【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(熊本地震)

2022年04月29日 02時24分12秒 | 第二句集『肥後の城』

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞

 

〜 新緑や湯に流したる地震の垢 〜

 

(肥後の城、熊本地震14句より)

先日来2016年(平成28年4月日14,16日)に発生しました揚句の作者永田満徳氏居住の熊本地震の件を紹介させて頂き、その時の句を鑑賞させて頂いて居ります。

地震発生の恐ろしさは発生の時は勿論、その後も永い期間にわたり続く余震や、失意の中で行う家屋の内外での片付けが、被災者の心を打ちのめすのである。

震災後の片付けは、希望のある状態で行うのではなく、その後の暮らし向きなど人生に於いて色々な非日常の心労という負担になるのです。

揚句を鑑賞すれば「新緑」とあり、震災の被災より一ヶ月以上も経った若葉の生える今頃の季節であろうか?日毎に日差しも暑くなり、疲労も極限となる頃であろう。

日毎に震災の片付けも進み、一日の疲れを癒す夕刻の風呂が嬉しいのである。

爽やかな新緑の光景が、疲れを更に癒やすようでもある。

 

〜 余震なほ耳元で鳴く遠蛙 〜

 

(肥後の城、熊本地震14句より)

揚句の作者熊本市在住の永田満徳氏の平成26年4月14、16日両日に体験された熊本地震の事は、先日来当欄に於い彼の俳句と共に紹介させ頂いて居る。

大きな前震の後、更に大きな本震が熊本県大分県を中心に発生し、その後3ヶ月も大小の余震が何度も続き、被害と恐怖を増大させたと云われて居る。

更にその後も余震があり、5年以上経過した今でも大きな有感地震が発生していると伝えられて居ります。

子供の頃より怖いものに「地震・雷・火事・親父」と永い間伝えられ、その中でも「身の置き処の無き」恐怖感は、地震が筆頭のようである。

しかし、この様な状況の中でも生命のあるものは息吹き、植物は芽吹き、命を繋ぎ、そして未来へと逞しく生きようとして居るのである。

作者の余震におびえながらも、「耳元で聞こえる蛙の鳴き声」に、ふと生命ある事への感謝と勇気を感じた一句のようである。そう!!。自然界に生きるものは全てお互いに関係し合い、決して孤独ではないのである。

 

〜 三方の山をしたがへ紫雲英咲く 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

「三方の山を従え」とは、小高い山より土砂が流れ出して作り出した、扇状地の狭い地形の平野の光景であろうか?又、大きな河川が海や湖に注ぎ込む時に出来る広い平野部を三角洲と云う処より、揚句の景色は狭い谷あいより土砂が流れ出して出来た狭い田圃の光景が想われれるのである。

関東平野や濃尾平野、砺波平野、筑紫平野のように広い所は名高いものの、その他の日本の平野部は殆どがこのような狭い田圃であり、古の先人達はそのような土地をも耕して来たのである。

紫雲英(げんげ)は仲春以降に田圃に紫色の花を咲かせ、その広大な遠景は特別見事なものである。

嘗ての農家はこの紫雲英を田に蒔き、根粒菌の働きにより空中の窒素分を取り込む為、鋤きこんで田圃の肥料に利用していた。又、蜂がこの花の蜜を吸って作る「蓮華蜂蜜」はとても重宝され、養蜂業者にとっても貴重な今の時季の花であった。嘗ては、車窓より眺め通学して来たものであり、とても懐かい日本の原風景である。

 

〜 「負けんばい」の貼紙ふえて夏近し 〜

 

 (肥後の城、熊本地震14句より)

 過日4月14日、当欄に於いて揚句の作者熊本市在住の永田満徳氏の熊本地震罹災の事を彼の俳句「春の地震」によって紹介させて頂いた。

 

 小生が震災の被災地を初めて訪れた体験は、1995年(平成7年)1月17日に発生した、阪神淡路大震災の時であった。当時神戸市兵庫区に叔母の一家が住んで居り、罹災した為震災お見舞いに訪れた時である。交通手段がなく、漸く訪れたのは地震発生より20日も経ち少し落ち着いた2月7日頃、神戸の青木(おうぎ)港よりフェリーを利用の上、神戸ポートアイランドの埠頭よりであった。

 

阪神淡路大震災の詳細については、マグニチュード7、3、死者6,400名以上の東日本大震災に次ぐ、我が国戦後二番目となる規模であったと伝えられている。その詳細はここでは割愛させて頂くものの、その時、神戸ポートアイランドに上陸した途端、ボランティアの方より「震災支援物資の菓子パンの賞味期限が近くなって居る為、宜しければお召し上がりください」と、配って居た事に面食らった思いがした事であった。

 

当時は震災支援のボランティアの受け入れや支援の方法も手探り状態であり、道路も車も使えない状態ではバイク便が一番便利であったと伝えられている。この阪神淡路大震災の経験を経て、ボランティア活動の仕組みが確立されその後吾が国に根づいたと云われている。

 

そして、瓦礫の中を歩き初めて伺う叔母一家の家を漸く探し当てたのの、倒壊危険家屋と認定され家族は近くの学校の体育館での避難生活であった。

校門近くの公衆電話ボックスや近くの掲示板には、揚句のようにお互いの安否確認の為メモの貼紙が沢山、山ほど貼られていたのである。

 地震の罹災者にとって地震発生の恐怖はもとより、その後の非日常の不自由な生活が続けば、心身ともに堪えて来るのである。被災より日数が立てば立つほど、被災者は各人が揚句のように『負けんばい』と己を鼓舞しながら、立ち直り生きて行かなければならないのである。

 

〜 春の夜やあるかなきかの地震に酔ふ 〜

 

(肥後の城、地震14句より)

過日、当欄にて述べました揚句の作者永田満徳氏の在住の熊本地震は、2016年(平成28年4月14日と、4月16日未明に発生しましたが、当初4月14日は前震と見られ、4月16日の熊本、大分を震源とする発生が本震であったと発表されました。

しかしその後の研究調査に於いて、4月14日発生の地震と4月16日発生の地震とは、それぞれ別ものとであると発表し直されました。その原因として、近くにあった活断層どうしがお互いに連動することで起きる、連動型地震であるとしたもののようであった。

しかし、この研究学説もその後別物ではなく、同時期である為同じであるとも云われている。

何れにしても、その後震度6を含めた大きな余震とみられる地震が、熊本、阿蘇地方に2019年1月頃迄続き、その地域に住まいの住民にとってはその後の余震の「あるかなきか」の微震であっても、身体が敏感に反応した事であろう?春の夜ともなれば、身体に沁みついた恐怖の体験がトラウマとなって揺れが「酔ふ」ように襲うようである。

何しろ、自身が立って居る地球そのものが揺れる事程、たより無いものはないのである。

 

〜 霾天に遍満したるヘリの音 〜

 

(肥後の城、熊本地震14句より)

現代の世は、行事、事件、事故、災害など一瞬のように早く報道体制が敷かれ、新聞、テレビ、ラジオなどにより一斉に全国に配信され、国民は直ぐその内容を知る処となります。

平成28年4月14日、熊本県と大分県に発生した大地震の報道も、NHK及びメディア各社のヘリコプターによって、空より映像が各家庭に配信され、国民もその状態を知る事が出来たのである。又、4月と云えば、遥か彼方のモンゴルよりの黄砂も上空を覆う時でもあり、黄砂によりうす曇りの空に、沢山の取材のヘリコプターが不気味な音を立てて飛び交えば、震災の恐怖が更に追い打ちを掛ける事は想像に難くないことなのである。

被災地域の住民にとって、その騒音とも想える音はいつまでもよみがえる事であろう。

揚句の「遍満したる」との措辞が効き、その時の悲惨な状況を良く物語っているのだ。

 

〜 こんなにもおにぎり丸し春の地震 〜

 

(肥後の城、熊本地震十四句より)

熊本地震は2016年(平成28年)4月14日午後21時26分に前震、4月16日午前1時25分に本震と、何れも震度7の熊本県中央部を震源として発生しました。

その後も大きな余震が続き、死者、負傷者、家屋やビル、学校施設の倒壊など大変な被害を齎しました。

本震は後に発生した方と発表されましたが、前震本震とも規模が余りにも大きく本震はマグニチュード7・3と東北大震災を上回る程あったと伝えられて居ります。

その他の被害では、熊本県が阿蘇と共に誇る熊本城の石垣や櫓が大きく崩れ、大変な被害を出しました。

嘗て戦国の世に、築城の名手と謳われた加藤清正公の技を持ってしても堪えられない程の大地震であり、有名な「武者返し」と云われる石垣も崩壊してしまった事でも覗えるのである。

揚句の「こんなにもおにぎり丸し」との措辞に、現在売られているおにぎりは三角のものが殆どで、震災直後の炊き出しによる「丸い」おにぎりが想われのである。

作者の永田満徳氏も熊本市在住であり、大変な被害に遭われた事が窺がえ、熊本県民の誇りでもあり、心の支えともなって居る熊本城の完全復旧を願い活動を行っている一人であると伺っている。

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桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(春)

2022年04月29日 02時13分47秒 | 第二句集『肥後の城』

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(春)

 

〜 すかんぽや磁石引きずり砂鉄採る 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

春となり戸外の方が暖かくて心地良くなれば、子供等は大人同様戸外にて遊ぶ事が多くなります。

現代の子供等はサッカー遊びであろう?それとも自転車に乗って遠出の遊びなどであろか?しかし、子供等が戸外に於いて遊ぶ光景をあまり見かけなくなったようにも思え、気になるところである。

子供は遊びの天才とも云われ、何でもどんな事でも遊びの道具としてしまうような所があり、揚句を鑑賞すれば「昔の子供は日本の何処でも、同じような遊びを行って居たものだ!」と、思わずニンマリする程懐かしい想い出となる。

以前の子供時代より、戸外での遊びには子供ながらも少し工夫が必要であり、遊び心はその工夫と知恵によっていくらでも面白くなるのだ。

今頃の時季であれば、さしずめ男の子は小川での魚とりや、山に入って野苺採りや友人達と「秘密基地」づくりなどであったのであろう?も良く行って居た想い出がある。

又、沢山ある遊びの中では揚句のように磁石を引ずり回って砂鉄を集め、セルの下敷に乗せ、下から磁石を近づければ砂鉄が立ち上がり、面白い図形が出来る為良く磁石を引きずり回って採り遊んだものである。しかし、その当時の子供の頃、砂鉄は磁石より離れにくく、磁力をスパッと遮断出来るものがあれば等と、考えて居たこともある。

揚句のように春爛漫の今頃であれば、季語の「すかんぽ・・酸葉」も良く効き、遠い想い出も、今まさに眼の前にて行われて居るように想えるのである。

 

〜 鯥五郎飛び損ねたる顔なるよ 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

九州北西部の有明海は福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県に連なる沿岸部にあり、又八代海は熊本県、鹿児島の沿岸に連なり、そのどちらのにも干潟があり、ムツゴロウ、トビハゼなどの干潟の上を飛び跳ね、餌を探したり求愛を行なったりすると云う奇妙な魚が居る。

どちらもスズキ目ハゼ科ながら、ムツゴロウはトビハゼとは食性が違い、大きさもトビハゼの2倍もある20cmまでなると云います。

何れも干潟の上を歩いたり、飛び跳ねながら餌を採ったり、縄張り争いを行う生態ながら、此処ではムツゴロウについて述べて見たいと思う。

ムツゴロウは肉も柔らかく脂肪も多く、かば焼きなどにされ、賞味されているこの地方独特の珍味のようである。

捕獲方法は干潟の上を田橇のような道具で進み、大きな鈎針を投げて引っ掛けて釣る「むつかけ」と云う漁法が有名であり、この地方の風物詩となって居て何度も映像に よって観た事がある。

然し、どう見ても前鰭を脚のように立て、大きな眼で前方を見渡し蛙のように跳ぶ様子は、とても魚とは思えない程愉快な生態なのである。

揚句のようにまさしくおどけたムツゴロウの表情が想われ、「飛び損ねた顔なるよ」の様のようである。

近年諫早湾などのように干潟の干拓が進み、ムツゴロウは何処で生き延びるのであろうか?

