NPO法人 くまもと文化振興会
2016年9月15日発行
はじめての『去来抄』
〜「俳句」の淵源〜
永田満徳
夏目漱石が熊本に新派俳句をもたらして以来、熊本の俳句熱は盛んである。そもそも、漱石に俳句の何たるかを教えたのは正岡子規である。正岡子規は江戸期の月並み俳諧を否定し、松尾芭蕉の俳諧を高く評価して、俳句革新を行った。現代の俳句を理解する上でも、作句上でも、俳句の祖とも言うべき芭蕉とその蕉門の存在は無視することはできず、その淵源を知ることは極めて大切である。その手掛かりとして『去来抄』を取り上げてみる。向井去来は蕉門十哲の一人。肥前国(今の長崎市)に生まれる。
『去来抄』が去来の嘆息によって閉じられているのは実に興味深い。新風を興そうとの素堂の誘いに対して、「世の波、老いの波日々打ち重なり、今は風雅に遊ぶべきいとまもなければ」と言って、多忙と老いの弱りを理由に辞退している。辞退理由の真偽は別にしても、素堂のすすめに応じられないみずからのこの態度に、「いと本意なき事なり」と述べていることはよほどのことであったろう。この言葉を最後にして筆を置いた去来の心境はどのようなものであったか。想像するにあまりある。
芭蕉は俳諧思想に関するものを一つとて残すことがなかった。芭蕉自身、蕉風なるものでさえ「五、六年たてば変化するもの」と考えていた。現に蕉風の変化という観点からみれば、門人たちの手からなる俳論書は少なからぬ数にのぼるということは、蕉風がそれぞれの門人たちに受け継がれたというよりも、多様化していったことを示している。この蕉風の多様化は拡散していく危険を伴っていたといっていい。従って、『去来抄』の執筆の動機については、門人たちが師風から離れてゆくのを危ぶみ、師の遺風を継承することにあったとする説が一般的である。
『去来抄』は向井去来の著した俳論書で、安永四(一七七五)年に刊行された。芭蕉の言動をかなり伝えた功績は大きく、芭蕉俳諧を全体的に理解するのに好都合な書である。内容は「先師評」「同門評」「故実」「修行」の四部に分かれていて、特に注目すべきは先師評である。先師評には「外人の評ありといへども、先師の一言をまじる物はここに記す」という但し書きがある。芭蕉の自句や門人の句に加えた評語を中心にして、門人間の論議であっても、芭蕉の言葉がまじるものは収めているのである。そこで、先師評をもとに、『去来抄』について考察すべき挿話がいくつかあるので、その思うところを論じてみたい。
例えば、「下京や雪つむ上の夜の雨」という凡兆の有名な句は、当初上五がなく、門人たちがいろいろと置いてみたが、結局は芭蕉がこの五字に決定したという。この句は、上五と中七の「取合」によって詩的リアリティが生まれている。芭蕉自身、「ほ句は、物を合すれば出体せり」(「去来抄」)と言っていることからも、この問題はないがしろにできない。しかしそれ以上に大切なことは、芭蕉がこの上五以外になく、「もしまさる物あらば、われふたたび俳諧をいふべからず」とまで言い切っていることである。俳諧はわずか十七音の言語表現であるため、一字一句を効果的に配合して初めて成り立つ文芸である。去来は「このほかにはあるまじとは、いかでか知りはべらん」と述べて、この一字一句の配合に自信を持って言える芭蕉に、師の言語陶冶の一つの達成を見ているのである。特に、其角の「此木戸や錠のさされて冬の月」の上五に関する一挿話もそうであるが、上五の「柴戸」か「此木戸」かの評価の問題で、芭蕉は「此木戸」の語がいいとして、「かかる秀句は一句も大切であれば、たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし」と命じたという。一句のためなら、選句集『猿蓑』の〈出板〉を差し止めてもいいというのは、経済的損失を無視してでも選句集を厳正にしたいという気持ちの表れである。「此木戸や」は「下京や」の挿話と同じく、「取合」の重要性もさることながら、一字一句もおろそかにしない芭蕉の厳正な姿勢がひしひしと伝わってくる。芭蕉の厳しさ、それは俳諧の厳しさと言い換えてもいい。
