【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

受賞者永田満徳「中村青史賞」「文學の森大賞」受賞祝賀会チラシ

2024年11月29日 09時35分48秒 | 文学顕彰

【チラシ表】

受賞者 永田満徳「中村青史賞」「文學の森大賞」受賞祝賀会

日時 2024年11月30日(土) 18:00~20:30

場所 スターライト 熊本県熊本市中央区安政町1-6桑本ビル6F TEL: 096-325-9337

【チラシ裏】

受賞のことば

第4回「中村青史賞」を受賞して

このたび、第4回「中村青史賞」を頂き、身の引き締まる思いです。中村青史賞を選考頂いた「一般社団法人くまもと文化振興会」の理事の皆様に心より感謝申し上げます。

中村青史先生との出会いはかれこれ五十年ほど前、私が大学を出たばかりのころで「熊本近代文学研究会」を紹介して頂きました。私はそこで、夏目漱石や小泉八雲、木下順二などの研究を発表する機会を得るとともに、『熊本の文学』(審美社)では三好達治や蓮田善明、三島由紀夫を担当しました。熊本カルチャーセンターでの「熊本の文学講座」やその他の講話の基になり、貴重な財産となっています。また、「熊本近代文学研究会」代表・首藤基澄先生には俳句を勧められ、首藤先生が創立された俳誌「火神」主宰や俳人協会幹事、俳人協会熊本県支部長を任されています。中村青史先生の紹介がなければ、今日の私の熊本ゆかりの文学研究はもとより、俳句の創作活動はないと思っています。

中村青史先生は多くの文学顕彰の会を数多く立ち上げ、私もそのほんどに参加しました。さらに、中村先生は私を「熊本文化懇話会(文学)」の会員や「熊本アイルランド協会」の理事に推挙してくださいました。「徳永直の会」「熊本・蘆花の会」においては中村先生が会長を退かれる際に相談を受け、知り合いを紹介したり、仲介を務めたりしました。私をそれほど信任して頂いたことに胸が熱くなる思いでした。

愛弟子のように育てて頂いた中村先生の冠のある賞を受賞したことは、大きな喜びです。また、「火の国『くまもと』の文化を世界へ」を標榜している「くまもと文化振興会」によって表彰を受けたことは、熊本の地から国際俳句の改革を発信している私にとって、大きな励みになります。今後も、中村先生のご遺志を引き継ぎ、熊本の地より文化の発展に貢献していきたいと思います。

 

第15回「文學の森大賞」を受賞して

このたび、第二句集『肥後の城』で第十五回文學の森賞大賞を頂き、身の引き締まる思いです。選考の先生方、文學の森の方々には心よりお礼申し上げます。

平成二十八年四月に起こった熊本地震の句に焦点を当てて編集を進めていたところ、令和二年七月、郷里の人吉を大水害が襲ったため、二つの大災害を悼む句集になりました。さらに、元「未来図」の鍵和田秞子主宰の「熊本城や阿蘇、天草を詠みなさい」というご助言を心に刻み、首藤基澄先生の阿蘇への思いの集大成とも言うべき句集『阿蘇百韻』(本阿弥書店)に促されて、熊本城、阿蘇、天草を詠み込んだ句を残しました。テーマ性と郷土色を盛り込んだ内容の読物になるように心掛けたつもりです。  

また、熊本時代の夏目漱石が言ったとされる「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」に倣い、連想はもとより、オノマトペ・擬人法・同化などを駆使して、多様な表現を試みました。

この内容と表現において、本句集がどれほど成功しているかは覚束ないですが、この大賞を励みにチャレンジしていきたいと思っています。

(『肥後の城』より自選5句)

阿蘇越ゆる春満月を迎へけり

こんなにもおにぎり丸し春の地震

むごかぞと兄の一言梅雨出水

水俣やただあをあをと初夏の海

立秋やどの神となく手を合はす

 

 

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明治初期の熊本(熊本駅周辺)   

