桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(春)
〜 すかんぽや磁石引きずり砂鉄採る 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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春となり戸外の方が暖かくて心地良くなれば、子供等は大人同様戸外にて遊ぶ事が多くなります。
現代の子供等はサッカー遊びであろう?それとも自転車に乗って遠出の遊びなどであろか?しかし、子供等が戸外に於いて遊ぶ光景をあまり見かけなくなったようにも思え、気になるところである。
子供は遊びの天才とも云われ、何でもどんな事でも遊びの道具としてしまうような所があり、揚句を鑑賞すれば「昔の子供は日本の何処でも、同じような遊びを行って居たものだ!」と、思わずニンマリする程懐かしい想い出となる。
以前の子供時代より、戸外での遊びには子供ながらも少し工夫が必要であり、遊び心はその工夫と知恵によっていくらでも面白くなるのだ。
今頃の時季であれば、さしずめ男の子は小川での魚とりや、山に入って野苺採りや友人達と「秘密基地」づくりなどであったのであろう?も良く行って居た想い出がある。
又、沢山ある遊びの中では揚句のように磁石を引ずり回って砂鉄を集め、セルの下敷に乗せ、下から磁石を近づければ砂鉄が立ち上がり、面白い図形が出来る為良く磁石を引きずり回って採り遊んだものである。しかし、その当時の子供の頃、砂鉄は磁石より離れにくく、磁力をスパッと遮断出来るものがあれば等と、考えて居たこともある。
揚句のように春爛漫の今頃であれば、季語の「すかんぽ・・酸葉」も良く効き、遠い想い出も、今まさに眼の前にて行われて居るように想えるのである。
〜 鯥五郎飛び損ねたる顔なるよ 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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九州北西部の有明海は福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県に連なる沿岸部にあり、又八代海は熊本県、鹿児島の沿岸に連なり、そのどちらのにも干潟があり、ムツゴロウ、トビハゼなどの干潟の上を飛び跳ね、餌を探したり求愛を行なったりすると云う奇妙な魚が居る。
どちらもスズキ目ハゼ科ながら、ムツゴロウはトビハゼとは食性が違い、大きさもトビハゼの2倍もある20cmまでなると云います。
何れも干潟の上を歩いたり、飛び跳ねながら餌を採ったり、縄張り争いを行う生態ながら、此処ではムツゴロウについて述べて見たいと思う。
ムツゴロウは肉も柔らかく脂肪も多く、かば焼きなどにされ、賞味されているこの地方独特の珍味のようである。
捕獲方法は干潟の上を田橇のような道具で進み、大きな鈎針を投げて引っ掛けて釣る「むつかけ」と云う漁法が有名であり、この地方の風物詩となって居て何度も映像に よって観た事がある。
然し、どう見ても前鰭を脚のように立て、大きな眼で前方を見渡し蛙のように跳ぶ様子は、とても魚とは思えない程愉快な生態なのである。
揚句のようにまさしくおどけたムツゴロウの表情が想われ、「飛び損ねた顔なるよ」の様のようである。
近年諫早湾などのように干潟の干拓が進み、ムツゴロウは何処で生き延びるのであろうか?
〜 消ゆるまで先を争ふ石鹸玉 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
子供の頃、小学校の低学年ごろまでは早春の日射しが強くなる時には、日光写真やもう少し暖かくなれば戸外に出て、石鹸玉(しゃぼん玉)遊びを良くおこなったものである。
(サボン)とは石鹸を意味するポルトガル語に由来しているとものと記憶しているが、子供の頃は石鹸を溶かし、水溶液を作り麦藁の茎(ストロー)を使い、吹いてしゃぼん玉を飛ばしたものであった。その為であろうか、しゃぼん玉は(石鹸玉)との漢字表記となって居るようである。
現代ではしゃぼん玉の液とストローがセットとなって売られているため、小さな子供でも手軽に遊ぶ事が出来るようである。
しゃぼん玉も液の濃度や吹く息の加減によって、大きく膨らんだり弾けないものを作りだす為の工夫が要り、子供なりに色々工夫しながら遊んだものである。
揚句を鑑賞れば、虹色に輝く石鹸玉が次々に吹き出され、青い天に向かって先を争うように上がって行く景色が想われるのだ。
又、シャボン玉は虹色に輝き美しいものの、一瞬のうちに弾け、「儚いものの」代名詞のように言われる事がある。そこに子供等も、「美しいものの中にも、短い命を感じ取り、夢を見るように喜ぶようだ」とは、うがち過ぎる見方であろうか?
