【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

国際俳句の改革に対するご質問とお答え

2020年12月31日 09時19分00秒 | 国際俳句
Haiku Column(俳句大学国際俳句学部投句欄)よりのご報告!
 
〜国際俳句の改革に対するご質問とお答え〜
 
多くの人にご理解とご支援頂く機会を頂きありがとうございます。
ご質問にお答えします。
 
●まず、現在の国際俳句から見ていただきたい。

宮地信弘氏の訳をお借りして、いくつか英語俳句を示し、現在のHAIKU(国際俳句)の状況をみておきたい(注・「英語俳句試論(Ⅰ):日本語俳句の受容と展開」(『三重大学教育学部研究紀要第59巻』二〇〇八・三・一)。
 
①    trapped             回転ドアに
in the revolving door       閉じ込められて
autumn leaves          秋の木の葉たち
(Peter Brady:United States)
②    3 a.m.              午前3時
the alrport conveyor turnlng   空港の回るコンベアー
one battered green valise     緑の手提げかばん潰れて一つ
(Marianne Bluger:Canada)
③    child's voice―          子どもの声―
the old dog           老いた犬は
settles lowerin its box       箱の中でさらに体を低くする
 (Cyril Childs:New Zealand)
④    scent of hyacinth         ヒヤシンスの匂いが
fills the empty room       何もない部屋に満ちる
mother's birthday        母の誕生日
(Doderovicy Zoran:Yogoslavia)
⑤    a leaf              一枚の
patching a hole         木の葉が繕う
in my shoe           靴の穴
(Funda Zveljko:Croatia)
 
ここでは内容の良し悪しは問わないこととして、論述上、俳句の型に注目してみると、①は二行目で切れて、一物仕立て、②は三段切れで、一物仕立て、③は一行目の「―」で切れを表し、二物仕立て(取合せ)、④は二行目で切れて、二物仕立て(取合せ)、⑤は切れがなく、一物仕立てである。これらの例句で問題にしたいのは、②の三段切れはむろんのこと、⑤のような切れのない句である。
三行書きにしただけの俳句は形式のみで、三行詩(散文詩)的なHAIKUが標準になっていることがあげられる。HAIKUは三行書きなりという定型意識が強い。それは俳句の型と俳句の特性に対する共通認識が形成されていないからである。
このように、世界で流通している三行書きのHAIKUは散文詩的で、俳句の型が有効に機能せず、そのために俳句の特性が活かされていない。
 
①国際俳句で、なぜ二行俳句なのか?
 
俳句の型の基本は「切れ」である。松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水のおと」を句切れなしの「古池に蛙飛び込む水のおと」にすると、平板で、幼稚で散文的な表現になる。ところが、「古池や蛙飛び込む水のおと」だと、「切れ」によって、暗示・連想の効果が働き、複雑で、韻文的な表現になる。「切れ」は散文化を防ぎ、韻文化を促すのである。
俳句の基本型は「切れ」とともに「取合せ」で、本来の俳句の特性を示すことになる。「取合せ」の例として、芭蕉の「荒海や佐渡によこたふ天河」を挙げると、「荒海」と「天河」という二物の「取合せ」で読みの幅が広がり、複雑で、韻文的な表現になる。芭蕉自身が「発句は畢竟取合物とおもひ侍るべし」(森川許六『俳諧問答』)と述べているように、「取合せ」は俳句の本質に関わる問題である。
そこで、俳句の本質であり、かつ型である「切れ」と「取合せ」を取り入れた「二行俳句」を提唱したい。
「切れ」のある「取合せ」の二行俳句の一例を「Haiku Column」から挙げてみる。〔永田満徳評〕〔向瀬美音訳〕
 
Castronovo Maria カストロノバ マリア(イタリア)
Aurora boreale ―            北のオーロラ
La coda di una balena tra cielo e mare  空と海の間の鯨の尾
 
掲句は天上のオーロラと海面の鯨との「取合せ」によって、天体ショーを繰り広げるオーロラのもと、鯨が尾を揚げて沈む北極圏の広大な情景が描き出されている。(月刊誌『くまがわ春秋』八月号、二〇一八)
 
Sarra Masmoudi サラ マスモウディ(チェニジア)
palabres électorales~         政治の論争~
le chat remue l'oreille en dormant    猫は寝ながら耳を動かす
 
