田島三閒句集『明日の春』論
永田 満徳
『明日の春』は明確な意思のもとで組まれた田島氏の第一句集である。「あとがき」に記されているように、これまでの句業をテーマごとに選び、春夏秋冬の順に纏めてあり、作者の「生活史」であり、「生活と精神の有り様」がくっきりと浮かび上がってくる。
先ず、第一章は作者が生まれてこの方離れることのなかった「ふるさと」である。
ふるさとや百年経たる梅白き
作者にとって、山川草木が「ふるさと」に「百年」の時を経て残り続けることに疑う余地がないことを詠んでいる。この強固な郷土意識は父の影響を抜きにしては考えられない。
打網の父思ひ出す梅雨出水
「打網」する父は喜びそのものの顔をしている。辛い労働者の合間の愉悦ともいうべき顔である。その表情が子供ながらに良き思い出として鮮明に残ったと言わなければならない。その一方で、
しがらみをしがらみとして里の秋
とあるように、「しがらみ」のある「里」であればこそ、まさに「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を実感する場面が幾度もあったであろう。
第二章の「まなびや」は教師として歩んだ道筋を辿ることができる。「春風に誘はるるごと初移動」という心躍る移動も、心の屈折はかなりあるものである。
重き荷を下ろさぬままに更衣
という心境になり、やがては、「職に慣れ人にも狎れて年の暮」ということになる。半ば強制された職場に順応していくしたたかさがおのずと滲み出ている。
生徒に対しては、たとえ「なかなか届かぬ言葉野紺菊」であっても、「しなやかに生きよと願ふ弥生尽」という気持ちを抱くのである。一律に人を判断してしまう狭量さは微塵もない。その延長線上にあるのは生徒への限りない優しい眼差しである。
補欠の子ただ眺め居る雲の峰
ひつじ雲謹慎の子ら庭を掃く
第三章が「旅」で、読む者を旅に誘ってやまない句の数々である。
館山やおつとり暮るる春の海
新涼や湯殿山にて靴を脱ぎ
地名が活かされていて、「おつとり暮るる」「靴を脱ぎ」とう措辞は土地の特色が過不足なく掴み取られている。
初鴨や一目を避けて薩摩入り
などはその地名とともに作者状況がうまく取り込まれている。「一目を避けて」にはただ単に旅行を楽しむだけに終わっていない。
第三章は「くまもと」である。新旧の風俗を著しく入れ替わる熊本城の吟行句「花影やゲームにふける筵番」、或いは漱石が水前寺を詠んだ「湧くからに流るるからに春の水」を思い起こさせる句「小六月ゆるゆるあゆむ水前寺」がある。いずれも、句の背景を踏まえていて、厚みのあるものにしている。
一心行桜よ人よ散るなかれ
桜は散るものという常識を覆し、「散るなかれ」と言ったところに人間性が表れていて、独自性がある。
夏草やしなやかに巻く牛の舌
などは、阿蘇の近いところに住んでいる作者ならでは句である。
第五章「夢」、第六章「山旅」、第七章「いのち」第八章「流転」と章を追うごとに章立てのユニークさがでてくる。それは句に現れていて、軽快なリズムに合わせて、内容も軽妙洒脱になってくる
火渡りや寒のほどくる匂いひして 【夢】
栗拾ひぽろりと落とす喜びも 【山旅】
涼しさや氷河の端に触るる旅 【山旅】
「いのち」の章は俳諧味とともに、余裕のある詠みぶりである。
子羊の蹴飛ばす空のあたたかさ 【いのち】
翡翠や思ひ出幾つてんてんてん 【いのち】
笑ひ声するりと蜻蛉すりぬける 【いのち】
また、「流転」はその章の名前のごとく、人間の営みに対する鋭い批評性がある。
梅の枝向きを変へたる戦後かな 【流転】
節分や取り替へできぬ素の心 【流転】
最後の第九章は、句集刊行の動機となった「母の死」で締めくくられていて、「見えぬ月ともに仰ぎし師も母も」「秋立つや母の額の熱きまま」などにみられる母への思いに心を揺さぶられる句が多い。。
明日の春阿吽の像に手を合はす
という句はとりわけ含蓄のあるものである。この敬虔な気持ちにさせる句を掉尾に持ってきたことによって、句集を貫く作者の「生活史」「生活と精神の有り様」が如実に表現されている。
