【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

【木下順二】ー「風浪」論  (明治の熊本)

1999年03月01日 00時00分00秒 | 論文

「風浪」論-歴史のパラドックス

初出 「方位」20号 三章文庫 1999・3

                 永田満徳


    初めに


 「風浪」については、木下順二みずからこれまで多くを語っていて、それらの自註自解をまとめると、「風浪」の解釈が一応成り立つと言っても過言ではない。ただそれは「風浪」論の基本的文献の意義を示すものであって、作者の自作への認識を検討することはこれからの課題だと言わなければならない。
 そこで、木下順二の自作解説のなかで最も注目しているのは、単行本として初めて発行された未来社版『風浪』(一九五三・二月)の「あとがき」である。この「あとがき」は、「風浪」理解の出発点の役割を果たすばかりではなく、「風浪」の基本モチーフを明らかにするうえで重要である。
 では、その「あとがき」で、木下順二が触れているいくつかの中で、次の二つの箇所に焦点を当てて考察してみたい。一つは、冒頭の有名な「『風浪』二九三枚は、いうならばぼくの青春の記念である」というところの〈青春の記念〉という言葉であり、もう一つは、「戯曲というものを書こうと思いたった時、最初に熊本が、明治の熊本がぼくに浮かんだことは、きわめて自然であった」というところの〈明治の熊本〉という言葉である。