〜 春筍の目覚めぬままに掘られけり 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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4月に入り、春の景色が進み、筍の走りのものが店先に出回るようになった。
小さくてもかなり高額であり、庶民にとっては中々簡単に味わう事は出来ないでいる。
筍は他の根菜類などとは違い、大きければ大きい程味も良く高額になるのである。
我が住まいのある京都西部洛西地区は、昔より「乙訓筍」として名産地であり、至る処に竹林があって、今頃の時季ともなれば京都の台所を賑わせて居るのです。
筍は地上に出てしまえば、固くなり「えぐみ」も増えて味が損なわれ、筍専門の農家では、地上に出る前に独特の「つるはし」のような道具を使い、深い所より掘り起こして収穫して居る。
嘗て、筍専門農家の方に、「筍づくり」の方法を伺った事があるが、それによれば、竹林に赤土を入れ、同時に切り藁も混ぜ、更にその上、油かすも混ぜると云うのである。
筍の生えるまでには、この様にふかふかの温かい寝床が用意されて居るのです。
そして3月中旬ごろより、竹林を見回り、用意された土のふっくら膨らんだ処に小さな笹の葉を立て、目印としていると云う。
この様に、手間暇を掛けて育てられ、地上に出る前に掘られた筍は頭の部分の皮も未だ黒くなく、さっと湯がけば、えぐみも無く柔らかく「筍の刺身」として食べられると云う。
揚句のように、まさに「目覚めぬままに掘られる」のである。
今の時季の和風の京料理には欠かせない筍は、この様な背景に支えられているのだ。
〜 やけにまた礼儀正しき新社員 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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4月の新年度を迎え、あちこちの会社では新入社員の入社式が行われている。
男女新入社員とも、希望と不安を抱きながら入社式を迎えた事は想像に難くない。
毎年のように新入社員を評して、「今年の新入社員は○○」と評価される事も多く、「型、タイプ」があるようである。
嘗て城山三郎の名著に、「粗に野だが卑ではない」との本がある。
これは前国鉄総裁を務めた石田禮助の伝記の中での物語であり、彼石田禮助が一橋大学を卒業後、三井物産へ入社を果たした折り、会社から社長名によって「入社後は一切会社へは迷惑を掛けない」との誓約書の提出を求められた。
石田禮助は、「冗談じゃない、会社が新入社員へ一生涯倒産などにより給料の不払いなど起こさないと誓約をくれれば書いても良い」と断ってしまったと云う。
後年三井物産社長より国鉄総裁へ転出した時も、国鉄問題で国会へ証人喚問を受けた時「今日の国鉄の抱える諸問題は、君ら議員諸君へも責任がある」ときっぱり言うべき事は述べたと伝えられている。
今日の新入社員諸君は、その成長過程に於いて「衣食も足り礼節もわきまえて居る」人が多く、皆ところてんのように画一的な所があり、没個性の若者が多い事が目立って居るようだ。
礼儀正しい事は良い事としても、その場限りではない「大きな気概」を持って欲しいものである。
揚句の「やけにまた」との俗語も、新入社員の第一印象により先輩社員から見た目線が感じられ、大変共感する次第である。
〜 とんとんと日の斑を畳む花筵 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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先日漸く暖かくなり、桜の開花状況を確認の為、近在の川べりの桜並木を見物に出かけた。両岸1キロ程の間に桜並木があり、毎年地元の人は込む事がなく楽しみにして居る。この時は未だ5分咲き程ながら、風も無く暖かくて、子供連れの家族が両岸の地道の彼方此方にブルーシートを敷いてとても賑わって居た。
ウイークデーの為、子供とその母親らしき家族ばかりであった。
そう!!、学校は春休みに入って居り、子供達は陽気に誘われ川に入って遊んだりと大喜びの様子であった。
嘗てその昔、東京での現職の頃は、入りたての新入社員の初仕事は「花見の場所取り」と云われたものである。上野公園での夜桜が人気があり、その為、昼間のかなり明るいうちより新入社員数人が、宴会の食品や筵を持ち早めに場所取りに出掛けていたと云う。
昼間の他の宴会の場所を、譲り受けるのである。
揚句を鑑賞すれば、夜桜ではなく昼間の花筵を敷いて、花見の宴会のようであり、宴会が終わり、引き上げる時の光景のようである。花筵に桜の花の枝の影が映り、その状態での片付けの様子が想われるのだ。
人の密などが問題にならなかった頃の楽しく、そして懐かしい想い出のようである。
〜 廃校は島のいただき花朧 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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内閣府の統計調査によれば、我が国の人口は2006年の12、774万人をピークに減少を続け、2050年には2,700万人減少の約10、000万人、更に2100年には4,700万人まで減ると予想されて居る。
