬ不安にかかずらわるのを好まない性質」だと規定されているところである。にもかかわらず、その則雄は高校の恩師潮田の古稀祝賀会に向う途次、行手に立ちはたかる母校の体育館を見たとき、「さびた鉄骨がむき出しに並んでいるその様子に、感動とも不安ともつかない感情に襲われ」、〈建物〉に対する初めての〈不安〉を表明することになる。これはさらに「何故今日の会合のことを覚えていたのだろうか。少し早足で、新しい生徒集会所への道を急ぐ今、則雄はふと不安にかられるような感じで、そのことを考えた」ことと連関していて、〈不安〉の原因が潮田の祝賀会への参加にあったことはまちがいない。従って、今まで通り流れ始めた生活の「平穏さのなかで則雄自身もよく気づかぬうちに、あの祝賀会の日以来彼の心の底にきざしたある種の不安めいたものは、次第に着実に拡がり始めていた」というのも当然であって、〈建物〉に対する当初の違和感〈不安〉は潮田の古稀祝賀会への参加が契機となって拡大されつつあることを証明している。それはそして、則雄がのちに現代杜会の完全なアウトローになったときには〈建物〉そのものが〈絶望〉の象徴となって、「数知れぬ自動車が流れる広い通りをへだてて、彼が十数年を過ごしてきた会社の高い、明るい、大きな建物が、晴れた秋の午後の光のなかに、棲惨な美しさをもって輝いていた。彼は、その美しさの前に息を呑んだ。それは彼をはねつけるもの、彼にとって完全に無縁なるものであった」というように決定的な瞬問を向えることになる。このように、現代社会に屹立する〈建物〉に対しての〈不安〉の拡大が則雄の自己破滅の伏線として、あるいは象徴として描かれているのである。

二 自己破滅の原因

それにしても、誰しも「鳥の影」を一通り読み終えて感じることは、順風満帆にエリートの道を進んでいた主人公がなぜあのようにあっさりと破滅しなければならなかったかという疑問であろう。

そこで、まず考えてみたいことは、則雄が自分の能力と勤め先との関係について「思い違いしも「幻想」も懐いておらず、むしろ大事業のサブリーダーという社内の地位も「代替可能な一部品にしか過ぎぬこと、自分がいなくなっても、すぐそこに代わりの部品がはめ込まれ、数瞬間ののちには、全体がまた何の支障もなく動き続ける」ことを自覚していることである。このことから、資本主義的生産のメカニズムのなかで人間の労働が相互の交換可能性によって〈商品〉としてのみ扱われるというマルクス主義の自己疎外の規定を思い起こすことができる。従って、則雄の〈自己破滅〉を現代日本の資本主義における〈自己疎外〉の問題として解釈できない訳ではない。

しかし、この論文では先程箇条書きにした⑤の部分の、詳しくは則雄が逮捕直後の調べに対して「すらすら」と住所氏名・勤め先さえも述べ、未青年である少女との行為を認め、再度の取調べに対しても「憔悴していたが、静か」に受け、さらに改築中の警察署の窓から「何気なく」飛び降り自殺をするところに注目し、その一連の行為の必然性を考えてみたい。

○        自己に〈正直〉たらんとしたものの悲劇

 最初に、柴田翔の世代に親しまれた『異邦人』の作者力(2)ミユが「『異邦人』の悲劇は、自分に正直であろうとしたものの悲劇」であり、「そのためにあえて一切の行為を説明せず、社会の名において殺された」(「カミュ会見記」『朝日新聞』昭27・1・15)と語っている主人公のルムソーの行為と、「鳥の影」の結末にみられる主人公則雄の行為との類似性を思わずにはいられない。だからと云って、「鳥の影」の主人公が不条理の人間であり、「鳥の影」という作品は柴田翔が彼なりの不条理の哲学を展開するために書いたものであるといいたい訳ではない。ただ、両作品に共通するもの止して、主人公がきわめて自分の行為に対して〈正直〉であったということを指摘して置きたいだけである。さらに、カミュがルムソーの「問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である」 (英語版自序、一九五五・一)と言っていることをも考え合わせれば、則雄もまた現存在としての自己とその自己の実体験に〈正直〉であろうとした人物だったといえないだろうか。

 前に「鳥の影」の問題をマルクス主義の自己疎外の概念で解釈しようとしなかったのは、資本主義の生産過程にプライベートな問題までも還元し、社会体制にその責任を転稼してしまう恐れがあるからである。そうなれば、則雄の〈自覚的〉になされた行為の真意が捉えられなくなるであろう。仮に現代日本の資本主義制度にかかわりがあったとしても、則雄がく自覚的〉におこなった行為はことの善し悪しをこえて責任をとるべきことである。なぜなら、自己に〈正直〉であることは自己の行為に対しても責任をもつことの別の謂であるからである。その意味で、信江との再度の交渉に対しても「今度こそ、自分がすべてを知りつつ、自覚的に饗宴のなかに身を浸して行」こうとし、少女との関係にしても「自分の行為を認め」ることにいささかも躊躇しなかったのは、則雄が自己に〈正直〉であったとともに、明確に責任の持てる人物であったことを証明している。

 ところで、『異邦人』が日本に初めて紹介されたとき世に名高い「異邦人」論争が起こったことは周知のことである。異を唱えた広津和郎が「自分の感じた以外のことは言いもせず、やりもしない」ルムソーの不条理な行為に対して一つの理解不能を表明したのはリアリズム作家として当然の帰結である。というのは、絶対的な感覚、ないし体験は代替不可能なかけがえのないものであり、そのために主観的な要素が他人の理解を拒むほど強いからである。逮捕直後の場面のなかで則雄のことが「男」という表現になっていることの秘密はここにある訳で、つまり則雄がこの場面のみ不特定人称に表現されている分、自己に〈正直〉たらんとして得た感覚、ないし体験の絶対化の表現をみてとることができる。そして、このような体験の絶対化こそ、この両作品に共通するモチーフであり、主人公が裁判官によって、あるいは自らの選択によってともに悲劇にいたる根本的な原因であったといえる。

○        〈瞬間の王〉に殉じようとしたものの悲劇

 次に、柴田翔自身が「創作論覚え書」(『われらの文学21』昭44・10・12、講談社)において「私にとって小説は、自分が見てしまったことを、ただ自分がそれを見たということのためにだけ書く場所なのである」と述べていることを考えてみたい。柴田翔がその作家的デピューをかざった『されどわれらが日々――』の作品さえも、その作品の中にある言葉〈歴史の重大な一場面〉を「生きて見たから書いた、あるいは生きることによって見てしまったから書いた」と強調しているように、〈見る〉という五感のうちで最も強裂な体験に裏打ちされた作品だった。ここにこそというべきか、柴田翔の自己における体験の絶対化の思想を読み取ることができるし、自己の体験の絶対化をモチーフとする柴田翔の小説作法がうかがえるというものである。
 柴田翔がこれほど自己の体験に固執するのはどうしてか。思えば、自己史においても、人類史においても、ある歴史的な瞬間のなかで生死にかかわるかけがえのない体験をした人々がいる。それは、戦後の日本では革命運動、および学生運動に一画期を期する昭和三十年前後に大学生活を送った人々であった。柴田翔もまた、その一人である。柴田翔の〈時代体験〉は「のちに彼の文学に素材を提供するのみならず、作家としての立場を決定することにもなる」(宮内豊『日本近代文学大事典』講談社)という指摘を待つまでもたい。しかしながら、戦後日本における社会変革の成就という歴史の瞬間に最も高揚した精神の一瞬を経験した人間にとって、その革命の幻想、ないし夢想が明瞭なかたちで挫折したのちの足取りは決して平担な道を歩くようではなかった。例えば、『贈る言葉』の中で、主人公の女子学生が理想にもえて嬉々としてメーデーに参加している学友たちを見ながら、「私たちは決してそんな明るい社会になんか暮らしてはいないってことに」気づいた時、「自分を捨てて、死んだように生きて行くほかはないのよ」と言っていることを思い出すならば、柴田翔においても、東京大学入学後に「やや深入り」したといわれる学生運動とその運動の挫折の深さを感じない訳にはいかないし、その〈時代体験〉は個人的体験の絶対化をうながすほど強烈なものであったはずである。

 歴史のうちで各人の生死にかかわるかけがいのない体験内の〈瞬間の王〉ともいうべきものを経験した人々は、このように時代体験があまりにも強烈な痕跡を残こして通り過ぎていったため、その後に訪れる生様(いきよう)にも重大な影響をうけることになる。そこで、考えられる生様は二つしかない。一つは、命運をかけた〈瞬間の王〉の無意味さに気づいたとき、蛇の抜け殻のように「自分を捨てて、死んだように生きて行くほかはたい」生き方である。二つめは、生の火花を散らした〈瞬間の王〉の体験に固執するあまり新たな〈瞬間の王〉を求めて絶えず緊張を強いながら張りつめた生活を送らざるを得ない生き方である。しかし、いずれにせよ、平凡で一般的な生活など保障できない生き方であることはまちがいない。もちろん、〈瞬間の王〉を体験したものの辿るもう一つの生き方、二つめの生き方に近似しているが、充実した生にあふれていた〈瞬間の王〉の幻影にすがりつつ自己を慰撫して生きる生き方もある。しかしこれは、「時間を浪費する余裕」もなく、従って「懐古することで現在の生活の空しさを慰める必要」もない則雄のような現代人には無縁である。

 それでは、則雄の場合どうかというと、二つめの生き方に属しているといえる。三十代半ばの一流企業に勤める有能な社員である則雄は、年齢にしては早すぎる課長代理という地位についていたが、それは、「その地位を保持し、足をひっぱる同僚たちを振りはらい、次の地位に進み、私と私の妻子の人生を危げないものにするためには、一刻も気を許すことができない」もの、「休むことのできぬレース」のようなものであった。まさしく「つねにトップを駈け続けなければならない宿命を負っていた」のである。ただ、注意すべきことは、則雄の場合〈仕事〉に対する態度が〈仕事〉によって「短い一生を更に短く駈け抜けようとしている」ことである。つまり、そのせっかちな生き急ぎの背景には、人生の目的というよりも手段にすぎないとする〈仕事〉に対する認識がある。そして、人生の本当の目的は生き急ぎを促すものということになるが、それは、〈仕事〉の中味の問題として、「自分の考えを打ち込むべき場所と時期||それを的確に測り、行動に移る時」のまさに「一種スポーツの緊張に似た快さ」にあったのである。それだからこそ、則雄はそこに「誇り」と「人生の充実」を感じることができた。従って、ここに表現されているのは、緊迫した歴史の〈場所と時期〉に際会しながら社会変革というマクロ的な仕事をなしえなかった作家柴田翔がごく、ミクロ的な一企業のある大型プロジェクトに見出した〈瞬間の王〉を追体験しているのに他ならない。

