【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

田島三閒句集『明日の春』論

2018年06月19日 06時55分48秒 | 句集評
田島三閒句集『明日の春』論
                 永田 満徳

 『明日の春』は明確な意思のもとで組まれた田島氏の第一句集である。「あとがき」に記されているように、これまでの句業をテーマごとに選び、春夏秋冬の順に纏めてあり、作者の「生活史」であり、「生活と精神の有り様」がくっきりと浮かび上がってくる。
 先ず、第一章は作者が生まれてこの方離れることのなかった「ふるさと」である。
   ふるさとや百年経たる梅白き
作者にとって、山川草木が「ふるさと」に「百年」の時を経て残り続けることに疑う余地がないことを詠んでいる。この強固な郷土意識は父の影響を抜きにしては考えられない。
   打網の父思ひ出す梅雨出水
「打網」する父は喜びそのものの顔をしている。辛い労働者の合間の愉悦ともいうべき顔である。その表情が子供ながらに良き思い出として鮮明に残ったと言わなければならない。その一方で、
しがらみをしがらみとして里の秋
とあるように、「しがらみ」のある「里」であればこそ、まさに「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を実感する場面が幾度もあったであろう。
 第二章の「まなびや」は教師として歩んだ道筋を辿ることができる。「春風に誘はるるごと初移動」という心躍る移動も、心の屈折はかなりあるものである。
   重き荷を下ろさぬままに更衣
という心境になり、やがては、「職に慣れ人にも狎れて年の暮」ということになる。半ば強制された職場に順応していくしたたかさがおのずと滲み出ている。
生徒に対しては、たとえ「なかなか届かぬ言葉野紺菊」であっても、「しなやかに生きよと願ふ弥生尽」という気持ちを抱くのである。一律に人を判断してしまう狭量さは微塵もない。その延長線上にあるのは生徒への限りない優しい眼差しである。
   補欠の子ただ眺め居る雲の峰
   ひつじ雲謹慎の子ら庭を掃く
第三章が「旅」で、読む者を旅に誘ってやまない句の数々である。
   館山やおつとり暮るる春の海
   新涼や湯殿山にて靴を脱ぎ
地名が活かされていて、「おつとり暮るる」「靴を脱ぎ」とう措辞は土地の特色が過不足なく掴み取られている。
   初鴨や一目を避けて薩摩入り
などはその地名とともに作者状況がうまく取り込まれている。「一目を避けて」にはただ単に旅行を楽しむだけに終わっていない。
第三章は「くまもと」である。新旧の風俗を著しく入れ替わる熊本城の吟行句「花影やゲームにふける筵番」、或いは漱石が水前寺を詠んだ「湧くからに流るるからに春の水」を思い起こさせる句「小六月ゆるゆるあゆむ水前寺」がある。いずれも、句の背景を踏まえていて、厚みのあるものにしている。
   一心行桜よ人よ散るなかれ
桜は散るものという常識を覆し、「散るなかれ」と言ったところに人間性が表れていて、独自性がある。
夏草やしなやかに巻く牛の舌
などは、阿蘇の近いところに住んでいる作者ならでは句である。
 第五章「夢」、第六章「山旅」、第七章「いのち」第八章「流転」と章を追うごとに章立てのユニークさがでてくる。それは句に現れていて、軽快なリズムに合わせて、内容も軽妙洒脱になってくる
   火渡りや寒のほどくる匂いひして   【夢】
   栗拾ひぽろりと落とす喜びも    【山旅】
   涼しさや氷河の端に触るる旅    【山旅】
「いのち」の章は俳諧味とともに、余裕のある詠みぶりである。
子羊の蹴飛ばす空のあたたかさ   【いのち】
   翡翠や思ひ出幾つてんてんてん   【いのち】
笑ひ声するりと蜻蛉すりぬける   【いのち】
また、「流転」はその章の名前のごとく、人間の営みに対する鋭い批評性がある。
   梅の枝向きを変へたる戦後かな   【流転】
   節分や取り替へできぬ素の心    【流転】
 最後の第九章は、句集刊行の動機となった「母の死」で締めくくられていて、「見えぬ月ともに仰ぎし師も母も」「秋立つや母の額の熱きまま」などにみられる母への思いに心を揺さぶられる句が多い。。
   明日の春阿吽の像に手を合はす
という句はとりわけ含蓄のあるものである。この敬虔な気持ちにさせる句を掉尾に持ってきたことによって、句集を貫く作者の「生活史」「生活と精神の有り様」が如実に表現されている。
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寺澤始論