嘗て、古代中国の時代より「人口減少は亡国の兆しである」と云われて続けていました。
その為、戦いに勝利すれば、敵国の人間を自国に連れ帰り、男子は奴隷の労働者、女性は子供を産ませる為としていたようである。それほど古より、人手は国の生産手段として大切な資源でもあったようである。
現代では人間の数が生産手段ではないものの、ある程度の人口が確保されなければ、昔より叡智を集め、培い育てて来た「社会システム」が機能出来ない事になるのである。
揚句を参考に考えれば、実家のある我が鳥取の田舎でも、嘗ては1町村内に4校あった小学校も統廃合され、現在では当時の地区に1校のみとなってしまいました。
通学もスクールバスとなり、児童達にとっても道草など出来ず、味気ない事この上無いようである。
子供が主役の正月行事、秋祭りの実施にも子供の減少の為出来なくなって居ると云う。
揚句に、賑やかな嘗ての学校は今や廃校となり、ただその当時より島の頂きにあった桜並木が満開を迎え、朧に霞む景色が想われるのである。
時代の幾星霜とはいえ、儚くも懐かしい想い出の桜の景色なのである。
〜 うららかや豚はしつぽを振りつづけ〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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嘗てその昔、会社内のサークル活動に於いて、英会話を教わっていたアイルランド出身のその女性講師は、愛玩用としてミニ豚を飼って居ると聞き驚いた事がある。
ミニ豚と云っても、小型犬と同じぐらいの大きさであり「マイクロピッグ」と云う種類もあるそうである。
良く聞けば、豚は本来とても清潔好きな動物であり、犬や猫を飼う場合と全く同じであるとも云っていた。とても賢く、室内で飼えば犬のように毎日散歩へ連れ出す必要も無く、糞尿のしつけも出来て、その上、猫や犬のように抜け毛も殆どなくとても飼い易いと云う。とても寂しがり屋であり、人間に良く懐き、膝の上に乗って来ては寝る事が好きだそうである。
揚句を鑑賞すれば、春の季節とは限らなくても小さな尻尾を振り、擦り寄るミニ豚を想えば、如何にも春めいて感じられ、楽しい心情となるのである。
〜 釣つてすぐ魚を放つや山桜 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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春ともなれば、木々や草花ばかりではなく、昆虫や動物達も眠りから覚めたように活発な動きとなる。魚も例外ではなく、産卵のために餌を盛んに食べる季節となるのである。
私事ながら嘗て、魚釣りを趣味としていた期間が長く、川釣り、海釣り、池の釣りなど幅広く行っていた。
その中に、ルアーフィッシングと云う釣りの方法があり、魚の餌となる小魚の形に金属や木片を削って色付けを行い、その魚に針を何か所もつけ餌の替りとします。
ルアーフィッシングでは釣った魚を食べる事ばかりではなく、スポーツフィッシングと云い、「キャッチ&リリース・・釣果と大きさを競い合う」魚釣りの部門がある。
餌を何度も替えたりする事無く、魚をルアーにて誘いヒットを楽しむのである。
そんな事を行えば、魚は痛くて可哀そうではないか?と思う人も居ると想われるが、魚の口は神経が殆どなく、痛くないそうである。
揚句を鑑賞すれば、春の渓流に於いてのルアー釣りが想われ岩魚(いわな)、山女魚(やまめ)が対象の魚と想われるのだ。
少し遅めに咲く、山桜を眺めながら趣味に没頭する至福の時間が想われるのである。
〜 てふてふのくんづほぐれつもつれざる 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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先日の急激な春の暖かさ以来、紋白蝶、紋黄蝶、しじみ蝶などの舞う光景を目にすることが多くなった。
然し、今の時季は急な冷え込みの「寒の戻り」などもあり、そんな場合にはどのように過ごして居るのだろうか?と少なからず心配となる事が良くある。
野原や川べりを歩いて居れば、縄張り争いであろうか?愛の交換であろうか?二頭がぐるぐる螺旋状に舞い上がる光景を目にすることを度々目撃することが有る。
揚句のように「くんづほぐれつ」の状態であり、それでいて縺れる事は決してない。
その為、少しGoogleにより調べて見たが、どうやら「縄張り争いのようだ」と判明した次第であった。
蝶には沢山の種類があるが、何れも小さい姿態であり、その舞う光景は愛らしくて心の和むものである。
揚句のように、すべてひらがな表記の伝統的仮名遣いの句は、蝶の姿態にぴったりであり、目の前にその光景が展開され、見て居るようである。
〜 やどかりの抜けさうな殻引きずりて 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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やどかりは漢字では(寄居虫)と書かれ、(がうな)とも云われ、蟹に似た触手と爪の足を持ち巻貝の殻に棲み、成長するに従い大きな貝殻に棲み変えます。
俳句では春の季語となって居り、海老や蟹と同じ甲殻類である。海辺の水生と陸上に棲むものも居り、椰子蟹なども同じ仲間である。