 ところが、〈瞬間の王〉に生きることは何も〈仕事〉だけに限ったことではない。挫折の誘因となった「異質な世界」を持った信江との交渉もまた、則雄に「そこに身をまかせたい強い欲求」を促し、〈瞬間の王〉を体験させるものであった。則雄にそれを気づかせたのは、「人間は馬鹿なことをすることがある。が、その馬鹿なことのなかに人生はあるのだ」と呟いた潮田や、「結局、人生は女につきるかもな」と言った級友の山本たちの存在である。彼らは、「仕事に充たされている現在の生活こそが、人生の真面目な部分なのだ」と考えて、仕事以外に向けることのなかった〈瞬間の王〉ヘの欲求を「女」に向けさせ、堅実なエリート社員であった則雄を破滅にひきずり込んだ張本人だったといえようか。しかし、三者の人間関係をもう少し詳しくみると、おもしろい構図ができあがるのである。年下の同僚の奥さんに手を出して国立大学の教授の椅子を棒に振った潮田は、まだしも「執する光」「ある狂気」「狂にも似た偏執」「狂気と偏執」とか「奇怪な執念」などと表現されるような日常をつき抜ける〈狂気〉を孕んでいた点で、「狂気の波」のなかで信江と交渉した則雄に近い存在である。それに対して、仕事を手段だと考えていることでは恐ろしく近似している山本は、やはり「つまらない人間だからって、その人生がつまらないか、どうかってのは、別のことなんだぜ」と言いながら「そういういい方で居直ろうとする」だけの弁解がましい人物である。つまり、則雄ら三者の違いは、すべてをまかせても晦いない〈瞬間の王〉に殉じようとする〈狂気〉を持っているか否かであり、その〈狂気〉を持っていたことから、潮田は地位を失い、則雄は自殺するという不幸を招いた訳である。

 ここで、誤解を防ぐ意味で云えば、則雄の〈狂気〉が本人の自己破滅のすべての原因だったと捉えるのはまちがいである。確かに、二度にわたる信江との情交が「狂気の波」や「狂暴さと甘美さ」のなかで行われている。が、よく見ると、その信江との情交においてさえも、最初のそれが「すべては、漠然としてい」て、無意識のうちでの逸脱であり、そのためにこそ、再度の情交の時には「今度こそ、自分がすべてを知りつつ、自覚的に饗宴のなかに身を浸して行くのだ」と念じている。則雄にとって〈瞬間の王〉に生きるとは、物事に一心になることによってまったくの〈自己放出〉とか〈忘我〉とか呼ばれる類いの状態になることとは程遠いものである。それは、「我を忘れたようにはしゃぎまわる裕太の顔を、何か見慣れぬものを見るかのように見つめ」る態度に、あくまでも一個の覚醒した意識的な人間であったことを読み取ることができるのと同じことである。しかし、かといって、意識の人則雄の内面に時として浮かぶ心の陰影〈自己放出〉が見え隠れするのを無視することはできない。例えば、潮田の古稀祝賀会の会場に足を運ぶため降り立った則雄は、この部分が「鳥の影」の最初の場面だけに何かしら暗示的であるが、「午後の静かな風景のなかに立って、ぼんやりと遠くを眺め、次第に身が軽くなって行くのを感じた。時間が、彼から遠のいて行った。あたりの透明な大気が、彼の指の先から、やがて腕、四肢、身体にしみ通ってきて、彼を解き放った」ような気がする。息子裕太の誕生日の贈り物を買うために立ち寄った玩具売場の亀のおもちゃに、則雄は「思わず立止って、暫くの間、その動きをじっと見ていた。不思議な幸福感が、玩具売場の喧噪のなかに立つ則雄の心に拡がっていった」ことを感じる。これらはいずれも、『贈る言葉』のなかで、主人公が一枚のマチスの絵に感じる「ある種の安らぎであり、解放であり、恍惚であり、忘我であ」るところの〈自己放出〉である。それは、これもまた『贈る言葉」のなかの言葉を借りて云うと、「ぼくをある狂暴な衝動へと揺さぶる」何ものかである。つまり、これらは、「一刻も気を許すことができない」日常生活であればあるほど意識的であろうとした則雄の意識の網目からこぼれ落ちる無意識の表れとでもいうべきか。そのことから考えてみると、則雄があれほど故郷の「忘れていたその町へ、その祖父のところへ、戻っていくことを、明らかに恐怖していた」のは、「今の彼の生活にまったくなじまないものであった」からだが、意識された生活の裏返しとして、むしろ故郷的なものの持つ無意識の領域にはまり込んでしまうかもしれないという恐れがあったからである。

 時折訪れたこのような〈自己放出〉が引き起こすある種の狂暴への衝動〈狂気〉は、信江という「異質な世界」へいざなう働きを一度は果たした。が、そのほんのしばしの〈狂気〉から覚めたとき、信江との二度目の交渉も、少女との交渉も、意識的に〈正直〉であろうとし、意識的に〈瞬間の王〉に殉じようとした。その結果、則雄は自分の破滅をも「戻って行く意志も、まったくないことを、はっきりと自覚していた」ように意識しなければならなかったのである。そこには、〈狂気〉の跡など微塵(みじん)もなく、「彼の心には、苦しみにひきつる潮田の渋紙の仮面のような表情、短い泥まみれのユニフォームで彼らの脇をゆっくりと駈け抜けて行った疲れて不機嫌な少年の姿、教師はつまらぬと眩いた中年の男、死の床の祖父を見守る暗い母の姿などが、何の連関もなく、ばらばらに現われ、交錯し合い、そして、あの少女の抑えた低い笑い声がいつまでも響き続けていた」のを忘れてはならない。

 ところで、「鳥の影」の主人公則雄が過去においてどんな〈瞬間の王〉というべきものを経験したのかは小説中どこにも記述がないので不明である。しかし、体験の絶対化をモチーフとすむ柴田翔の小説作法から類推すれば、昭和三十年前後の日本社会の〈瞬間の王〉を体験した〈瞬間の王〉的心象の歩みが投影されていないはずはない。投影していたからこそ、「鳥の影」の作品が唐突のように見えながら、単なる女につまずいたエリートの悲劇にとどまることなく、かけがえのない〈瞬間の王〉に殉じようとしたものの挫折をもののみごとに描くことになったのである。

 ○ 〈死からの逆照射〉を受けたものの悲劇

思うに、則雄が何かと「挑発的」なもの言いをする山本にことごとく反発しているのは、前に述べたように生き方や気質の相違からして、所詮互いに相入れない間柄だったことを意味する。だが、粘っこくからむように「人間、やがて死ぬんだぜ。潮田のじいさんのようにね」と言った山本の言葉に対して、則雄は異様な反応を示し、自分「のなかで、うねりが高ま」るのを覚え、「今、どうしようもなく流れ出そうとしている自分を感じ」る。そして、その数時間後には、則雄自身がこれまであれほど強く思っていた「仕事に充たされている現在の生活」の「人生の真面目な部分」から逸脱していくのである。これは、『十年の後』の康子が「私たちは、いずれは死ぬのよ。としたら死にのぞんで、心安らかにふり返れぬ仕合せなど本当の仕合せであるはずはないわ。私たち人間にとって、何かを求めるに値するものがあるとしたら、それは死に耐えうるものだけであるはずだわ」と詰問している言葉や、遡っての『されど われらが日々――』の佐野が自分の老いを先取るかたちで「死の間際に何を考えるか」と問う姿勢との関連を考えずにはおられない。ここに、よく指摘される柴田翔文学の早老性の問題があると思うのだが、「死に臨んで、何を思い返すか」という〈死からの逆照射〉にあてられる人生とはとどのつまり、振り返って見ても悔いのない心安らかな生き方をしたかどうかを問うのと同じ意味である。従って、過去に何らかの重大な傷をもつ康子や佐野の場合、〈死からの逆照射〉という生の検証を行えば否定的な結果しか出てこないのは明らかで、佐野のようにその苦悩に耐え切れずに自殺してしまうのは当然のことである。しかも、それは自らの内部でなされる行為なので、ごまかしようもない査問審査のようなもので、それこそ自らを縛る荒縄のような働きをする。一方、過去にさして傷を持たない人間の場合、〈死からの逆照射〉に耐えうる生き方が〈瞬間の王〉に生きようとする気持ちと重なったとき、一瞬一瞬のかけがいのない瞬間に生き、そのことによって少しでも後悔を残こさぬようにしようとする、いわゆる積極的な生き方を生み出すのである。そういう生き方をしようとしたものに、『されど われらが日々――』の節子がいる。例えば、節子の最後の手紙には、「ただひたすら、執拗に自分の過去の自己展開を見守りつづけるばかりで、それに新しい道筋をつけてみようと」しない主人公「私」とは違って、「これからの生き方を、過去の規制によってではなく、過去の否定の上につくり変えようと試み」ながら、今を生きること、そしてそのことによって「生きたと言える日々」の生活をいかに見い出すかという切実な人生の希求が述べられている。これは、強く「心の動揺」を誘ったという佐野の遺書の言葉「死に臨んで、自分は何を思い出すか」に対する節子なりの結論であったのである。また、そこに、時代の挫折を背負わされている登場人物のなかでただ一人、その「世代を抜け出る」可能性、つまり新しい生き方を示しているといわなければならない。そこにあるものは、一瞬のうちに過ぎ去る今を充分に生きることが最も大切にすべきで、過去も現在の自分を形作っている以上の意味はなく、「何をもたらすか知ることのできない明日」という未来までも今を精一杯に生きた上に築かれるもの以外の何ものでもないという生き方である。

 この生き方は、「鳥の影」の主人公則雄に継承されていると考えたい。なぜなら、則雄にとっては、信江や少女の関係も〈死からの逆照射〉にあっても悔いることがないという意識があったからこそ、「狭い階段を再び上る時も、暗い常夜燈の下で裸の信江をさいなみながらも、彼は、今度こそ、自分がすべてを知りつつ、自覚的に饗宴のなかに身を浸していくのだと、くりかえし考え」ることができたし、少女の不透明な笑いに「彼は今、すべてのものから解き放たれ、いまだかつて知らなかった、のびやかな、無制限の自由と幸福の、漂うような感覚」を味わうことができたのである。そして、則雄は破滅しつつある自分に後悔の念はさらさらなく、あっさりと少女との行為を認め、二度目の取り調べを静かに受け、これまで住んでいた日常の世界に「戻って行く意志も、まったくないことを、はっきりと自覚し」ながら、仮取調室の窓から空間に身を躍らせて自殺するのである。

終わりに

 「鳥の影」の主人公則雄の生の軌跡は特異ではあるが、めまぐるしく変動してやまない現代社会に生きるものの一つの典型ではないか。しかし、破滅して悔いはなかった則雄本人はともかく、窓から身を躍らせた直後、そこに通り合わせたタクシーの乗客は巻き添えを食って死ななければならなかったし、何よりも彼の妻子は「これからの暮らし向きのことを考えて、胸を痛め」なければならなかった。則雄の生き方はややもすれば本人を含めた数多くの人々の犠牲なしには成り立たないことを柴田翔はしかと見抜いている。

 そして、そのような生き方をした則雄に対して、人一倍「病とか事故とか死に関係することに神経質」な妻宏子は、「世をはばか」るようなことをした夫の死に立ち合いながら、「まだ暖かい骨壷を膝に抱」いて、もうすでに「これからの暮らし向きのことを考え」ることのできる女性である。ある意味では、堅実で、決して現実の枠を越えない人物である。この宏子の存在こそ、何一つ展望のひらけない「鳥の影」において、唯一の光明、そう云って悪ければ救いのような気がする。

このように日常性に回帰して終結するのは、「鳥の影」という作品だけでなく、『立ち盡す明日』という作品にもみられるが、それは、柴田翔がどんな生き方をしても結局は日常性の網の中にかすめ取ってしまうその強靭な時の流れを善しくも悪しくも描こうとしたからではないかという思いがしてならない。