 

〜 消ゆるまで先を争ふ石鹸玉 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

子供の頃、小学校の低学年ごろまでは早春の日射しが強くなる時には、日光写真やもう少し暖かくなれば戸外に出て、石鹸玉(しゃぼん玉)遊びを良くおこなったものである。

(サボン)とは石鹸を意味するポルトガル語に由来しているとものと記憶しているが、子供の頃は石鹸を溶かし、水溶液を作り麦藁の茎(ストロー)を使い、吹いてしゃぼん玉を飛ばしたものであった。その為であろうか、しゃぼん玉は(石鹸玉)との漢字表記となって居るようである。

現代ではしゃぼん玉の液とストローがセットとなって売られているため、小さな子供でも手軽に遊ぶ事が出来るようである。

しゃぼん玉も液の濃度や吹く息の加減によって、大きく膨らんだり弾けないものを作りだす為の工夫が要り、子供なりに色々工夫しながら遊んだものである。

揚句を鑑賞れば、虹色に輝く石鹸玉が次々に吹き出され、青い天に向かって先を争うように上がって行く景色が想われるのだ。

又、シャボン玉は虹色に輝き美しいものの、一瞬のうちに弾け、「儚いものの」代名詞のように言われる事がある。そこに子供等も、「美しいものの中にも、短い命を感じ取り、夢を見るように喜ぶようだ」とは、うがち過ぎる見方であろうか?

 

 

〜 春筍の目覚めぬままに掘られけり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

4月に入り、春の景色が進み、筍の走りのものが店先に出回るようになった。

小さくてもかなり高額であり、庶民にとっては中々簡単に味わう事は出来ないでいる。

筍は他の根菜類などとは違い、大きければ大きい程味も良く高額になるのである。

我が住まいのある京都西部洛西地区は、昔より「乙訓筍」として名産地であり、至る処に竹林があって、今頃の時季ともなれば京都の台所を賑わせて居るのです。

筍は地上に出てしまえば、固くなり「えぐみ」も増えて味が損なわれ、筍専門の農家では、地上に出る前に独特の「つるはし」のような道具を使い、深い所より掘り起こして収穫して居る。

嘗て、筍専門農家の方に、「筍づくり」の方法を伺った事があるが、それによれば、竹林に赤土を入れ、同時に切り藁も混ぜ、更にその上、油かすも混ぜると云うのである。

筍の生えるまでには、この様にふかふかの温かい寝床が用意されて居るのです。

そして3月中旬ごろより、竹林を見回り、用意された土のふっくら膨らんだ処に小さな笹の葉を立て、目印としていると云う。

この様に、手間暇を掛けて育てられ、地上に出る前に掘られた筍は頭の部分の皮も未だ黒くなく、さっと湯がけば、えぐみも無く柔らかく「筍の刺身」として食べられると云う。

揚句のように、まさに「目覚めぬままに掘られる」のである。

今の時季の和風の京料理には欠かせない筍は、この様な背景に支えられているのだ。

 

〜 やけにまた礼儀正しき新社員 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

4月の新年度を迎え、あちこちの会社では新入社員の入社式が行われている。

男女新入社員とも、希望と不安を抱きながら入社式を迎えた事は想像に難くない。

毎年のように新入社員を評して、「今年の新入社員は○○」と評価される事も多く、「型、タイプ」があるようである。

嘗て城山三郎の名著に、「粗に野だが卑ではない」との本がある。

これは前国鉄総裁を務めた石田禮助の伝記の中での物語であり、彼石田禮助が一橋大学を卒業後、三井物産へ入社を果たした折り、会社から社長名によって「入社後は一切会社へは迷惑を掛けない」との誓約書の提出を求められた。

石田禮助は、「冗談じゃない、会社が新入社員へ一生涯倒産などにより給料の不払いなど起こさないと誓約をくれれば書いても良い」と断ってしまったと云う。

後年三井物産社長より国鉄総裁へ転出した時も、国鉄問題で国会へ証人喚問を受けた時「今日の国鉄の抱える諸問題は、君ら議員諸君へも責任がある」ときっぱり言うべき事は述べたと伝えられている。

今日の新入社員諸君は、その成長過程に於いて「衣食も足り礼節もわきまえて居る」人が多く、皆ところてんのように画一的な所があり、没個性の若者が多い事が目立って居るようだ。

礼儀正しい事は良い事としても、その場限りではない「大きな気概」を持って欲しいものである。

揚句の「やけにまた」との俗語も、新入社員の第一印象により先輩社員から見た目線が感じられ、大変共感する次第である。

 

〜 とんとんと日の斑を畳む花筵 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

先日漸く暖かくなり、桜の開花状況を確認の為、近在の川べりの桜並木を見物に出かけた。両岸1キロ程の間に桜並木があり、毎年地元の人は込む事がなく楽しみにして居る。この時は未だ5分咲き程ながら、風も無く暖かくて、子供連れの家族が両岸の地道の彼方此方にブルーシートを敷いてとても賑わって居た。

ウイークデーの為、子供とその母親らしき家族ばかりであった。

そう!!、学校は春休みに入って居り、子供達は陽気に誘われ川に入って遊んだりと大喜びの様子であった。

嘗てその昔、東京での現職の頃は、入りたての新入社員の初仕事は「花見の場所取り」と云われたものである。上野公園での夜桜が人気があり、その為、昼間のかなり明るいうちより新入社員数人が、宴会の食品や筵を持ち早めに場所取りに出掛けていたと云う。

昼間の他の宴会の場所を、譲り受けるのである。

揚句を鑑賞すれば、夜桜ではなく昼間の花筵を敷いて、花見の宴会のようであり、宴会が終わり、引き上げる時の光景のようである。花筵に桜の花の枝の影が映り、その状態での片付けの様子が想われるのだ。

人の密などが問題にならなかった頃の楽しく、そして懐かしい想い出のようである。

 

 

〜 廃校は島のいただき花朧 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

内閣府の統計調査によれば、我が国の人口は2006年の12、774万人をピークに減少を続け、2050年には2,700万人減少の約10、000万人、更に2100年には4,700万人まで減ると予想されて居る。

嘗て、古代中国の時代より「人口減少は亡国の兆しである」と云われて続けていました。

その為、戦いに勝利すれば、敵国の人間を自国に連れ帰り、男子は奴隷の労働者、女性は子供を産ませる為としていたようである。それほど古より、人手は国の生産手段として大切な資源でもあったようである。

現代では人間の数が生産手段ではないものの、ある程度の人口が確保されなければ、昔より叡智を集め、培い育てて来た「社会システム」が機能出来ない事になるのである。

揚句を参考に考えれば、実家のある我が鳥取の田舎でも、嘗ては1町村内に4校あった小学校も統廃合され、現在では当時の地区に1校のみとなってしまいました。

通学もスクールバスとなり、児童達にとっても道草など出来ず、味気ない事この上無いようである。

子供が主役の正月行事、秋祭りの実施にも子供の減少の為出来なくなって居ると云う。

揚句に、賑やかな嘗ての学校は今や廃校となり、ただその当時より島の頂きにあった桜並木が満開を迎え、朧に霞む景色が想われるのである。

時代の幾星霜とはいえ、儚くも懐かしい想い出の桜の景色なのである。

 

〜 うららかや豚はしつぽを振りつづけ〜 

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

嘗てその昔、会社内のサークル活動に於いて、英会話を教わっていたアイルランド出身のその女性講師は、愛玩用としてミニ豚を飼って居ると聞き驚いた事がある。

ミニ豚と云っても、小型犬と同じぐらいの大きさであり「マイクロピッグ」と云う種類もあるそうである。

良く聞けば、豚は本来とても清潔好きな動物であり、犬や猫を飼う場合と全く同じであるとも云っていた。とても賢く、室内で飼えば犬のように毎日散歩へ連れ出す必要も無く、糞尿のしつけも出来て、その上、猫や犬のように抜け毛も殆どなくとても飼い易いと云う。とても寂しがり屋であり、人間に良く懐き、膝の上に乗って来ては寝る事が好きだそうである。

揚句を鑑賞すれば、春の季節とは限らなくても小さな尻尾を振り、擦り寄るミニ豚を想えば、如何にも春めいて感じられ、楽しい心情となるのである。

 

〜 釣つてすぐ魚を放つや山桜 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

春ともなれば、木々や草花ばかりではなく、昆虫や動物達も眠りから覚めたように活発な動きとなる。魚も例外ではなく、産卵のために餌を盛んに食べる季節となるのである。

私事ながら嘗て、魚釣りを趣味としていた期間が長く、川釣り、海釣り、池の釣りなど幅広く行っていた。

その中に、ルアーフィッシングと云う釣りの方法があり、魚の餌となる小魚の形に金属や木片を削って色付けを行い、その魚に針を何か所もつけ餌の替りとします。

ルアーフィッシングでは釣った魚を食べる事ばかりではなく、スポーツフィッシングと云い、「キャッチ&リリース・・釣果と大きさを競い合う」魚釣りの部門がある。

餌を何度も替えたりする事無く、魚をルアーにて誘いヒットを楽しむのである。

そんな事を行えば、魚は痛くて可哀そうではないか?と思う人も居ると想われるが、魚の口は神経が殆どなく、痛くないそうである。

揚句を鑑賞すれば、春の渓流に於いてのルアー釣りが想われ岩魚(いわな)、山女魚(やまめ)が対象の魚と想われるのだ。

少し遅めに咲く、山桜を眺めながら趣味に没頭する至福の時間が想われるのである。

 

 

〜 てふてふのくんづほぐれつもつれざる 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

先日の急激な春の暖かさ以来、紋白蝶、紋黄蝶、しじみ蝶などの舞う光景を目にすることが多くなった。

然し、今の時季は急な冷え込みの「寒の戻り」などもあり、そんな場合にはどのように過ごして居るのだろうか?と少なからず心配となる事が良くある。

野原や川べりを歩いて居れば、縄張り争いであろうか?愛の交換であろうか?二頭がぐるぐる螺旋状に舞い上がる光景を目にすることを度々目撃することが有る。

揚句のように「くんづほぐれつ」の状態であり、それでいて縺れる事は決してない。

その為、少しGoogleにより調べて見たが、どうやら「縄張り争いのようだ」と判明した次第であった。

蝶には沢山の種類があるが、何れも小さい姿態であり、その舞う光景は愛らしくて心の和むものである。

揚句のように、すべてひらがな表記の伝統的仮名遣いの句は、蝶の姿態にぴったりであり、目の前にその光景が展開され、見て居るようである。

 

 

〜 やどかりの抜けさうな殻引きずりて 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

やどかりは漢字では(寄居虫)と書かれ、(がうな)とも云われ、蟹に似た触手と爪の足を持ち巻貝の殻に棲み、成長するに従い大きな貝殻に棲み変えます。

俳句では春の季語となって居り、海老や蟹と同じ甲殻類である。海辺の水生と陸上に棲むものも居り、椰子蟹なども同じ仲間である。

TVコマーシャルでは不動産業の漫画動画などにも使われ、愉快な宿替えの様子が知られて居る。

嘗て子供が幼稚園児の幼い頃、陸(おか)やどかりを飼育して居て、その生態を一緒に観察していた経験がある。餌は殆ど何でも食べる為、飼育は容易であった。

宿替え用の貝殻も数個入れて飼育していたが、やどかりは夜行性の為、夜中に枕元でガサゴソと動き回り、睡眠の妨げとなり、閉口した想い出がある。

小生の現役時代も関東では3度、転勤後の関西でも2回、転居の宿替えを行って居り、賃貸住宅へ住む事を「やどかり」に喩えられ、苦笑するばかりである。

揚句を鑑賞すれば、海辺のやどかりでも、陸やどかりも同じながら、抜けそうな大きな貝殻をいつも背負い歩き回る生態は愉快であり、ペットとして飼育される事もうべなるかなである。

春の今頃の時季はそのような事も想い出となってよみがえるのである。

 

 

〜 梅東風や祠に至る幟旗 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

梅東風(うめごち)とは、梅の花が綻び始める早春に、北東方向又は東方より吹いて来る風の事であり、時には荒れ気味に吹く強い風を指す春の季語である。

揚句を鑑賞すれば、鄙びた地方にはよくある土地の人々の信仰篤い八幡さまの事であろうか?神様を祀ってある社とは云えない程の、小さな祠が想われるのである。

そこに至るには森の中の小径を辿り、更に幟旗が沢山立てられている階段を上へと登って行けば、祠が見えて来る景色が想われる。

そして、未だ少し寒い早春の森の中の木々を見上げ、小鳥たちの囀りさえ聞こえて来る作者の情景が見えるようである。

 