ところで、芭蕉の俳諧思想の中核をなすものが当時の御用学である朱子学であることは周知の事実である。芭蕉俳諧と朱子学との密接な関係について、野々村勝英氏は、「岩端やここにもひとり月の客」の条にも見られる芭蕉の「ことに風狂に関するかぎり、仏教的狂は姿を消し、直接的には朱子学的な発想に林註を媒介とする壮士の思想が加わって成立したもの」(「俳諧と思想史」『日本古典文学鑑賞 第三三巻 俳句・俳論』角川書店・昭和五二・一〇)とも述べられている。この〈風狂〉は一歩たりとも滞ることなく、新風を求め続けた芭蕉俳諧の原動力となったものである。父はもちろんのこと、兄や弟も朱子学者で知られ、そういう知的環境のなかで育った身であるならば、去来自身もまた生まれながらにして朱子学思想の素養の持ち主であったと考えられる。従って、この句に対する芭蕉の厳しい態度は同じ思想の持ち主である去来の心情に強く訴えかけてくるものであった。
芭蕉の「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」「海士の家は小海老にまじるいとどかな」の一条では、凡兆との比較論争で、「病雁を小海老などと同じごとく論じけり」と言って笑ったという挿話がある。この芭蕉の〈笑ひ〉の真意はつかめぬものの、少なくとも去来はこの芭蕉の〈笑ひ〉を後ろ楯にして自己の評価の正しさを示したかったのである。「病雁」の句を評価する去来の言い分としては、この句が「格調高く趣かすか」な心境句で、高邁な心を持っていなければ作れないものだということだろう。しかしここでむしろ注意すべきことは、句の評価の視点を精神性に置き、芭蕉の偉大さを強調しようとしていることである。去来の思想的資質がおのずから滲み出ているのである。「行く春を近江の人と惜しみけり」の条でも、この句の評を芭蕉に求められて、芭蕉の本情論に沿う答えをしたことによって、「汝は去来、ともに風雅を語るべきものなり」と褒められている。もちろん本情把握論は当時の朱子学的世界観にもとづくものであるにしても、対象に観入し、宇宙の生命と感合することによって、自己の本性を明かにし、宇宙の生命を捉えるという儒家の「格物究理」の説を誰よりも弁(わきま)えていることを芭蕉に認められたと思ったことだろう。ここに朱子学という精神哲学を共有するものの自負として、芭蕉の句の真の理解者は自分であり、自分こそ芭蕉の直弟子であることを言外に表明しているのである。
この去来の態度は我田引水の感はまぬがれぬが、そういう自負があるゆえに、丈艸の「うづくまる薬罐の下の寒さかな」に対する芭蕉の評にまつわる最期の教訓の真意を伝えることができたのである。師の病床に侍る者たちの緊迫した状況のなかで、丈艸の句の情景一致の深さに対して、「かかるときは、かかる情こそ動かめ」と述べて感動を隠し切れないでいる。ここでいう〈情〉とは誠、真情の意と解するならば、去来は芭蕉が生涯求め続けきた儒学思想の誠をしっかと悟得しているのである。いわゆる不易流行とは対立した概念ではなく、誠の上に立脚し、誠を追求するところに生じるものである。この誠への不断の実践こそが芭蕉俳諧の神髄である。このように、去来は芭蕉の直弟子の意識のなかで俳諧の厳しさを述べることが『去来抄』執筆の目的であった。そして、この芭蕉俳譜の厳しさを伝える行為こそは、新風を興すことが『去来抄』執筆でしかなしえないと悟った者の取り得る唯一の方法であったといえる。
とはいっても、去来にとって〈本意なき事〉の〈本意〉とは、やはり新風を実作で示すことだったにちがいない。それは、芭蕉の後ろ盾によって二、三の新風を興せば「天下の俳人を驚かさん」という自負があったことからも類推できる。しかしそれ以上に芭蕉の身近にいて、なんら俳論書を残さず、実作で新風を絶えず作り出していった芭蕉の姿を目の当たりにしてきたからにほかならない。実作こそ俳諧の本道だとの思いである。従って、「いと本意なき事なり」という嘆息は、俳諧への情熱を喪失したものの嘆きでは決してなく、実作そのものから遠ざからざるを得ないものの嘆きである。『去来抄』執筆だけでは解消できない去来の無念さが否応なく伝わってくるのである。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会)