 この稿は昭和六〇年熊本近代文学研究会十一月例会で発表したものを加筆訂正したものである。

註(1) 加賀乙彦『鳥の影』解説(新潮文庫、昭49)参照

 (2)『贈る言葉』には次のような文章がある。「カミユだとかサルトルだとかマルクスだとかいう、当時の学生にとってきわめて正統的な、やや事大主義的なといってもよいようなもの」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

剽窃・盗用の問題

2020年12月22日 12時18分04秒 | 論文

剽窃・盗用の問題

~松井浩「三島由紀夫と熊本(神風連)」~

                   永田満徳

   初めに

松井浩氏の「三島由紀夫と熊本(神風連) 」「KUMAMOTO」33号(2020・12・15)と銘打った文章には私の文献を踏まえていると思われるところが多々ある。 

松井浩氏の最も重要な論点である「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」においてこそ問題があり、紙面の関係で、その一点を例にして指摘しておきたい。

この指摘がひいては「三島由紀夫と熊本」の結び付きに直結し、晩年の三島の思想と行動を探る上で極めて重要であるということを示すことになる。併せて、本稿の執筆動機である「剽窃と盗用」の問題を提起できれば幸いある。

   一 三島由紀夫と熊本

私が〈三島由紀夫と熊本〉との関係を調査研究するきっかけは、一般に軽々しく口にする「三島は熊本を第二のふるさと言った」という言葉である。

もともと、この言葉は『奔馬』の取材に協力した荒木精之氏宛ての手紙に「一族に熊本出身の人間がゐないにも不拘 今度、ひたすら、神風連の遺風を慕つて訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地として感じられました」というふうに出てくるが、私は額面通りには俄かに信じることができなかった。

熊本は〈心の故郷〉〈日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地〉と述べた三島由紀夫の真意を知ることが〈三島由紀夫と熊本〉との関係を掘り起こすことに繋がると踏んでいた。そこで、私が時間と労力、さらにお金を費やして執筆したのが「蓮田善明」であり、「神風連」に関する数々の論考である。

今回問題にしたいと考えている「蓮田善明の『神風連のこころ』」は、蓮田善明関係の多くの資料を渉猟し、「文藝文化」という雑誌を隈なく目を通した結果、ようやく手に入れた資料なのである。そこには、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」の三者を結ぶ重要な証拠があると直感した。この資料は三島由紀夫の「熊本」との接点において極めて重要なので、早速、一九九六(平成八)年に「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」と題して公表したのである。また、この松井浩氏が掲載している雑誌「KUMAMOTO」2号にも発表している。さらに言えば、「永田 満徳blog」でも公表している。

現在では、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」の三者の関係を説明しようとすると、蓮田善明の「神風連のこころ」という文章は避けて通れないほど基礎文献化している。今回の松井浩氏の文章もそうであるが、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」を述べている文章で、「蓮田善明の『神風連のこころ』」に触れている文章に接すると、私の論文の剽窃盗用であると簡単に見破ることができる。

   二 三島由紀夫と神風連と蓮田善明

 「三島由紀夫と熊本」との結び付き示す「蓮田善明の『神風連のこころ』」は今年注目されている「三島由紀夫没後五十年」を考える際に極めて多くの示唆を与えてくれると思われるので、改めて「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」(『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編、審美社 1996.3)を紹介したい。

丁寧に、しかも用心深く、論証に心砕いた記憶がある。「三島由紀夫の〈熊本は第二にふるさと〉」という一語もそうだが、わずか「三島由紀夫が蓮田善明の『神風連のこころ』を通して神風連を知った」という一文を論証するためにこれほどの文章を要するのである。

 

  東京という中心都市出身者である三島由紀夫がほとんどと言っていいほど知られていない神風連の存在をどうして知ったのかということこそ、むしろ問題にすべきなのかも知れない。

今ここに、昭和一七年十一月一日発行の『文藝文化』(第三巻第十一号) という雑誌を手にしている。その中には蓮田善明の「神風連のこころ」と題する森本忠氏の同題の書評が掲載されている。そこで驚くべきなのは、その文章の直前部分に、平岡公威こと、三島由紀夫の「伊勢物語のこと」と題した文章があることである。このときの『文藝文化』が若い日の三島にとって〈神風連〉の存在に初めて接する機会を与えてくれることになった雑誌であろうことは充分想像される。例えば、蓮田善明が「『電線の下ば通る時や、かう扇ばぱつと頭の上に広げて 。』と話されたのも石原先生ではなかつたらうか」と書いている神風連の故事は、極めて神風連の特色を示しているだけに初めて知るものの記憶に残るだろうし、しかも「私にはこの話がずつと、非常に清らかな、そして絶対動かせない或るものを、今日まで私に指し示すものになつてゐる」と述べているからには、ましてや私淑している蓮田の文章であるならば、若き日の三島の脳裏に印象鮮やかに映ったにちがいない。むろん、その当時から確実に記憶の底に残していたといえないまでも、記憶の片隅に留め置かれていたであろう。そう考えるのは、三島が決起の折にハンド・マイクという文明の利器を使わなかったのは神風連の故事にならったものだという既出の大久保氏の指摘は言うに及ばず、三島が神風連を理解する際の基本線は蓮田の文章から取り入れているように思われるからである。羅列的に示すと、蓮田善明の、

〈神風連は唯だたましひの事だけを純粋に、非常に熱心に思いつゞけたのである。日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めたのである〉 

〈かういふ精純な「攘夷」とは、日本の無比の歴史を受け、守り、伝へる心なのだ〉

 〈神風連は実際は敵らしい敵を与へられてゐないともいえる。にも拘らず彼等は何が敵であるかをはつきり知つてゐた〉

 〈彼等は自ら討つべきものを討つたことに殉じて死ななければならないことも、彼等は知つてゐた〉

という神風連の捉え方は、三島が熊本での神風連取材を前にして林房雄との対談『対話 日本人論』(番町書房・昭41・10) で語った

  「僕はこの熊本敬神党、世間では神風連と言っていますが、(中略)彼らがやろうとしたことはいったいなにかと言えば、結局やせても枯れても、純日本以外のものはなんにもやらないということ」

  「食うものから着物からなにからかにまでいっさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。失敗するのにきまっているのですがね。僕はある一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、非常に感動するのです」

 「神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです」

という言葉の端々から理解される神風連の捉え方とは、その純潔日本主義的な観念といい、行動の直截的な把握の仕方といい、或いは特に注目すべき死への潔い覚悟、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)といい、あまり径庭を感じさせることなく、むしろ蓮田の考えを敷衍させているかのように思われるからである。これはもちろん、昭和の神風連たらんとする『奔馬』の飯沼勲の思考と行動とに通じていることはいうまでもない。

 

と述べている。

   三 先行文献に対する扱い方、紹介の仕方

松井浩氏は、いとも簡単に「三島由紀夫は蓮田からも神風連について学んでいます」と書いて、その直後に、どうして紹介しているか分からないほどに説明もなく、ぶっきらぼうに、蓮田善明の「神風連のこころ」を紹介している。言うまでもなく、私であれば、その証拠に掲げていると察せられるのは私が蓮田善明の「神風連のこころ」を最初に指摘した人間だからである。よって、知らなかったでは済まされず、「蓮田善明の『神風連のこころ』」の部分に触れるならば必ず私の文献を参考文献として取り上げなければならない。

「讀賣新聞」(11月21日付)の「三島由紀夫と熊本上」は、それに対して、先行文献に対する扱い方、紹介の仕方が適切で模範的である。「讀賣新聞」も、三島由紀夫と蓮田善明と神風連の三者の関わりにおいて、蓮田善明の「神風連のこころ」の内容が重要であるとの認識のもとに、記者の地の文としてではなく、私のコメントとして取り上げている。

 

熊本近代文学研究会の永田満徳さん(66)は、三島が神風連を深く知ったのは蓮田を通してだったとみる。永田さんは「文藝文化」42年11月号には、蓮田が神風連について書いていることに注目。蓮田は神風連を「日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた」と論じており、「三島は蓮田の記事を目にしていたのはほぼ間違いない」というのだ。

 

とはっきりと示し、第一発見者の名誉をきちんと守っている。

   四 松井浩氏の〈断定表現〉

ここで松井浩氏の叙述で最も指摘しなければならないのは、〈断定表現〉である。私は「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」において、「であろうことは充分想像される」とか、「ように思われる」とか、「かのように思われる」とか、言い切ることを避けている。この文献を基にして書いた「三島由紀夫と〈熊本〉」「KUMAMOTO」2号(2013・3・15)では結論部分に至っても、「蓮田と神風連とが結び付き、想起されてきたと考えるのは自然であろう」と慎重に言葉を選び、締め括っていることがお分かりいただけただろうか。「三島由紀夫が蓮田善明を通して神風連を知った」ということは私にすれば確信できるし、自信を持っている。しかし、こと公にするとなると蓋然性が高いというだけである。松井浩氏のように、三島由紀夫と神風連と『城下の人』においても、あっさりと「三島と神風連との初めての出会いは『城下の人』にあります」と書いているが、私の調査研究によれば、「にあります」「学んでいます」と両方とも断定的に言うことはできない。最も危惧するのは「断定表現」が夏目漱石の「熊本は森の都と言った」という言葉のように、世間に流布することである。断定できることと、できないことを峻別するのが実際に調査研究する者の倫理であり、礼儀である。勝手に断定する文章ははからずも自分で調査研究せずに、ただ他人の文章を切り貼りしていることを暗に暴露しているようなものである。

  五 私の文献の剽窃、或いは盗用

この機会に述べておきたいのは、私の文献の剽窃、或いは盗用はネット上でも数多く見られ、苦々しい思いをしている。その代表は西法太郎氏の『三島由紀夫は一〇代をどう生きたか あの結末をもたらしたものへ』(文学通信、2018平成30年11月)である。「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」という私の初出の論文の剽窃盗用を疑う部分が数箇所に渡ってあり、唖然とするばかりである。

三島と神風連の結縁には蓮田善明も関わっていた。蓮田は「神風連のこころ」と題した一文を昭和一七(一九四二)年、清水文雄らとの同人誌『文藝文化』に寄せた。これは森本忠著『神風連のこころ』を評したものだった。一七歳の三島は蓮田の「神風連のこころ」を読み、この文章からも‘神風連"が何ものかを心の裡に刻んでいたのだろう。

この部分は私の初出の論文で述べている極めて重要な蓮田善明の「神風連のこころ」を介した三島由紀夫と神風連の理解という箇所の剽窃盗用ではないか。

 さらに、「讀賣新聞」では私のコメントとしてきっちりとり挙げられているところの、

(永田さんは「神風連のこころ」を踏まえて、)蓮田は神風連を『日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた』と論じており、『三島は蓮田の記事を目にしていたのはほぼ間違いない』というのだ。

の部分は、

蓮田は批評 「神風連のこころ」で、「神風連の人びとは非常にふしぎな思想をもっていたのである」、それは、「日本人が信じ、大事にし守り伝えなければならないものだけを、この上なく考え詰めたのである」と述べている。