狸寝入りしながら、ご主人たちの政談を盗み聞きしている猫を描いているのである。夏目漱石の「吾輩は猫である」さながらの情景であるところがおもしろい。(『俳句界』十二月号、二〇一九)
日本の俳句の翻訳の場合であるが、はやくも俳句の構造上による「二行書き」の問題を取り上げていたのは角川源義である。角川源義は『俳句年鑑昭和四十九年版』(昭和四十八年十二月)において、「俳句の翻訳はほとんど三行詩として行われている。これは俳句の約束や構造に大変反している」として、「私は二行詩として訳することを提案する」と述べ、「俳句の構造上、必ずと云ってよいほど句切れがある。切字がある。これを尊重して二行詩に訳してもらいたい」とまで言って、俳句の本質の面から二行書きを推奨している。「切字の表現は二行詩にすることで解決する」と結論付けることによって、「切れ」(切字)による二行書き(二行詩)を提言していることは無視できない。
とどのつまり、「切れ」と「取合せ」は、二行書きにして初めて明確に表現できるのである。
 
②国際俳句において、なぜ、KIGO(季語)を提唱するのか?
 
季語は日本独特なもので、季節のない国の人々が、季語のあるHAIKUを創ることは困難だという常識である。現代の世界俳句では、無季(自由季)が優勢で、季節が六つある国、二つの国、ない国など様々だから、日本語の季語の本意で外国語俳句を分類するのは無理がある。例えば、フランス南東部の「春風」は寒冷で乾燥した北風であり、同国の「月」は秋ではないし、語源は狂気・不安と通じるという考えである。
これに対しては、そういうことが分かった上で、国際俳句においても「KIGO(季語)」を取り入れることを提案したい。
 
Mohammad Azim Khan(モハメッド アジム カン)      
  〔Pakistan〕      〔パキスタン〕
sunny spot (of winter)            (冬の)陽だまり
 the push of a wheelchair      車椅子の一押し
                         向瀬美音訳
 
sunny spotに(of winter)を補ってみたらどうだろう。身障者の「車椅子」を「陽だまり」の中に押し出し、少しでも温まってほしいという気持ちは「冬」の季節でなければ伝わらない。それほどKIGOの喚起力は強いのである。
季語を使った「魔法の取合せ」として、次のような二通りの作り方を提示している。この型は「切れ」と「取合せ」がはっきりし、二行俳句が作りやすいという利点があることを強調しておきたい。
① 一行目は季語
   二行目は季語とは関係のない言葉
② 一行目は季語とは関係のない言葉
   二行目は季語
 
 
毛布 もうふ moufu / blancket / couverture
 
Zamzami Ismail  ザザミ イスマイル
[Indnesia]       [インドネシア]
blancket
the warmth of a baby sleeping soundly in its cocoon
ぐつすりと眠る赤子や毛布掛く
 
Veronika Zora   ヴェロニック ゾラ
〔Canada〕    〔カナダ〕
blankets and chairs
a castle of children's laughter
子の笑ひ毛布と椅子を占領す
 
 向瀬美音訳
 
 現在、国籍もフランス、イタリア、イギリス、ルーマニア、ハンガリー、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、アメリア、インドネシア、中国、台湾と多様である。季節のない国からもKIGOのあるHAIKUが多く投句されてきており、俳句は「KIGOの詩」という認識が世界で広まっている。
 
③曖昧だった国際俳句に基準を設けたことも大きく前進した要因である。
これは、日本を含めた世界共通の基準でもある。
 
二〇一七年四月に「俳句ユネスコ無形文化遺産協議会」が設立された。このこと自体に異議を差しはさむことはない。この運動によって、俳句が広く認知されていくことは俳句の国際化にとってよいことである。しかし、この運動を推進するに当たって、「何をもって、『俳句』とするか、そのコンセプトの共有に危惧を抱く」(西村和子『角川俳句年鑑』巻頭提言・二〇一八年版)という意見は重要である。
 
そこで、世界に通用する「HAIKUとは何か」を明確にするために、「Haiku Column」において、「切れ」と「取合せ」を基本とした「7つの俳句の規則」〔7rules of Haiku〕を例句とともに提示した。〔向瀬美音訳〕
 
1.【取り合わせ】       【TORIAWASE】
〔例句〕永田満徳      〔Example〕Mitsunori Nagata
春近し            near spring
HAIKU講座は二ヵ国語    lecture of HAIKU in two linguages
2.【切れ】         【only one cut】
〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata
オートバイ          motorbyke on an autumnal path
落葉の道を広げたる      whirlwind of dead leaves
3.【季語】          【season word(KIGO)】
〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata
百夜より一夜尊し       one night more precious than hundred nighat 
クリスマス          christmas
4.【今を読む・瞬間を切り取る】【catch the monent, tell now】
〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata
春の雷             spring thunder
小言のやうに鳴り始む      beginning like scording
5.【具体的な物に託す】    【use the concrete object】
〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata
肌よりも髪に付く雨      the rain dropping on hair not on skin
アマリリス          amaryllis
6.【省略】          【omissions】
〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata
良夜なり           relaxed night
音を立てざる砂時計      sandglass without sound
7.【用言は少なく】      【avoid verbs,adjevtives, adjective verbs as much as possible】
〔例句〕永田満徳       〔Example〕Mitsunori Nagata
春昼や            spring afternoon
エンドレスなるオルゴール   endless music box
 