2018年06月19日 06時53分03秒 | 月刊「俳句四季」
寺澤始論
生活に根差した俳句

永田満徳

一日三句を作ることをみずからに課したこの一年間の成果が「未来図」新人賞受賞に繋がったことはまことに慶賀すべきことである。
春泥や墓の数だけ恋ありし
菊祭果てて菊みな頸切らる
 どちらも共感できる句である。「墓の数だけ」の恋のうちで秘めし「恋」であればなおさら心打つものがある。「春泥」という季語は墓の周囲の風景であるとともに、「春」の季感が「恋」のときめきと響き合っている。絢爛豪華ぶりを競っていた武者人形が「菊祭」が終わるやいなや、斬首のように「頸切らる」様を詠んで、観察の行き届いた句になっている。
ゼリー食ふ皿ことことと春の地震
  犬の尾のうろうろバレンタインの日
   数へ日の具のごろごろとカレーかな
俳句は多くのことは述べられない。そこで、効果的に用いられるのが擬音語・擬態語である。「ことこと」が「春の地震」、「うろうろ」が「バレンタインの日」、「ごろごろ」が「数へ日」というように、擬音語・擬態語が季語と見事に配合されている。
寺澤始さんは長距離通勤者である。片道二時間余り、往復約四時間半。朝は五時に起き、十五分後には家を出て、家に着くのは午後十時から十一時の間である。時には通勤時間の長さから逃れたい気持ちが湧き起こったであろう。「旅立ち」は心の叫びなのである。
旅立ちは山眠るころ夜汽車かな
しかしながら、この間は不自由であっても、俳句に関する本を読んだり、俳句を作ったりするのに適した環境であったと思われる。
停車位置直す建国記念の日
魚釣りは月に一、二回。湖や渓流の鱒や山女、岩魚釣りを最も好み、箱根の芦ノ湖、日光の湯ノ湖、関東の河川に足を伸ばすことがその余暇の楽しみであり、句作の材料となるものである。
箱根関乗込鮒の群れゐたる
豆鯵の群れさながらに揚がりけり
魚への愛着が如実に表現されているのは、
佃煮の鯊に顔あり終戦日
であり、終戦の貧しき食卓の様子を思い起こす句となっている。日頃の興味関心がそのまま俳句になっているところに始俳句の良さがある。
食通であるのか、多くの食材が句に詠み込まれていて、実に微笑ましい。それは釣ってきた鱒を自分で捌き、刺身、塩焼、干物、鱒丼などを作るからに他ならない。
ケーキ焼く妻も母なり母の日に
ワッフルの香り運びて若葉風
コロッケのよく揚がりたる阿蘇の秋
数へ日の具のごろごろとカレーかな
ケーキ、ワッフル、コロッケ、カレー、いずれをとっても、片仮名表記であるのが現代の食文化の一端を表現していて、現代の風景を切り取って見せたと言ってよい。
立ち読みで覚えしレシピ秋隣
フライパン磨き上げたる晩夏かな
台所に立つ男子の日常生活が活写されている。カレーや焼きそばを作るということを聞くと、男子厨房に入らずは過去のことである。
そもそも、始さんが熊本の高校に奉職していた関係で親しくなって、文学にあくなき興味を抱いていることが彼の風貌から伺い知れたので、俳句に誘ったところ、一も二もなく応じてくれた。
大学時代に俳句に出会い、本格的になったのは熊本時代に私と出会ってからであるという。「雪代を食むほどに澄む山女かな」という句を初めて熊本で作り、私がやっていた「幹の会」、さらには「未来図」熊本支部に参加し、離熊した後も「幹の会」に欠席投句して、始さんとの縁は続いている。
青胡瓜噛めば中也の闇夜かな
文学青年の延長線上にある句で、大学院を出て、その文学遍歴の影響を受けていることがはっきり見て取れる。
学び舎に続く坂道糸瓜咲く
学生時代は日本文学よりも日本宗教思想史に魅かれて、日本思想史、日本仏教史、日本民俗学、仏教学演習、キリスト教概説なども学んでいる。熊本時代には九州セミナリオというキリスト教の講座を二年かけて修了したほど、宗教との対話を怠らない。現在、仏教とキリスト教、神道にも興味を持ち、アニミズム的な俳句の世界にも興味の範囲を広げている。
花辛夷司祭箒を持て来たり
キリスト教入信は二十二歳の時で、両親がクリスチャンだったからである。
今日のみは羊となりて入学す
遠藤周作の小説に描かれている日本人のキリスト教に対するアンビバレンツな感情は始さんも例外ではない。ルター派(ルーテル)のプロテスタントとして、日本の宗教文学と異国の宗教との融合に苦心することがあるとはいえ、そこから豊穣な俳句の世界が立ち現れることを祈念して、お祝いの言葉とする。
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自註自解