という西法太郎氏の記述は何の断りもないので、盗用していると言わざるを得ない。

さらに、

蓮田は、「神風連はただ魂だけを純粋に、非常に熱心に思いつづけた」と説いた。三島は後年、この蓮田の書きつけに響いた発言をしている。熊本を訪れるまえに行った林房雄との対談で、「神風連はひとつの芸術理念」であり、「日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだと思う」と熱く語っている。

に至っては、

(三島が林房雄との対談で語った)神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです

という言葉の端々から理解される神風連の捉え方とは、その純潔日本主義的な観念といい、行動の直截的な把握の仕方といい、或いは特に注目すべき死への潔い覚悟、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)といい、あまり径庭を感じさせることなく、むしろ蓮田の考えを敷衍させているかのように思われるからである。

という、今から二五年前の、一九九六(平成八)年初出の拙論「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」をお読みの方はお分かりのように、三島由紀夫の神風連理解の根本的な部分の剽窃盗用が疑われるので、もし剽窃盗用であれば許すべからざる行為である。

  終わりに 剽窃盗用の問題は私だけの問題ではない

西法太郎氏の本は、松井浩氏が参考文献にしているように、先行文献に当たらず、十分に下調べもせしない人に孫引きされて、西法太郎氏の説として流通することになるので放っておけない問題である。

三島由紀夫と神風連と蓮田善明の三者の解明が剽窃、盗用されるほどの発見であったのだと自らを納得させればそれまでであるが、剽窃盗用の問題は私だけの問題ではないので看過することはできない。

2020年12月22日

画像:「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」

『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編、審美社 1996.3)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【方位】(熊本近代文学研究会編)

2015年02月17日 03時08分55秒 | 論文
「方位」Blog
http://d.hatena.ne.jp/kumakin/touch/20070920/p1

【熊本近代文学研究会】会員
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井上微笑  (夏目漱石)

2014年05月12日 07時29分14秒 | 論文

 井上微笑

初出 「方位」19号 三章文庫 1996・9

     
初めに
井上微笑。本名藤太郎。慶応三年(一八六七)、福岡県甘木市に生まれた。この年は、くしくも夏目漱石・正岡子規、そしてペンネームの由来となる尾崎紅葉が生まれた年でもあり、生まれ年の因縁の深さを思わせて興味深い。福岡中学、英吉利法律学校(現中央大学)に学び、一九歳の時、父母の居住地の関係で人吉市に住む。二六歳、球磨郡湯前町役場の書記となり、七〇歳の生涯を閉じるまでこの地を離れることはなかった。三四歳(明治三三年)、紫溟吟社の第四回兼題「更衣」(夏目漱石選)と第五回兼題「蚤」(松瀬青々選)に入選を果たす。そのときの「此の処女作(『更衣』の句=筆者注)は一句麗麗しく他と列記発表された。次が松瀬青々選の蚤それにも一句出た。私は鬼の首をニツ取つた」(「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号)という文章には、活字になつた自分の句を手放しで喜んでいる様子が窺える。これは微笑俳句の出発点が夏目漱石の存在を抜きにしては考えられないことを示している。この入選を契機にますます句作に熱中する。そして、その頃、多良木の郡立病院長須藤郷生や薬局長田代紫浜、医者久木田杉門等と知り合いになったことがその後の微笑にとつて大きな転機となった。彼らが作っていた白扇句会に参加するようになり、後には微笑がこの句会の中心的役割を担うこととなる。
微笑と白扇会
「白扇会廻報」は明治三六年二月、微笑三七歳の時に創刊され、「白扇会回報」・「白扇会会報」・「白扇会報」とその名称をわずかに変えながら、四一年に終刊する。この「白扇会報」は製作費・送料その他がすべて私費によって発行されていることを思えば、それは並大抵のことではない。高田素次氏の集計によると、「白扇会報」の最盛時の会員数は五三七名に及び、北は東北から南は台湾まで、日露戦争中は戦地に送られ、『ホトトギス』にもその名前が載るような状態であった。しかも、この雑誌が熊本は言うに及ばず、日本の近代俳句史上で特筆されるのは、五百数十名に及ぶ会員の中に近代俳句を推進した人々が名前を連ねていることである。
夏目漱石・高浜虚子・河東碧梧桐・内藤鳴雪・坂本四方太・石井露月・寒川鼠骨・野田別天楼等。
このような活動状況を見て、「微笑自身の熱意と辛抱強さ」(「井上微笑と白扇会」『東火』昭和十九年八月号)に目を見張るのは高田素次氏一人だけではない。この〈熱意と辛抱強さ〉の源はどこにあったのだろうか。思えらく、その一つに、後年「私は多年俳句の信者である。(中略)私は恐らく俳句を一生棄てないであらう」(「俳句ニ就テ」大正十四・十一・一○)とまで言い切るほどの俳句への情熱があったことが挙げられる。後に述べるような漱石へ依頼することの臆面もなさもそこから生じているといえよう。また、発刊して最初の年である明治三六年が最も盛んで、二カ月で八冊も刊行し、年度に構わず、十二冊をもつて一巻としていることからもわかるように、自分の熱意の赴くままに出せるときには出しておこうという気持ちがあったからであろう。しかし、それ以上に注目すべきは、紫漠吟社との相対的関係である。当時の紫溟吟社は、「吟社の句は曾て『銀杏』の刊行せられて居た時分は別として、今日では会報とか何とか世上の雑誌にはあまり見へない」(「白扇会報」第二巻第八号・明治三七・六・三〇)という状況であった。紫溟吟社の機関紙『銀杏』が終刊したのが明治三五年五月で、その年も満たない明治三六年二月に「白扇会報」が創刊された事情から考えられるのは、熊本の近代俳句を強力に推進した紫溟吟社の活動が衰退していくのを惜しんだ微笑が、紫溟吟社の仕事を引継ぎ、みずからの手で再び熊本の近代俳句を興隆しようとしたのではなかつたかということである。この紫溟吟社に対する後継者意識は、「熊城の紫溟吟社は本会の父母にして、追々吟社諸賢の御寄稿も可有之」という文章(「白扇会報」編輯係第八号・明治三六・四・三〇)に端的に示されていて、ここではっきりと紫溟吟社を〈父母〉と位置づけ、「白扇会報」を子として認識しているのである。
微笑と中央俳壇
ところで、正岡子規の俳句革新運動が明治三〇年創刊の俳誌『ホトトギス』と新聞『日本』を根城に展開されたことは周知の事実である。子規の病没後、碧梧桐が『日本』を、虚子が『ホトトギス』を受け持つわけだが、四〇年頃から碧梧桐が新傾向の句を発表するようになり、虚子が碧梧桐派の行きすぎを尻目に、大正元年頃から〈守旧派〉の立場を明らかにして俳壇に復帰し活動を展開する。こうした中央俳句界の激しい動きと白扇会の活動とを時期的に重ね合わせてみると、自扇会の活動の時期は碧梧桐と虚子の対立が激化する前の、子規派の幸福な時期であり、蜜月の時期であつたことが浮かび上がってくる。こういう時期であったがゆえに、「白扇会報」が虚子.碧梧桐を初めとして新派俳壇の有力な人物を多数選者・寄稿者に加えることができたのであろう。そういう意味から言っても、この「白扇会報」は当時の研究資料として見過ごすことのできないものがある。
碧梧桐の新傾向運動が一時期、全国の大小を問わず、ほとんどの結社を揺り動かし、虚子の周辺をさらうほどの勢いのなかで、「九州の四天王」のうち微笑ただ一人最後まで新傾向運動とは一線を画し、季語定型を守り続けた。前衛的な、当時でいう新傾向とも言うべき俳句が袋小路に陥っている現在の状況から見て、「今日新傾向も多年の練磨で、一つの俳句の行き方とあつたであらうが、これを以て俳句の標準とするほど重きを為すものではあるまい」(「俳句の標準」『俳句二就テ』前掲)と述べていることは、微笑の俳句に対する素養の確かさと先見性とを示して余りあるものがある。この周囲の状況に振り回されない態度は、もちろん〈私は多年俳句の信者である〉というほどの俳句への執着にも示されていて、本人の脇目も振らぬ、一徹な性情によるものであるけれども、漱石の兼題に対しての入選という予期せぬ幸運によって俳句開眼した喜びが大きかっただけにその喜びとその感謝の気持として季語定型を重んじたとされる漱石、直接的にはその影響のもと紫溟吟社で活躍した渋川玄耳の作句法を長く持ち続けたということができる。
微笑と夏目漱石
井上微笑宛の夏目漱石書簡は、現在七通存在している。この書簡はいずれも「白扇会報」の投稿・選評等の依頼に対しての返事である。時期的には書簡の日付でいうと、明治三六年五月一〇日付の第一書簡から明治三八年一月五日付の最終書簡の間である。漱石の側からこの時期を見ると、第一書簡の明治三六年五月といえば、英国留学からの帰国直後で、四月には一高の英語嘱託、東京帝大文科大学講師に就いて一カ月後である。また、最終書簡の明治三八年一月は、『ホトトギス』一月号に「我が輩は猫である」を発表し、一躍文名があがり、作家的デピューを果たした年である。この往復書簡の期間は俳人漱石から小説家漱石に移る最も重要な時期であったといわなければならない。
微笑にしてみれば、第一書簡の時期一つ取ってみても、漱石の帰国の機を伺って、一早く選句の依頼をしたということになろう。しかし、漱石はその第一書簡で「拝啓、貴俳並に白扇会報御送被下難有奉謝候、小生は目下大多忙にて、近来俳句とは全く絶縁の有様に候へば、評選等の儀は到底御依頼に応じがたく候。いづれ近日、虚子、碧梧桐両君の内にでも依頼致し見るべくと存候。先は右御返事迄、勿々頓首」と書き、〈大多忙〉と俳句との〈絶縁〉状態を理由に依頼を断り、自分の代わりとして高浜虚子と河東碧梧桐を紹介している。これは当然と言っては当然なことで、確かに漱石にとっては帰国直後の慌ただしい時であり、この申し出にいささか閉口したにちがいない。そういう事情を推し量ることなく、大胆な依頼をしたのには、同年二月から出し始めた「白扇会報」に少しでも彩りを添えたいという気持ちがまさったためであろう。この時期が先に触れたように「白扇会報」の活動の最盛時だったのも故なしとしない。
にもかかわらず、微笑が時を置くことなく漱石に再度依頼していることがわかるのは、第一書簡の一〇日後五月二〇日付の第二書簡である。漱石はむろんこの依頼も断り、虚子に代わりを頼んでいる。その後、微笑のたびたびの依頼に対して、漱石自身断り切れなくて、依頼に応じていることが第四・七の書簡によって知ることができる。これらの漱石書簡で浮かび上がってくるのは、微笑の「白扇会報」発行に対する熱意であり、相手の再三の断りにも意に介さないほどの情熱である。そして、漱石の「自扇会報」に対する労りであり、一地方雑誌といえどもおろそかにしない親切心である。特に、第三書簡では「拝啓、白扇会報第九号わざわざ御送付被下難有存候、右会報は活版ならぬ処大に雅味あるやに虚子とも申合候、内容も面白く拝見仕候、近頃地方俳句会の吟什見るべきもの多く、却つて本場の東京を凌ぐ佳句もゝ見受候様に存候、ほととぎす杯にても地方俳句会の句の中には大にふるうて居るのがあると先日四方太と話し申候」と書いているように、「白扇会報」を最大の賛辞とも受け取れる言葉で誉めそやしている。微笑にとって、これはお墨付きを貰ったようなもので、「白扇会報」の運営に自信を強く持つたにちがいない。
このような漱石の助力や激励に対して、微笑自身「在東京の漱石先生へは、先般御願致候処、即ち本号に於て御寄送を得たり。そもそも我が肥後新俳壇が先生に負ふ所のもの頗る多し。然るに今日我が会報が玉什を頂戴するの栄は最も欣然の至りに御座候」(「白扇会報」編輯便・第一巻第一○号・明治三六・六)と述べて、漱石への深い恩義を表明している。微笑と漱石の間には直接の面識はなかつたものの、師弟関係と言ったようなものが存在していたといえよう。微笑の熱意に漱石が振り回された格好であるが、しかし、特に帰国後の落ち着きのない生活の中で俳句を作る余裕などない漱石にとって、「白扇会報」ヘの投句の要請がなかったならば、ことさら句を作ってみようという気がしなかったであろう。その「白扇会報」への投句である十三句の、明治三六年作の二二句のなかに占める割合は大きい。その意味で、漱石の俳句史においても「白扇会報」が担った役割は決して少なくない。
微笑と正岡子規
「故子規先生に縦令直接の縁故が無いにせよ、師表としての平素負ふ所のもの決して少々のものにあらざることを信ずるのである。であるから、先生没すと難も、先生の主唱したるの道は、とこしえに存して、千尋の海の一滴にだも如かざる我会報が、斯く生長し行くを得るのも、先生の賜にあらずして何ぞやだ」(「白扇会報」第二巻第一号・明治三六・一〇・一〇)この少々力みが感じられる文章からはそれだけに微笑の子規に対する率直な気持ちが表現されている。もちろん漱石を通しての繋がりであるけれど、近代俳句の革新者としての子規に絶大な敬意を表し、子規派の系統を明言している。「今日我々の進歩して新派の俳句には最も理屈を忌むわけです。此の意味から可成説明的な文句は言はずに、唯写生の句が現代の俳句であります」(「華城句稿」昭和九年)という俳句観の持ち主であってみれば、微笑とその白扇会が子規の影響下にあることはまちがいないし、いわゆる日本派と称してもいいのであるが、今日虚子派か碧梧桐派かの問題になると、「今日新傾向も多年の練磨で、一つの俳句の生き方とあつたであらうが、これを以て俳句の標準とするほど重きを為すものではあるまい」というすでに引用した文章によってもわかるように、碧梧桐派の運動に対していささか冷めた視点で見ていることから、子規→虚子という近代俳句の主流に乗りかかっているといえるだろう。しかしこれは中央の俳壇史にだけ目を向けた捉え方であって、当時の出版、交通事情などを考えるならば、必ずしも中央の動向と同じとはかぎらず、「併し此趣味は子規氏等の言ふ如く説明されるものでない」(「破笠句稿」明治四二年)という微笑の朱評もあることから、子規派と違った、あるいは子規派としても、虚子派と違った子規派の支流との見方も成り立ってこよう。
終りに
「白扇会報」終刊後、微笑の才能を惜しんだ友人の斡旋で、九州日日新聞の「新俳壇」の選者になったが、二年で広瀬楚雨にゆずってしまう。微笑の生涯を見渡すとき、そこにはいつも漱石の影を感じる。「白扇会報」にしても、「熱心可驚。白扇会報は自費にして、好俳の士に頒つと言ふ。多作にして佳句に乏しと言ふ人もあれど、見るべきもの少なからず。九州の俳士は子に負ふ処多し」(望潮生「九州の新作家」『豊州新聞』明治四〇・一.一)と評価されるようになったのは、漱石の紹介によって碧梧桐や虚子らが参加したためであろうし、俳句への意欲が掻き立てられるきっかけになったのも、漱石の兼題選に入ったことによるものであろう。そして何よりも、頑固なまでも季語定型を守り続けたのは、漱石への忠誠ということもあったにちがいない。このように微笑の側から見ても、微笑と白扇会に及ぼした影響は顕著であり、漱石こそが「熊本最初の近代文学の開花における種蒔く人であつた」(浦池正紀「紫溟吟社・その成立と終焉」『熊本商大論集』第十五号・昭和三七・十二・二〇)という評価は少しも揺らぐことがない。