TVコマーシャルでは不動産業の漫画動画などにも使われ、愉快な宿替えの様子が知られて居る。
嘗て子供が幼稚園児の幼い頃、陸(おか)やどかりを飼育して居て、その生態を一緒に観察していた経験がある。餌は殆ど何でも食べる為、飼育は容易であった。
宿替え用の貝殻も数個入れて飼育していたが、やどかりは夜行性の為、夜中に枕元でガサゴソと動き回り、睡眠の妨げとなり、閉口した想い出がある。
小生の現役時代も関東では3度、転勤後の関西でも2回、転居の宿替えを行って居り、賃貸住宅へ住む事を「やどかり」に喩えられ、苦笑するばかりである。
揚句を鑑賞すれば、海辺のやどかりでも、陸やどかりも同じながら、抜けそうな大きな貝殻をいつも背負い歩き回る生態は愉快であり、ペットとして飼育される事もうべなるかなである。
春の今頃の時季はそのような事も想い出となってよみがえるのである。
〜 梅東風や祠に至る幟旗 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
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梅東風(うめごち)とは、梅の花が綻び始める早春に、北東方向又は東方より吹いて来る風の事であり、時には荒れ気味に吹く強い風を指す春の季語である。
揚句を鑑賞すれば、鄙びた地方にはよくある土地の人々の信仰篤い八幡さまの事であろうか?神様を祀ってある社とは云えない程の、小さな祠が想われるのである。
そこに至るには森の中の小径を辿り、更に幟旗が沢山立てられている階段を上へと登って行けば、祠が見えて来る景色が想われる。
そして、未だ少し寒い早春の森の中の木々を見上げ、小鳥たちの囀りさえ聞こえて来る作者の情景が見えるようである。
〜 鶏小屋の鶏出払つて梅咲ける 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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私事ながら小生の田舎の実家は兼業農家であった。
当時の農家は何処の家でも広い庭(かどとも云う)があり、納屋の外側に鶏小屋が設えてあった。実家でも同じように6~7羽の鶏がいつも鶏小屋で飼われていた。
その中には雄鶏も必ず居り、朝の「刻の声」を上げその声で目覚めていたものである。
暖かい春ともなれば、鶏小屋より鶏達を庭へ放ち、鶏達は庭の芽吹いた草を啄んだり、砂場にて砂浴びを行って暖かい日差しを満喫していた。
又、春には新しく次世代の雛(ひよこ)を買い、子供は学校より帰れば餌となる草を摘み、米糠と貝殻を混ぜて雛(ひよこ)に与えることが日課であった。
今その当時の光景を想えば、大変長閑であり平和そのものの記憶が蘇るのである
揚句を鑑賞すれば、鶏達は小屋より出払い、庭の彼方此方に居り、庭の先には丁度梅が満開に咲く景色が想われるのである。
「鶏小屋の鶏出払つて」との措辞に、まさに春爛漫の長閑な詩情が溢れて居るのである。
〜 青潮にこぼるる万の椿かな 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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青潮とは海水に含まれる硫黄がコロイド化し、海水が白濁する現象である。
この現象が発生している時は海面近くの海水は空気中の酸素と混り、青色となるため、赤潮と対比されてそのように呼ばれている。
いずれにしても、赤潮と同じで酸素が少なく、魚介類にとっては致命的となり、水産業者にとって漁獲高に大きく影響するため、いつも問題となるのです。
又、揚句を鑑賞すれば、今頃ともなれば山茶花の花は終わりを告げ、あらゆる椿の開花の時季となって居り、岬の尖端のその先は断崖絶壁となって藪椿の群生が想われるのである。
冒頭に青潮の事を科学的に述べたものの、その情景を推察してみれば、真っ青な海に沢山の椿の花が咲き乱れ、海へと零れ落ちて居る景色が想われるのです。
〜 春の雷小言のやうに鳴り始む 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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春の雷とは立春後に起こる雷の事を云い、季節代わりの定まらぬ天候の時によく発生して居り、一雨毎に春めいた光景をもたらす雨となるのです。
又、芽吹きを促す「春雷」とも云われ、今の時季の野山や渇いた街並みに降る恵みの雨となるのだ。
その雷の音は、真夏の夕立ちのように激しくなく、雪を呼ぶ冬の雷のように一発大きく鳴って終わる事はない。
そうです!。愚痴とも小言のようにともいつまでも鳴り続き、雨が降りだせばやがて知らぬ間に鳴り終わっている事が多いい。
誰かの小言を聞く事は嫌なものであるが、この時季の雷は恵みの報せなのである。
折りしも今日の現在は良く晴れているものの、気温が高く夕方より雨の予報である。
〜 この町を支へし瓦礫冴返る 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)
