『三島由紀夫と八代』
八代高校国語科教諭 永田満徳
大江健三郎のノーベル賞受賞が話題になっているが、ひと昔前には三島由紀夫も賞こそ逸したが、再三ノーベル賞候補として話題になっていた。私はその三島が晩年熊本を〈第2のふるさと〉と言っていたことの真偽と意味をさぐり、今年「三島由紀夫と熊本」(『熊本の文学 第3』審美社・平6・12)と題して発表している。その折に、関係資料に目を通していた私は心躍りするような文章に出くわした。それは、「『豊饒の海』創作ノート」、いわゆる取材ノートの文章である。走り書きのような文字の羅列の中に唐突といった感じで、次のような文章があった。
三十日午後鳩山 タ方八代高校
その校庭の午後五時半、すばらしい海風、かやつり草等、風にさやぐ校庭に寝てゐる、左方、みわたす限り草の庭に、ぽぷら揺れ、木々白き葉裏を揺らす、その彼方の山直に迫るが如く、美しき山容、ビロードの緑をなめらかに畳む。そのべたりと坐れる山のすがた、山ひだも西日をうけてかがやき、こまかい影の美しさ。その上に、夏雲立ちはだかる。(南九州の夏のをはりの最後の威々しい悲壮な夏山の入道雲)それを、草の間からのぞき見る。草の香のかぐはしさ。空を次々と燕が蝿のやうに夥しく 飛んでくる。どこから出て来たのかわからぬ。その白い腹。その勇ましい飛翔。ピヨピヨといふ囀り。彼方校庭の外れに鉄棒に赤い鉢巻の少年あり。われ行きて懸垂十五回やつておどろかす。(背中の地面の感覚。学校の夏休みの感覚。十七、八歳の少年の人生に抱く夢と希望の感覚の再現)
本校としては残念であるが、「八代高校」と記しているのは誤りである。三島由紀夫は昭和41年8月27日~31日の3泊4日間、遺書とも言うべき『豊穣の海』のその第2巻「奔馬」の取材のために来熊している。その三島に同伴した、三島とは旧知のあいだであった福島次郎氏の話によれば、三島を日奈久まで案内したついでに、当時勤めていた「八代工業高校」に立ち寄ったということである。その誤りの原因は不明であるが、「年表作家読本『三島由紀夫』」〈河出書房新社・1990.4)を初めとして、多くの伝記・年表には誤りのままであるのは看過できない。夏目漱石については日録と言って良いくらいの詳細な伝記が書かれつつあるが、三島にもいずれそういう伝記が必要になってくるであろうからである。
この文章について、少なくとも次のような3つの点が指摘できる。
1つは、メモ書きであるから、箇条書きが多いのは当然であるが、そういう文の中である程度まとまった文章はこれだけだということである。この文章には、4年後に割腹自殺して果てる三島が死に急ぎしつつある自分の生を振り返って、青春回帰にしばしの慰安を覚えていることが感じられる。一生を一気呵成に駆け抜けた感がある三島にとって、こういう一時が持てたことは希有のことではなかったか。そういう気持ちを覚えたことがこの文章を『豊饒の海』創作ノートに書きとどめさせた原因になったのだろう。
2つめは、世界的な作家である三島の目を通して見られた八代の情景がメモ程度のものであれ、文学的に昇華されて表現されて定着したということである。八代の風景的特色がさすがに一流の作家ならではの視点であやまたず、簡潔に、的確に素描されている。
そして、三つめは、比喩の巧みさで鳴る三島が取材段階では素材を点描するにすぎないということである。作品化する中で比喩等の表現技巧を駆使した芸術的な文章に転化していく作家であることが分かる。三島という作家の工房を垣闇見た思いである。
いずれにしろ、八代を描いたこの文章が三島由紀夫の文章として記録されている点で、〈八代の文学〉の一ページを飾るものになるだろう。
八代高校図書館報
(熊本県立八代高等学校図書部)