2023年10月29日 22時07分00秒 | 文学顕彰

明治初期の熊本(熊本駅周辺)    永田満徳

独鈷山:竹崎茶堂、順子夫妻の墓が山麓の「竹崎公園」の一画にある。

花岡山:1876年(明治9年)1月30日、「熊本バンド」が花岡山で行われた祈祷会で「奉教趣意書」に署名し、 キリスト教の教えを日本全国に宣布しようと誓約した。

本山:日新堂・広取黌跡。明治初期の本山村は実学党系の竹崎律次郎夫妻の私塾日新堂、嘉悦氏房の広取黌(広取英語塾)があり、幾多の人材を輩出した。

熊本の明治初期の人物群像

 まず、人物としては特に独鈷山に墓所がある、木下順二の『風浪』の主人公のモデル・竹崎茶堂である。竹崎茶堂に象徴される「実学党」の政策は明治六年頃になると中央政府の意図を乗り越えるものであった。

もちろん、その急激な政策を快く思わなかった中央政府から派遣された県令によってわずか三年で挫折し、茶堂は熊本近郊に退くことになるにしても、その実学党の政策のもとに建てられた洋学校に招かれたジェインズは当時の青年に対してすぐれて感化力の強い魅力的な人物であった。現にその洋学校のグループのなかからは、例えば海老名弾正・徳富蘇峰らのまったく新しい明治の青年が生み出され、日本の近代化に大きな役割を果たすことになる。

一方には、保守主義的傾向の中でも得意な存在で、神がかりの復古・攘夷主義に固執する「敬神党」の集団があった。

また、同じく保守的傾向を持つ「学校党」も敬神党ほど守旧的ではないけれど、かつては藩支配権力を独占し、実学党政権下では鳴りを潜めている集団が存在していた。

明治の〈熊本〉が全国的に見ても、あまりにも新旧の典型を示していて驚くばかりであるが、きわめて保守的で、ラディカルな人物を輩出し、明治初期の三者三様の人間模様が展開されていたと言わざるを得ない。

熊本の明治初期の事件

また、事件については、熊本では明治9年の三つの事件、いわゆる「神風連((敬神党)の乱」、「熊本バンド事件」、「西南の役」が相次いで起こっている。

神風連の乱」は神官大田黒伴雄を首領とする170余名が手に刀剣と槍のみで挙兵した明治維新後の復古的攘夷派の象徴的な士族反乱で、〈神秘的秘密結社〉(蘇峰)の乱ともいうべきという評価があるだけに特殊な事件であった。

熊本バンド事件」は、花岡山の頂で、洋学校の生徒30余名が「奉教趣意書」を読み上げ署名したキリスト教入信宣言で、日本プロテスタントの夜明けといわれる事件であった。これらの事件もまた同じ熊本に出現したあまりにも対処的な現象であって、いずれも当時の日本全体を揺り動かしたものとして知られている。

さらに、明治期の最大事件である「西南の役」は、花岡山も薩摩軍の陣地となっているが、熊本では学校党と民権党は相反する思想であったにもかかわらず、実学党をのぞく士族のほとんどが参加した戦争で、明治政府の「有司専制」体制を武力的反抗によって打倒できると考えた一連の士族反乱の典型と言っていい。

これらの事件は、明治初期の世相の典型であり、日本の維新期の縮図であった。

熊本の明治初期の土地

最後に、土地としては、「風浪」の私塾をモデルにしている竹崎茶堂の私塾「日新堂」があった場所に注目したい。この私塾は茶堂が官を辞して後開設した私学校で、新式の教授法を実施して、新時代の人物養成を志したことで有名である。この私塾は本来「本山村」にあったが、木下順二はこの本山という土地について、西南戦争当時「一つの時代の終りと次の時代の始まりを鮮かに示している点において、本山村は一つの典型であった」(「『城下の人』の思想」『海』1975年4月号)という認識を示している。この認識は茶堂の私塾「日新堂」もまた時代の〈典型〉であるという意味をも物語っていると言えないだろうか。

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