    一 明治の熊本


 木下順二が〈熊本の明治〉という時、まず玉名郡伊倉の大怱庄屋で、幕末から明治にかけて生きた曾祖父木下初太郎の存在を抜きにしては考えられない。しかし正確に言えば、初太郎という人物というより、一八二八年(文政十一)~一八八五年(明治十八)までの膨大といっていい年々の日記とその日記のレジュメである『後年要録』、いわゆる「初太郎日記」の存在である。この「日記を読むことが一つの芝居の資料集めだった」(『ジェインズとハーン記念講演会報告書』同実行委員会・熊日出版局・平四・七・二〇)と言っていることからもわかるように、「風浪」の資料集めの筆頭に挙げられる「初太郎日記」がなかったとしたら、「風浪」という作品が存在しえていたかどうかは疑わしい。それほど「風浪」の成立に関わったものとして高く評価すべきであろう。順二が曾祖父の「大部の日記をぽつりぽつり読みながら、原形『風浪』の材料をあつめ」(「あとがき」前掲書)ることはすなわち、自分と〈熊本の明治〉との結び付きをより深くすることにつながっていったにちがいない。「初太郎日記」に触れた順二の「ある日記」(『文学』昭和四九年6月)という文章を見ると、日記と『後年要録』とを意識的に区別した曾祖父の「主体」に注目し、「一切の感情と意見を排して約六十年間静かに書き継いでいるその全体が、ここにいう筆記者の主体を示している」と評価して、「肥後の田舎の典型的な一人の総庄屋」でありながら、表現者としての〈主体〉を貫いた曾祖父に対して敬意を抱いていることが窺える。けだし、曾祖父初太郎の存在は順二にとって劇作家としての血脈の源流であって、その流れの親近感のなかで〈熊本の明治〉を知るよすがとなったということである。
 しかし順二にはこの曾祖父初太郎のみならず、〈熊本の明治〉が手触りできる存在としてはむしろ竹崎茶堂(注1)がいたと言っていい。この茶堂は初太郎の弟で、木下家では明治初期に活躍した親族として語り草にでもなっていたのかもしれない。順二が「風浪」の山田蚕軒の家族構成に「大いにお陰を蒙った」(『本郷』・講談社・一九八三・三)と述べている徳富蘆花の『竹崎順子』に照らしてみると、私塾にしても、プラフやミシン・マグネシウムなどの文物にしても、「風浪」のモデルのなかでは最もよく事実に近く描かれている人物である。高木亮「竹崎茶堂先生」(竹崎茶堂先生伝記編纂会・昭五・一・三〇)という郷土資料(注2)を見ても、竹崎茶堂が蚕軒のモデルにふさわしい人物であったことがわかる。青年たちの離散糾合の渦の真っ只中にいる蚕軒の役どころの重要性からして、「風浪」は茶堂のような人物がいて初めて成立した作品ではなかったか。
 「風浪」の成立に大きく働いたのは、順二が最初に戯曲を書こうと思ったとき、身の回りに竹崎茶堂というモデルがいて、そのモデルに肉付けする資料として「初太郎日記」が手元にあったということである。
 従って、「中学と高等学校の時代、つまり昭和の最初の十年間をぼくは九州熊本に送ったが、ぼくの『明治』は逆にこの熊本と結びついている。郷土的地盤に立って動いていたぼくの祖父や曾祖父のことなどが、具体的な過去として、この時期にはじめてぼくの生活の中へしみこんできた」(「明治・大正とぼく」『現代史講座』第三巻・創元社・一九五三年八月)という文章によってもわかるように、熊本体験が最も多感な時期になされたからこそ、曾祖父たちの存在が〈熊本の明治〉と切り離すことができず、「風浪」の素材を提供したのみならず、「風浪」の時代設定に大きな役割を荷なったであろうことは容易に想像できる。
 そして、曾祖父たちの存在に触発されて書き始めようとした順二にとって、傑作が書けるかどうかは別として、次に〈明治の熊本〉をどう描くかということもそれほど難しくなかったであろう。というのは、〈明治の熊本〉が人物・事件・土地のいずれにおいても戯曲の素材に事欠かないところであったからである。
 まず人物としては特に竹崎茶堂に象徴されるように、実学党の政策は明治六年頃になると中央政府の意図を乗り越えるものであった。もちろん、その急激な政策を快く思わなかった中央政府から派遣された県令によってわずか三年で挫折し、茶堂は熊本近郊に退くことになるにしても、その実学党の政策のもとに建てられた洋学校に招かれたジェインズは当時の青年に対してすぐれて感化力の強い魅力的な人物であった。現にその洋学校のグループのなかからは、例えば林原敬三郎のモデル海老名弾正・田村伝三郎のモデル徳富蘇峰らのまったく新しい明治の青年が生み出され、日本の近代化に大きな役割を果たすことになる。一方には、保守主義的傾向の中でも得意な存在で、神がかりの復古・攘夷主義に固執する敬神党の集団があり、また同じく保守的傾向を持つ学校党も敬神党ほど守旧的ではないけれど、かつては藩支配権力を独占し、実学党政権下では鳴りを潜めている集団が存在していた。明治の〈熊本〉が全国的に見ても、あまりにも新旧の典型を示していて驚くばかりであるが、きわめて保守的で、ラディカルな人物を輩出し、明治初期の三者三様の人間模様が展開されていたことは重要である。その意味で、多彩で個性豊かなこれらの人物たちを戯曲の中に取り込もうとした順二の着眼点のすばらしさには今更ながら頭が下がる思いである。
また、事件については、熊本では明治九年の二つの事件、いわゆる神風連(敬神党)の乱、熊本バンド事件が相次いで起こっている。神風連の乱は神官大田黒伴雄を首領とする一七〇余名が手に刀剣と槍のみで挙兵した明治維新後の復古的攘夷派の象徴的な士族反乱で、〈神秘的秘密結社〉(蘇峰)の乱ともいうべきという評価があるだけに特殊な事件であった。熊本バンド事件は、洋学校の生徒三十余名が「奉教趣意書」を読み上げ署名したキリスト教入信宣言で、日本プロテスタントの夜明けといわれる事件であった。これらの事件もまた同じ熊本に出現したあまりにも対処的な現象であって、いずれも当時の日本全体を揺り動かしたものとして知られている。さらに、明治期の最大事件である西南の役は、熊本では学校党と民権党は相反する思想であったにもかかわらず、実学党をのぞく士族のほとんどが参加した戦争で、明治政府の「有司専制」体制を武力的反抗によって打倒できると考えた一連の士族反乱の典型と言っていい。「風浪」では暗示されるだけにとどまるが、しかし佐山の行動に決定的な影響を与えることになる点では、「風浪」で扱われる事件の一つに挙げてもいいと思われる。つまり、明治初期の世相の典型であり、日本の維新期の縮図であったこれらの事件は、第三幕では熊本バンド事件、第四幕では神風連の乱、第五幕では西南戦争というように描き分けられているが、順二がこの三つの事件にうまく関わらせて「風浪」を展開していることに気づくだろう。ここに、〈展開的〉〈羅列的〉と作者自身の自己批判(注3)している理由がある。
 最後に土地(注4)としては、「風浪」の私塾をモデルにしている竹崎茶堂の私塾「日新堂」があった場所に注目したい。この私塾は茶堂が官を辞して後開設した私学校で、新式の教授法を実施して、新時代の人物養成を志したことで有名である。この私塾は本来「本山村」にあったが、順二はこの本山という土地について、西南戦争当時「一つの時代の終りと次の時代の始まりを鮮かに示している点において、本山村は一つの典型であった」(「『城下の人』の思想」『海』一九七五年四月号)という認識を示している。この認識は茶堂の私塾「日新堂」もまた時代の〈典型〉であるという意味をも物語っていると言えないだろうか。ただ問題なのは、「風浪」では本山でなくて花岡山に設定されている点である。この点に関して考えられるのは、花岡山が熊本バンド事件の現場であり、本山より洋学校に近く、西南の役の折りには西郷軍がこの花岡山を占領し、熊本城に大砲を打ち込んだという軍略上重要なところであったことである。なお、「風浪」の第二幕は江津湖の場面であるが、この江津湖は『本郷』(前掲書 )において青春の忘れられない場所として紹介されている。ということは、本山にしても、江津湖にしても、時代の典型として、あるいは作者自身の原風景として「風浪」の舞台設定に使われたといえる。
 このように、〈明治〉という近代日本の青春時代を縦軸にして、〈熊本〉という当時としては先駆的であり、反動的であるところの典型であった土地と事件を切り結んだ地点に、「風浪」の舞台設定がなされたということはまちがいない。その意味で言えば、戯曲の最初の舞台を〈熊本の明治〉にしようと思ったのも、「最初の戯曲であるこの『風浪』を、ぼくは郷土熊本の人にささげたい」(「あとがき」前掲書 )といささか思い入れ強く言ったのも、故なしとはしない。「風浪」がそれほど〈熊本〉という風土と切っても切れない作品であるからである。「熊本という土地は、やはりぼくの中に深くしみこんでいた」(「あとがき」前掲書 )という順二にとって、「風浪」は書かれるべくして書かれた作品であるといえる。