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地質学、地震学に詳しい方であれば良くご存知にように、日本列島は現在の姿となるまでに、ユーラシアプレートの東端、北アメリカプレートの南西端の下に、太平洋プレート、フィリピン海プレートの二つが沈み込み、数千万年を掛けて南北に長い形状の列島になったと云われている。
その為、地殻変動により地震や火山の発生が古代より多く、近年の直近では1995年の阪神淡路大震災、2004年の中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震と大型地震の発生と大きな被害に枚挙の暇もない程である。
折りしも、本日3月11日は東日本大震災の発生より12年目を迎えその時間の午後2時46分
には全国的に追悼の黙禱が行われたようである。
又、揚句の作者も熊本在住であり、熊本地震の被害の大きさと哀しみが現在でも胸に染みて居る事であろうと想われるのだ。その時の見慣れた街並が瓦礫となった光景を眺め、胸を打つ悲惨さと哀しみに思いを馳せているのである。
この世の恐ろしいものの喩えに「地震・雷・火事・親父」と云うものがあるが、何しろ我が身が立っているこの大地が揺れる事は、どうしようもない恐怖なのである。
〜 阿蘇越ゆる春満月を迎へけり 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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阿蘇山は九州のほぼ中央に位置する、我が国有数の大型カルデラ火山である。
広大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボルとして我が国は元より現在海外からも観光地として人気を博して居る。
更に、その地にある阿蘇神社は嘗て神代の時代より神武天皇の孫神が火の山阿蘇の火口をご神体として司る神として祀られて居り、全国に500社の分社のある一宮であります。その宮司家「阿蘇氏」は代を重ね、中世には武士家としても隆盛を誇る程であったと云われている。
又、人は誰でも自身の住まいのある土地の「山」「川」「海」を日々眺め暮らし居り、その年数が永くなればなる程、見慣れたその光景に愛着を感じて来ると云う。
揚句を鑑賞してみれば、熊本在住の作者は「朝な夕な」に、日々に阿蘇山を望みながら暮らして居る事が想われ、今まさに昇ろうとする春満月を見て、その月がやがて阿蘇山を越えて行く光景を想い浮かべて居る様子が見えるようである。
さぞかし、その眺めの雄大であり、春めいた心情となって居る事が予想されるのです。
〜 揚雲雀古墳一つに人ひとり 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より
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春逡巡と云えど、日によっては暖かくて穏やか日もあり、田園地帯を歩いて居れば、雲雀の囀りを聞く事も出来るようになった。
天高くより地上に向かって囀る「チュビリチュー、チュビリチー、チュビリチュビリ」と、異国語とも想えるその鳴き声はとても明るく春めいて、心が和み大変癒やされる心情となるのです。
揚句の情景を考察すれば、「古墳一つ」「人ひとり」との措辞に、古墳といっても、小さな小山程の古墳が想われ、作者はそこに佇み独り吟行を行っているようである。
そして、古墳の悠久の歴史を想い、天からの揚雲雀の囀りを聞いて居れば、作者は今まさに春の真っ只中の至福の時間に浸っている事が想われるのである。
〜 春立つや色刷りに凝る広報紙 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より
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立春を迎える頃ともなれば、朝夕は未だ寒さが厳しいものの、日中の日差しは日毎に暖かくなり、そして長くなるのである。俳句の季語ではこの時季を「日永」とも云う。
そして、服飾業界では一斉に春物の売り出しが始まり、商店街の飾りつけも春めいた装いになるのです。もちろん展示のポスターもチラシ広告も、春めいた色使いに拘り何もかも顧客の心理状態を浮かれた心情へと誘い、購買へと導くのである。
概して人の心理は、寒い時季には見た目にも暖かい「暖色系」を選び、暑い時季ともなれば涼しそうに見える「寒色系」を選びたがるようである。
冬から春へと季節が移行する今の時季は、いきなり「寒色系」ではなく、淡い色彩の「パープル」「ベージュ」「ピンク」や「パステルブルー」「パステルグリーン」などパステルカラーと云われる中間色の淡い色合いが中心となるのです。
嘗て現職の百貨店勤務では服飾関係、宣伝関係にも携わり、定年後には商店街の企画を担当の経験もあって、そのような時の春先には色彩に凝る場合が多かったのです。
揚句の「色刷りに凝る」との措辞は、季語の「春立つ」ととても関係し合い大変納得と共感をする次第なのです。
〜 制服をどさりと脱ぐや卒業子 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より
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早くも三月に入り、幼稚園から大学までそれぞれ卒業式を迎える季節となりました。