注1 「私の俳号」『かはがらし』昭和五年十二月号参照。
注2 高田素次「紫溟吟社と白扇会」『未踏』第四巻第五号(昭和六三年一月号)~第九巻第二号(平成四年七月号)参照。
注3 高田素次「井上微笑と白扇会」『東火』昭和十九年八月号参照。
注4 高田素次『湯前村史』昭和四三年十一月二三日参照。
注5 句作りの指導において「君等の様に趣味もつかまへずそんな無茶な事をしても物にならぬと云ふ事、俳句には季がある、それは絵画の色の様なものだと云ふ事、其他主観客観と云ふ様な僕等の丸で考へ及ばぬ耳新しい話」(蒲生紫川『鈍語』)をしたという。
注6 「玄耳の句の中に、漱石のにおいのする句が少なくない」高田素次「紫溟吟社と白扇会」『未踏』第四巻第五号(昭和六三年一月号)
注7 高田素次「明治俳壇の諸先輩」『井上微笑の往復書簡』東火社・昭和五二年一号参照
注8 高田素次「微笑朱評・華城句稿・破笠句稿」『東火』昭和五五年八月号参照。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三好達治ー阿蘇詩ニ篇

2014年05月12日 07時13分58秒 | 論文

三好達治-阿蘇詩二篇

本稿は『熊本の文学』(審美社、昭六〇・九)と『方位』第十六号(三章文庫、一九九三・九)の両本文をまとめたものである。
     
    一 初めに
 三好達治は、阿蘇登山の経験をもとにした詩「大阿蘇」と「艸千里浜」の二篇を発表している。阿蘇詩二篇は昭和十一年より昭和十二年にかけて書かれたものである。今日、両詩篇に対する評価は極めて高く、例えば「大阿蘇」は〈口語脈作品の代表的な一篇〉(伊藤信吉『詩のふるさと』)とされるし、「艸千里浜」もまた〈代表作の一〉(吉田精一角川版『三好達治詩集』鑑賞)とまでされている。三好達治は阿蘇の地には二度、しかも二十年の歳月をおいて足を踏み入れている。最初の旅は、幼年学校時代、大分の中津出身の学友と連れだって耶馬渓を越えて阿蘇に遊んだとき(註1)である。再度の旅は、昭和十一年頃かと予想されるが、今の時点では阿蘇への足取りも明らかでない。
    二 詩歴
 三好達治(一九〇〇〈明治三三〉~一九六四〈昭和三九〉)。大阪府東区に長男として生まれた。三高時代には萩原朔太郎の詩に親しみ、級友丸山薫の影響もあって詩への関心を深めた。東大では梶井基次郎らの同人雑誌『青空』に参加し、詩を発表するようになる。さらには『詩と詩論』や『亜』などのアヴァンギャルド(芸術前衛)雑誌に関係し、昭和五年、処女詩集『測量船』(第一書房)を刊行した。これは昭和初期を代表する名詩集と評価され、早くも独自の詩風を示して注目された。次いで、昭和七年の第二詩集『南窗集』(椎の木社)では四行詩という定型による斬新な詩風を展開し、『閒花集』(四季社、昭九)・『山果集』(四季社、昭一〇)などの詩集に引き継がれていく。その間、昭和九年には詩誌『四季』の創刊に参加している。そして、『艸千里』(四季社、昭十四)や『一黙鐘』(創元杜、昭十六)以下の詩集からは文語詩を主体とする詠嘆的な詩風に反転、日本の叙情詩の伝統はこの詩人によって最も強く支えられることになった。
 おおよその詩的道程をみても、四十年間にわたる長い創作活動の中で、詩風の変貌ともいえるものが幾度か見られ、そのどの面をとるかで詩人像は大きく変わる。ここでは、詩型の面で著しい変化を遂げた三つの時期に分けてみる。初期は、口語・文語の二通りの用語に加え、散文詩.自由詩・定型詩と多様な形式を使って、現代の叙情詩のあらゆる可能性を試みた『測量船』の時期で、古典的な風趣と西欧のサンボリズムとを融合した詩風が特色である。第二期は、療養生活がもたらした『南窗集』『閒花集』及び『山果集』などの、F・ジャムの詩型を借りて、軽妙な機智を生かした印象写生風の四行詩の時期で、自然の事象を客観化して、最も明快な言葉で鮮明な心象映像を作り上げている。そして、第三期は、『艸千里』『一點鐘』などの文語雅語を用いて、古典的風韻をかもし出した伝統的詠嘆調の時期で、最初からその一面に内包していた古典的な要素が開花する。このように、全体像としては、「昭和初期『新詩精神』運動の方向を否定し、おのれの詩法を、おおむね古典的風雅にふちどられた叙情の方向へ限定していった」(那珂太郎「測量船」『解釈と鑑賞』昭四一・一)とあるが、同じく「『測量船』の中にあった筈のいくつもの可能な進行方向のうち、かなり強引に、またかたくなに、ひとつの方向を選んだ」.(大岡信「三好達治論補遺」現代詩読本『三好達治』)と指摘されることも否めない。そうした詩的世界の明らかな分岐点、あるいは転換点こそが、第二期までの口語脈印象写生風の世界と第三期以後の文語脈詠嘆的叙情の世界との相違にもとめられる。そして、その端的な比較の対象としてよく取り上げられるのが、まさしく「大阿蘇」と「艸千里浜」の作品(註2)である。なぜかと言えば、両作品が〈大阿蘇〉の風景を素材とし、しかもほぼ時を同じくして発表されたにもかかわらず、そこから受ける印象の違いによって「大阿蘇」の方は従来の口語的作品群の延長上にあり、「艸千里浜」の方はそれ以後の文語的作品群の直線上にあるなどと説明が加えられやすいからである。三好がそのような印象の違う詩篇を同じ時期に発表したのは単に発表誌の対象の違いばかりではなく、もっと根本的な原因があったように思える。
    三 「大阿蘇」
雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々と降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる
瀟々と降つてゐる 山は煙をあげてゐる
中嶽の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濠々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里浜のとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集つてゐ   る
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は瀟々と降つてゐる
 「大阿蘇」は世界最大のカルデラを形成している阿蘇中岳を背景に、豊かに繁る牧草の高原《草千里》で蕭々と降りしきる雨の中、ひたすら草を食べたり、ただつっ立りたりしている馬の群れを描いた風景そのものの作品である。
 この詩は、二十二行から成る全一連の口語自由詩で、嘱目の風景をじつと凝視しつつ、途中で切れることなくうたい続けられている。あえて内容面から要約すると、五つの部分に分けられる。第一部=冒頭二行が中心素材の提出描写の場面にあたり、第二部=七行は中心素材の様子描写の場面である。そして、第三部=四行はまさしく背景としての阿蘇中岳描出の場面である。さらに、第四部=七行が作品主題の提示の場面にあたり、第五部=結尾三行は反復による余韻をひびかせながらの終息の場面である。なお、初出稿と現行稿と.の間では、終行の「雨が降つてゐる、雨は蕭々と降つてゐる/阿蘇は煙をあげてゐる」の二行が削除されているが、三好としては、句の冗漫さを避ける他に、第三部を中心とした左右の行数をあわせる意図があったろう。無造作な言葉の羅列のように見えて、実に細心の注意を払った構成方法であったと言わなければならない。
 この作品は、眼の前の風景を単に写生したものとみるならば、まるで〈無声映画〉や〈一幅の絵画〉を眺めるような思いがする。そういう印象を与えるのは作者が徹頭徹尾〈見る〉立場で描いているからである。三つの素材「馬」「雨」「山」が平易な口語で巧みに場面の中にうたい込まれている。しかし、これは単なる〈静物〉としての風景ではない。それぞれの情景は、固定したカメラの広角レンズ越しのような視界の中で、「食べ(立ち)続ける馬」「降り続ける雨」「吐き続ける山」といった具合に持続的な動きとして捉えられている。特に文末の補助動詞「ゐる」のリフレーンはそのすべてが現在進行〈……してゐる〉の形をとっており、時制の〈継続性・現在性〉を強く押し出している。そして、このような時意識は、末尾近くの一行「もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう」に収束し表現されている。この一行こそが、多くの叙景描写のうちから離れて、作者の心情を仮定形にひめて表明した唯一の部分である。そこには、大阿蘇を根源的に発見した感動が凝縮されていることはまちがいなく、人事全般を忘却せしめる大自然の息遣いが幾百年たったとしてもそのままの姿で〈いつまでも現在〉として存在し続けるだろうという一種異様な悠久感が打ち出されている。
 「瀟々と」降りしきる雨にしても、「重つ苦しい」噴煙にしても、ひっきりなしに降る雨をもの寂しく思い、濠々とあがる噴煙を重っ苦しく感じるのも、客観世界から受けた印象表現であるとともに、三好のこの時の心象風景――ある種の晴れやらぬ壮年の憂悶や暗雲ただよう社会情況の投影でもあっただろう。そのような作者の心情に比べれば、「尻尾も背中も鬣も ぐつしよりと濡れそぼつ」たまま、大自然にすっかり随順してしまっている馬の群れの姿には時や空間を超越するような悠久感がひしひしと感じられたに違いない。従って、詩作の契機は放牧中の〈馬〉の群れを眼にしたことに始まるといってよい。「ぐつしよりと」という擬態語も、後出の「きよとんと」「いつしんに」などと同じく馬の集団の姿態をできるだけ如実に描くことにあったと思われる。よく見れば、第二行で群れ集う馬の構成、第五行で雨に濡れた馬の様子を細かく表現しつつも、第六行目で〈馬〉から〈彼ら〉に変更されていく過程に、馬の群れに対する三好の気持ちの変化が現われており、〈彼ら〉という人称代名詞に人間に対するような親しみと一まとまりの自然物として突き放し、悠久なる時空の一点景とする見方が読み取れる。
 ところで、四行詩集『南窗集』に採録の「土」を自ら評して「この詩は御覧の通り、触目の一小事実を、そのまま直写したものです。(中略)単純に単純に、どこまで単純に表現して、而も詩的情趣が浮び出なければなりません」(「短詩二つ」)と述べているから、同じく「鹿」を解説して「現実の智識や経験と、詩的空想とは複雑に入り混つてゐるものです」(同)とは言っているものの、四行詩の詩風が本質的には〈触目〉の情景を精確に明瞭に写し取ることにあった。従って、「大阿蘇」が世に初期の頃書かれていたものと思われているのも、人によっては四行詩にすることも可能だ(註3)と考えられるのも、この詩の詩風の内質が四行詩の場合と相似た印象写生風のタッチで描かれている(註4)からである。しかし、この詩には、四行詩で書かなかったという単純な理由からだけでなく、対象への無気味なほどの凝視、粘着的な対象把握の仕方からも、後の「列外馬」に繋がる四行詩からの脱出への意識が息づいている。それにまた、「達治はもともと視覚的な素質をもつて生まれた詩人なのだ。その澄明な眼は、まず、外界の美に向かって開かれ、とらえた対象を、明晰な言語空間として定着させる力をもっている」(木村幸雄「言語感覚の厳しさ」『解釈と鑑賞』昭五〇・三)という指摘は、三好自身が「恐らく詩は、私には眼から入つてくるやうだ。さうしてこの入口を、また出口にも兼用する」(「私の詩作について」)と言っていることを踏まえたものであるが、「大阿蘇」は、その風景を視覚のパースペクティブに収めることによって口語自由詩による〈平面の美〉(註5)を捉え得た詩であるという意味で、三好の詩作上の特質が充分に発揮された作品であるといえる。
   四 「艸干里浜」
われ嘗てこの国を旅せしことあり
昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり
肥の国の大阿蘇の山