    二 青春の記念


 「過去を扱うにせよ現代を描くにせよ、私はその世界に現実に自分がいると思えるまでに素材を調べあげ、その中に自分がいるという実感を手掛りに戯曲の世界を作りあげて来たという気がする」(「あの過ぎ去った日々」講談社一九九二・十二、十)という文章によっても、順二が戯曲を書くにあたって、素材を入念に調べることはよくわかるが、同じ文章で「現実的な素材のほうに引きずられるということになってしまう」という反省があるものの、〈現実に自分がいる〉こと、〈自分がいるという実感〉に重きを置いていることに注目したい。実はこの〈実感〉主義というべきものと「方言」の使用とは密接に関わっているのである。「熊本弁」(『熊本日日新聞』一九五一・十一・二九)で述べた「僕の最初の長編戯曲『風浪』は明治八-十年の熊本を扱った歴史劇で、従って熊本弁を、相当自然主義的な手法で、というのは実際の熊本弁を模写するに近いやり方で思い切り使ってみた」という言葉は、「戯曲のせりふを書く場合、人間のイメイジをリアルに考えてくればくるほど、彼はどこかの何かの方言をしゃべり始める」(「不死鳥」一九四九年・一月)ということと無関係ではない。なぜなら、順二が最初の長編戯曲に〈熊本弁〉を使ったのは、素材が端に熊本であったということだけでなく、〈自然主義的〉〈実感〉主義的に描こうとすればするほど、登場人物は〈熊本弁〉を使わざるを得なくなるからである。「風浪」において、「そういうグループを一つ一つ洗ってって、そいで最後に何が残るか―― つまりぼくが本当にそこに身を置いたとして、じゃ何党にはいるか――というなとこから考え出したんだな」(「《座談会》歴史と文学」『文学』一九五六年六月号)と語っていることからもわかるように、順二は〈身を置〉くという〈実感主義〉のかたちで〈熊本弁〉を劇に持ち込むことによって〈リアル〉な世界を描こうとしたと思われる。そういう意味では、順二は「風浪」を思考実験の場としてよりも疑似体験の場として描いているということである。従って、「佐山を、作者が若々しい情熱をこめて、多分に作者自身を投入しながら描いているところが、迫力になっている」(「《座談会》歴史と文学」前掲書)という塩田庄兵衛の佐山評がありえても不思議ではない。ちなみに、この実感主義は、「自分の書くドラマの世界が、ぼく自身にとって他人事であってはならない、自分自身が生きるという問題とかかわってドラマが書かれなければならない」(『わが文学の風景』小学館・一九九九四・一〇・二〇)という木下順二のドラマ論の根幹を成すものになっている。このように、順二のドラマ論の過程の中から描かれた「風浪」はまさしく「方言」の使用とあいまってリアルな青春群像の劇として人々に感銘を与えることになった。
 「風浪」は、順二のいうところの「いろんな傾向のグループの、青年の群像がいろいろ悩む」(『ジェーズとハーン記念祭講演』・前掲書 )様子を描いた戯曲で、「西南戦争直前の熊本ではもっと非常に、典型的にといってはおかしいんですけど、そういう悩む青年の群像があった」(前掲書)とあるように〈悩む青年〉の〈典型的〉なものとして提示したものである。ここで注目したいのは、「まじめな若いインテリたち――士族の青年――が、ともかくも自分の生きる道を、いかに自分のものとしてとらえるかという課題に当面して闘っている姿」(「明治・大正とぼく」前掲書)に作者みずからを投影していることである。というのは、別の文章(『わが文学の風景』前掲書)で「風浪」の原形になる習作を書いていた当時の作者が「自分自身の生きている証し」を見出そうとしていたことを知ることできるからである。ここにも、作者が「風浪」の登場人物とともに〈明治の熊本〉を疑似体験していることの現れがある。そして、「『風浪』は、神風連から洋学校の基督教徒の中にまで生きて行くべき道を捜しまわった」ものであると述べている文章(「『城下の人』の思想」前掲書)にしても、特に「一所懸命、誠実に、何かを追求している」、あるいは「生きるということを追求している」と〈生きる〉姿勢において佐山が主人公になったいきさつが語られている文章(「解説対談」『木下順二作品集Ⅵ』未来社・一九六二)にしても、「生きる」という語彙が頻出するのは、「風浪」という作品がいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青春群像の劇であるからである。最終稿(注5)と第二稿の比較によっても、佐山の西郷軍への参加が意志にしろ、行為にしろ、積極的に改稿されていることがからわかるように、佐山が〈悩む〉青年から行動する、つまりより積極的に〈生きる〉青年へと変容している。「風浪」の主人公佐山に焦点にあててみても、〈生きる〉ことへの追求が描かれていると言わなければならない。
 思いえらく、「明治というものを本質的には悲惨な時代だったというふうに規定する人が多いけれど、(中略)むしろあの中では、自分の中のエネルギーが解放された時代と考えて、日本の封建制では見られなかったエネルギーを、はじめてそこではっきしたのではないか。(中略)明治の解放されたエネルギーは評価しなければならない」(「演劇の本質」『現代演劇講座』第一巻・三笠書房・一九五八・十一 )という文章からは、明治が〈生きる〉ことに満ちあふれた時代で、その〈生きる〉こと自体のエネルギーに魅力を感じている作者の眼差しが感じられる。「まさに青春の名を以て呼ばるべきそれらの日々を、無為に似た平穏のうちに過ごしたことへの悔恨は、今にして押えがたい」(『本郷』前掲書)という文章を参考にして言えば、この〈青春〉への強い〈悔恨〉があったればこそ、明治期の青年たちの〈生きる〉ことに対する〈エネルギー〉に嫉妬に近い感情を持ったにちがいない。〈青春の記念〉という言葉は、改稿に改稿を重ねながら、みずからの青春のやり直しを「風浪」を書くことによって行い、未来社版による単行本化という一応の達成をみた満足感のなかで、三十九歳という位置から紡ぎ出された言葉である。