揚句を鑑賞すれば、男子学生よりどちらかと云えば女子高生の卒業の心情が想われるのである。
学校生活は制服のみならず、身だしなみとして学校毎のルールがあり、特に年頃の女子高生ともなれば、お化粧、髪型などへの強い欲求もあってかなり窮屈だと感ずる事は想像に難くない事である。
卒業後は就職や進学を行うとしても、制服を「どさりと脱ぐ」との措辞に、一区切りの安堵の心情が想われるのだ。又、毎日通学を行った長くて短いような期間も想われ、「卒業」の行事に相応しい背景が垣間見えるのです。
〜 学究はものに語らす梅真白 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より
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学究(がっきゅう)とは学問の研究を専門に行っている学者の事である。
文学、生物学、化学、物理学などあらゆる分野での研究と雖も、自身の研究の成果を何らかの方法によって世に発表しなければ、何の価値も無いのである。
専門書での論文、学会での発表、ビデオ、テレビなどのメディアでの発表など、方法は幾らでもあるものの、具体的な資料を基に発表しなければ理解されにくく、価値を世に問う事は出来ない。
又、揚句の鑑賞に際し少し余談であるが、「梅」と云えば平安の古より「学問の神様」菅原道真公(菅公)の事が一瞬にして想起され、梅の開花の頃は受験とも重なり、学問と梅の深い関わりが想われるのである。
その為、季語の「梅真白」との措辞が効果的に働き、学究の聡明な事が想われ、何によって語っているのかが具体的に示されていなくとも、アカデミックな詩情が醸成されるのだ。
〜 夭折にも晩年のあり春の雪 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より
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夭折とは若くして亡くなる事であり、具体的な年齢を述べたものではありません。
若い時(あるいは幼い時)より、その才能を世間に高く評価され、その成長と共に将来の大成を楽しみと目された人が早く亡くなる事を云い、社会の損失とも想われる事であります。
例えば、作家の中上健司46歳、樋口一葉24歳、詩人の中原中也25歳、金子みすゞ27歳
など枚挙にいとまがありません。その多くは文芸、画家などの芸術家に多いいようである。
然し、時代が下ればその当時は人口に膾炙していた夭折の文芸家、芸術家達も、一部の人達の間のみで評価され、生きて居れば晩年とも云うべき状態となってしまうのです。
揚句に「春の雪」が降る時季ともなり、作者はその夭折の芸術家に思いを馳せ、偲んでいる事が想われるのです。俳句に於いて「にも」との措辞は、評価出来ないと云う結社の主宰は多いいものの、この場合は作者の心情を強調して居りその必然性は高いのである。
〜 過去のごと山重なりて夕霞 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)
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ここ数日、連日のように朝夕の冷え込みが厳しく、今年は例年より暖かい春の到来が遅いように想われる。
しかし、毎日のように近在の田園地帯の散策を行っていれば、日脚は確実に伸びて居り、日差しにも力が漲って来て居る事を、とても実感する時がある。
そして時には暖かくて穏やかな日もあり、山並みに霞が掛かって揚ひばりの囀りなどが聞こえ、とても心が癒される事もあるのです。
揚句を鑑賞すれば、日中の気温は暖かく霞がかって居り、そのまま夕暮れとなって居る景色が想われるのである。
遥か山並みを遠望すれば、少しづつ暮れて行く光景であり、近くの山は色濃く遠くの山並みは霞んだままのグラデーションの景色が目の前に見えるようである。
その光景は「過去に置き忘れて来たもののようだ」と作者には映っているのである。
そして、間もなく幻想的な春の宵となり、詩情あふれる光景が続く事になるのです。
〜 をんどりのさとき鶏冠や花なづな 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
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嘗て田舎の農家では庭先に小さな鶏小屋があり、庭に於いて平飼いにて飼っていた。
雄鶏は朝ともなれば刻(とき)の声を上げ家人に朝を知らせ、雌鶏の産む卵は家では貴重なたんぱく源として重宝であった。
10羽も飼って、昼前頃になれば、雌鶏が卵を産み賑やかに鳴いて知らせていた。
又、家で何かの行事があれば鶏は御馳走として食前に供される事もあり、大変重宝でもあった。
子共の頃、春先になれば鶏の雛を買い、餌を与えて育てる事が子供の役目でもあり薺の若葉を刻み、米糠も混ぜて与える事が日課であった。
そして庭先に於いて放し飼い中の雄鶏は、赤い鶏冠を垂らしながら雌鶏たちを危険より護るかのようなさとい顔つきで、悠然としている事が多いいのである。
揚句に、鶏たちが遊ぶ長閑な春の庭先の光景が想われ、ほんのり温かい想い出に浸る事が出来て懐かしい心情になるのである。
〜 春昼の鯉めくるめく渦なせる 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