〜 鶏小屋の鶏出払つて梅咲ける 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

私事ながら小生の田舎の実家は兼業農家であった。

当時の農家は何処の家でも広い庭(かどとも云う)があり、納屋の外側に鶏小屋が設えてあった。実家でも同じように6~7羽の鶏がいつも鶏小屋で飼われていた。

その中には雄鶏も必ず居り、朝の「刻の声」を上げその声で目覚めていたものである。

暖かい春ともなれば、鶏小屋より鶏達を庭へ放ち、鶏達は庭の芽吹いた草を啄んだり、砂場にて砂浴びを行って暖かい日差しを満喫していた。

又、春には新しく次世代の雛(ひよこ)を買い、子供は学校より帰れば餌となる草を摘み、米糠と貝殻を混ぜて雛(ひよこ)に与えることが日課であった。

今その当時の光景を想えば、大変長閑であり平和そのものの記憶が蘇るのである

揚句を鑑賞すれば、鶏達は小屋より出払い、庭の彼方此方に居り、庭の先には丁度梅が満開に咲く景色が想われるのである。

「鶏小屋の鶏出払つて」との措辞に、まさに春爛漫の長閑な詩情が溢れて居るのである。

 

 

〜 青潮にこぼるる万の椿かな 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

青潮とは海水に含まれる硫黄がコロイド化し、海水が白濁する現象である。

この現象が発生している時は海面近くの海水は空気中の酸素と混り、青色となるため、赤潮と対比されてそのように呼ばれている。

いずれにしても、赤潮と同じで酸素が少なく、魚介類にとっては致命的となり、水産業者にとって漁獲高に大きく影響するため、いつも問題となるのです。

又、揚句を鑑賞すれば、今頃ともなれば山茶花の花は終わりを告げ、あらゆる椿の開花の時季となって居り、岬の尖端のその先は断崖絶壁となって藪椿の群生が想われるのである。

冒頭に青潮の事を科学的に述べたものの、その情景を推察してみれば、真っ青な海に沢山の椿の花が咲き乱れ、海へと零れ落ちて居る景色が想われるのです。

 

 

〜 春の雷小言のやうに鳴り始む 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

春の雷とは立春後に起こる雷の事を云い、季節代わりの定まらぬ天候の時によく発生して居り、一雨毎に春めいた光景をもたらす雨となるのです。

又、芽吹きを促す「春雷」とも云われ、今の時季の野山や渇いた街並みに降る恵みの雨となるのだ。

その雷の音は、真夏の夕立ちのように激しくなく、雪を呼ぶ冬の雷のように一発大きく鳴って終わる事はない。

そうです!。愚痴とも小言のようにともいつまでも鳴り続き、雨が降りだせばやがて知らぬ間に鳴り終わっている事が多いい。

誰かの小言を聞く事は嫌なものであるが、この時季の雷は恵みの報せなのである。

折りしも今日の現在は良く晴れているものの、気温が高く夕方より雨の予報である。

 

 

〜 この町を支へし瓦礫冴返る 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)

地質学、地震学に詳しい方であれば良くご存知にように、日本列島は現在の姿となるまでに、ユーラシアプレートの東端、北アメリカプレートの南西端の下に、太平洋プレート、フィリピン海プレートの二つが沈み込み、数千万年を掛けて南北に長い形状の列島になったと云われている。

その為、地殻変動により地震や火山の発生が古代より多く、近年の直近では1995年の阪神淡路大震災、2004年の中越地震、2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震と大型地震の発生と大きな被害に枚挙の暇もない程である。

折りしも、本日3月11日は東日本大震災の発生より12年目を迎えその時間の午後2時46分

には全国的に追悼の黙禱が行われたようである。

又、揚句の作者も熊本在住であり、熊本地震の被害の大きさと哀しみが現在でも胸に染みて居る事であろうと想われるのだ。その時の見慣れた街並が瓦礫となった光景を眺め、胸を打つ悲惨さと哀しみに思いを馳せているのである。

この世の恐ろしいものの喩えに「地震・雷・火事・親父」と云うものがあるが、何しろ我が身が立っているこの大地が揺れる事は、どうしようもない恐怖なのである。

 

〜 阿蘇越ゆる春満月を迎へけり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

阿蘇山は九州のほぼ中央に位置する、我が国有数の大型カルデラ火山である。

広大な外輪山を持ち、「火の国」熊本県のシンボルとして我が国は元より現在海外からも観光地として人気を博して居る。

更に、その地にある阿蘇神社は嘗て神代の時代より神武天皇の孫神が火の山阿蘇の火口をご神体として司る神として祀られて居り、全国に500社の分社のある一宮であります。その宮司家「阿蘇氏」は代を重ね、中世には武士家としても隆盛を誇る程であったと云われている。

又、人は誰でも自身の住まいのある土地の「山」「川」「海」を日々眺め暮らし居り、その年数が永くなればなる程、見慣れたその光景に愛着を感じて来ると云う。

揚句を鑑賞してみれば、熊本在住の作者は「朝な夕な」に、日々に阿蘇山を望みながら暮らして居る事が想われ、今まさに昇ろうとする春満月を見て、その月がやがて阿蘇山を越えて行く光景を想い浮かべて居る様子が見えるようである。

さぞかし、その眺めの雄大であり、春めいた心情となって居る事が予想されるのです。

 

 

〜 揚雲雀古墳一つに人ひとり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

春逡巡と云えど、日によっては暖かくて穏やか日もあり、田園地帯を歩いて居れば、雲雀の囀りを聞く事も出来るようになった。

天高くより地上に向かって囀る「チュビリチュー、チュビリチー、チュビリチュビリ」と、異国語とも想えるその鳴き声はとても明るく春めいて、心が和み大変癒やされる心情となるのです。

揚句の情景を考察すれば、「古墳一つ」「人ひとり」との措辞に、古墳といっても、小さな小山程の古墳が想われ、作者はそこに佇み独り吟行を行っているようである。

そして、古墳の悠久の歴史を想い、天からの揚雲雀の囀りを聞いて居れば、作者は今まさに春の真っ只中の至福の時間に浸っている事が想われるのである。

 

 

〜 春立つや色刷りに凝る広報紙 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

立春を迎える頃ともなれば、朝夕は未だ寒さが厳しいものの、日中の日差しは日毎に暖かくなり、そして長くなるのである。俳句の季語ではこの時季を「日永」とも云う。

そして、服飾業界では一斉に春物の売り出しが始まり、商店街の飾りつけも春めいた装いになるのです。もちろん展示のポスターもチラシ広告も、春めいた色使いに拘り何もかも顧客の心理状態を浮かれた心情へと誘い、購買へと導くのである。

概して人の心理は、寒い時季には見た目にも暖かい「暖色系」を選び、暑い時季ともなれば涼しそうに見える「寒色系」を選びたがるようである。

冬から春へと季節が移行する今の時季は、いきなり「寒色系」ではなく、淡い色彩の「パープル」「ベージュ」「ピンク」や「パステルブルー」「パステルグリーン」などパステルカラーと云われる中間色の淡い色合いが中心となるのです。

嘗て現職の百貨店勤務では服飾関係、宣伝関係にも携わり、定年後には商店街の企画を担当の経験もあって、そのような時の春先には色彩に凝る場合が多かったのです。

揚句の「色刷りに凝る」との措辞は、季語の「春立つ」ととても関係し合い大変納得と共感をする次第なのです。

 

 

〜 制服をどさりと脱ぐや卒業子 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

早くも三月に入り、幼稚園から大学までそれぞれ卒業式を迎える季節となりました。

揚句を鑑賞すれば、男子学生よりどちらかと云えば女子高生の卒業の心情が想われるのである。

学校生活は制服のみならず、身だしなみとして学校毎のルールがあり、特に年頃の女子高生ともなれば、お化粧、髪型などへの強い欲求もあってかなり窮屈だと感ずる事は想像に難くない事である。

卒業後は就職や進学を行うとしても、制服を「どさりと脱ぐ」との措辞に、一区切りの安堵の心情が想われるのだ。又、毎日通学を行った長くて短いような期間も想われ、「卒業」の行事に相応しい背景が垣間見えるのです。

 

 

〜 学究はものに語らす梅真白 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

学究(がっきゅう)とは学問の研究を専門に行っている学者の事である。

文学、生物学、化学、物理学などあらゆる分野での研究と雖も、自身の研究の成果を何らかの方法によって世に発表しなければ、何の価値も無いのである。

専門書での論文、学会での発表、ビデオ、テレビなどのメディアでの発表など、方法は幾らでもあるものの、具体的な資料を基に発表しなければ理解されにくく、価値を世に問う事は出来ない。

又、揚句の鑑賞に際し少し余談であるが、「梅」と云えば平安の古より「学問の神様」菅原道真公(菅公)の事が一瞬にして想起され、梅の開花の頃は受験とも重なり、学問と梅の深い関わりが想われるのである。

その為、季語の「梅真白」との措辞が効果的に働き、学究の聡明な事が想われ、何によって語っているのかが具体的に示されていなくとも、アカデミックな詩情が醸成されるのだ。

 

〜 夭折にも晩年のあり春の雪 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より

夭折とは若くして亡くなる事であり、具体的な年齢を述べたものではありません。

若い時(あるいは幼い時)より、その才能を世間に高く評価され、その成長と共に将来の大成を楽しみと目された人が早く亡くなる事を云い、社会の損失とも想われる事であります。

例えば、作家の中上健司46歳、樋口一葉24歳、詩人の中原中也25歳、金子みすゞ27歳

など枚挙にいとまがありません。その多くは文芸、画家などの芸術家に多いいようである。

然し、時代が下ればその当時は人口に膾炙していた夭折の文芸家、芸術家達も、一部の人達の間のみで評価され、生きて居れば晩年とも云うべき状態となってしまうのです。

揚句に「春の雪」が降る時季ともなり、作者はその夭折の芸術家に思いを馳せ、偲んでいる事が想われるのです。俳句に於いて「にも」との措辞は、評価出来ないと云う結社の主宰は多いいものの、この場合は作者の心情を強調して居りその必然性は高いのである。

 

 

〜 過去のごと山重なりて夕霞 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)

ここ数日、連日のように朝夕の冷え込みが厳しく、今年は例年より暖かい春の到来が遅いように想われる。

しかし、毎日のように近在の田園地帯の散策を行っていれば、日脚は確実に伸びて居り、日差しにも力が漲って来て居る事を、とても実感する時がある。

そして時には暖かくて穏やかな日もあり、山並みに霞が掛かって揚ひばりの囀りなどが聞こえ、とても心が癒される事もあるのです。

揚句を鑑賞すれば、日中の気温は暖かく霞がかって居り、そのまま夕暮れとなって居る景色が想われるのである。

遥か山並みを遠望すれば、少しづつ暮れて行く光景であり、近くの山は色濃く遠くの山並みは霞んだままのグラデーションの景色が目の前に見えるようである。

その光景は「過去に置き忘れて来たもののようだ」と作者には映っているのである。

そして、間もなく幻想的な春の宵となり、詩情あふれる光景が続く事になるのです。

 

〜 をんどりのさとき鶏冠や花なづな 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

嘗て田舎の農家では庭先に小さな鶏小屋があり、庭に於いて平飼いにて飼っていた。

雄鶏は朝ともなれば刻(とき)の声を上げ家人に朝を知らせ、雌鶏の産む卵は家では貴重なたんぱく源として重宝であった。

10羽も飼って、昼前頃になれば、雌鶏が卵を産み賑やかに鳴いて知らせていた。

又、家で何かの行事があれば鶏は御馳走として食前に供される事もあり、大変重宝でもあった。

子共の頃、春先になれば鶏の雛を買い、餌を与えて育てる事が子供の役目でもあり薺の若葉を刻み、米糠も混ぜて与える事が日課であった。

そして庭先に於いて放し飼い中の雄鶏は、赤い鶏冠を垂らしながら雌鶏たちを危険より護るかのようなさとい顔つきで、悠然としている事が多いいのである。

揚句に、鶏たちが遊ぶ長閑な春の庭先の光景が想われ、ほんのり温かい想い出に浸る事が出来て懐かしい心情になるのである。

 