Haiku Columnでは、最初、説明的で観念的な句が多かったが、「7つの規則」を提示して以来、形容詞、動詞などが減り、具体的なものに託した表現を基調とし、省略された俳句が多くなっている。
例えば、二〇一九年一月十日の「Haiku Column」において、わずか一日だけの投句であるが、どれも捨てがたい句が揃うようになった。「Haiku Column」を立ち上げて三年目の成果であると思っている。
 
Agnes Kinasih
first light              
mother whispers a prayer of salvation 
初明り
母は救済の祈りを囁く
中野千秋訳
 
Claire Gardien
premier amour               
les lettres de fiançailles de son père à sa mère 
初恋
パパからママへの婚約の手紙
向向瀬美音訳
 
Salvatore Cutrupi
palle di neve-             
l'inizio di un racconto nato per gioco   
雪団子
物語の始まりはおもちゃのように生まれた
向向瀬美音訳


 
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〜俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」2021・1〜

2020年12月24日 00時40分14秒 | 月刊誌「俳句界」

俳句大学国際俳句学部よりお知らせ!

 

〜俳句大学 Haiku Column 「今月の秀句」2021・1〜

 

◆俳句総合誌『俳句界』1月号が発行されました。

◆俳句大学 〔Haiku Column〕の「今月の秀句」から選句・選評した句を掲載しています。また、「俳句界」2019年1月号から毎月連載しています。

◆R 2・12月号から作者の国名を入れています。人種、国籍を問わず投句を受け入れていることから、その「人道主義的」スタンスが広く支持されています。

◆ 向瀬美音氏は日本語訳の改善に着手している。五七五の17音の和訳は、HAIKUをただ端に日本の俳句の五七五の17音にしただけではなく、原句のHAIKUの真価を再現するものであり、国際俳句の定型化に一歩近づくための有効な手立てであることを強調しておきたい。

◆例えば、ある日本の国際俳句大会で「飢えた難民の/前に口元に差し出す/マイクロフォン一本」のような三行書きにしただけで散文的な国際俳句が大会大賞、或いはある国際俳句協会のコンクールで「古い振り子時計―/蜘蛛の巣だらけになっている/祖父のおとぎ話」のような切れがあっても三段切れで冗漫な国際俳句が特選を受賞しているように、三行書きの国際俳句が標準になっていることに危惧を覚えて、俳句の本質かつ型である「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句を提唱して行きます。

◆2017年7月にフランス語圏、イタリア語圏、英語圏の55人が参加する機関紙「HAIKU」を発行しました。12月20日発行の2号では91人が参加しました。また、5月31日発行の3号では96人が参加し、320ページを数えます。さらに、12月26日発行の4号では112人が参加し、500ページを数えます。そして5号では150人が参加して、550ページを越えて、8月1日に出版しました。そして、6号を2020年12月に出版しました。また、2020年3月1日には「国際歳時記」の第1段として【春】を出しました。「HAIKU」6号と「歳時記」は原句の内容を損なうことなく五七五に訳出しています。

◆総合俳句雑誌「俳句界」2118年12月号(文學の森)の特集に「〔Haiku Column〕の取り組み」について」が3頁に渡って書いています。

◆「華文俳句」に於いては、華文二行俳句コンテストを行い、華文圏に広がりを見せて、遂に、2018年11月1日にニ行俳句の合同句集『華文俳句選』が発行されました。

◆ 二行俳句の個人句集では、洪郁芬氏が『渺光乃律』(2019、10)を〔華文俳句叢書1〕として、郭至卿氏が『凝光初現』(2019、10)を〔華文俳句叢書2〕として、次々に刊行している。さらに、全季節を網羅した「華文俳句歳事記」が2020年11月には刊行されて、これで季重なりの問題が解消されるでしょう。

◆さらに、2020年1月からは月刊『俳句界』に「華文俳句」の秀句を連載している。

◆『俳句界』2020年3月号の特別レポートにおいて、熊本大学で行われたラウンドテーブル「華文俳句の可能性」の報告が8頁に渡って掲載されました。

◆どうぞご理解ご支援をお願いします。

 

janvier aout de 「HAIKUKAI俳句界」!

〜Haikus du mois de Haiku Colum de Haiku Universite〜

◆L janvier de aout de HAIKUKAI俳句界 vient d'etre publie.

◆il contient les meilleurs haikus du mois selectionnes par M. Nagata. 

◆Selon ce plan nous allons continuer a publier des haikus en deux lignes avec kire et toriawase.