2018年06月19日 06時40分39秒 | 俳句
 「火神」第六〇号特集
                   永田満徳
大いなる御空を背負ひ藺草植う

「空」が席題の句で、熊本市内から八代高校へJR通勤していた時の風景である。鍵和田秞子先生から「宗教的な深さを感じさせる空は『御空』の措辞にふさわしい」とお褒めいただいた。



水俣やただあをあをと初夏の海

龍ヶ岳山頂から眺めた水俣の海の風景である。海の色があまりにも美しかったので、かえって有機水銀があふれ出すかもしれない不安感を覚えた。案の定、後の熊本地震でその漏洩が話題になった。



こんなにもおにぎり丸し春の地震

 草枕交流館のお世話で、熊本地震の折に炊き出しのおにぎりを頂いた。コンビニにある三角のおにぎりとは違う、結ぶ手の形のおにぎりは握った人の真心を感じさせるもので、実に美味しかった。
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日永田渓葉句集『蝋梅』序文

2018年06月19日 06時35分56秒 | 句集序文・跋文
日永田渓葉句集『蝋梅』序文
                              永田 満徳
日永田渓葉氏が第一句を刊行された。句会に、吟行に句友として接してきた私にとっても真に慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。七十歳を境にして句集を纏まられて、一つの節目となったこの句集には渓葉俳句の全てが表現されている。

蠟梅を透かして過去の滲み来る

「蠟梅」は句集の題となった句である。あたかも句集全体を言い表したような句である。「過去の滲み来る」に、これまでの来し方を振り返り、「過去」のある部分がことさらながら思い起こされる感慨を詠ったものである。
この過去への遡及は、「天空の風を友とし沢胡桃」という空間把握とともに、渓葉俳句に於ける時空感覚に依拠していて、一つの特色をなすものである。

四百年生死を謡ふ大桜
千年も桜を見んと峠越ゆ

生あるものの悠久さに対する賛仰の眼差しが根底にある。「四百年」「千年」という数詞に見られる気宇雄大な気風を良しとしたい。
生そのものへの注視は身近な生き物である犬への無限な温かい視線となっている。

あちこちに犬の穴あり長旱
春の野へ縺れる走り犬笑ふ
老犬の伏目がちなる庭菫
大寒の老犬の眼の澄み渡る

「あちこちに」「犬笑ふ」「伏目がち」「澄み渡る」などはいずれも犬の仕種を注意深く観察していなければならない措辞である。愛犬家という言葉以上に、生きとし生きるものを慈しむ精神の発露と捉えることができる。

降り積もる落葉の布団犬の墓
春泥や犬に越さるる齢来る

犬と雖も家族同然に思う視線が一たび自己に向かうと、「身の内にひとりを満たし暑き夜」の句に見られるように、内省の深さは追随を許さぬものである。日永田氏に接した人は人を責めることのない、その柔和な表情に心癒される。
 幾多の苦労を重ねて来たことを思わせる句もある。

家族鍋昔のことは口にせず
野分俟つ我が身を誹る娘ゐて

家庭内の出来事も「昔」こととして自分のうちに潜ませ、「娘」に反抗されても我慢して耐える姿に古武士の面影を見るのは私だけではないだろう。
その家族もやがて癒しの元であることも否定できない。

酒つぐ子肩揉む子居て夏座敷
口あけて昼寝の子供原爆忌
石橋の妻の手を引き花菖蒲

「酒つぐ子肩揉む子」の存在に相好を崩している様子が目に浮かぶし、「昼寝の子」に対する平穏を祈る気持ちや「石橋の妻」への優しい気遣いは読むものに感動を呼ぶ。
ところで、「梅雨なれば下駄を引き出す散歩道」にある「下駄」履きを好み、出来るだけ自然に同化しようとする考えは自然保護活動に参加する行為と軌を一にするものである。自然へ親近性は季節とともに暮らす俳人としての資質を備えられていることを証明している。

