NPO法人 くまもと文化振興会
2013年9月15日発行
《はじめての木下順二②》
民話に「魂のふるさと」を見いだした劇作家
~『彦市ばなし』『夕鶴】~
永田 満徳
始めに
国民的劇作家と言えば木下順二である。順二は大正三(一九一四)年、本郷生まれ。父親の都合によって、熊本市の白川小学校四年から第五高等学校まで、熊本で生活している。、順二自身が「約十年間を熊本に住んだが、年齢の関係もあったろう、郷里熊本というものが実に深く自分の中にしみこんでいることを感じる。私はたぶん、最近の熊本の若い人たちよりも正確な熊本弁をしゃべることができる」(「熊本流」)と熊本への思い入れを深くして述べている。
しかし、「熊本弁」については、順二が再三語っていることであるが、白川小学校に転校した以来、東京弁の一つひとつを突かれて、大変ないじめに会い、必死に熊本弁を物にした経験をしていることを忘れてはいけない。ただし、言葉に対するいじめの体験が初期の戯曲に方言を取り込む際に大きな影響を被っているとは順二自身の弁である。まさしく逆転の発想である。
一 「彦市ばなし」「夕鶴」の方言
「彦市ばなし」では、荒木精之の『肥後民話集』に材を得ているが、「原話の質をそのまま素朴に劇化した一例であり、ことばの点でいえば、熊本という特定地域のことばの特徴を損わないようにしつつそれを普遍化したものである」(「あとがき」『木下順二戯曲選Ⅱ』)とあり、方言の「普遍化」に腐心している。一方、「夕鶴」では、「僕はつうのせりふにおいて、標準語と呼ばれるものの中に含まれている狭雑物や不必要な要素を整理した、その意味で純粋な日本語というものを探ってみた」(「『夕鶴』のせりふ」)として、与ひょうらの方言とつうの「純粋な日本語」との掛け合いに表現の工夫を試みている。
順二にとって、方言の採用は、民話に含まれる「リアリティを獲得した、つまり新しく「生きた」といえる」(「せりふが生きるとき」)民話劇を求めた結果であった。いわゆる標準語と呼ばれる言語ではなく、共通語で書いたのでは民話劇は成立しないという考えに基づくものである。
二 民話に見る「魂のふるさと」
そもそも、木下順二が中野好夫の勧めによって、『佐渡島昔話集』のなかの「鶴女房」を材料にして民話劇「鶴女房」を書いたのは一九四三年である。その原作「鶴女房」を近代劇的手法で書き直したものが一九四九年『中央公論』に発表した「夕鶴」である。その理由は、原話の質をそのまま素朴に劇化したその方法が不満で、かつ原話が単なる鶴の報恩譚であるのをそのままなぞった点も不満だったからである。「夕鶴」は、同じ年に書かれた「彦市ばなし」とともに、「素朴で矮小で穏和なその日本的テーマの中に湛えられている美しさや楽しさを、僕なりに追求してみた作品」で、「民話に籠められいる謂わばわれわれの魂のふるさとの気分を、時おり素朴で単純な戯曲の形にまとめてみる」(「あとがき」『夕鶴』)ものであった。
とどのつまり、「魂のふるさとのなつかしさを本能的に感じ、自分でははっきり意識されない郷愁に駆られて次々に作品をまとめて行った」(「民話について(1)」)と端的に述べているように、順二の民話劇の基本理念が方言を有効に生かしつつ、「魂のふるさと」を描き出すことにあったことは明らかである。
三 木下順二の小泉八雲研究
ところで、順二に民話の魅力を教えてくれたのは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)であった。熊本中学五年(一九三二年)の時、校友会雑誌『江原』に「研究 ラフカディオ・ハーン 其の研究の一班」を書いている。この論考で、「外国人のバタ臭味から完全に脱却して日本人の心になりきつた強い意味を示す「染み」だ。(中略)日本文学を彼は極めて巧みに自己と同化した」と述べ、「日本人の心」と「同化」した八雲像を提出している。そして、「此の場合、同情は同化である。或は、同化が同情に置き換へらるべきかもしれない。此の、理解から同情へ、内究の一歩を進めたところ、彼の文を通して、彼の心は明かに看守される」と「外国人」でありながら、「同情」にまで深く入り込んでいることを評価する。もちろん、この順二の八雲文学観は、順二自身の「魂のふるさと」を生かすことに意を砕いた民話劇観とも相通じるものである。
また、小泉八雲の「雪女」と「夕鶴」という両者の代表作を並べてみて驚くべきことは、重要な部分で共通項があるということである。例えば、「雪女」で、雪女に会ったことを誰にも言ってはいけないという確約と、「夕鶴」における、機を織っているところを決してのぞいて見ないという固い約束の場面がみごとに一致している。それとともに、「雪女」で、雪女に会ったことを漏らしまうことと、「夕鶴」において、のぞき見してしまうことの場面は、愛する者から裏切られ、守られなかった約束という点で非常に似通っている。しかも、約束と破約の相似以上に注目したいのは、「雪女」では命を取らずに去り、「夕鶴」では恨んだり取り乱したりすることなく飛び去り、約束破棄に対して許していることである。「雪女」にしても、「夕鶴」にしても、多くの人に支持されているのは、相手を許すという心象こそが日本人の「魂のふるさと」という心琴に触れ、深い感動を呼ぶものになっているからであるといっていい。
従って、小泉八雲研究が順二の民話劇観を育み、「夕鶴」の根本的な構造に寄与し、日本人の「魂のふるさと」を探り当てていることは疑いようもない。
四 「夕鶴」のつう
熊本近代文学館に寄贈されている原作「鶴女房」から「夕鶴」へ変更された過程を調べることによっても、「夕鶴」が「魂のふるさと」を更に深く掘り下げた劇であることが浮かび上がってくる。それは「夕鶴」のつう像である。
特に顕著なのは、つうは貨幣に目の眩んでいる惣どと運ずとは当然なことだが、金の欲に目覚める与ひょうとの間に言葉が通じなくなることである。世俗の世界との断絶を通して、純粋な世界の住人としてのつうの存在が強調されている。次のせりふは「夕鶴」では最も長く書き加えられている部分で、その抜粋であるが、
つう あんたはあたしの命を助けてくれた。何のむくいも望まないで、ただあたしをかわいそうに思って矢を抜いてくれた。それがほんとうに嬉しかったから、あたしはあんたのところに来たのよ。そしてあの布を織ってあげたら、あんたは子供のように喜んでくれた。だからあたしは、苦しいのを我慢して何枚も何枚も織ってあげたのよ。
というところに、無償の愛に生きるつうが示されている。また、子供と遊び戯れる様子も、純真無垢なわらべ唄の世界でしか生きられないつう像を定着させている。こうしたつうの形象そのものが日本人の願望に似た「魂のふるさと」を余すことなく描き切っているということができる。
終わりに
「夕鶴」が昭和五十九年七月には上演一〇〇〇回を超え、山本安英の没後、平成九年に坂東玉三郎がつうを上演して、広く親しまれている。「夕鶴」の大衆性は、民話の中にある「魂のふるさと」、別の言葉で順二が語っている「日本の昔話、民話っていうものは、(中略)その素朴単純な語りの中に本当の日本がここにあるんじゃないかという感じがあったんです」(『木下順二・民話の世界』)の「本当の日本」を見いだし、誰にでも親しみやすい民話劇という形で昇華させているからに他ならない。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)