 

The January issue of 「HAIKUKAI俳句界」!

〜Haiku Colum of Haiku University [Monthly best Haikus]〜

◆the January issue of HAIKUKAI俳句界 has just been published. 

◆It contains the best haikus of the month selected by M. Nagata. 

◆according to the plan, we will continue to publish 2 lines haikus with kire and toriawase.

 

Haiku Column(俳句大学)今月の秀句(「俳句界」R3.1月号)

  

永田満徳選評・向瀬美音選訳

(Facebook「Haiku Column」より)

【今月の秀句monthly excellent Haikus    永田満徳選評・向瀬美音選訳

 

(Facebook「Haiku Column」より)

アンナ マリー ジュベール ガヤール(フランス)

  •  

おそらくは愛情欲しく風邪の妻 美音

〔永田満徳評〕

「風邪」を引くと誰しも心細く、甘えたくなるものである。その甘えは求愛の裏返しであることに気付き、「妻」をいたわる気持が表現されていて、心惹かれる。

 

Anne-Marie Joubert-Gaillard

  •  

rhume-

peut-être une demande inconsciente d’amour

〔Commentaire de Mitsunori Nagata〕

Lorsqu’on attrape un «rhume», on se sent seul et on a besoin de gentillesse. On a envie de douceur, et que son pqrtenqire prenne soin de nous.




イスマン カーン(チュニジア)

  •  

詩歌とは緑と白の冬の山 美音

〔永田満徳評〕

「冬の山」は確かに夏の山ほど豊かではないものの、木々の「緑」と雪の「白」のコントラストが際立つ。その景色に「詩歌」の何たるかを掴み取ったところがいい。

 

 

Ismahen Khan

  •  

poésie

montagne d’hiver entre vert et blanc

〔Commentaire de Mitsunori Nagata〕

Les "montagnes d'hiver" ne sont certes pas aussi riches que les montagnes d'été, mais le contraste entre le "vert" des arbres et le "blanc" de la neige ressort bien. Il est bon de saisir ce qu'est la «poésie» dans le paysage.




オルファ クチュク ブハディダ(チュニジア)

  •  

冬の朝珈琲を囲む自宅待機 美音

〔永田満徳評〕

コロナ禍であればなおさら、寒い「冬の朝」、一家総出で温かい「珈琲」を囲み、家族の絆を確かめているのである。コロナ禍の一家団欒をうまく切り取っている。

 

 

Olfa Kchouk Bouhadida※

  •  

matin d'hiver ~

tous réunis autour d'un café au confinement

〔Commentaire de Mitsunori Nagata〕

Plus encore dans le cas du coronavirus, le "matin d'hiver" froid et le "café" chaud de toute la famille sont là pour confirmer les liens de la famille. Le lien familial est bien saisi. 

 

 

【今月の季語(Kigo of this month)】        永田満徳選評・向瀬美音選訳

 

 

 

(Facebook「Haiku Column」より)

 

【 短日 たんじつ tanjitsu / short day / journée courte 】

カメル メスレム(アルジェリア)

  •  

短日や扉の鍵の滑りたる 美音

Kamel Meslem

  •  

courte journée

la clé à sa porte glissée

イン イスマエル(インドネシア)

  •  

祖母語るお伽話や日短か  千秋

In Ismael

  •  

short day

a long fairy tale from my grandmother

 

 

【 冬銀河 ふゆぎんが fuyuginga / the winter galaxy / voie lactée d’hiver 】

バーバラ オルムタック(オランダ)

  •  

思ふこと光となりて冬銀河  千秋

Barbara Olmtak

  •  

each inner thought a ray of light

winter galaxy

ナニ マリアニ(オーストラリア)

  •  

微笑みに惑はされたる冬銀河  千秋

Nani Mariani

  •  

the winter galaxy

I got lost seeing your smile

 

 

【 冬景色 ふゆげしき fuyugeshiki / winter landscape , winter scene / paysage d’hiver 】

バーバラ オルムタック(オランダ)

  •  

モネの絵のごとき鵲冬景色  千秋

Barbara Olmtak

  •  

solitary magpie in a winter landscape

Monet's paintbrush

ジャン リュック ファーブル(スイス)

  •  

をちこちに煙突の煙冬景色 

Jean-Luc Favre

  •  

partout la fumée blanche des cheminées

paysage d’hiver

 

 

【 ショール しょーる sho-ru / shawl / châle 】

ジュリア グズマン(アルゼンチン)

  •  

まだ姉の香水残るショールかな  

Julia Guzmán 

  •  

her perfume still in the shawl -

sister's memory in the air

フランシスコ パラディノ(イタリア)

  •  

母の四季織り込まれたるショールかな 

Francesco Palladino

  •  

wool shawl

all seasons of my mother

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〜Facebook「華文俳句社」Kabun Haiku 2021・1〜 

2020年12月24日 00時36分40秒 | 華文俳句

俳句大学国際俳句学部よりお知らせ!