来迎の曙光を入れて遠秋嶺
氷点下ものみな曙光宿しけり
曙や娘孕みて蕗の薹
霜踏みて曙光の向こう見えぬもの

「曙光」の語が頻出するが、曙の光が意味するものが自然への畏敬の念と希望であるからである。
 句集を審らかに閲してみると、その多彩さに驚かされる。こよなく愛されている酒では「二駅を揺られ新酒の蔵に入る」の「二駅」の微笑ましさ、「まぶしさや障子に春の力あり」「春雷の中に得体の知れぬもの」の句の感覚の冴え、「目借時お客にあらぬ問ひをかけ」「あたふたメールを返し愁思かな」の滑稽味など枚挙に暇がない。
 その他で心惹かれる句を取り上げておきたい。

日短や待ち会ふ女の髪の揺る
秋澄や塾のチョークは響きをり
両の手を葉のかたちにて蓬摘む
別れ時知れば二人の夕焼かな
恋猫や月は地球に落ちさうに

俳人協会幹事 永田満徳
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寺澤佐和子第一句集『卒業』論

2018年06月19日 06時33分23秒 | 句集評
寺澤佐和子第一句集『卒業』論
~身体性の俳句~

永田満徳

 寺澤佐和子句集『卒業』は句集刊行が待たれた句集である。熊本を離れても、佐和子さんは「幹の会」に欠かすことなく欠席投句して、高点句を浚っていたからである。それらの句を纏まった形で読むことができる幸せは格別である。
 「漱石俳句かるた」大会のお手伝いをお願いして知り合いになった夫の始さんが「火神」に入会し、始さんに伴われた佐和子さんが俳句に興味を持ち始めるのはそれほど難しいことではなかった。文学部の大学院を卒業し、文学への熱い気持ちを抱いていることを感じたからである。その分、初期の佐和子俳句は文学臭があり、「意余りて言葉足らず」の感が無きにしも非ずであった。
あひびきや梨の莟の紅うすく
無理のない表現で、きっちりとした俳句表現を手に入れたとき、佐和子俳句はみごとに開花した。
佐和子俳句の特色は何と言ってもその身体性にある。第一章の「肥後椿❘❘熊本」にすでに出ているが、「傾きし月きんいろに人麻呂忌」の「きんいろ」は視覚、「老鶯のあとは水音ばかりなり」の「水音」は聴覚、「偽物の風なまぐさき扇風機」の「なまぐさき」は触覚、「冷房の壊れて夜の匂ひかな」の「匂ひ」はもちろん「嗅覚」、「悪人になつて飲み干す黒麦酒」の「飲み干す」は味覚、まさしく五感をフル稼働している。その代表が巻頭の二句目である。
雪なだれ大地どくんと胎動す
「雪なだれ」の瞬間を体全体で掴みとっている。
どの章も心惹かれるが、第四章の「卒業❘❘家族の物語」が佐和子さんの日常を少しく知っている者にとって尚更である。
   子を叱りつつ栗の実を甘く煮る
「幹の会」に子連れで参加した時も、熊本から離れて電話で遣り取りした時も、やんちゃな子供を窘めていることがあった。しかしそこには少しも邪険に扱うことなく愛情溢れる接し方で微笑ましく思えたものである。
句集『卒業』は子育ての真っ最中の句群である。子育て俳句の先蹤をなす中村汀女俳句にも見られない子育ての貴重な記録ともいえるべきものがある。「春浅し妊婦判定まで二分」の妊娠から「蝉の声湧きて胎動たしかなり」の胎動、「今日よりは臨月に入る良夜かな」の臨月、「陣痛の合間合間や虫の声」の陣痛を経て、ついに「産声や金木犀の香に乗つて」の出産に至る過程を詠み込んだ句を例にとっても、一連の出産の様子が時間軸に従って克明に描かれている。往々にして、子育て俳句は報告的になりがちであるが、佐和子俳句は一句として成り立っている。いずれも、季語と取り合わせていて、季語の斡旋に狂いがない。
ところで、文学少女然としていた佐和子さんが俄かに母親になったと思うのは次の句である。
   乳房持つ幸せ春の土偶かな
明らかに授乳を経験したことによる母親宣言の句である。「月見草母性は乳の辺りより」の句から分るように、「乳」を子に含ませる行為によって母体を意識し自認することで、母親へ脱皮したと言ってよい。
 このように、子育ての中から生み出された句はどれも体ごとの表現になっていて、体全体で俳句を詠むところに佐和子俳句の真骨頂がある。ここに、寺澤佐和子俳句を身体性の俳句と名付ける所以である。
【ながた・みつのり。俳人協会幹事】
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