〜 春昼の鯉めくるめく渦なせる 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

嘗て関東での現役の頃、住まいは埼玉県の浦和近辺に永く居住していた。

当時長い間川釣りを趣味として居り、真鮒やヘラブナ釣りに夢中になっていた。

釣りは「鮒に始まり鮒に終わる」とも云われ、特にヘラブナ釣りは春夏秋冬に於いて、棚どり、餌の練り具合、餌その物の材料、釣竿、釣り針、へら浮子などに工夫が要り、道具にも凝るようになって居た。

埼玉県浦和(現さいたま市)界隈は元荒川の湾処(わんど)、江戸時代には7代将軍吉宗公により新田開発の為に作られた見沼用水などがあり、釣場には困る事は無かった。

勿論、いつも野釣りばかりではなく「釣り堀」へも良く通い、棚どり、練り餌さの研究、合わせのタイミングなどの腕磨きも行って居た。

人に言わせれば「魚が居ると判っている釣り堀での釣りがどうして面白いのか?」と言う人が沢山居る。然し、そうではありません!!「魚が居る判っている釣り堀で釣れなくて、どうして居るかどうか判らない野釣りで釣れるのか?」と云う事が持論なのである。

・・・本題の揚句の鑑賞より前置きが長くなりましたが、ヘラブナや鯉などの就餌(餌を摂ること)は、吸込みにより摂って居り、四季の水温に影響される事が多く、冬などの寒い時季は余り食べなくなり、水底や物の蔭に潜み殆ど動かなくなる。

然し、春とともに水温が暖かくなれば(乗っ込み・・・産卵の時季)を控え、就餌も盛んとなり、活発に泳ぎ周る。

揚句に春の暖かくなった午後、泉水の中で活発に回遊を行う鯉の群れが瞬時にして想われ、「目くるめく」との措辞が効き、本格的な春の穏やか景色が想われるのである。

 

 

〜 風船の行方知れずを良しとせる 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

春先ともなれば商店街のセールなども盛んになり、販促品として来店の幼い子に風船を配布することが良くあります。

風船には紙風船とゴム風船があり、紙風船は田舎の子供の頃の想い出に、越中富山の薬売りの行商人により、訪問先の子供に土産品として配りとても楽しみに貰っていた事が想い出され、とても懐かしくなるのです。

春の季語である「風船」を揚句に即して鑑賞すれば、この句の場合は明らかにゴム風船が想われのです。

幼い子が風船を貰い、手に持って空に浮かぶ様子を嬉しそうに眺めて居る光景が浮かぶももの、時にはうっかり手放してしまい、風船はそのまま空の彼方にのぼり風に流され行方不明となってしまいます。木々の枝や電線に寂しそうに引っかかっている光景は良く見かける事があります。

然し、更に深く作者の意図を考えれば「漸く暖かくなり、日差しも明るくなれば風船もしがらみを解き放たれ、自由になりたいのであろう」との、解放願望さえ想われるのである。

 

 

〜 予後のわれ妻に遅れて青き踏む 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

人は誰でも予期せぬ病気に罹り、入院を行う事は人生に於いてあり得る事である。

作者の永い間の入院生活の後、春を迎え漸く病気も癒えて退院した経験が想われるのである。

然し退院出来たからと云っても、その日よりいつものように普段の生活が出来る訳ではなく、少しづつリハビリのように歩く事より始め、日を重ねる事によって体調を整える事が出来るのである。

春の季語「青き踏む」とは、野に出て青草を踏みながら宴を催した古の習慣により野に遊ぶ事を云うのであるが、この句では作者の奥様が気を遣い、連れ添いながら、ゆっくり足慣らしを行って居る情景が想われるのです。

春の暖かい日差しを浴びながら、戸外の新鮮な空気を吸い夫婦が連れ添う暖かい光景が良いのである。

 

 

〜 城といひ花といひ皆闇を負ふ 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

そこに高い石垣の上に聳える美しい城が見える。

そこに厳しい冬を乗り越え爛漫と咲く桜の花が見える。

嘗て、近在の京都洛西の山すそに在る西行法師が出家を決めたと云う勝持寺(花の寺)に参詣し、住職に薬師如来様の教えについて説法を賜った機会がある。

その教えは「この世は苦楽相半ばなら先ず良しとせよ」、つまり辛い事も楽しい事も半分ずつであり、この世は辛い事、楽しい事ばかりではないというものである。

古の武士の栄耀栄華を極めた美しい城郭でも、今や爛漫と咲く桜の花もその昔を辿れば色々な風雪に耐え、今があるのである。

よしんば風雪が無かったとしても今はその美しさを誇り人々の脚光を浴びていても、将来にわたり永遠に誇る事は出来ないのが世の常である。

俳句に於いて、「この世に生きとし生けるものや美しきものの哀愁」を物の姿を通して知る事であり、そこに「華」を見出す事によって「詩歌が生まれる」のである。

挙句の「闇」とは、そのような「色々哀切を併せ持つ」姿の事であり、奥深い味わいを見出す一句である。

 

 

 

 

〜 城下町みづうみのごと霞みけり 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

この場合の城下町とは、作者在住の加藤清正公縄張りの熊本城を誇る熊本市内のことである。

初春の頃は地表近くの空気が冷やされ、地上に霞が立ち込める事がよくある。

近年は兵庫県朝来市の竹田城址が霧の中に立ち上がる「天空の城」として脚光を浴びている。群雄が割拠し争った時代の城跡と自然現象との組み合わせは現代の人々にもロマンを感じさせ、人気があるようである。

加藤清正公縄張りの熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれ、今でも熊本県民の誇りとなって居る。

中学生の頃修学旅行で訪れ、その時の熊本城の解説では上に行くほど反り返る「武者返し」と云われ、一番上の石垣はほぼ垂直となって居て驚いた事ある。

その熊本城の周囲に霞が立ち込め、城下町全体が「みづうみ」のような状態となって居るのだ。

近年2016年4月発生の熊本大地震により、熊本城は甚大な被害を受けたものの5年後の2021年にはほぼ復旧の目途が付き、完成も近づきつつあるようである。

「火の山」阿蘇山を近くに控え、過去に何度も大地震に見舞われて居り作者の心の奥底にはこのまま「みづうみ」のように鎮まって居て欲しいとの願いまで見えるようである。

 

 

 

〜 縄文の血筋を引きて独活齧る 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

歴史研究に於いて、今日ほど縄文時代に脚光が浴びている時代は無いと云われている。

縄文時代は1万3千年前~2千300年前の中石器~新石器時代と位置づけられ、この時代は従来、自然界の動・植物などの採取中心生活時代であり、農耕は行われなかったと長い間云われて来ました。

しかし、この時代の食性や暮らしなど文明と文化研究が進むにつれ、栗林が植栽されて居り、稲などは後の時代、弥生時代まで作られる事は無かったとの定説を翻し水稲栽培ではなく、陸稲によって作られて居たことも明らかになりました。

更に、この時代は焼物の道具も作られ火炎土器はその芸術性まで話題になるほどです。

又人骨の傍に植物の種なども発見され、故人を偲んで埋葬され、花も添えられていたであろうと云われて居り、その精神性の高さまで話題になりました。

食物も鹿、猪などの動物や木の実ばかりではなく、貝類も沢山食べられ全国至る所に貝塚が発見されるほどです。この様に自然界の中より種類も沢山食べられ、その食性は驚くほど豊で「縄文クッキー」などは栄養価も高く、現代に見直されている程である。

然しながら、日本列島の中に於いて縄文人と後年の弥生人が混血を繰り返し、現代の日本人を形成したとしても、縄文人のDNAは必ず何処かに残って居り、時には採取中心の時代の食性も甦る事は無くならないようである。

生の独活を齧りながら、その事に思いを致し居る作者が見えるようである。

 

 

〜 薄氷の縁よりひかり溶けてゆく 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)

「薄氷」は「うすごおり」とも「うすらい」とも読むことが出来、春先の寒い朝

などに張るうすい氷の事である。他の物質(例えば土、石など)に日が当たれば氷より先に温度が上がり、その境目は氷を溶かし始めるのである。

上記の句を見て、一瞬にして蹲(つくばい)の中に張った薄氷を想起してしまったがよく見なければ分からない程の薄氷は、縁より溶け始め少しの風が吹いてもゆっくり流れ、時には日差しに煌めきながら揺れている事がある。

その光景は如何にも春めいて想われ、春先ならではの情景であるのです。

このように、何処にでもありそうな自然界の営みの、季節と共に変化してゆく景色をよく観察する事により自身の感性を磨く事は、作句を行う上でとても大切なのである。

 

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞

 

〜 差しきたる日に応へむと梅の花 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)

掲句とは直接関係ないものの、江戸時代初期の芭蕉十哲の一人服部嵐雪の句に私の大好きな「梅一輪いちりんほどの暖かさ」と云う有名な句がある。

色々な俳人によって解説されているが、長くて厳しい冬の寒さに「もう我慢も限界」と想って居た矢先に、少しづつ日脚も伸び来て漸く梅の花の綻びの一輪を見つけた春到来の喜びなのである。「暖かさ」とは梅の花を通して、服部嵐雪自身の心の中の「暖かさ」なのである。

梅の花は、これほど季節の替り目に相応しい花は無いように想われるのだ。

概して春に芽吹く植物の花や芽は、気温が暖かくなるばかりではなく、一日の日照時間が長くなる事が条件のようでもある。

その日々、日照時間が長くなる日差しに、梅の花も応え咲こうとしていると見た作者の豊かな感性が想われるのだ。

俳句はこのように自然界の営みに人間も同化する事が出来、その時に詩が生まれるのである。

 

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桑本栄太郎の【『肥後の城』一句鑑賞】

2022年04月29日 02時05分51秒 | 月刊誌「くまがわ春秋」

桑本栄太郎の『肥後の城』一句鑑賞(秋・冬)

 

〜 秘蔵つ子のやうな青さや竜の玉 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)

遠い子供の頃、小学校低学年の頃の記憶に冬ともなれば篠笹の薮に入り、ポケットに忍ばせた切り出しナイフの「肥後の守」を取り出し、節の長い笹竹を選び「笹鉄砲」を作り遊んだものである。

笹鉄砲は節に合わせて弾を押し込む心棒も作り、筒の長さより1cmほど短く作って、弾は八つ手の実や竜の玉を使っていた。八つ手の実は少し和らかく、竜の玉の方が固くて笹鉄砲の弾には威力があり最適であった。

パチンと打てばうす青い煙が出て、子供心にもとても満足したものであります。

竜の玉は、竜の髭と云う植物の細長い草状の中に、宝石のラピスラズリーのような瑠璃色の美しい実の事であり、庭園周りに植栽されることが多いいようである。

昔の田舎では畦などに生えて居り、竜の髭の草を目の色を変えて掻き分けて探したものであった。まさに貴重な秘蔵っ子であった。

竜の玉は園芸品としても美しく魅力的であるが、作者も笹鉄砲を作って遊んだ事があるように想われ、俳句を通じて同じ想い出を共有しているとも想い愉快である。

 

〜 今は亡き犬の首輪や日脚伸ぶ 〜

 

永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)※

あれほど長くて厳しい寒さも少しずつ日脚が伸び、春近しの感がある昨今となりました。

その明るい日差しの当たる庭を見るにつけても、今では亡くなってしまった愛犬の元気に庭を走り回っていた姿を想い出し、その愛犬が身に着けていた首輪を見て更に淋しさを募らせている作者の様子が見えるようであります。

家に飼う愛犬や愛猫は今や家族の一員となり、家族皆の話題になるほどでもある。

その為以前は「犬や猫に餌をやる」と云って言い方も今では殆ど「餌をあげる」と家族のように言うようになっているのです。

しかし、犬や猫の平均寿命は15歳程と云われ犬や猫の1年は人間の5分の1ほどであります。その死は家族皆哀しみに打ちひしがれ、所謂「ペットロス症候群」とも云われているのです。