 

〜Facebook「華文俳句社」Kabun Haiku 2021・1〜 

 

◆2021年『俳句界』1月号が発行されました。

◆華文圏に俳句の本質かつ型である「切れ」と「取り合わせ」を取り入れた二行俳句を提唱して行きます。

◆2018年11月1日には、二行書きの華文俳句の合同句集『華文俳句選』が発行されました。

◆ 二行俳句の個人句集では、洪郁芬氏が『渺光乃律』(2019、10)を〔華文俳句叢書1〕として、郭至卿氏が『凝光初現』(2019、10)を〔華文俳句叢書2〕として、次々に刊行しています。ついに、全季節を網羅した「歳事記」は10月に発行されました。これで季重なりの問題が解消されるでしょう。

◆さらに、2020年1月からは月刊『俳句界』に「華文俳句」の秀句を連載しています。

◆2020年『俳句界』3月号の特別レポートにおいて、「熊本大学」で行われたラウンドテーブル「華文俳句の可能性」の報告が8頁に渡って掲載されました。

◆どうぞご理解とご支援をお願いします。

 

俳句大學國際俳句學部的通知!

 

~Facebook 「華文俳句社」Kabun Haiku  2021・1〜

 

◆2021年『俳句界』1月號已出版。

◆於華文圏提倡包含俳句的基礎「一個切」和「兩項對照組合」的二行俳句。

◆2018年12月1日已出版華文俳句的合著,『華文俳句選』。

◆2020年『俳句界』3月號以八頁的篇幅特別報導了於「熊本大學」舉辦的「華文俳句の可能性」座談會。

◆請各位多多支持指教。

 


華文俳句【俳句界】1月号


永田満徳選評・洪郁芬訳


 

洪郁芬

  •  

三兩個天融在一塊兒

秋色澄明

〔永田満徳評論〕

滿天稀疏的雲朵散佈著,相互連接或分開,是秋空常見的景像。將淡雲重疊的部分形容成「融在一塊兒」,聚焦在遼闊的秋空,更顯現此刻秋色澄明的情境。

洪郁芬

  •  

いくつもの空溶け合つて秋気澄む

〔永田満徳評〕

多くの雲がまばらで広がっている雲が結ばれたり、離れたりする秋の空はよく見かける情景である。薄い雲と雲との重なりを「溶け合つて」と表現しているところが、澄み渡った秋の空をうまく切り取っていて、いかにも季語「秋気澄む」と言ってよい。

 

明月

  •  

奶粉罐手作的復古風

秋燈籠

〔永田満徳評論〕

餵養愛子的「奶粉罐」閒置一旁。秋燈籠黯淡的燈彩,將鐵罐漆上一層復古的色調,凸顯了手作的溫暖觸感。此俳句生動地描繪親子之間日常的互動情景。

 

明月

  •  

粉ミルク缶は手作りのレトロ調

秋の燈籠

〔永田満徳評〕

「粉ミルク缶」は我が子の授乳用のものであろう。‘秋灯し`ともいうべき薄暗い「燈籠」に照らす「粉ミルク缶」は、なお一層、レトロ感が浮かび上がり、「手作り」の良さが際立つものである。親の子に対する普遍的な情景をうまく描いている。

 

旭維

  •  

竿尾彎成九十度

鯊魚

〔永田満徳評論〕

不經意的釣魚,竟然釣到一尾鯊魚!手裡魚竿的竿尾已經彎成九十度。雖然沒有言及釣客,但是他慌張的神情歷歷在目。一個釣魚的驚險時刻凝聚在這一剎那。

 

旭維

  •  

釣竿の穂先が九十度に曲がる

〔永田満徳評〕

魚釣りをしていたら、「鮫」が釣れてしまったのである。釣竿の曲がった角度を具体的に「九十度」と言ったところがよく、大物が掛かって、大慌てしている様子を的確に表現していている。一つの魚釣りの一齣をうまく切り取っている。

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剽窃・盗用の問題

2020年12月22日 12時18分04秒 | 論文

剽窃・盗用の問題

~松井浩「三島由紀夫と熊本(神風連)」~

                   永田満徳

   初めに

松井浩氏の「三島由紀夫と熊本(神風連) 」「KUMAMOTO」33号(2020・12・15)と銘打った文章には私の文献を踏まえていると思われるところが多々ある。 

松井浩氏の最も重要な論点である「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」においてこそ問題があり、紙面の関係で、その一点を例にして指摘しておきたい。