※
嘗て関東での現役の頃、住まいは埼玉県の浦和近辺に永く居住していた。
当時長い間川釣りを趣味として居り、真鮒やヘラブナ釣りに夢中になっていた。
釣りは「鮒に始まり鮒に終わる」とも云われ、特にヘラブナ釣りは春夏秋冬に於いて、棚どり、餌の練り具合、餌その物の材料、釣竿、釣り針、へら浮子などに工夫が要り、道具にも凝るようになって居た。
埼玉県浦和(現さいたま市)界隈は元荒川の湾処(わんど)、江戸時代には7代将軍吉宗公により新田開発の為に作られた見沼用水などがあり、釣場には困る事は無かった。
勿論、いつも野釣りばかりではなく「釣り堀」へも良く通い、棚どり、練り餌さの研究、合わせのタイミングなどの腕磨きも行って居た。
人に言わせれば「魚が居ると判っている釣り堀での釣りがどうして面白いのか?」と言う人が沢山居る。然し、そうではありません!!「魚が居る判っている釣り堀で釣れなくて、どうして居るかどうか判らない野釣りで釣れるのか?」と云う事が持論なのである。
・・・本題の揚句の鑑賞より前置きが長くなりましたが、ヘラブナや鯉などの就餌(餌を摂ること)は、吸込みにより摂って居り、四季の水温に影響される事が多く、冬などの寒い時季は余り食べなくなり、水底や物の蔭に潜み殆ど動かなくなる。
然し、春とともに水温が暖かくなれば(乗っ込み・・・産卵の時季)を控え、就餌も盛んとなり、活発に泳ぎ周る。
揚句に春の暖かくなった午後、泉水の中で活発に回遊を行う鯉の群れが瞬時にして想われ、「目くるめく」との措辞が効き、本格的な春の穏やか景色が想われるのである。
〜 風船の行方知れずを良しとせる 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
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春先ともなれば商店街のセールなども盛んになり、販促品として来店の幼い子に風船を配布することが良くあります。
風船には紙風船とゴム風船があり、紙風船は田舎の子供の頃の想い出に、越中富山の薬売りの行商人により、訪問先の子供に土産品として配りとても楽しみに貰っていた事が想い出され、とても懐かしくなるのです。
春の季語である「風船」を揚句に即して鑑賞すれば、この句の場合は明らかにゴム風船が想われのです。
幼い子が風船を貰い、手に持って空に浮かぶ様子を嬉しそうに眺めて居る光景が浮かぶももの、時にはうっかり手放してしまい、風船はそのまま空の彼方にのぼり風に流され行方不明となってしまいます。木々の枝や電線に寂しそうに引っかかっている光景は良く見かける事があります。
然し、更に深く作者の意図を考えれば「漸く暖かくなり、日差しも明るくなれば風船もしがらみを解き放たれ、自由になりたいのであろう」との、解放願望さえ想われるのである。
〜 予後のわれ妻に遅れて青き踏む 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
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人は誰でも予期せぬ病気に罹り、入院を行う事は人生に於いてあり得る事である。
作者の永い間の入院生活の後、春を迎え漸く病気も癒えて退院した経験が想われるのである。
然し退院出来たからと云っても、その日よりいつものように普段の生活が出来る訳ではなく、少しづつリハビリのように歩く事より始め、日を重ねる事によって体調を整える事が出来るのである。
春の季語「青き踏む」とは、野に出て青草を踏みながら宴を催した古の習慣により野に遊ぶ事を云うのであるが、この句では作者の奥様が気を遣い、連れ添いながら、ゆっくり足慣らしを行って居る情景が想われるのです。
春の暖かい日差しを浴びながら、戸外の新鮮な空気を吸い夫婦が連れ添う暖かい光景が良いのである。
〜 城といひ花といひ皆闇を負ふ 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
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そこに高い石垣の上に聳える美しい城が見える。
そこに厳しい冬を乗り越え爛漫と咲く桜の花が見える。
嘗て、近在の京都洛西の山すそに在る西行法師が出家を決めたと云う勝持寺(花の寺)に参詣し、住職に薬師如来様の教えについて説法を賜った機会がある。
その教えは「この世は苦楽相半ばなら先ず良しとせよ」、つまり辛い事も楽しい事も半分ずつであり、この世は辛い事、楽しい事ばかりではないというものである。
古の武士の栄耀栄華を極めた美しい城郭でも、今や爛漫と咲く桜の花もその昔を辿れば色々な風雪に耐え、今があるのである。
よしんば風雪が無かったとしても今はその美しさを誇り人々の脚光を浴びていても、将来にわたり永遠に誇る事は出来ないのが世の常である。
俳句に於いて、「この世に生きとし生けるものや美しきものの哀愁」を物の姿を通して知る事であり、そこに「華」を見出す事によって「詩歌が生まれる」のである。
挙句の「闇」とは、そのような「色々哀切を併せ持つ」姿の事であり、奥深い味わいを見出す一句である。
〜 城下町みづうみのごと霞みけり 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