この様に季節の変り目となれば、色々な事を想い出し哀愁の漂う時季でもあるのです。

その内向きとも思える哀愁も、俳句に詠む重要な題材となり得るでようである。

 
〜 稜線を残して寒の暮れゆけり 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
人々が暮らす近くに嶺の連なりや、大きな河川、或いは海などの光景が見えれば、季節ごとに表情が変わり、その景色を日々眺めて暮らす内にそれぞれの在所への愛着が湧いて来るものです。
揚句の稜線と云う措辞に、作者の近くにも山の嶺の連なりのある景色が想われ、日常的に眺めて暮らして居る事が想像されるのである。
又、季節に関係なく好天の日に嶺に夕日が沈みゆく光景は、いつ眺めていても飽きる事が無いほど美しいものである。
更に、「稜線を残す」との措辞に「入日のまさに沈んだ直後の光景」が想われ、寒空の茜に、稜線の黒い影の連なりが作者には見えて居り、「息を呑む」ほど美しく思う作者の心情さえ見えて来るのです。
 
〜 雪降るや茅葺厚き阿弥陀堂 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
阿弥陀堂とは、阿弥陀如来を本尊とする仏堂の事であり、平安時代からの浄土信仰と共に多く建てられました。後年、武士や貴族階級により自身の浄土を現前する為に阿弥陀仏を安置する小さな方丈の建物が作られ初めました。
又、大きくて有名な寺院の中にも阿弥陀堂はあるものの、その多くは武士や貴族階級の領地や敷地内にあり、日常的な信仰の対象となって居たようであります。
その多くは現在より人里離れた山林内などにある事が多く、嘗て源義経が兄の頼朝より京の都を追われ、吉野へ静御前と共に身を隠したと云う吉野の山中にて、そのお堂を見学したことがあります。
あれ程の武士が都を追われ、深吉野の小さなお堂に潜んでいたことを想い大変哀れを誘われた体験があります。
揚句に、茅葺の厚い屋根に雪が深々と降り積もり、清浄且つ霊験あらたかな景色が想われ、心が洗われる思いである。
 
〜 犬逝くや遊びし庭に冬の雨 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
犬や猫は縄文の昔より人に飼われて居た歴史があり、かなり以前より人間社会に於いて共存していたと云われて居ります。
昔であれば、犬は番犬として、猫は穀物を食べる鼠の駆除など夫々役割があったものの、現代では殆ど愛玩用に飼われて居るようである。
しかし、愛玩用として家族の一員となって居るとは言え、人間社会とは平均的寿命が違い、犬猫の平均寿命は種類にもよるものの、15~6歳
であると云われ、人間の80歳代へも匹敵すると云われて居ります。
永い間生活を共にすれば言葉は話せなくとも、人の意思が分かるようになり、なおさら愛着が湧いて来るのです。
この揚句の場合、今は冬の雨が降っている庭を眺め、亡くなった愛犬の元気な頃の庭一杯走り遊んでいた光景が想われ、哀しみに暮れて居るのです。
季語の「冬の雨」が、悼む心情を良く表して居る。
 
〜 ひとしきり煙りて阿蘇の山眠る 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(大阿蘇より)
阿蘇山は「火の国」と云われる熊本県の象徴的な火山の山である。
阿蘇五岳より成り立ち、外輪山と内輪山のあるカルデラ地形は北海道のクッチャロ湖につづき、我が国二番目の規模と云われる活火山の山である。
いつも噴煙が棚引き、時には大きな噴火もあって火山性微動をもとに常時観測され、警報も出されて居ると云います。
又外輪山の内側には広い平野も在って、牛の放牧なども行われ人々の日常の生活も営まれて居り、「阿蘇の赤牛」として有名である。
数万年前の有史以前よりこの様に噴火を繰り返し、現在に至って居るのです。
永い歴史の内には、人々の噴火による被害もあったであろう事が想われるものの、火の山阿蘇山は悠久の歴史の中に息づき、冬は俳句の季語として「山眠る」と云われながら、不死の生命体のように歴史を繰り返すその活動に想いを馳せて居る作者の姿がこの句に推察されるのです。
 
〜 巌一つ寒満月を繋ぎ止む 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
寒の時季の満月は厳しい寒さの中、青白く凛と冴えとても美しいものである。
揚句を考察してみれば、「巌」とは大きな小山程もある岩が想われるのだ。
或は海岸近くに在れば、小さな島程もある大きな岩さえ想う事も出来るのです。
この様に一句の中に使う措辞や漢字は、大きな意味を持ち大変重要なのです。
更に考察を深くすれば、大きな巌の上に寒満月が在り煌々と輝くその場に臨み、美しい情景をを愛でている作者の視点が想われるのである。
又その景色が海岸近くであれば、潮騒の音も同時に想われ、幻想的な詩情がいやが上にも見えて来るのです。
良い俳句とはこの様に、「言いおおせて未だ何かある」と読者に想わせ幾らでも
想像がふくらんで来るのです。
 
〜 沖よりの朝日を浴びて寒稽古 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
日本武道の空手、剣道、柔道などは本来季節に関係無く我が身を護る為の武術であり、「常在戦場」の武道であります。
暑さ寒さなどを厭う事は許されず、どんな環境にあっても自身の技量を磨かなければ、我が身を護る事は出来ないのである。
寒稽古と云われる武道は現代のスポーツ界では、日本古来の武道の場合のみに言われるようであるが、心身ともに鍛える事が出来ると云われて居り、その良さを認められ、今でも奨励されているようである。
揚句の場合、朝の厳しい寒さの中、沖より差し昇る日差しを浴びながら海岸の砂浜を一団となって走っているのか、又は全員が同じ形稽古を行っている光景が想われる。
厳しい寒さの中にありながらも集団にて我が身を鍛えれば、その後には清々しい気分に浸れるようだ。
 
〜 ペンギンのつんのめりゆく寒さかな 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
ペンギンは主に南半球の海域に生息する海鳥であり、南極に棲むコウテイペンギンとアデリーペンギンは特に有名であります。
海に潜り魚を餌として捕獲しているものの、陸上や氷の上では他の鳥類にはない特徴として、短い脚でひょこひょこ歩き、その光景は可愛いらしくてとてもユーモラスであります。
羽も海に潜ることばかりの生態により飛ぶ事がなく退化していて短く、その両手と短い両脚での歩行は所謂「ペンギン歩き」とも云われ、皆から愛され動物園でも人気が高いのです。その為マスコット人形にもなる程でもあるのです。
揚句の作者はそのペンギンの生態を映像か又は動物園などで眺め、愛らしくて可愛いペンギンも「寒さ故につんのめりながら歩いている」のだと想い、又作者自身も寒さの中に居る事が想われるのである。何れにしても、寒い時季ならでは一句であります。
 
〜 原城址火箭のごと降る冬の雨 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
先ず、火箭(ひや)とは火矢とも云い、矢の先に炎を着け相手方に打ち込み火事を誘発させる戦法の一種の事である。
俳句に於いて史跡や名所を題材に詠む事は、ともすれば場所やそこで起こった事の説明に終わりがちとなり、意外に難しいものである。
「島原の乱」は江戸幕府の基礎も固まった1637年、時の島原藩主板倉勝家の過酷な年貢取り立てと弾圧の圧政に堪えかね、キリシタンである天草四郎時貞を中心に立ち上がって戦い、最後に立て籠った原城の跡地が原城址である。
原城には武士や浪人・農民・女子供まで混じり37000人が立て籠り、大変頑強に戦ったと云われ、最後に松平信綱の出番により、漸く鎮圧出来たと云われている。
勿論、島原の乱鎮圧後藩主板倉勝家はその責任をとがめられ処刑されたと言われている。
揚句を考察すれば、作者は冬の雨が「火箭のごとく」降りしきる時季に原城址を訪れ、荒涼とした光景を眺め、その当時の悲惨な現場に想いを馳せているのである。
 
 
〜 炭つぐや後ろ盾なき立志伝 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
立志伝とは志を立て、苦労と努力を行い成功した人物の物語である。
例えば我が国の歴史上の人物で云えば「豊臣秀吉」や「徳川家康」、現代で云えば「本田宗一郎」「松下幸之助」などであろうか?。
その例は枚挙に暇がない程である。
しかし、人は生まれながらにして成功者などは居らず、その人の切所の度毎に努力と知恵と才覚により、自ら運命を切り開き成功者となるのである。
その度毎に「後ろ盾」になる人、「協力者」を得て更なる飛躍を遂げるのだ。
又、たとえ大成しなくとも人は過去を振り返れば、その都度精一杯努力と苦労を重ねた者は、自らの「立志伝」を持っているものである。
揚句に火鉢にあたり炭を継ぎながら、孫やその友人らを前にして老人の若い時の「個人的立志伝」を少し自慢そうに語る光景が想われ、微笑ましいのである。
それほど「後ろ盾なき立志伝」とは、深くて重い意味のある措辞である。
 
〜 丘一つなべて貝塚冬うらら 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
今朝の当地京都洛西は良く晴れ、雲一つない穏やかな冬晴れである。
何時ものように散策ウオーキングに出掛けたが、風もなく寒さ対策を充分に行って出掛けた為、丘に向かって歩くうちに汗ばむ程の小春日和であった。
ここ数日の寒波の中に、「ポッ」と天の神様が恵みを与えて呉れたような穏やかで暖かい日差しであった。
さて、揚句の鑑賞を行って見れば、小高い小さな丘のすべてが貝塚だと云われて居るようである。
作者の住まう九州熊本は火の山阿蘇を控え悠久の歴史があり、縄文・弥生時代より人々の営みが連綿と続いた事が想われるのである。
小高い丘となっている貝塚を目の当たりのしながら、作者は穏やかで麗らかな冬の日差しを満喫している様子が目の前に見えるようである。
 
〜 寒晴や手で物を言ふ写楽の絵 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
東洲斎写楽は江戸時代後期の浮世絵師として人気があり、大活躍をしていた。
歌舞伎役者の図柄が多く、現代になって郵便切手の図柄にも採用された事により添い大好評を博し、更に人気が出たようである。
歌舞伎役者の目が真ん中に寄り、手ぶり身振りの「見得を切る」図柄なのである。
舞台の演目により台詞を決め、舞台全体を引き締める所作として間毎に絶対必要であると云われて居る。
揚句の季語の「寒晴」は、冬の厳しい寒さにじっと耐え、我慢の日々を送って居る人々に天よりのご褒美の様な晴れの日差しの事である。
写楽の絵の「手で物を言ふ」との措辞と巧みに呼応して居り、冬の晴れのひと時が想われるのである。
 
〜 声大き人来て揃ふ四日かな 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
正月は三ヶ日とも云われ、昔より何業でも三日間は正月休みであった。
現代ではスーパーなどの小売店は元旦より営業を行って居り、この傾向は少しづつ拡がりを見せている。
嘗ては四日となれば、初出勤の上全員にて掃除を行い、上司同僚らと新年の挨拶を交わし、午後からは会社の全員で初詣を行い、今年の会社発展の為の参拝とお祓い受ける事が多かったものである。
そしてその後は同僚らと街中に繰り出し、新年会代わりの一杯を行っていた。
挙句には初出勤にて全員が揃い、賑やかな会社の始業の様子が想われるのだ。
中には大きな声で話す社員、そこに居るだけでも華やかになる女子社員、又、誰よりもひょうきんであり、明るい社員も居り普通の会社の光景となるのだ。
「声大き人来て」との措辞が、初出勤の光景らしいのである。
 
〜 朝日差す富士のごとくに鏡餅 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
神社などの本殿の正面には、御神体として丸い鏡が設えてあります。
鏡餅の由来も年神様の憑依すべき丸い鏡に由来してい居るそうである。
又、富士山は我が国日本の象徴としての意味もあり、古代より山岳信仰の目出度さの意味もあると云う。
更に、正月二日の初夢に見る目出度さは1富士、2鷹、3茄子の順とも云われ、富士山は日本人にとってとても目出度い対象なのであります。
正月の初明かりが部屋に差し込み、鏡餅を照らせば、富士山のようだと目出度さを改めて感ずる作者の心情が見えるようである。
 