この指摘がひいては「三島由紀夫と熊本」の結び付きに直結し、晩年の三島の思想と行動を探る上で極めて重要であるということを示すことになる。併せて、本稿の執筆動機である「剽窃と盗用」の問題を提起できれば幸いある。

   一 三島由紀夫と熊本

私が〈三島由紀夫と熊本〉との関係を調査研究するきっかけは、一般に軽々しく口にする「三島は熊本を第二のふるさと言った」という言葉である。

もともと、この言葉は『奔馬』の取材に協力した荒木精之氏宛ての手紙に「一族に熊本出身の人間がゐないにも不拘 今度、ひたすら、神風連の遺風を慕つて訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地として感じられました」というふうに出てくるが、私は額面通りには俄かに信じることができなかった。

熊本は〈心の故郷〉〈日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地〉と述べた三島由紀夫の真意を知ることが〈三島由紀夫と熊本〉との関係を掘り起こすことに繋がると踏んでいた。そこで、私が時間と労力、さらにお金を費やして執筆したのが「蓮田善明」であり、「神風連」に関する数々の論考である。

今回問題にしたいと考えている「蓮田善明の『神風連のこころ』」は、蓮田善明関係の多くの資料を渉猟し、「文藝文化」という雑誌を隈なく目を通した結果、ようやく手に入れた資料なのである。そこには、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」の三者を結ぶ重要な証拠があると直感した。この資料は三島由紀夫の「熊本」との接点において極めて重要なので、早速、一九九六(平成八)年に「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」と題して公表したのである。また、この松井浩氏が掲載している雑誌「KUMAMOTO」2号にも発表している。さらに言えば、「永田 満徳blog」でも公表している。

現在では、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」の三者の関係を説明しようとすると、蓮田善明の「神風連のこころ」という文章は避けて通れないほど基礎文献化している。今回の松井浩氏の文章もそうであるが、「三島由紀夫と神風連と蓮田善明」を述べている文章で、「蓮田善明の『神風連のこころ』」に触れている文章に接すると、私の論文の剽窃盗用であると簡単に見破ることができる。

   二 三島由紀夫と神風連と蓮田善明

 「三島由紀夫と熊本」との結び付き示す「蓮田善明の『神風連のこころ』」は今年注目されている「三島由紀夫没後五十年」を考える際に極めて多くの示唆を与えてくれると思われるので、改めて「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」(『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編、審美社 1996.3)を紹介したい。

丁寧に、しかも用心深く、論証に心砕いた記憶がある。「三島由紀夫の〈熊本は第二にふるさと〉」という一語もそうだが、わずか「三島由紀夫が蓮田善明の『神風連のこころ』を通して神風連を知った」という一文を論証するためにこれほどの文章を要するのである。

 

  東京という中心都市出身者である三島由紀夫がほとんどと言っていいほど知られていない神風連の存在をどうして知ったのかということこそ、むしろ問題にすべきなのかも知れない。

今ここに、昭和一七年十一月一日発行の『文藝文化』(第三巻第十一号) という雑誌を手にしている。その中には蓮田善明の「神風連のこころ」と題する森本忠氏の同題の書評が掲載されている。そこで驚くべきなのは、その文章の直前部分に、平岡公威こと、三島由紀夫の「伊勢物語のこと」と題した文章があることである。このときの『文藝文化』が若い日の三島にとって〈神風連〉の存在に初めて接する機会を与えてくれることになった雑誌であろうことは充分想像される。例えば、蓮田善明が「『電線の下ば通る時や、かう扇ばぱつと頭の上に広げて 。』と話されたのも石原先生ではなかつたらうか」と書いている神風連の故事は、極めて神風連の特色を示しているだけに初めて知るものの記憶に残るだろうし、しかも「私にはこの話がずつと、非常に清らかな、そして絶対動かせない或るものを、今日まで私に指し示すものになつてゐる」と述べているからには、ましてや私淑している蓮田の文章であるならば、若き日の三島の脳裏に印象鮮やかに映ったにちがいない。むろん、その当時から確実に記憶の底に残していたといえないまでも、記憶の片隅に留め置かれていたであろう。そう考えるのは、三島が決起の折にハンド・マイクという文明の利器を使わなかったのは神風連の故事にならったものだという既出の大久保氏の指摘は言うに及ばず、三島が神風連を理解する際の基本線は蓮田の文章から取り入れているように思われるからである。羅列的に示すと、蓮田善明の、

〈神風連は唯だたましひの事だけを純粋に、非常に熱心に思いつゞけたのである。日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めたのである〉 

〈かういふ精純な「攘夷」とは、日本の無比の歴史を受け、守り、伝へる心なのだ〉

 〈神風連は実際は敵らしい敵を与へられてゐないともいえる。にも拘らず彼等は何が敵であるかをはつきり知つてゐた〉

 〈彼等は自ら討つべきものを討つたことに殉じて死ななければならないことも、彼等は知つてゐた〉

という神風連の捉え方は、三島が熊本での神風連取材を前にして林房雄との対談『対話 日本人論』(番町書房・昭41・10) で語った

  「僕はこの熊本敬神党、世間では神風連と言っていますが、(中略)彼らがやろうとしたことはいったいなにかと言えば、結局やせても枯れても、純日本以外のものはなんにもやらないということ」

  「食うものから着物からなにからかにまでいっさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。失敗するのにきまっているのですがね。僕はある一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、非常に感動するのです」

 「神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです」

という言葉の端々から理解される神風連の捉え方とは、その純潔日本主義的な観念といい、行動の直截的な把握の仕方といい、或いは特に注目すべき死への潔い覚悟、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)といい、あまり径庭を感じさせることなく、むしろ蓮田の考えを敷衍させているかのように思われるからである。これはもちろん、昭和の神風連たらんとする『奔馬』の飯沼勲の思考と行動とに通じていることはいうまでもない。

 

と述べている。

   三 先行文献に対する扱い方、紹介の仕方

松井浩氏は、いとも簡単に「三島由紀夫は蓮田からも神風連について学んでいます」と書いて、その直後に、どうして紹介しているか分からないほどに説明もなく、ぶっきらぼうに、蓮田善明の「神風連のこころ」を紹介している。言うまでもなく、私であれば、その証拠に掲げていると察せられるのは私が蓮田善明の「神風連のこころ」を最初に指摘した人間だからである。よって、知らなかったでは済まされず、「蓮田善明の『神風連のこころ』」の部分に触れるならば必ず私の文献を参考文献として取り上げなければならない。

「讀賣新聞」(11月21日付)の「三島由紀夫と熊本上」は、それに対して、先行文献に対する扱い方、紹介の仕方が適切で模範的である。「讀賣新聞」も、三島由紀夫と蓮田善明と神風連の三者の関わりにおいて、蓮田善明の「神風連のこころ」の内容が重要であるとの認識のもとに、記者の地の文としてではなく、私のコメントとして取り上げている。

 

熊本近代文学研究会の永田満徳さん(66)は、三島が神風連を深く知ったのは蓮田を通してだったとみる。永田さんは「文藝文化」42年11月号には、蓮田が神風連について書いていることに注目。蓮田は神風連を「日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた」と論じており、「三島は蓮田の記事を目にしていたのはほぼ間違いない」というのだ。

 

とはっきりと示し、第一発見者の名誉をきちんと守っている。

   四 松井浩氏の〈断定表現〉

ここで松井浩氏の叙述で最も指摘しなければならないのは、〈断定表現〉である。私は「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」において、「であろうことは充分想像される」とか、「ように思われる」とか、「かのように思われる」とか、言い切ることを避けている。この文献を基にして書いた「三島由紀夫と〈熊本〉」「KUMAMOTO」2号(2013・3・15)では結論部分に至っても、「蓮田と神風連とが結び付き、想起されてきたと考えるのは自然であろう」と慎重に言葉を選び、締め括っていることがお分かりいただけただろうか。「三島由紀夫が蓮田善明を通して神風連を知った」ということは私にすれば確信できるし、自信を持っている。しかし、こと公にするとなると蓋然性が高いというだけである。松井浩氏のように、三島由紀夫と神風連と『城下の人』においても、あっさりと「三島と神風連との初めての出会いは『城下の人』にあります」と書いているが、私の調査研究によれば、「にあります」「学んでいます」と両方とも断定的に言うことはできない。最も危惧するのは「断定表現」が夏目漱石の「熊本は森の都と言った」という言葉のように、世間に流布することである。断定できることと、できないことを峻別するのが実際に調査研究する者の倫理であり、礼儀である。勝手に断定する文章ははからずも自分で調査研究せずに、ただ他人の文章を切り貼りしていることを暗に暴露しているようなものである。

  五 私の文献の剽窃、或いは盗用

この機会に述べておきたいのは、私の文献の剽窃、或いは盗用はネット上でも数多く見られ、苦々しい思いをしている。その代表は西法太郎氏の『三島由紀夫は一〇代をどう生きたか あの結末をもたらしたものへ』(文学通信、2018平成30年11月)である。「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」という私の初出の論文の剽窃盗用を疑う部分が数箇所に渡ってあり、唖然とするばかりである。

三島と神風連の結縁には蓮田善明も関わっていた。蓮田は「神風連のこころ」と題した一文を昭和一七(一九四二)年、清水文雄らとの同人誌『文藝文化』に寄せた。これは森本忠著『神風連のこころ』を評したものだった。一七歳の三島は蓮田の「神風連のこころ」を読み、この文章からも‘神風連"が何ものかを心の裡に刻んでいたのだろう。

この部分は私の初出の論文で述べている極めて重要な蓮田善明の「神風連のこころ」を介した三島由紀夫と神風連の理解という箇所の剽窃盗用ではないか。

 さらに、「讀賣新聞」では私のコメントとしてきっちりとり挙げられているところの、

(永田さんは「神風連のこころ」を踏まえて、)蓮田は神風連を『日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた』と論じており、『三島は蓮田の記事を目にしていたのはほぼ間違いない』というのだ。

の部分は、

蓮田は批評 「神風連のこころ」で、「神風連の人びとは非常にふしぎな思想をもっていたのである」、それは、「日本人が信じ、大事にし守り伝えなければならないものだけを、この上なく考え詰めたのである」と述べている。

という西法太郎氏の記述は何の断りもないので、盗用していると言わざるを得ない。

さらに、

蓮田は、「神風連はただ魂だけを純粋に、非常に熱心に思いつづけた」と説いた。三島は後年、この蓮田の書きつけに響いた発言をしている。熊本を訪れるまえに行った林房雄との対談で、「神風連はひとつの芸術理念」であり、「日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだと思う」と熱く語っている。

に至っては、

(三島が林房雄との対談で語った)神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです

という言葉の端々から理解される神風連の捉え方とは、その純潔日本主義的な観念といい、行動の直截的な把握の仕方といい、或いは特に注目すべき死への潔い覚悟、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)といい、あまり径庭を感じさせることなく、むしろ蓮田の考えを敷衍させているかのように思われるからである。

という、今から二五年前の、一九九六(平成八)年初出の拙論「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」をお読みの方はお分かりのように、三島由紀夫の神風連理解の根本的な部分の剽窃盗用が疑われるので、もし剽窃盗用であれば許すべからざる行為である。

  終わりに 剽窃盗用の問題は私だけの問題ではない

西法太郎氏の本は、松井浩氏が参考文献にしているように、先行文献に当たらず、十分に下調べもせしない人に孫引きされて、西法太郎氏の説として流通することになるので放っておけない問題である。

三島由紀夫と神風連と蓮田善明の三者の解明が剽窃、盗用されるほどの発見であったのだと自らを納得させればそれまでであるが、剽窃盗用の問題は私だけの問題ではないので看過することはできない。

2020年12月22日

画像:「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」

『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編、審美社 1996.3)

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熊本日日新聞【書評】2020/12/21付

2020年12月21日 11時39分00秒 | 新聞

安岡真著

「三島事件 その心的基層」書評                  

評・永田満徳(近代文学研究者)

本書の主題は「三島事件の心的機序の解明」であると明確に語られている。

まず、瞠目したのは、所属するはずだった連隊が戦地に行かず、戦後「無事家族の元に復員していた」事実である。入隊検査で不合格になり、「即日帰郷」になったことで感じた三島の〈負い目〉〈挫折〉、そして〈昇華〉は〈妄想〉であったのである。また、「聖セバスチャン殉教」図はのちに〈死〉の象徴と化し、自己解釈を行っているという指摘は三島の思考傾向を示していて、さもありなんである。いずれも、西洋文学への広範な知識が発揮され、地道に調査して明らかになる事実が鏤められていて、読み応えのある著書である。

ところで、〈神風連〉が主題となっていると言っていい『奔馬』は、飯沼勲が〈死〉の象徴として、三島事件の〈教科書〉〈シナリオ〉であり、〈導火線〉であるとの指摘はうべなえる。ただ、蓮田善明の〈死〉を「突然啓示のように私の久しい迷蒙を照らし出した」とし、神風連が〈日本精神〉の「原質的な」「ファナティックな純粋実験」であったという見識を披瀝する三島の晩年の真意は〈熊本〉という視点でないと見えてこないと思っているので、もう少し掘り下げて貰いたかった。

三島事件は、「天皇陛下万歳」と叫んで割腹自殺した三島と「天皇」との関係性に行き着く。拒まれた「旧陸軍」の「よみがえり」と「ひ弱な公威(三島=評者注)」の「自己救済」があり、そのために「『天皇』を必要とした」というくだりに至っては十二分に説得力があり、一貫した論述の手堅さが際立つ。

著者は「あとがきに代えて」で、最後の小説四部作『豊饒の海』の〈円環〉は「二十歳だった自分自身からの窮極の懺悔」と締め括っている。そういう意味で、本書は「三島由紀夫評伝」としても読めるもので、虚構化の著しい作家三島と言えども、個人の行動や思想は個人の体験以外から生まれることはないことをいかんなく知らしめる本である。

 

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