裾野には青艸しげり
尾上には煙なびかふ 山の姿は
そのかみの日にもかはらず
環なす外輪山は
今日もかも
思出の藍にかげろふ
うつつなき眺めなるかな
しかはあれ
若き日のわれの希望(のぞみ)と
二十年の月日と 友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思はれ人と
ゆく春のこの曇り日や
われひとり齢かたむき
はるばると旅をまた来つ
杖により四方をし眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶ高原(たかはら)の牧
名もかなし艸千里浜
 「艸千里浜」は、一篇全体が古風な印象を与える詩で、その古風さ(註6)は、用語の面だけでなく、音律の面にも構成の面にも現われている。特に三行以下の三行と語尾の三行とはみごとに呼応していて、五音・七音の音律で構成された定型詩といった観がある。試みに数回復唱してみれば、五七調のもつ歯切れのいい音律上の美と極めてシンメトリカルな均衡美を味わうことができるだろう。ルビの振り方にしても、例えば「外輪山」をソトガキヤマと言い、「高原」をタカハラと読ませるところに、古態に倣おう(註7)とする並々ならぬ努力の跡が見られる。この詩は、「大阿蘇」の詩との対比によっても明らかだが、伝統的和歌文芸の構造に近く「彼の古典詩風をもっともよく代表するものの一である」(吉田精一角川版『三好達治詩集』鑑賞)といえる。
 この作品は、二十二行から成る全一連の文語定型に近い自由詩で、第十行目で前半部と後半部に大きく分けられる。さらに、前半部十行は五行目半ばで切れ、「山の姿は」は〈跨ぎ〉の手法によって次の行に繋がっている。これは詩法上の単調さを破るためである。後半部十二行も五行目あたりで二つに切れる。まさに「方解石のように極めて論理的に明快な構成方式」(同)をとっている。
この詩では、「大阿蘇の山」の風景的特色が見晴るかす眺望の中からパノラマ撮影のように一つの見落としもなく描き出されている。そしてさらに、その中から浮かび上がる外輪山は、「今日も」また〈山紫水明〉(「日本人の郷愁」)の言葉のごとく淡い藍色に染まっている。この風景は眼前の事実に違いないのだが、単なる事実そのものの色ではなく、「思出の」と冠することで〈追憶〉の叙情にまぶされている。つまり、かつて『測量船』から四行詩への転移について語ったときの「詩歌は、私にとつては、最も単純な、最も明瞭な何ものか」(「ある魂の径路」)という気息はなく、視界に入るものすべて、ここでは「思出の藍」色のフィルターを通した心象風景によって写し出されている。
 三好の明瞭な眼を「かげろ」わせたものは何かと言えば〈思出〉の心の痛みとして堆積した二十年にもわたる不如意な実生活の数々に他ならない。壮年に達した三好の脳裏には、現代詩の変革に胸を躍らせた若い日の希みや、三十一歳で天逝した無二の親友梶井基次郎、そして心ならずも結婚を断念せざるをえなかった心の恋人萩原アイ(朔太郎の妹)のこと(註8)などが走馬燈のように去来したのではなかろうか。ふと人生を振り返ってみた時、それらの出来事は現在の自分から遥かかなたに消え去って「うつつなき眺め」のなかにある。人によっては、その際痛苦の思いにとらわれるだろう。このような心象風景は、数年後『花筐』に収めた四行詩「かへる日もなきいにしへを/こはつゆ艸の花のいろ/はるかなるものみな青し/海の青はた空の青」(「かへる日もなき」)に進展(註9)し、〈思出〉の痛みが幾分薄れて、美しく装われていくことになる。
 従って、最後の句は、悲しみを誘うものなどない(艸千里〉だが、「かなし」という唯一の主観語にこの時の心情のすべてが託されたとみるべきで、おそらくは島崎藤村の「歌哀し佐久の草笛」(「小諸なる古城のほとり」)の詩句(註10)とともに、失われたものへの哀惜の思いをこめて「名もかなし艸千里浜」とうたわれたものであろう。
 さて、この詩は、喪失の悲しみを主動機として、詩全体に終始一貫して流れている〈旅愁〉の情緒を形づくっている。「甃のうへ」(『測量船』)が冒頭の「あはれ」のほか一つの主観語をも使用することなく〈春愁〉の淡い情緒を漂わすことに成功している背景には、極力そういった語句の使用を控えることによってどれだけ現代詩の叙情は可能かという実験的な自覚があった。ところが、ここら辺りから次第に主観的な感情の流露が著しくなり、三好持有の〈感傷性〉(註11)といったものが悲愁をおびた詠嘆的表現となって全面に立ち現われてくる。この「艸千里浜」の場合、確かに藤村の「千曲川旅情の歌」からこの詩まで四十年聞の現代詩の進歩を疑わしむるものがあるが、伊藤信吉氏がこの詩の〈古典性〉の問題を採り挙げて、現代詩の発展というよりも、「詩そのものの完成、詩そのものの美」(註12)を追求する審美主義的な詩人像を想定されていることも考えて置くべきであろう。
    五 詩集刊行の空白期間の意味
 この阿蘇詩二篇が発表された時期の文学活動は、詩集に限って言えば、昭和十年に第四詩集『山果集』(四季社)を出版したっきり、昭和十四年に第五詩集『艸千里』を出版するまで、実に“四年間”というものの空白、ないし停滞期間が見られる。これは、彼の戦前における出版過程を知るものには珍しく不思議に思われる。
     (1) 詩風転換の時期
 詩集刊行に限らず、全体的に見渡しても、この空白期間は詩そのものの発表よりも評論や随筆の執筆が増えている。しかもこの期間は、詩風の面で著しい転換が行われている。詩集では、『山果集』が『南窗集』・『閒花集』などの印象写生風の詩を継承しているものであり、『艸千里』が伝統的な詠嘆調の詩風で伝統文芸に後戻りしたとされるものである。作品一編ずつでは「達治が四行誌から自由詩の詩型を変えたのは『山果集』を上梓した翌昭和一一年の中半になってからである」との小野隆氏の指摘(註13)にもあるように、確かに昭和十一年五月の『文学界』に発表された『空林』『かいつぶり』『檸檬忌』を最後にして四行詩の作品はあまり見られなくなり、それに代わって、その三月『文芸』発表の散文詩「南の海」、九月『中央公論』発表の詩「涙」などの『測量船』時代以来の多様な作品が多くなり、それと共に『艸千里』に収録されるような七五・五七調の文語定型詩やそれに近い詩型を多く用いるようになる。
 従って、この詩集刊行の空白期間は、詩作の上では詩風の転換期であり、新しい詩風確立のための模索の期間であって、阿蘇詩二篇の甚だしく異なる印象からは〈阿蘇山〉を描いた点では素材がまったく同じであるがゆえに、それぞれ詩篇の作風の違いを試そうとする三好の姿勢が見えてくる。つまり、「散文詩型をとった二篇の『村』、徹底した自由詩型の『大阿蘇』と、これらの作品を比べてみると、その当時の達治が、表現形態についてどれほどの試みをしたかがはっきりと知られる」(伊藤信吉)という指摘(註14)や、何よりも「当時の私は、新しい詩歌の可能性を、貧しい私の才分なりに、力をつくして模索しつづけた」という三好自身の言(『測量船』あとがき、南北書園刊再版・昭和二二)を踏まえて言えば、〈新しい詩歌〉の完成という意図を秘めつつ、「大阿蘇」は徹底した口語自由詩形を通して現代口語の機能を生かそうとし、「艸千里」はあくまでも文語定形詩形を用いて現代詩の古典性を形成しようとしたと思われる。しかし、三好はこの時すでに「口語自由詩は、明治末に誕生し、大正末にはもうその標高の峠を一つ越えきつて、下り斜面にさしかかつてゐた」(「巻後に」『定本三好達治全詩集』筑摩書房、昭三七・三)と判断しており、「所謂自由詩なるものの形式に多少疑問を抱きはじめた。その形式が、第一私にとつては、魅力の乏しいものとなつた」(「詩壇十年記」『若草』、昭十二・五)と考えていることから、三好自身の好みはと言えば、「艸千里浜」のほうにあったろうし、三好の詩風が口語自由詩の限界を認識することによって口語自由詩形から文語定形詩形へと変遷して行くことも当然の成り行きであったろう。
 さて、四年間の詩集刊行の空白期間を経過した後、両詩篇は昭和十四年にそれぞれ別々の詩集に編入された。「大阿蘇」は、その四月に刊行された合本自選詩集『春の岬』に、『測量船』より三代四行詩集とともに『霾』詩篇中の一篇として編集された。また、「艸千里浜」は、その三ヵ月後の七月に発刊された『艸千里』に、『山果集』以後の長詩二十五篇中の一篇として集録された。しかし、これは両作品が初出雑誌に単独で発表された順序とは逆になっている。すなわち、「艸千里浜」は「大阿蘇」より一年早く、当時の年齢的にも高い層をねらって発刊された婦人雑誌『むらさき』(昭十一・九)に発表されている。けだし、ここにこそというべきか、詩集刊行の空白期間の模索を通過してのちの詩風確立の明確な意識が働いている。つまり、小川和祐氏の「口語詩的作品群と、文語詩的作品群とから成る詩集とする見解に立てば、この『霾』の詩篇は明らかに口語詩的作品群の延長にあるものである。時期的には『艸千里』と『霾』には重なる部分かある。『艸千里』は文語詩的作品群の直線上のものである」という指摘(註15)を考慮に入れつつ、「大阿蘇」は前期〈口語詩的作品群〉の延長線上にあり、「艸千里浜」は後期〈文語詩的作品群〉の直線上にあると位置づければ、同じ時期の詩集であるがゆえに、これまでのすべての詩篇を総合したものとする『春の岬』に従来の傾向の詩「大阿蘇」を入れることで一応の区切りをし、『艸千里』の表題ともなっているようにその詩集の典型的な作品として「艸千里浜」を入れることによって、これ以後の新たな詩的展開への先駆けとしたいという三好なりの配慮があったからであろう。
     (2) 時代への態度決定の時期
 このように古典的な詠風へと傾斜していく契機になったものには、彼独特な詩型に対する好悪ということのほかに、また気力の弱りという「思いすごしの老年」(伊藤新吉)の面(註16)よりも、むしろ「時勢の国粋的、古典的な動向が、彼の詩魂のうしろ髪を、伝統に向けてひいたのか」という吉田精一氏の指摘(註17)に肯いたい。
 この詩集刊行の空白の時期は、近代史上希にみる激動の年代にあたっている。特に「艸千里浜」が発表された昭和十一年は、極右的青年将校によるクーデーター、いわゆる二・二六事件が起こった。それ以後、戦時体制への移行を目的とした昭和十二年の労農派検挙、執筆禁止、その翌年の国家総動員法の制定などが矢継早に行われている。つまり、二・二六事件を引き金にして、日本は軍部独裁の道をひたすら突き進むことになる。こういう戦時体制の強化のなかで、文壇側も昭和十三年九月の漢口攻略には軍部の要請に応えて、二十二名もの作家が従軍し、その報告会を各地で開くなどして、戦争追随の姿勢をしだいに色濃くしていく。三好とても、この時代の趨勢とは無関係ではなく、むしろ漢口攻略と作家のその時務的従軍より一年早く、昭和十二年十月、雑誌『改造』・『文芸』社の特派員として戦地上海に赴き、一連の従軍記を書いている。
 「上海雑観」(『文芸』昭十三・一)や上海雑観追記「半宵雑記」(『改造』昭十三・一)によると、日中戦争という「今しも重大な時期にさしかかつた私たちの祖国の一員である以上」、自分の主観でさえも絶対だとし、その延長線上において、上海を引き合いに出しながら単純至極に、「私が日本といふ国を顧みてそれをたいへん清潔な美しい国だと思つたのは事実である」と断定している。彼の見た戦争の現実とは、先進列強に食い荒らされた真の上海の素顔ではなく、頽廃に覆われた「物欲の都」上海であった。このように表層的な見方しか出来なかった彼は、そうであるがゆえに、帰国した時のことを「日本人の郷愁」(『文藝春秋』昭十七・九)のなかで回想しつつ、日本賛美を〈祖国愛〉という表現で同一化して、上海の「戦場の混乱醜悪窮乏の境から、一転して山紫水明の故国に身を移したのだから、私ならずともさういふ場合に誰人もさういふ感動を覚えるのは必然のことであって」、「我々の祖国愛といふものも、まづ第一にはその自然 ――祖国の山川草木に対する単純にして熾烈な愛情にその根柢を置いてゐる」ことに触れている。