〜 復興の五十万都市初日差す 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
全国何処の地に在っても、通勤、通学、野良仕事にと近在の山河や海など日々に眺め愛で、心の拠りどころとなって居る景色は誰にでもあるものだ。
その光景は次第に心の中に焼き付き、故郷の想い出の景色となるようである。
「今日の海は白波が立ち荒れて居る、今日の山には傘雲が掛かっている、今日の川は水量が多く、濁って居る」など、様々な様相を見る事が出来るのだ。
揚句は作者在住の熊本城で名高い熊本市の光景と想われるが、先年の大地震により熊本城は多大な被害を受けたものの、復興を遂げつつある熊本の地域全体に初日が差していると、その復興を寿ぎ詠って居る喜びの心情が溢れている。
 
〜 忘年の貌引つさげて来たりけり 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
例年12月の今の時季ともなれば、会社勤めの人を中心に忘年会の季節である。
去年はともかく、今年はコロナ禍も収まる様子を見せ飲食業に於いて充分な対策を講じて居れば、小規模な宴会も可能となったようだ。
嘗て現職の百貨店の東京店在職の頃、31日までに販売予算を達成すれば打上げとして日本橋(すき焼きの日山)に於いて「お疲れ様忘年会」を開催する事になっていた。
当時売場単位を社内では品番と呼んでいたが、5品番で一つの課となっていた。
売上目標を達成出来た品番より主任、係長以上のどちらかが早めに日山に行き、待機する事になっていた。
3品番は早めに目標を達成出来たものの、2品番が苦戦を強いられ、全品番の全員が参集出来たのはかなり遅くなってしまった。
その時苦戦となった品番の主任と係長は、参集時には大変安堵の貌であり、今でもその時の顔が忘れる事は出来ない。
そう!「顔」ではなく、まさしく心情の出ている「貌」であったのである。
何業に於いても、12月は狂ったように多忙となるものの、小売り業の百貨店は31日の最後まであきらめる事はなく、勤しむのである。
 
〜 ストーブを消して他人のごとき部屋 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
独身男性が結婚を決意する時の動機の一つに、仕事が終わり、アパートに帰ってみれば、冬の今ごろの部屋は寒々と冷え切って居り、「心まで冷え切ってしまうようだ」との、理由による事が多いいとは嘗て良く聞いた事である。
家に帰ってみれば灯りが点き、部屋が暖かいと云うだけでもほっと安堵の心境になるようである。自身の帰りを温かく待っている家庭がある
と云う事は、それだけでも幸せのなのである。
「ストーブを消して」とは、独身男性が辛い想いで出勤に出掛ける時の心情が見事に表され、その状況等を余すところなく伝えているのではないか?
 
〜 全身に広がる寺の寒さかな 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
広くて何もない部屋を指して「がらんどう」とも云う事があります。
この言葉は、お寺の本堂の大きな伽藍のある部屋を「伽藍堂」と呼ぶ事に由来していると云います。
お葬式や法事を行えば家の仏壇にてお経をあげ、その後お墓参りを行い、そして更に檀家寺にお参りに行き、寺の中の「開山堂」にてその家の位牌の前で又お経をあげます。
その都度親類縁者は住職と一緒にお経をあげる事になるのです。
法事はその年の家で収穫された五穀を仏壇に捧げ、故人及びご先祖様にお経をあげて供養とします。
又、寒い時季ともなれば年配者は亡くなる事も多く、法事と共に冷えて、寒々としたお寺参りになる事が多いいのである。
伽藍堂は日々住職がお勤めのお経をあげる場所でもあるが、大きくてだだっ広く、その間は暖房など殆ど効かず、たいてい火鉢ぐらいのものである。
揚句に、如何にも寒々とした冬の広い伽藍堂が想われ、寒さが身に染みるようである。
 
 
〜 追はざれば振り返る猫漱石忌 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
12月9日は、俳句も嗜んだ明治の文豪夏目漱石の忌日である。
俳人正岡子規とも親交があり、句会の時は松山の下宿先の名前「愚陀仏庵」より俳号を採り、愚陀仏と称していた。
文学作品では、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「こころ」などが特に有名である。
忌日俳句の作句の場合、その人の業績、作品、評判などに因み詠む事が定石であり、揚句は即、「吾輩は猫である」との漱石の作品を連想させ、又猫科の動物の生態を如実に物語って居ると云える。
追いかければ逃げ、そして時々後ろを振り返り状況を確認するかのような仕種を見せるのだ。人間も人生に於いて時々振り返り、自身の状況を確認する事も必要な事を示唆しているのではないだろうか。
 
画像=月刊「俳句界」と『肥後の城』広告(22P)
 
〜 手袋の方方はづし道示す 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
今朝の当地は北風が強くて寒く、毎朝出掛ける散歩ウオーキングの時も手袋を着けて出掛けた。
勿論、ネックウオーマーもつけ、厚手のジャンパーの下に何枚も着込み、ふくら雀の様相である事は言うまでもない。
首筋、両手などを被い、外気より保護を行えばとても暖かく、歩いて行くうちにじっと汗ばむ程の暖かさとなり、北風の寒さも気になる事はない。
いつも住まいのある街並みを抜け、15分も歩けば洛西の田園地帯に出て、田道を歩くコースが多いいようである。
何度も通るうちに、あの道をどう抜ければ何処に出て、春の犬ふぐり、秋の彼岸花を見物する為には、何処へ行けば良いかなども分かって来たようである。
当地の地域は散策コースも多く、遠方より訪れる人も多くて、よく道案内を行う事がある。
揚句のように、冬場であれば手袋を外し、丁寧に案内を行えば、道を尋ねる人も案内を行う人も、ほっこり暖かい心情になるである。
情けは人の為ならず為ならずとも云われ、丁寧に親切に応対を行えば、冬の寒さの中でもお互いに心楽しく、暖かく暮らせるのである。
 
 
〜 母のあと追ふごと銀杏落葉散る 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(花の城より)
今年も十二月中旬を過ぎ、残すところ十日あまりとなった。
身ほとりの山野や街中の黄葉・紅葉もすっかり葉を落とし、寒々とした枯木の、冬景色の様相となった。
揚句の銀杏落葉の句に、嘗て驚くほど感動の上その場より立ち竦んでしまった
経験が一瞬にして想い出されるのだ。
数年前の12月初め彦根城まで紅葉見物に出掛け、石垣や天守閣を見物して回り、その後、井伊直弼の居宅跡と庭を見学する機会があった。
思いの外、ちまちまとこじんまりとした部屋の佇まいに意外に質素な暮らしがぶりが想われた。
暫くして庭に目をやれば、銀杏の大木より銀杏黄葉が風も無いのにばたばたと一斉に降るように落葉している光景が目撃された。
その一瞬、自然界の大きな営みに感動を覚え「呆然と立ち竦んでしまった」のである。
落葉広葉樹は、冬の寒さと太陽光が少なくなれば葉の炭酸同化作用の働きが弱くなり、風雨によるのみならず、ある時季が来れば自ら葉を切り離し、裸木となって長い冬を凌ぐのである。
その銀杏の落葉の自然界の営みの瞬間に立ち会い、非日常の光景に出会えた事は生涯にわたって初めての経験であった。
「母のあとを追ふ」との措辞に、朽ちて母なる大地へ還る銀杏落葉の哀しいまでの詩情が深く想われる。
 
〜 悴みておのれに執すばかりなる〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)
当地の今日の天気予報は最低2℃、最高でも7℃と、ここ数日の半分以下の予想気温である。朝より吹雪が舞い、いつもよりかなり冷え込みが激しく起きて、即ストーブに点火するほどであった。
暫くして昼前には明るくなり晴れて来たものの、日差しの中にも雪が時々舞い寒さはこの上無い程である。
急激な冷え込みとなれば、生物の中でも特に人間はストレスにより抵抗力を失い、病気に罹る事が多くなると云われている。
インフルエンザや、今流行の新型コロナウイルスは気温が低いほど伝染力が強くなるとも云われている。
そして急激な冷え込みにより、人は動作も緩慢・億劫になり心情もネガティブになり易いようである。手足が悴むほどの寒さになれば、これらの事により自己を守る為に防衛本能が働き、自身の身の回りのみに執着するようである。
今朝の急激な冷え込みに、とても共感の一句ではある。
 
〜 落葉踏む音に消えゆく我が身かな 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
つい先日まで散策の度に眼を楽しませて呉れていた身ほとりの紅葉、黄葉もほぼ落葉となり、日毎に枯木立の景色が増えて来ている。
真っ青な空に葉を落とした枯木立を下より見上げれば、驚くほど美しいものの時には肌寒さも覚える冬独特の光景となりつつある昨日である。
今年は初冬から仲冬にかけ、あちこちの銀杏並木を眺める為に出掛け、時にはバスに乗ってまで出掛けた事もあった。
今ではすっかり葉を落とした銀杏並木の銀杏落葉を踏みながら歩けば、そのふかふかと感ずる足裏に、我ながらまるで哲学者となったような高尚な雰囲気を覚え、銀杏落葉を踏み行く事は飽きが来る事は無いようである。
揚句の「音に消えゆく我が身」との措辞に、あらためてその時の光景と感触を想い出すのである。
 
〜 人込みを肩に分けゆく寒さかな 〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)
愈々12月も13日を過ぎ、関西では正月準備にかかる「事始」の季節となった。
お歳暮配り、年末大掃除、正月を迎える飾り物の手配などを行う時季である。
又、何業に於いても狂ったように忙しくなる時季でもあり、歳末大売り出し、年内納めの仕事、売掛金回収など一度に忙しく、嘗ては節季とも云われていた。
街中へ出掛ければ、何処へ行っても人出が多く目的地へ急ぐあまり人込みを肩で掻き分けるように歩くのである。
寒さが募り来る中、街中を行くすべての人が忙しく苛立ちのような表情にて歩き、如何にも師走の街中らしい様相の一句である。
 
 
 
〜寒鯉や黒透くるまで動かざる〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)
嘗て、趣味としてヘラブナ釣りに凝って居た時期があった。
季節ごとにへら竿、へら浮子、練り餌に工夫を重ね、釣果を競っていた。
概して殆どの川魚は水温が低くなれば動きが鈍くなり、餌を食べくなって釣りそのものが難しくなる。難しいからこそ工夫のし甲斐があるのだ。
冬の寒い時季は当たりが出ずらく、誘いや「聞合せ」を行う事もよくある。
寒の時季の鯉も水が冷たければ殆ど動かず、泉水の中でも水底にとどまり死んだように動かない。
揚句は泉水の中の光景と想われるが、寒鯉の真っ黒な背中が見えるようであり、「黒透く」との措辞が効き、如何にも寒そうな景色さえ想われる。
 
〜起きぬけの肩の強張り三島の忌〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)
金閣寺、潮騒、優国、豊饒の海など多くの文学作品を残し、ノーベル文学賞の候補ともなった作家の三島由紀夫であるが、思想的には我が国日本の将来を憂い我が国を守る独自の戦力を持つべきだとして、三島由紀夫自身が中心となって民兵組織の「盾の会」を結成し、自衛隊に於いて訓練も行っていた。
そして1970年(昭和45年11月25日)に自衛隊の決起を促す為として盾の会の数人と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、バルコニーに於いて激を飛ばした後、森田隊員と共に割腹自殺を遂げたのである。
当時は大変衝撃的な出来事として、多くのニュースに取り上げられ、今でもその当時の記憶がありあり残っている。
揚げ句に、一瞬にしてその時の「盾の会」の制服の強張ったような勇ましそうな姿がとてもリアルに想い出されるのだ。
現代に於いて「憲法改正」の論議がかまびすしくなっているが、割腹自殺は別としても、今一度彼のその主張を耳を傾けて見る事は必要ではないだろうか?
 
〜冬深し土間が売場の蒟蒻屋〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(肥後の城より)
晩秋より初冬に掛けて収穫された蒟蒻芋で作るものが蒟蒻である。
現在でも地方都市へ行けば、豆腐屋、蒟蒻屋と共に室内にて作る
土間のある場所で、製造しながら販売も行う家業が見られるのだ。
蒟蒻芋はシュウ酸を多く含んでおり、そのままでは適さないため灰汁などを利用の灰汁(あく)抜きを施さなければ食用とはならない。
その為、豆腐屋家業と共に水を多く使うため、昔ながらの土間のある造りが適しているのである。
現在では灰汁抜きが施された蒟蒻も製造され、手間のかからない。
物が多く出回っている。冬の寒い時季の為、湯気の上がる土間の光景がありありと想われるではないか!!
尚、余談ながら「蒟蒻」も冬の時季のものながら「蒟蒻」のみでは季語とはならず、「蒟蒻掘る」「蒟蒻干す」などの言葉が付されて初めて季語となるのである。
更に、一句の中に季語の言葉が二つあっても俳句は「十七文字」と短い為「どちらにウエイトが掛かっているか?」が分かり、作者の意図がはっきり分かれば、「可」とされる事も考慮しておいて良い。
 
〜悴みて身の置き所なき世かな〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
寒さが募り、朝方の冷え込みは日毎に厳しくなりつつある。
朝の洗面でも、水道水の冷たさが手の切れる程となって来た。
お湯を出すか、或は時々手の悴みを癒やすように一旦間を置くことが良くある。
身も心も悴んで当に「身の置き所無き」寒さと冷たさなのである。
そして、このような時こそ寒波到来を実感する時でもある。
更に人間の心理として、寒い時季は暖かい時季より外出の機会が少なくなり勝ちであり、その為行動も心理的に制限され、内向きとなる事が多くなるようだ。
このような状況下では寒い戸外の事もさりながら、自身の身の周り世相も良く見えるようになり、ニュースへの関心も深まるのだ。
そして俳句を詠む時にも心理描写を投影した句が多くなるようである。
 
〜路地に出でおのれに戻る寒さかな〜
 
永田 満徳 第二句集『肥後の城』(城下町より)
寒さの募る朝、暖かい自宅を出て出勤の為に駅に向う途中の路地である。
さっきまでそんなに寒さを覚えなかったものの、急激に冷え込んで来たのだ。一瞬にぼんやりしていた眠気も吹っ飛び、我に返り、今日の業務の段取りなどを考えながら駅に向かって歩きだす。
誰にでもある通勤者の朝の光景が、昔の我が事のように蘇る冬の一句である。
 
〜仮名書きを習ふにいろは冬うらら〜
 
第二句集『肥後の城』(城下町より)
※小さな子供の頃の手習いであれば「あいうえお」の所、「仮名書きを習ふ」とは大人になってよりの、書道の手習いであることが一瞬にして分かります。
書道の漢字であれば、楷・行・草と順を追って習うところ、書道の平仮名書きはまったく別物のような書き方である。
又、平仮名は漢字の草書をもとに我が国で考案された独特の文字とも云われ、更に物事の始まりを「いろはのいから」とも云い、「冬うらら」との季語により新しく始める習い事の嬉しさの心情までくみ取れるのである。
この様に、俳句の短い十七文字からでも良く読み込めば、作者の色々な思いが込められて居る事が分かるのです。
 
 
〜ペンシルの芯折れやすき夜学かな〜
 
第二句集『肥後の城』(城下町より)
※夜学と云えば、本人の向学心とは裏腹にどうしても暗いイメージとなり勝ちである。
働きながらでも勉学に励みたいとの、殊勝な心がけとは云え色々事情を抱えての事であり、社会としても応援すべき所のものである。
小生も高校卒業後、上京の上東京神田駿河台にある大学の第二学部つまり夜間に通っていた。
仕事が終わって、空腹はもとより今の時季であれば寒さと疲れも手伝い、職場の同僚らと同じく早く帰って暖かい家庭にて寛ぎたいと心構えが揺らぎ、情けなく思った事であった。
ペンシルの芯の折れとは「夜学生の心構えの折れ」とも想われ、その心情が痛い程理解出来るのだ。
それにしても、貧しくて学問を学ぶ機会の無かった年配の人もかなり居り、その方達への夜間中学は打ち切りとなると聞き心が傷む事である。
 
 
〜オートバイ落葉の道を広げたる〜
 
第二句集『肥後の城』(城下町より)
※十一月も仲冬ともなれば、紅葉・黄葉は散り初め、木の葉しぐれの様相となる。
日毎に木の葉が散り積もり、至る所に落葉の光景となる。
何処の道路も街路樹の葉が積もり、落葉道となるのだ。
落葉道は散策にとても適して居り、思索などを行いながら歩けば、如何にも冬の風情を満喫する事が出来る。
その落葉の道路をオートバイが疾走すれば、舞い上がり道を広げながら走るようであり、如何にも冬ざれの光景が想われる。
 
〜毛糸編む妻の横顔すなほなる〜
 
第二句集『肥後の城』(城下町より)
※子供達も成長独立し、今や夫婦二人の生活である。
朝食も終わり、家事も一段落の細君の様子である。
夫はテレビを観て居り、その傍らにて細君は無心に毛糸編みの最中です。
近くにはストーブの火が暖かく、薬缶には湯気が出て、静かな憩いのひと時が目の前に見えるようである。
時には激しく言い争う事があっても、無心に毛糸を編む妻の、何と素直な表情であることでしょう!!。
 
〜冬籠あれこれ繋ぐコンセント〜
 
※先ず鑑賞者自身の環境より考察すれば、パソコン、照明のライト、プリンター。時には電気ストーブ等々、雑多とも思えるほどのタコ足配線の様相である。
現在タップを利用しているものの、冬籠ともなれば今の寒い時季には、当に「電気喰い人間』の生活の様相となるのである。
然し世の中には、この様な冬籠り状態の中で仕事を行っている人も沢山居るのではないだろうか?
カーボンニュートラルへの未来と云っても、現状では電気に頼る生活様式が続く事が想われ、その実現への道のりは大変困難を来たすようである。
挙句を鑑賞してみれば、色々想いを深くさせるような一句である。
 
 
〜みづからを叱るごとくに咳き込みぬ〜
 
第二句集『肥後の城』(城下町より)
これからの季節、寒くなれば咽喉や気管の粘膜が
おかされ、急激に咳き込む事があります。
又、年齢的な理由にもより寒い時は嚥下の力が
落ち、急激に咳き込む事もあるようだ。
一瞬の事に、「あれ!どうしたのだろう?」と
思い、「何か悪い事でも行った所為だろうか?」
と、自らを返り見て戸惑うことがある。
その瞬間を「みづからを叱るごとく」とはとても
納得のゆく所である。
これも寒さのなせるわざであろうか?
 
 
〜ストーブの触れたき色になりにけり〜
 
第二句集『肥後の城』(城下町より)
 
〔永田満徳訳〕
translated by  Mitsunori Nagata
traduit par Mitsunori Nagata
 
※日毎に寒さが募り、特に冷え込む朝夕は暖房が欲しくなって来た。
手足も冷たく、背中もぞくぞくする程の寒さを感ずれば、ストーブに火を点け、赤くなれば直接触れたい心情になる。
厳寒の時季は勿論、特に今頃の時季の日中と夜の気温差が激しい時に、そのように思える事がある。
更にストーブと云えば小学生の頃、学校では「達磨ストーブ」があり、ストーブを囲んで先生も一緒に昼食の弁当を食べた、懐かしい光景が想い出されるのである。「ストーブ係り」などの言葉も懐かしい。
 
〜北風に御身大事と踏み出しぬ〜
 
第二句集『肥後の城』(城下町より)
 
※日毎に寒さが募り、遂に木枯し一番も吹く寒い季節がやって来た。
人々が寒さを感ずる事は、絶対温度ではなく、個々人の寒さに対する心構えのようなところがある。
その為、急激な寒さには未だ身体が慣れて居らず身構えてしまうようである。
北風の吹く時の外出に襟を立てて身構え、「御身大事」と戸外へ一歩踏み出す様子が、ありありと見えて来る。
 
 
 
桑本栄太郎の【『肥後の城』一句鑑賞】
 
〜立冬や大丼の男飯〜
 
※第二句集『肥後の城』(城下町より)
※嘗て、若手新進女優のテレビによる談話を聞いた事がある。
司会者の「貴女は旦那様のどこが良くて結婚なさいましたか?」
との質問に対して「とにかく、食べ物を如何にも美味しそうに食べる人なのですよ!」と応えて居りました。
若い女性に取って、食欲があり美味しそうに食べる相手も魅力のひとつのようである。
挙句、立冬と云っても11月初旬の事であり、秋たけなわの季節で紅葉、黄葉もこれからの活動的な時季でもある。
「大丼の男飯」との措辞が効き、丼飯を搔き込み如何にも生活力があり、頼もしい健康的な男性が想われるではないか!
 
 
この度、永田先生の句集『肥後の城』の一句鑑賞を担当させて頂く事になりました。
皆様の俳句鑑賞の一助となればと引き受けました。
宜しくお願い申し上げます。

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国際俳句〜Facebook「Haiku Column」【俳句界】2022年5月号〜

2022年04月29日 01時46分43秒 | 「俳句界」今月の秀句

俳句大学国際俳句学部よりお知らせ【国際俳句の取り組み】!

〜Facebook「Haiku Column」【俳句界】2022年5月号〜

注目記事:『ウクライナ特集】(今月の秀句より)
 
◆俳句総合誌『俳句界』2022年5月号が発行されました。
◆俳句大学 〔Haiku Column〕のHAIKUから選句・選評した句を掲載しています。また、「俳句界」2019年1月号から毎月連載しています。
※ 2021年の『俳句界』10月号から、優秀な作品が揃って来ましたので、1ページ増えて、3ページに渡って掲載しました。
◆R 2・12月号から作者の国名を入れています。人種、国籍を問わず投句を受け入れていることから、その「人道主義的」スタンスが広く支持されています。
◆ 向瀬美音氏は日本語訳の改善に着手している。五七五の17音の和訳は、HAIKUをただ端に日本の俳句の五七五の17音にしただけではなく、原句のHAIKUの真価を再現するものであり、国際俳句の定型化に一歩近づくための有効な手立てであることを強調しておきたい。
◆例えば、ある日本の国際俳句大会で「飢えた難民の/前に口元に差し出す/マイクロフォン一本」のような三行書きにしただけで散文的な国際俳句が大会大賞、或いはある国際俳句協会のコンクールで「古い振り子時計―/蜘蛛の巣だらけになっている/祖父のおとぎ話」のような切れがあっても三段切れで冗漫な国際俳句が特選を受賞しているように、三行書きの国際俳句が標準になっていることに危惧を覚えて、俳句の本質かつ型である「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句を提唱して行きます。
◆2017年7月にフランス語圏、イタリア語圏、英語圏の55人が参加する機関紙「HAIKU」を発行しました。12月20日発行の2号では91人が参加しました。また、5月31日発行の3号では96人が参加し、320ページを数えます。さらに、12月26日発行の4号では112人が参加し、500ページを数えます。そして5号では150人が参加して、550ページを越えて、8月1日に出版しました。そして、6号を2020年12月に出版しました。また、2020年3月1日には「国際歳時記」の第1段として【春】を出しました。「HAIKU」6号と「歳時記」は原句の内容を損なうことなく五七五に訳出しています。
◆総合俳句雑誌「俳句界」2118年12月号(文學の森)の特集に「〔Haiku Column〕の取り組み」について」が3頁に渡って書いています。
◆「華文俳句」に於いては、華文二行俳句コンテストを行い、華文圏に広がりを見せて、遂に、2018年11月1日にニ行俳句の合同句集『華文俳句選』が発行されました。
◆ 二行俳句の個人句集では、洪郁芬氏が『渺光乃律』(2019、10)を〔華文俳句叢書1〕として、郭至卿氏が『凝光初現』(2019、10)を〔華文俳句叢書2〕として、次々に刊行している。さらに、全季節を網羅した「華文俳句歳事記」が2020年11月には刊行されて、これで季重なりの問題が解消されるでしょう。
◆さらに、2020年1月からは月刊『俳句界』に「華文俳句」の秀句を連載している。
◆『俳句界』2020年3月号の特別レポートにおいて、熊本大学で行われたラウンドテーブル「華文俳句の可能性」の報告が8頁に渡って掲載されました。
◆どうぞご理解ご支援をお願いします。

The May issue of 「HAIKUKAI俳句界」!
〜Haiku Colum of Haiku University [Monthly best Haikus]〜
◆the May issue of HAIKUKAI俳句界 has just been published. 
◆It contains the best haikus of the month selected by M. Nagata. 
◆according to the plan, we will continue to publish 2 lines haikus with kire and toriawase.