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この場合の城下町とは、作者在住の加藤清正公縄張りの熊本城を誇る熊本市内のことである。
初春の頃は地表近くの空気が冷やされ、地上に霞が立ち込める事がよくある。
近年は兵庫県朝来市の竹田城址が霧の中に立ち上がる「天空の城」として脚光を浴びている。群雄が割拠し争った時代の城跡と自然現象との組み合わせは現代の人々にもロマンを感じさせ、人気があるようである。
加藤清正公縄張りの熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれ、今でも熊本県民の誇りとなって居る。
中学生の頃修学旅行で訪れ、その時の熊本城の解説では上に行くほど反り返る「武者返し」と云われ、一番上の石垣はほぼ垂直となって居て驚いた事ある。
その熊本城の周囲に霞が立ち込め、城下町全体が「みづうみ」のような状態となって居るのだ。
近年2016年4月発生の熊本大地震により、熊本城は甚大な被害を受けたものの5年後の2021年にはほぼ復旧の目途が付き、完成も近づきつつあるようである。
「火の山」阿蘇山を近くに控え、過去に何度も大地震に見舞われて居り作者の心の奥底にはこのまま「みづうみ」のように鎮まって居て欲しいとの願いまで見えるようである。
〜 縄文の血筋を引きて独活齧る 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
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歴史研究に於いて、今日ほど縄文時代に脚光が浴びている時代は無いと云われている。
縄文時代は1万3千年前~2千300年前の中石器~新石器時代と位置づけられ、この時代は従来、自然界の動・植物などの採取中心生活時代であり、農耕は行われなかったと長い間云われて来ました。
しかし、この時代の食性や暮らしなど文明と文化研究が進むにつれ、栗林が植栽されて居り、稲などは後の時代、弥生時代まで作られる事は無かったとの定説を翻し水稲栽培ではなく、陸稲によって作られて居たことも明らかになりました。
更に、この時代は焼物の道具も作られ火炎土器はその芸術性まで話題になるほどです。
又人骨の傍に植物の種なども発見され、故人を偲んで埋葬され、花も添えられていたであろうと云われて居り、その精神性の高さまで話題になりました。
食物も鹿、猪などの動物や木の実ばかりではなく、貝類も沢山食べられ全国至る所に貝塚が発見されるほどです。この様に自然界の中より種類も沢山食べられ、その食性は驚くほど豊で「縄文クッキー」などは栄養価も高く、現代に見直されている程である。
然しながら、日本列島の中に於いて縄文人と後年の弥生人が混血を繰り返し、現代の日本人を形成したとしても、縄文人のDNAは必ず何処かに残って居り、時には採取中心の時代の食性も甦る事は無くならないようである。
生の独活を齧りながら、その事に思いを致し居る作者が見えるようである。
〜 薄氷の縁よりひかり溶けてゆく 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
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「薄氷」は「うすごおり」とも「うすらい」とも読むことが出来、春先の寒い朝
などに張るうすい氷の事である。他の物質(例えば土、石など)に日が当たれば氷より先に温度が上がり、その境目は氷を溶かし始めるのである。
上記の句を見て、一瞬にして蹲(つくばい)の中に張った薄氷を想起してしまったがよく見なければ分からない程の薄氷は、縁より溶け始め少しの風が吹いてもゆっくり流れ、時には日差しに煌めきながら揺れている事がある。
その光景は如何にも春めいて想われ、春先ならではの情景であるのです。
このように、何処にでもありそうな自然界の営みの、季節と共に変化してゆく景色をよく観察する事により自身の感性を磨く事は、作句を行う上でとても大切なのである。
桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞
〜 差しきたる日に応へむと梅の花 〜
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
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掲句とは直接関係ないものの、江戸時代初期の芭蕉十哲の一人服部嵐雪の句に私の大好きな「梅一輪いちりんほどの暖かさ」と云う有名な句がある。
色々な俳人によって解説されているが、長くて厳しい冬の寒さに「もう我慢も限界」と想って居た矢先に、少しづつ日脚も伸び来て漸く梅の花の綻びの一輪を見つけた春到来の喜びなのである。「暖かさ」とは梅の花を通して、服部嵐雪自身の心の中の「暖かさ」なのである。
梅の花は、これほど季節の替り目に相応しい花は無いように想われるのだ。
概して春に芽吹く植物の花や芽は、気温が暖かくなるばかりではなく、一日の日照時間が長くなる事が条件のようでもある。
その日々、日照時間が長くなる日差しに、梅の花も応え咲こうとしていると見た作者の豊かな感性が想われるのだ。
俳句はこのように自然界の営みに人間も同化する事が出来、その時に詩が生まれるのである。