 三好ならずとも、榊山潤が「忘れてゐた祖国を、私も上海まで入つて取り戻したか」とまで書いている「流茫」(『日本評論』昭十二・十二) という文章によっても、文学者の上海への従軍という経験がいかに〈祖国愛〉を呼び覚まさせたかが理解できるというものである。
 三好達治自身の当時の時代に対する態度は一様でなく、著しく曲折している。彼は当初当時の風潮に対して極めて批判的であった。例えば、「古典に就いて」(初出不詳・『屋上の鶏』文礼社、昭十八・四)の中で、古典文学者たちの日本主義に対する曲学阿世ぶりをたしなめている。また、「大阿蘇」を載せた『雑記帳』は、迫りくるファシズムの波に抗し、理想的な文化運動の誕生を夢見て創刊された月刊誌である。
 しかし、ここで問題にすべきなのは「半宵雑記」(既出)に窺えるように、三好がこの上海従軍行のときを境にして、日中戦争を個人の「視界を超えた偉大な聖なる意義の上に深く根柢してゐる」として、「私はすべてを肯定する」とまで書き付けるようになることである。保田輿重郎が日本の侵略戦争を「世紀の変革の神話」と捉えるようになるのが昭和十三年五月から六月にかけての中国旅行の後のことであったという周知の事実に接するならば、三好において、上海従軍による〈祖国愛〉への目覚めが戦争肯定の根拠になったであろうことは容易に想像できる。
 このようなことから、この詩集刊行の空白期間こそ、時代への態度決定の逡巡、ないし猶予期間でもあって、戦時体制への随伴行動がほぼ固まりかけるのは、「一従軍記者」(「日本人の郷愁」既出)として上海に赴き、日本の自然に対する愛情、すなわち〈祖国愛〉に目覚めることになる昭和十二年以後のことであるといえる。そして、この時代への随伴的態度は、日本文化協会から特別扱いの用紙配給を受けて出版した『一點鐘』(創元社・昭和十六年十月) の例が示すように決定的なものになる。
    (3) 〈世界一般の法則〉としての文学
 保田と言えば、この詩集刊行の空白期間は、くしくも激動の世とともに、プロ芸壊滅後、思想の混乱と時代の不安を克服しようとして、新ロマンティシズムを標傍しながら、日本精神の復活を叫び、国学の再興を企て、のちに戦時体制のイデオローグとされる保田輿重郎が主導した『日本浪曼派』の運動の期間、すなわち昭和十年の創刊から同十三年の終刊までとぴったりと重なり合う。
 保田輿重郎は、『コギト』五号(昭和七年七月)の「文芸時評」のなかで、戦況が著しく困窮の一途を辿って行く昭和十年代の状況を〈文学の貧困〉として捉え、むしろ〈文学不用の時代〉だとしながらも、「その時代に於いても文学はその真実の姿に於いて存在する」と言い切るのである。これは彼一流のイロニー的発想であるが、畢竟、文学の真実の姿は時代の困難さを積極的に受け入れることから生まれるものだという考えが成り立つ。そして、この考えは、「懐疑し、痛み傷つき、ついに美しく残ったものゝみが今後に文学の理想と精神と、さらに気品とを維持する」(註18)殉教者の栄光に擦り替えられる。
 とはいえ、文学の不遇時代という認識は、『日本浪曼派』の詩人伊東静雄の考えのなかにもあり、「ヘルダーリーンの『かかる貧しい時代に、何のために詩人は存在するか』という、ぎりぎりにつきつめた問い」(註19)(大山定一)を持っていた。また、『日本浪曼派』とは直接関係なかった三好達治でも、「友よ 詩の栄えぬ国にあつて/われながく貧しい詩を書きつづけた」(「残春偶語」『一點鐘』既出)と嘆いている。保田でさえ、著作に官憲の監視を恐れなければならなかった時代背景を抜きにしては、この彼らの文学不遇の時代という認識はあり得なかった。『日本浪曼派』がナルプ解散後の現状を否定するにしても、否定の対象としたマルクシズムもリアリズムも、思想統制という外部からの圧力で根こそぎにやられてしまっていた。保田がそういう状況をただ単なる現象として見たとき、そこに文学の不用はたしかに存在したといえる。この認識こそ、文学は現実に何をなしうるかという文学の効用を捨てたところに文学の出発をはかったイロニー的浪曼精神の萌芽がある。そして、保田らにとって、文学とは〈文学不用の時代〉にも存在する文学の真実の姿をとらえるというイロニーを体現することであった。従って、この屈折したイロニーから浮かび上がってくる゛文学の真実の姿とは何ぞや゛という問いこそが彼らの突き詰めた問いであって、彼らの内部に絶えず発せられ、それぞれの文学の営為に中で試みられたと考えられる。
 保田が一括すればヨーロッパの文芸思潮に他ならないマルクシズムもリアリズムも切り抜けてみたら、とどのつまり、彼の文学的エスプリは揺籃期に過ごした〈故郷の美しい風景〉の中にしか残っていなかった。彼の故郷大和桜井の風景は、少年の頃の甘美な思い出とともにときめくような《日本の血統》(「日本の橋」『文学界』総和十一)を感じさせてくれるものであった。昭和十年前後の思想的混乱の時期に『日本浪曼派』が成立された原因は、まさしく《日本の血統》のよさを疑わない保田がそれまでのヨーロッパの文芸思潮の紹介に終止した「文芸学書にないところの、民族の精神と志をもととしたもの」(註20)であった。つまり、『日本浪曼派』は国粋的な民族主義の趨勢の中で出るべくして出たわけだが、保田が「絶望が先行する」時代の危機を克服する道として、〈伝統の情緒〉だけで事足れり(註21)としたところに戦後の毀誉褒貶がある。
 このように、〈文学不用時代〉におけるこの文学の真実の姿を追求していった結果、日本には《伝統》の中にしかその命脈はないと知った保田は、『コギト』創刊号(昭和七年三月)の編輯後期で、「私らは最も深く古典を愛する。むしろ私らはこの国の省みられぬ古典を愛する」と高らかに宣言して、古典への憧憬とその本質の継承の意志を示し、《古典美の血統》を云々しながら、古典への志向を明らかにしていく。保田はまた、現実の戦争に対してもその実相を見ないで、彼なりの美意識に純粋培養された戦争の「世界史的意味」での壮大さ、あるいは民族の興亡のドラマに深く感動していく。これは、古典の世界から古代人の現実を抜き去り、ひたすらそこに美の理想を探ることで古典賛美へ赴いていった精神構造と同じである。
 この精神構造は保田にとどまらず、実は三好達治にも見出されるものであり、その精神構造がそのまま昭和十年代の前後の時代精神あったと言えば言い過ぎであろうか。
 三好が日本の〈山紫水明〉に感動し、「日本の風景、日本の山川草木ばかり微妙に高雅にゆかしく美しい自然は他に比類がない」(「日本人の郷愁」既出)と信じるのは、「風景こそは/いつでもどこでも私にふさはしいものであつた」(「落葉つきて」『新潮』昭三十五・一})という、生得的な゛風景゛への親近感が従軍の体験から祖国愛、とりわけ日本の〈山川草木に対する熾烈な愛情〉を覚醒させた結果ゆえである。このように、当時の中国という外地にふれることによって〈祖国愛〉というものを祖国の自然愛に溶解してしまう三好の精神が、自分の出生地が「日本の故郷」だとし、「故郷としての風景」を回想し保持することが〈日本への回帰〉の一表現だ(註22)とする保田の国粋的な精神と軌を一にしていくであろうことは想像に難くない。
 句作の素養のあった三好は、風景をそのものとして観照する世界に早い時期から馴れ親しんでいた。この観照の世界へいざなうものとして、旅は切り離すことのできないものである。ただそれほど旅に対してまめでなかった三好の場合、実際の旅とは言い難いものの、仮構されたとでも言うべき旅の過程で生み出される旅愁は、のちの伝統的な詩形とあいまって、最も主要なモチーフになり、テーマになった。旅、そして自然への愛着は、初期詩集『測量船』の「峠」という詩にすでに現れており、「旅をゆく心は、ただ左右の風物に身を託して行く行く季節を謳った古人の心でなければならない」と決意している。三好がここで〈古人の心〉にならおうとするのは、四季の風物に身を託して生涯を旅に明け暮れた西行法師や俳諧師宗祇・芭蕉などの伝統詩人の《風雅》の道を想ってのことである。彼は戦後、「雑感」(『新潮』昭三十四・七)という随筆のなかで、この《風雅》について「孤高にも反俗にも、ないし偏奇にもただ今私の興味はない。/温雅と雅馴、つまり『風雅』はそれよりももっと孤独にひとりぼっちの世界一般の法則に属することのやうに思へるからである」と述べているが、この文章で三好が〈世界一般の法則〉としての《風雅》の道(註23)を求めていることに注目したい。
 『測量船』以来、現代抒情詩の可能性を発展ではなく、「詩そのものの完成、詩そのもののの美」としての〈古典的完美〉に向かった(註24)のは、けだし〈文学不用時代〉の〈詩のさかえぬ国〉にあっても、なお《風雅》という伝統の文化情操は〈世界一般の法則〉として根強く存在し、それを詩歌に盛り込み再生することが〈新しい詩歌〉の完成につながるとの認識があったからである。この認識は、「何らの強固なる伝統がなく、根底の深い批判がなく、従つてまた詩歌に対する真の愛情が作者と読者の双方に欠けてゐた」(「詩壇十年記」既出)当時の詩壇の現状に辟易していた三好が、彼なりに文学不遇時代にも存在する文学、つまり真の詩歌とは何かという課題を真剣に求めていったことの結論であった。
 国粋的な時代の趨勢にかすめとられて行くことになる三好の〈祖国愛〉や日本賛美は日中戦争のさなか中国本土へ従軍した昭和十二年の体験が基になっている。それがやがて保田らの国学再興をうながす言説に接し、或いはその風潮に同調(註25)し、または時代の雰囲気を共有することによって古典志向の契機になり、〈世界一般の法則〉である《風雅》を盛りこむことが可能な詩型として文語体の必要性をますます痛感させるようになる。そして、そのことがその二年後出版された詩集『艸千里』の文語による伝統的詠嘆調の詩風に影響したと考えられる。
     (4) 時代人としての三好達治
 従って、以上のことをまとめると、阿蘇詩二篇は極めて重要な意味を持つものであって、詩集刊行の空白期間に発表されたこの両詩篇が象徴するのは、詩集刊行の空白期間が文語詩の詩風確立の時期であるとともに、時代への態度決定の時期でもあるということである。つまり、この期間の三好は、四行詩の脱出を文語詩、または散文詩などで試みつつ、昭和十二年の戦地従軍という時務的経験によって〈祖国愛〉に目覚めた結果、時代への態度を順応に決定する。それに併せて、保田らの『日本浪曼派』創刊の辞(昭和十年三月)で言挙げした「我が古典の未樹、我が趣味の未修」の克服という叫びに呼応するかたちで、それ以後伝統的文芸の叙情形態をもっぱら採用することになる。吉田凞生氏の「時代の影響ということが、三好ほどに深刻な意味を持っている詩人は、他にあまりないかもしれない」という指摘(註26)を待つまでもなく、本人自身も自分の過去を振り返ったエッセイの中で、「さまざまな前後の影響に揺さぶられふりまはされつづけながらの境涯にあつて、私は私なり思案を重ねないわけではなかつた」(「巻後に」『定本三好達治全集』既出)と述べ、時代の荒波に翻弄された〈境涯〉を語っている。ここに、時代に対して真摯に向かえば向かうほどその荒波に呑まれこまれていく一人の痛ましい詩人像が泛かび上がってくる。
    六 終わりに
いずれにせよ、伊藤信吉氏が愛着をこめて「私は九州阿蘇の草千里浜をたずねたとき、三好達治の二篇の詩を思い浮かべ、そこに亡き詩人の声が永く遺ることを思った」(角川版『三好達治詩集』評伝)と述べているが、それほど文芸作品とそれに由縁のある土地の風物は密接な結び付きがある。三好達治の絶唱阿蘇詩二篇は、世界規模の地質的な特色で有名な阿蘇の風物を文芸化したことによって、これからもさらに多くの読者に深い感銘を与え続けることだろう。

