「くまがわ春秋」68号2021年11月号!
三島由紀夫の「八代探訪の旅」
熊本近代文学研究会 永田満徳
一 三島由紀夫没後51年を迎えて
近年、村上春樹がノーベル文学賞の最有力候補に取りざたされているが、ひと昔前には時代の寵児であった三島由紀夫が再三ノーベル賞候補としてマスコミを騒がせていた。
11月25日は三島由紀夫の忌日「三島忌」、或いは「憂国忌」である。
昨年は三島由紀夫没後50年と題した様々なイベントが催された。私自身も、「讀賣新聞」の直接取材を受けたり、「熊本日日新聞」の書評(安岡真著『三島事件 その心的基層』)を頼まれたりした。
特に「讀賣新聞」(九州版)は二回に渡って特集を組んでいる。令和2年11月21日(土曜日)付の「三島由紀夫と熊本(上)」では、「熊本近代文学研究会の永田満徳さん(66)は、三島が神風連を深く知ったのは蓮田を通してだったとみる。永田さんは『文藝文化』42年11月号には、蓮田が神風連について書いていることに注目。蓮田は神風連を『日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めた』と論じており、『三島は蓮田の記事を目にしていたのはほぼ間違いない』というのだ。」として、三島由紀夫が蓮田善明を介して神風連を知り、この三者の繋がりの深さを指摘している私のコメントを載せている。また、「讀賣新聞」(九州版)11月28日(土曜日)付の「三島由紀夫と熊本(下)」では、私のコメントとして、「三島が語った『日本精神』について、 熊本近代文学研究会の永田満徳さん(66)は『神風連に象徴される敬神であり、現人神たる天皇への信奉だった。それらに基づく純粋な行動を何より重要だと考えた』と指摘する。」と取り上げている。
今年は、三島由紀夫没後51年に因み、「三島由紀夫と八代」との関りに触れてみたい。
二 三島由紀夫と八代
私はすでに、三島由紀夫が晩年、熊本を〈第二のふるさと〉と言っていたことの真偽と意味を探った「三島由紀夫と熊本」(『熊本の文学 第Ⅲ』審美社・平成六年一二月)を発表している。
その折に、関係資料に目を通していた私は心躍りするような文章に出くわした。それは、「『豊饒の海』ノート」(「新潮」臨時増刊『三島由紀夫読本』(昭46・1)、いわゆる取材ノートの文章である。走り書きのような文字の羅列の中に唐突といった感じで、次のような文章があった。
三十日午後鳩山 タ方八代高校
その校庭の午後五時半、すばらしい海風、かやつり草等、風にさやぐ校庭に寝てゐる、左方、みわたす限り草の庭に、ぽぷら揺れ、木々白き葉裏を揺らす、その彼方の山直に迫るが如く、美しき山容、ビロードの緑をなめらかに畳む。そのべたりと坐れる山のすがた、山ひだも西日をうけてかがやき、こまかい影の美しさ。その上に、夏雲立ちはだかる。(南九州の夏のをはりの最後の威々しい悲壮な夏山の入道雲)それを、草の間からのぞき見る。草の香のかぐはしさ。空を次々と燕が蝿のやうに夥しく 飛んでくる。どこから出て来たのかわからぬ。その白い腹。その勇ましい飛翔。ピヨピヨといふ囀り。彼方校庭の外れに鉄棒に赤い鉢巻の少年あり。われ行きて懸垂十五回やつておどろかす。(背中の地面の感覚。学校の夏休みの感覚。十七、八歳の少年の人生に抱く夢と希望の感覚の再現)
『豊饒の海』ノートのうちの『奔馬』ノートと題するこの文章について、少なくとも次のような三つの点が指摘できる。