永田 満徳
『明日の春』は明確な意思のもとで組まれた田島氏の第一句集である。「あとがき」に記されているように、これまでの句業をテーマごとに選び、春夏秋冬の順に纏めてあり、作者の「生活史」であり、「生活と精神の有り様」がくっきりと浮かび上がってくる。
先ず、第一章は作者が生まれてこの方離れることのなかった「ふるさと」である。
ふるさとや百年経たる梅白き
作者にとって、山川草木が「ふるさと」に「百年」の時を経て残り続けることに疑う余地がないことを詠んでいる。この強固な郷土意識は父の影響を抜きにしては考えられない。
打網の父思ひ出す梅雨出水
「打網」する父は喜びそのものの顔をしている。辛い労働者の合間の愉悦ともいうべき顔である。その表情が子供ながらに良き思い出として鮮明に残ったと言わなければならない。その一方で、
しがらみをしがらみとして里の秋
とあるように、「しがらみ」のある「里」であればこそ、まさに「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を実感する場面が幾度もあったであろう。
第二章の「まなびや」は教師として歩んだ道筋を辿ることができる。「春風に誘はるるごと初移動」という心躍る移動も、心の屈折はかなりあるものである。
重き荷を下ろさぬままに更衣
という心境になり、やがては、「職に慣れ人にも狎れて年の暮」ということになる。半ば強制された職場に順応していくしたたかさがおのずと滲み出ている。
生徒に対しては、たとえ「なかなか届かぬ言葉野紺菊」であっても、「しなやかに生きよと願ふ弥生尽」という気持ちを抱くのである。一律に人を判断してしまう狭量さは微塵もない。その延長線上にあるのは生徒への限りない優しい眼差しである。
補欠の子ただ眺め居る雲の峰
ひつじ雲謹慎の子ら庭を掃く
第三章が「旅」で、読む者を旅に誘ってやまない句の数々である。
館山やおつとり暮るる春の海
新涼や湯殿山にて靴を脱ぎ
地名が活かされていて、「おつとり暮るる」「靴を脱ぎ」とう措辞は土地の特色が過不足なく掴み取られている。
初鴨や一目を避けて薩摩入り
などはその地名とともに作者状況がうまく取り込まれている。「一目を避けて」にはただ単に旅行を楽しむだけに終わっていない。
第三章は「くまもと」である。新旧の風俗を著しく入れ替わる熊本城の吟行句「花影やゲームにふける筵番」、或いは漱石が水前寺を詠んだ「湧くからに流るるからに春の水」を思い起こさせる句「小六月ゆるゆるあゆむ水前寺」がある。いずれも、句の背景を踏まえていて、厚みのあるものにしている。
一心行桜よ人よ散るなかれ
桜は散るものという常識を覆し、「散るなかれ」と言ったところに人間性が表れていて、独自性がある。
夏草やしなやかに巻く牛の舌
などは、阿蘇の近いところに住んでいる作者ならでは句である。
第五章「夢」、第六章「山旅」、第七章「いのち」第八章「流転」と章を追うごとに章立てのユニークさがでてくる。それは句に現れていて、軽快なリズムに合わせて、内容も軽妙洒脱になってくる
火渡りや寒のほどくる匂いひして 【夢】
栗拾ひぽろりと落とす喜びも 【山旅】
涼しさや氷河の端に触るる旅 【山旅】
「いのち」の章は俳諧味とともに、余裕のある詠みぶりである。
子羊の蹴飛ばす空のあたたかさ 【いのち】
翡翠や思ひ出幾つてんてんてん 【いのち】
笑ひ声するりと蜻蛉すりぬける 【いのち】
また、「流転」はその章の名前のごとく、人間の営みに対する鋭い批評性がある。
梅の枝向きを変へたる戦後かな 【流転】
節分や取り替へできぬ素の心 【流転】
最後の第九章は、句集刊行の動機となった「母の死」で締めくくられていて、「見えぬ月ともに仰ぎし師も母も」「秋立つや母の額の熱きまま」などにみられる母への思いに心を揺さぶられる句が多い。。
明日の春阿吽の像に手を合はす
という句はとりわけ含蓄のあるものである。この敬虔な気持ちにさせる句を掉尾に持ってきたことによって、句集を貫く作者の「生活史」「生活と精神の有り様」が如実に表現されている。