註1 石原八束「風狂の詩人」(『三好達治』筑摩書房、昭五四)2阿蘇の両詩篇が詩風転換の証明作品として比較対照されている例は次の通りである。
*安西均「人と作品」(日本の詩『三好達治』ほるぷ社、昭五〇)には、「それまでの鮮明な形象で自然と心理の照応を視覚化していた詩風が、『艸千里』にいたってようやく、流露しあるいは信屈する主情的な詠嘆調に移っていく。その端的な比較は、よくいわれるとおり、『春の岬』中の拾遺詩篇である「大阿蘇」と、『艸千里』中の「艸千里浜」とをくらべあわせて読むがよいだろう」とあり、これと同じ論旨の文章が、「晩年の成熟」(現代詩読本『三好達治』)で述べられている。
*この他には大岡信(『日本詩人全集三好達治』解説、新潮社、昭42)や小川和祐(『三好達治研究』)、並びに石原八束、伊藤信吉、小野隆ら諸氏の論考が挙げられる。
3 小野隆「三好達治―『艸千里』『一點鐘』の時代―」(「専修国文(27)」、昭五五)
4 石原八束「三好詩を追うて」現代詩読本(7)『三好達治』思潮社、昭五四)参照。
5 伊藤信吉『詩のふるさと』(新潮社文庫、昭四三)
6 吉田精一「鑑賞」『日本の詩集9三好達治詩集』 (角川書店、昭四三)で詳しく述べられている。
7 安藤靖彦編『鑑賞日本現代文学⑲三好達治・立原道造』(角川書店、昭五七)で、安藤氏が触れている。
8・9 小川和祐「大阿蘇」(『三好達治研究』教育出版センター、昭五一)参照。
10 註7前掲書
11 三好特有の感傷性については、本人の弁「何でもその時の衝動的なことで・…-。ぼくはセンチメンタルに載っかって衝動的に書いたと思うよ」(大岡信氏との対談)や、友人丸山薫の回想「親しくつき合ってみると、この軍人の教育を受けた骨っぽい青年の内部が意外な感傷に傷んでいるのに驚いた」などの興味深い問題があり、三好の文学との関係では村野四郎・安西均ら諸氏の指摘がある。
12 伊藤信吉「三好達治」『現代詩の鑑賞 下巻』 (新潮社文庫、昭二九)
13 註3前掲書
14 註12前掲書
15 註8前掲書
16 「草千里浜」(『詩のふるさと』新潮文庫・昭四三)
17 註6前掲書
18 「後退する意識過剰|『日本浪曼派』について」〔『コギト』昭十・一)
19 「伊東静雄とドイツ抒情詩」(『現代詩読本伊東静雄』新装版-一九八三・八)
20 「自然主義文化感覚の否定のために」(『日本評論』日本評論社・昭十六・六)
21 「編輯後記」(『コギト』昭十二・十二
22 「風景と歴史」(『風景と歴史』天理時報社、昭十七・九)、及び「風景観の変遷」(『読売新聞』昭十六・五・十六)
23 安西均氏もまた、「伝統と創造」(『現代詩物語』有斐閣・昭五三・八)のなかで、「三好にとってのあるべき詩は、現代の所産としての文芸(文芸の流行性と言い換えてもよい)であるよりも、人間の歴史の展望のなかに置かれても不変のもの(文学の不易性と言い換えてもよい)とする理念が強烈だった」と述べ、文学の〈不変のもの〉に対する三好の志向を指摘している。
24 註12前掲書
25 三好の時代への対応という点では、戦争詩の存在は決して無視することができない。戦争詩そのものは当時の状況に触れずしてうたうことができないからである。この問題については、水口洋治氏がすでに『三好達治論』(林道舎、一九八四・九〕のなかで詳しく述べている。そこで、特に「三好達治の転回」では、「結論的に、なぜ厭戦的な詩を書いていた達治が太平洋戦争開始後、戦争協力詩を書き出したのかは、小川和祐の『時代思潮への肯定的同調』と河盛好蔵のいう『憂国の志』の触れ合う所に答えがある」として、三好が〈大東亜共栄圏構想〉の欺購性を見抜けず、「その美しい言葉、アジアの開放という夢に酔い、信じ」、「誠心誠意、何ら恥じる所なく戦争に協力した」と指摘している。ただ、本稿の論点は、〈時代思潮への肯定的同調〉という点では同趣旨であるものの、その同調が昭和十年代の初期に見られることと、阿蘇詩篇の意義に触れていることで、水口氏の論とはおのずから相違がある。
26 「三好達治」(『昭和の文学』有斐閣、昭四七・四)
 [参考文献]
『三好達治全集』全12巻(筑摩書房、昭三九~四一)
『定本三好達治全詩集』(筑摩書房、昭三七・三)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする