令和5年度 漱石忌法要句会 (レジュメ・講師控用) 令和5年12月9日
漱石俳句のレトリックとは何か
「火神」主宰 俳句大学学長 永田満徳
はじめに 熊本時代の夏目漱石は俳人だった。
①正岡子規の新派俳句を熊本にもたらす
・運座「紫溟吟社」を開く(内坪井宅・明治31年10月2日)
・「紫溟吟社詠」(九州日日新聞M33,1)
・漱石離熊の明治34年、機関誌『銀杏』発刊
・紫溟吟社の精神は『白扇会報』に引き継がれる。(拙論「井上微笑」)
②漱石俳句全体の4割(1000句あまり)
・1月〔子規へ送りたる句稿 32 75句〕(明治32年1月)
75句の最後に「冀くは大兄病中煙霞の癖万分の一を慰するに足らんか」と書いている。
熊本近代文学研究会会員の俳人永田満徳さん(61)は「漱石は病床の子規の苦痛を添削によって軽減しようと考えた」とし、「この月75句、翌月の105句を送っている。その積み重ねが熊本時代の千句近くの句数。2人の友情の証しだ」と語る。[愛媛新聞(2016年9月17日(土)文化欄より〕
1.【漱石の俳句観】寺田寅彦「夏目漱石先生の追憶」(昭和7年12月)
○ 俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。
○ 扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。
※レトリックの語は、修辞学あるいは修辞法、修辞技法などと訳される。〈文彩〉、また単に〈彩〉
〔修辞的表現者〕 (『わざとらしさのレトリック 言述のすがた』講談社学術文庫)
・修辞学者の佐藤信夫は漱石の文学作品においてではあるが,「並はずれた修辞的表現者だった」「徹頭徹尾修辞的に書く、という散文は、漱石以後、《継承》されることがなかった」と言い切っている。
〔漱石の写生観〕 「自然を写す文章」(『漱石全集』第25巻)
○自然を写す即ち叙事といふものは、なにもそんなに精細に微細に写す必要はあるまいとおもふ。
○自然にしろ、事物にしろ、これを描写するに、その連想にまかせ得るだけの中心点を捉へ得ればそれで足りるのであつて、細精でも面白くなければ何にもならんとおもふ。
〔漱石俳句の「活動」〕
○ 正岡子規の夏目漱石に下した二字評の「活動」
「明治二十九年の俳句界」において、正岡子規は漱石のことを下記の通りに述べている。
「意匠極めて斬新ななる者、奇想天外より来たりし者多し。」
・首藤基澄氏の「子規と漱石―写生と連想―」(『近代文学と熊本』和泉書院)
漱石は(中略)具象から抽象まで、連想法によって自在な世界構築が試みられようとしていたとみていい。その時、対象や方法を限定することなくいかようにも「活動」できる幅があった。
〔子規の添削・評〕
〔明治30年2月の〔子規へ送りたる句稿二十三〕(『漱石全集』第17巻・岩波書店)〕
1066 ○○ 人に死し鶴に生れて冴返る 空想
1067 隻手此比良目生捕る汐干よな 見立て
1068 恐らくば東風に風ひくべき薄着
1069 ○○ 寒山か拾得か蜂に螫(されしは 連想
1070 ○○ ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり 比喩
1071 ○○ 落ちさまに虻を伏せたる椿哉 擬人化
1072 貪りて鶯続け様に鳴く 擬人化
1073 ○ のら猫の山寺に来て恋をしつ 擬人化
1074 ○○ ぶつぶつと大な田螺の不平哉 オノマトペ・擬人化
※子規の添削・評は句頭の○である。
・子規が評価しているのは「俳句のレトリック」を用いた「空想」「連想」「比喩」「擬人化」「オノマトペ」である。
・子規は子規で、夏目漱石の俳句の特色、あるいは魅力が「俳句のレトリック」の応用にあることを的確に掴んでいるのである。
・ここに漱石の俳句を「活動」と評した所以があると言わなければならない。
2.【漱石俳句のレトリック】 参照:「漱石俳句研究」(1925年7月、岩波書店)
「写生」「季語」「取り合せ」「省略」のほか、あらゆる俳句のレトリックが使われている。
参照:永田満徳『草枕』論 「『仕方がない』日本人をめぐって : 近代日本の文学と思想」所収(2010.9・南方新社)
https://blog.goo.ne.jp/mitunori_n/e/f50d567adb46e7e252fe164a949f6f84
比喩=あるものを別のものに喩える
日当りや熟柿の如き心地あり 漱石
熟柿になつた事でもあるような心持のある所が面白い(小宮蓬里雨)
擬人化=人間でないものを人間に擬える
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな 漱石
此処では木魚を或意味で人格化している(蓬里雨)
連想=季語の内包する美的イメージを表す
寒山か拾得か蜂に螫されしは 漱石
絵の表情から蜂に螫されたといふ架空の事実を連想した。(寺田寅日子)
空想=現実にありそうにもないことを想像する
無人島の天子とならば涼しかろ 漱石
思ひ切つた空想を描いた句。(寅日子)
デフォルメ=対象を強調する
夕立や犇く市の十萬家 漱石
十萬家といふ言ひ現はし方かの白髪三千丈の様ないささか誇大な形容(松根東洋城)
オノマトペ=音や声、動作などを音声化して示す 擬音語、擬声語、擬態語の3種類
ぶつぶつと大いなる田螺の不平かな 漱石 大いなる⇒大な〔子規へ送りたる句稿二十三〕
先生の所謂修辞法の高頂点を示す(寅日子)
同化=主体と対象の一体化
菫程な小さき人に生れたし 漱石
作者が菫と合体し同化する(東洋城)
※漱石俳句に対して、門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している。
3.【レトリックを使った俳句】
〔代表例〕オノマトペ俳句 ( http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/dfrontpage/ONOMATOPE.htm )参照
【比喩】・直喩(比喩)咳込めば我火の玉のごとくなり 川端茅舎 秋の蝉水切るやうに鳴き止みぬ 永田満徳
・隠喩(比喩)空蝉の一太刀浴びし背中かな 野見山朱鳥 金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎
【擬人法】一生の重き罪負ふ蝸牛 富安風生 こそばゆき地球ならんか潮干狩 永田満徳
【擬 音】鳥わたるこきこきこきと灌切れば 秋元不死男 寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃 加藤楸邨
ライターの火のポポポポと滝涸る 秋元不死男 水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
【擬 声】雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと 松本たかし 都府楼趾より遠足子がやがやと 野見山朱鳥
【擬 態】ひらひらと月光降りぬ貝割菜 川端茅舎 ふはふはのふくろうの子のふかれけり 小澤 實
〔俳句の効用〕永田満徳第二句集『肥後の城』より
①『肥後の城』におけるオノマトペ
・金田佳子:「自在なオノマトペ」(「火神」75号)
・一章 [城下町] なし
・二章 [肥後の城] ぽたり、だりだり、ごろんごろん、とろり
・三章 [花の城] どさり、ぬるんぬるん、ひたひた、ぼこぼこ、しゃりしゃり、ぱっくり、ぱんぱん
・四章 [大阿蘇] とんとん、ぐらぐらぐんぐん、もぞもぞ、ゆったり、じっくり、ぽたんぽたん
独特なのは、「だりだり」くらいで、他は普通のオノマトペなのに句の中にあると印象鮮明、途端に句が生き生きとする。動詞や形容詞、形容動詞で説明されるよりずっと体感する。(佳子)
・今村潤子:特集永田満徳句集『肥後の城』(「火神」75号)
春昼やぬるんぬるんと鯉の群 満徳
しやりしやりと音まで食らふ西瓜かな 満徳
湯たんぼやぼたんぼたんと音ひびく 満徳
以上の句は修辞の上で擬声語、擬態語が大変旨く表現されている。このようなオノマトペを使った句は他にもあるが、そこに作者の詩人としての感性が匂ってくる。
②レトリックこそ、俳句の本命
【オノマトペ】ぐらぐらとぐんぐんとゆく亀の子よ 満徳 ぐらぐら=揺れる様子 ぐんぐん=勢いよく進む様子
【象徴】かたつむりなにがなんでもゆくつもり 満徳 かたつむり=「不屈」
こんなにもおにぎり丸し春の地震 満徳 おにぎり=「真心」
終わりに 技巧派漱石俳句の継承とその発展
・正岡子規没後、客観写生派の高浜虚子の「ホトトギス派」と革新派の河東碧梧桐を中心とする「新傾向俳句」に分かれ、大正、昭和初期には「ホトトギス派」が俳壇の主流となり、今日に至っている。
しかし、その一方で、熊本にて運座(句会)を開き、正岡子規の新派俳句を熊本にもたらした漱石俳句の継承者は全国的にみてもいない。
・そこで、「私は漱石の後継者を自認し、漱石の言葉である「俳句はレトリック」に倣い、連想はもとより、擬人化・比喩・オノマトペなどを駆使して、バラエティーに富んだ、多様な俳句を作ることを心掛けました。」
:永田満徳「文學の森大賞」の受賞の言葉(「文學の森 各賞贈賞式(2023年5月16日)」「秋麗」7月号掲載