一つは、『奔馬』ノートはメモ書きであるから、箇条書きが多いのは当然であるが、そういう文章の中で、ある程度纏まった文章はこれだけだということである。この文章には四年後に割腹自殺して果てる三島が死に急ぎしつつある自分の生を振り返って、青春回帰にしばしの慰安を覚えていることが感じられる。一生を一気呵成に駆け抜けた感がある三島にとって、こういう一時が持てたことは希有のことではなかったか。そういう気持ちを覚えたことがこの文章を『豊饒の海』創作ノートに書きとどめさせた原因になったのだろう。
二つめは、世界的な作家である三島の目を通して見られた八代の情景がメモ程度のものであれ、文学的に昇華されて表現されて定着したということである。八代の風景的特色が一流の作家ならではの視点であやまたず、簡潔に、的確に素描されている。
そして、三つめは、比喩の巧みさで鳴る三島が取材段階では素材を点描するにすぎないということである。作品化する中で比喩等の表現技巧を駆使した芸術的な文章に転化していく作家であることが分かる。三島という作家の工房を垣間見た思いである。
いずれにしろ、「年表作家読本『三島由紀夫』」(河出書房新社1990・4)に、八代を描いたこの文章がそのまま掲載されていることから分かるように、印象深く、詩的ですらある文章は、〈八代の文学〉の一ページを飾るものということができる。
私は当時八代高校在勤中であったので、「八代高校」という文字には目が釘付けになった。しかし、「八代高校」は誤りである。三島由紀夫は昭和41年8月27日~31日の三泊四日間、遺書とも言うべき『豊饒の海』第2巻『奔馬』の取材のために来熊している。四日間すべてに渡って三島と同伴した福島次郎氏から直接に聞いた話によれば、当時勤めていた「八代工業高校」に連れて行ったついでに日奈久まで案内したということである。従って、校名は「八代工業高校」で、地名は「大福寺町」ということになる。三島が誤った記述をした原因は不明であるが、「年表作家読本『三島由紀夫』」を初めとして、多くの伝記・年表には誤りのままであるのは看過できない。夏目漱石については日録と言って良いくらいの詳細な伝記が書かれつつあるが、三島由紀夫もいずれ日録の伝記が必要になってくるからである。
三 三島由紀夫の「日録:八代探訪の旅」
福島次郎氏はその後、『三島由紀夫 剣と寒紅』(文藝春秋 平成10年3月20日)を発表し、三島の八代探訪の経緯を詳しく書いている。この小説を読めば、三島由紀夫が間違いなく、八代に足を踏み入れ、八代の空気をじかに吸い、味わっていることが見て取れる。
そこで、『三島由紀夫 剣と寒紅』の八代探訪の部分を日録風に纏めると次の通りになる。
【昭和四一年八月三〇日 午後】
三島由紀夫が「君の勤めている八代の高校を見てみたい」というので、福島次郎がタクシーで案内する。
・タクシーは八代へ入り、八代工業高校も間近という時、「ああ、ひろびろとしていて、なんていいところなんだろう」と洩らし、「この無垢なる空間で暮らすこと、それが一番の幸せだよ」と言う。
・「もう少し、行ってみようか、この先、何があるの」と聞き、福島が「この先は、日奈久という海辺の町です。」と答える。「海辺だったら、体が灼けるじゃないか。先ず、そこへ行こう」と、急にその気になり、八代工業高校の校舎を右手に見過ごして、日奈久へと車を走らせる。
・福島は三島が裸を太陽に晒したい衡動に駆られ出している気配を察し、車をさらに南へ行かせ、鳩山の麓の荒い岩場を踏んで、波打ち際の突端まで辿りつく。ブリーフ一つになって横たわり、夏の午后の日射しを楽しむかのように浴び続ける。「これで、東京の連中に、九州の南端の海で体を灼いてきたと自慢できるなあ」と満足そうに言う。
・八代工業高校に着き、まず、前庭の一隅に立つ、若い男性の裸形の白い塑像に惹かれる。「いいね、素晴らしいね」と、腕組みし、上向きの顔をうなずかせる。「君が、男の子の裸がいいなんて発案して、出来たものじゃないだろうね」と、愉快そうに言うので、福島は「まさか」と否定する。
・二棟並行して建つ、夏休みで人の気配もない校舎の裏手のグランドへまわる。「なんて野性的な校庭なんだろう」と感じ入って、佇む。グランドの手前の草むらに坐り込み、気持よさそうに四肢を伸ばして、寝転ぶ。
・宙をしきりに飛び交う燕を見て、「ここには蝿のように燕がいるね」と、変なことを言う。この後、グランドの一隅にあった鉄棒に近づいてゆき、三名ほどいた生徒の中の一人と懸垂を競い合い、生徒より回数が上回り、生徒らを驚かせる。
・それから、すぐに校外へ出て、車で八代市中を巡り、夕食も八代でするつもりでいたところ、校舎と校舎の間にある渡り廊下で、教頭と出逢う。すると、教頭は三島由紀夫と分かり、「校長室で、是非お茶でも」と勧める。
・校長室で世間話を取り交わしているうちに、教頭は「三島由紀夫先生に来て頂いただけでも名誉なことですが、折角ですので、校訓をお書き頂きたい」と頼み込む。話の途中にも拘らず、「ああ、いいですよ。紙と書くものがあれば」とあっさり引きうける。大き目の画用紙に、堂々とした文字で「誠実」と書き上げる。
・休日でも残務や教材準備や部活動のために出勤してきていた職員たちが入ってくる。三島由紀夫が校長室で揮毫中と聞きつけ、自分も一筆もらうために駆けつけたのである。次々に書いてゆくが、文面はみな違って、「肉体なき知性は屋根なき蔵のごとし」というのもあれば「天地正大氣、悴然鍾神州」「東洋のスパルタ熊本縣」というのもあった。
・その時、柔道部員に練習の指導に来ていたYという教師が柔道着のまま現れ、福島次郎を介して一筆申し込む。Yの分が終わるや否や、「手を洗うところはないの」と、急につっけんどんな声を出す。事務員が用意したタオルに眼もくれず、自分のハンカチで手を拭き、「じゃ、これで失礼」とだけ言って、さっさと廊下に出て行ってしまう。
・八代市から離れて、千丁町の藺草畑を見渡す道を走っている間も、一言も口をきかなかったが、宮原あたりを通過している頃、「今夜は、君と八代でお酒をのむって約束してたのに……ね、これからまた八代にひきかえそうか、ひっかえしてもいいんだぜ」福島は「「いや、もう、ここまで来たんですから、このまま熊本へ行きましょう」
・この車中で、吐きすてるように、駄々をこねる子供のように、一言こう言う。「彼、ちっともいい男なんかじゃ、ないじゃない!」福島は「突然機嫌が悪化したのは、三島さんの焼餅だったのだろうか。」と思った。
四 三島由紀夫の実像
三島由紀夫の「八代探訪の旅」は、『奔馬』の神風連取材の全行程のうちで、唯一、取材目的ではない、物見遊山的な旅である。言うなれば、八代を、延いては熊本を満喫した旅ではなかったか。そういう意味で、『三島由紀夫 剣と寒紅』において、三島の素の部分が出ているのは当然と言えば当然である。特に、三島由紀夫のホモセクシャルな傾向が垣間見られる。いくらか、コメントを付け加えたい誘惑に駆られるが、日録の性格上差し控えさせていただく。
ただ、「憂国忌」と題するイベントなどは政治的、思想的に傾き、三島由紀夫の神格化に繋がる恐れがある。そういう流れを食い止める一助として、この日録のような三島の生々しい人間性が描き出された資料は極めて重要である。
三島由紀夫の実像が顕かになったからと言って、いささかも天才肌の三島由紀夫文学の価値を貶めることはなく、むしろ、三島由紀夫文学の全体像を捉え直すきっかけに成り得ることを強調して置きたい。
「くまがわ春秋」68号2021年11月号