Mai aout de 「HAIKUKAI俳句界」!
〜Haikus du mois de Haiku Colum de Haiku Universite〜
◆L Mai de aout de HAIKUKAI俳句界 vient d'etre publie.
◆il contient les meilleurs haikus du mois selectionnes par M. Nagata. 
◆Selon ce plan nous allons continuer a publier des haikus en deux lignes avec kire et toriawase.


Haiku Column(俳句大学)今月の秀句(「俳句界」R4.5月号)

【今月の秀句(monthly excellent Haikus)】  
永田満徳選評・向瀬美音選訳(仏・伊)・中野千秋訳(英)


Agnese Giallongo (Italy)

lucciole -
una speranza per l' Ucraina tutta al buio
〔Commentaire de Mitsunori Nagata〕
La luce della 'houtaru' (lucciola) è anche destinata a portare fortuna. La lucciola che brilla nel "buio" del cambiamento forzato dello status quo da parte della Russia è la stessa "speranza dell'Ucraina". È una frase che risuona in tutto il mondo, poiché esprime la speranza che il disastroso campo di battaglia causato dall'invasione russa dell'Ucraina sia portato a termine il più presto possibile.

アグネーゼ ジアロンゴ (イタリア)

ほうたるや闇にウクライナの希望 
〔永田満徳評〕
「ほうたる」(螢)の光は幸運を呼び寄せる意味もある。ロシアの力による現状変更を強引に進める「闇」の中で光る螢は「ウクライナの希望」そのものである。ロシア軍のウクライナ侵攻による悲惨な戦場の様子を見るにつけ、一刻も早く終息してほしいと願う気持が込められていて、世界の共感を呼ぶ句である。。


Olfa Kchouk Bouhadida( Tunisia)

tulipes noires ~
la nature en deuil à Kiev
〔Commentaire de Mitsunori Nagata〕
Kiev est la capitale de l'Ukraine. L'Ukraine est un pays de plaines, de steppes et de plateaux fertiles, traversé par les fleuves Dnepr, Donets et Dniester, et riche en nature. La Tulipe noire représente la tragédie de l'invasion russe en Ukraine, et la phrase "La nature de Kiev est en deuil" est profondément émouvante.

オルファ クチュク ブハディダ(チュニジア)

黒きチューリップキエフの自然は喪に服す 
〔永田満徳評〕
「キエフ」はウクライナの首都。ウクライナの国土は肥沃な平原、草原、高原で占められ、ドニエプル川、ドネツ川、ドニエステル川が横切っており、自然豊かである。「黒きチューリップ」がロシア軍のウクライナ侵攻による悲劇を代弁していて、「キエフの自然は喪に服す」という措辞は深い感銘を与える。



Angela Giordano (Italy)

urban warfare ...
a daisy blossoms inside a crack
guerriglia urbana...
una margherita sboccia dentro una crepa
〔Commented by Mitsunori Nagata〕
'Urban warfare' leaves cities in ruins. Strategic bombing of cities is followed by civilian casualties. Russian forces attack indiscriminately in various parts of the country, even involving large numbers of civilians. The poem touches the reader's heart by comparing the Ukrainian people to the 'hina chrysanthemum', which is treated as a weed in Europe, and by expressing the feeling that one cannot help but wish for a strong recovery.

アンジェラ ジオルダーノ(イタリア)

市街戦亀裂より咲く雛菊よ  
〔永田満徳評〕
「市街戦」は都市を廃墟同然にする。都市への戦略爆撃に次いで、市民への被害を発生させる。ロシア軍は大勢の民間人を巻き込むこともいとわず各地で無差別に攻撃している。ヨーロッパでは雑草扱いの「雛菊」にウクライナの人々をなぞらえ、力強い復興を願わずにはいられない気持を詠んでいて、読む者の心を打つ。


【今月の季語(Kigo of this month】        

(Facebook「Haiku Column」より)


Gabriella De Masi (Italy)

ucraina -
la primavera esplode tra le macerie
ガブリエラ デ マシ (イタリア)

ウクライナ春は瓦礫に爆発す

Paul Callus(Malta)

sunflowers of hope -
a nation oppressed but not subdued
ポール カルス(マルタ)

向日葵や屈服をせぬ国のある  

Carmen Baschieri(Italy)

ghiaccio sottile
la pace sulla Terra un'utopia

thin ice
peace on earth is a utopia
カルメン バシエリ(イタリア)

薄氷や平和といふはユートピア 

Feten Fourti (Tunisia)

sale cette guerre
boue de printemps
フテン フルティ(チュニジア)

春の泥汚き戦争ありにけり 

Nuky Kristijno (Indonesia)

not a single butterfly in sight
cry of war
ナッキー クリスティジーノ(インドネシア)

戦争や蝶の一つも見当たらず  

Imelda Senn(Switzerland)

bourgeons de printemps
les discussions politiques n'ont point porté de fruits
イメルダ セン(スイス)

実りなき政治論争木の芽張る 

Rachida Jerbi(Tunisia)

matin de printemps ~
les mimosas explosent les bombes aussi
ラチダ ジェルビ(チュニジア)

爆弾もミモザも爆発春あけぼの 

Mudher Iraqman(Iraq)

tambours de guerre -
les oiseaux gazouillent pour le vide

ムドハー イラクマン(イラク)

戦争の太鼓や虚しき囀り 

 

【今月の季語(Kigo of this month)】 

 

【 朧月 おぼろづき oborozuki / hazy moon / lune voilée 】
Hervé Jayol (France)

lune voilée
nuit effrayante dans la forêt des pins noirs
エルベ ジャヨル(フランス)

朧月黒松の森の夜の怖さ  

Christina Chin(Malaysia)

hazy moon
my footsteps and I
クリスティーナ チン(マレーシア)

自らの足音連れて朧月 

【 バレンタインデー ばれんたいんでー  barentainde(-) / Valentine’s Day / la Saint-Valentin 】
Nuky Kristijno(Indonesia)

sealed with red lipstick lips
my Valentine’s card for you
ナッキー クリスティジーノ(インドネシア)

封印の口紅バレンタインカード 

Souad Hajri(Tunisia)

Saint-Valentin ~
coeurs rouges sur vitrines enfarinées
スアド ハジリ(チュニジア)

バレンタインデー真つ白き窓に赤きハート   

【燕来る  つばめくる tsubamekuru / swallow coming / hirondelle retour 】
Olfa Kchouk Bouhadida(Tunisia)

rrivée de l'hirondelle ~
la maison au bord de mer attend la famille
オルファ クチュク ブハディダ(チュニジア)

燕来る浜辺の家は家族待ち

Cello Muse(France)

lettre parfumée de l'amoureuse ~
hirondelles dans le ciel
セロ ミュゼ(フランス)

燕来る香りの付きしラブレター 

【薔薇の芽 ばらのめ baranome / bud of rose / bouton de rose 】
タンポポ 亜仁寿(Indonesia)

rosebud
baby's hand slowly opens
タンポポ 亜仁寿(インドネシア)

薔薇の芽やゆつくり開く赤子の手

Rina Darsa(Indonesia)

bud of rose
a baby clenching fist while sleeping
リナ ダルサ(インドネシア)

薔薇の芽やこぶしを握り眠る嬰

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〜Facebook「華文俳句社」〜 〜【俳句界】2022.5月号〜

2022年04月29日 01時40分18秒 | 華文俳句

俳句大学国際俳句学部よりお知らせ!

〜Facebook「華文俳句社」〜
〜【俳句界】2022.5月号〜

◆2022年『俳句界』5月号が発行されました。
◆華文圏に俳句の本質かつ型である「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句を提唱して行きます。
◆東北公益文科大学教授の呉衛峰氏、台湾詩人の洪郁芬氏を中心として、マレーシア詩人の趙紹球氏、台湾詩人の郭至卿氏の四人が2018年にFacebookグループ「華文俳句社」を立ち上げました。
◆2018年11月1日には、華文俳句社の四人による二行書きの華文俳句の合同句集『華文俳句選』(醸出版)が刊行されました。
◆ 二行俳句の個人句集では、洪郁芬氏が『渺光乃律』(2019、10)を〔華文俳句叢書1〕として、郭至卿氏が『凝光初現』(2019、10)を〔華文俳句叢書2〕として、次々に刊行しています。
※全季節を網羅した、世界的にも画期的な「歳事記」が2020年10月に発行されました。これで季重なりの問題が解消されるでしょう。
◆さらに、2020年1月からは月刊『俳句界』に「華文俳句」の秀句を連載しています。
◆2020年『俳句界』3月号の特別レポートにおいて、「熊本大学」で呉衛峰氏が行ったラウンドテーブル「華文俳句の可能性」の報告が8頁に渡って掲載されました。
◆どうぞご理解とご支援をお願いします。

俳句大學國際俳句學部的通知!

~Facebook 「華文俳句社」Kabun Haiku  2022・5〜

◆2022年『俳句界』5月號已出版。
◆於華文圏提倡包含俳句的基礎「一個切」和「兩項對照組合」的二行俳句。
◆2018年12月1日已出版華文俳句的合著,『華文俳句選』。
◆2020年『俳句界』3月號以八頁的篇幅特別報導了於「熊本大學」舉辦的「華文俳句の可能性」座談會。
◆請各位多多支持指教。

華文俳句【俳句界】2022,5月号

永田満徳選評・洪郁芬選訳


夫婿三代相似的穿著
春節

雨靈
〔永田満徳評論〕
春節是從陰曆的正月元日持續到正月五日。台灣的原住民有民族服裝和傳統衣著,於每年定例的活動或祭典中穿著。大年初二是已經出嫁的女兒回娘家的日子。這首俳句描寫家人三代聚集一起,穿著相似的衣服,大夥兒一同慶祝新年的情景。春節中相聚,能聯絡感情,使家庭關係親密。而本俳句也勾勒出重視傳統的台灣習俗,饒富趣味。

三代の揃ひの服やお正月

雨靈
〔永田満徳評〕
春節は旧暦正月の元日から5日までを指す。台湾の原住民族には民族衣装・伝統衣装があり、行事やお祭りのときに着用する。2日は嫁いだ娘が実家に帰る習慣がある。「三代」の親族がうち揃い、「揃ひの服」を着て、正月を祝っている情景であろう。「春節」に集う家族の絆が窺え、また伝統を重んじる台湾の習俗が描き出されて、興味深い。


裝滿星星的石滬
桜鯛

胡同
〔永田満徳評論〕
「石滬」是一種利用潮汐的傳統陷阱式漁法,在退潮時捕捉殘留於石滬的魚。心型的石滬是很普遍的,然而,如果魚群裡參雜了一尾「櫻鯛」,一天的風景就有所不同了! 試圖用手去捕捉時,逃跑的櫻鯛五顏六色的輝映著月光,美麗的粉紅鱗片閃閃發亮,伴隨著四周灑在水面上的星光點點。

桜鯛星いつぱいの石滬

胡同
〔永田満徳評〕
「石滬(シーフー)」は潮の満ち引きを利用した仕掛け。潮が引いた時に石滬のなかに取り残された魚を捕まえる。石滬はハート型が一般的であるが、その中に「桜鯛」が混じっていたのである。手づかみで捕えようとすると、逃げ回る桜鯛の色鮮やかで、きれいなピンク色に染まった鱗のきらめきとともに、水面に映った星のきらめきが美しく切り取られている。


父親初戀的記憶
櫻花

明月
〔永田満徳評論〕
屬於亞熱帶的台灣,櫻花季大約是一月下旬至三月中旬之間。島上栽植的櫻花種類,除了從日治時期以來的品種之外,還有台灣特有的櫻樹,和日本與台灣混種的櫻花樹。作者賞櫻,忽然想到父親的初戀,和種種關於櫻花的回憶。藉由與櫻花的兩項對照組合,思索父親的羅曼史,也是思念父親的一種表現,並使我們窺見親子之間的緊密聯繫。

初恋の父の記憶や桜花

明月
〔永田満徳評〕
亜熱帯の台湾では、桜の見ごろは1月下旬から3月中旬である。台湾固有のものから日本統治時代に植樹されたものや日本と台湾の掛け合わせの品種が見られる。「桜」を見て、「父」の「初恋」と「桜」にまつわる話を想い出したのだろう。桜との取合せによって、父のロマンに心を寄せ、父を偲んでいる子の姿が浮かび上がってくる。親子の絆の強さを詠んでいて、心温まる。

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