    三 いかに〈生きる〉べきか


 従って、「風浪」はいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青年の群像が描かれているとみるべきである。「風浪」の登場人物についていかに〈生きる〉べきかを次のように項目立てて説明することができることもその証左になろう。
 まず、一途に〈生きる〉タイプである。洋学校の寮生の筆頭であり、〈ゼンス〉の警護役も勤める林原敬三郎である。     
林原 何の役に立つか立たんかなんちゅう、そぎゃん事じゃなか。ああたは見とって分らんとな?蚕軒先生にわれわれが揃うて、新介迄が、面ば犯して立ち向い得るとは何のためて思うな? われわれの中に力が働いとるけんたい。ゴットの力がわれわれの中に充ちて籠ってつき動かしよるけんたい。この気持ちがああたは分からんとな?     
とあるように、〈ゼンス〉の教えを遵守し、〈ゴットの力〉に対して少しも疑わない。敬神党の藤島光也もまた同じである。
藤島 それが分かるならその先は知れとるじゃなかか? われわれは桜園先生から教えられた。神には禍つ神と直びの神とあって、世の乱るッとは禍つ神が力ば得とるけん、て。われわれは直びの神のお力の恢復ばお祈りするよりほかはなか。
敬神党の精神の支柱である林桜園の教えを墨守し、〈直びの神〉に信じていささかの躊躇もない。林原も藤島も狂信的とでもいうべき人物で、佐山のように懐疑することをしない人間である。この両者はその一途さゆえに、前者はバンド事件に、後者は神風連の乱にかかわり、明治という時代に真っ向から立ち会うことになる。
 次に、時流に逆らわずに生きるタイプである。それは敬神党から自由民権運動に走った河瀬主膳である。
     河瀬 そらァ健次、俺もね、時勢、ちゅうか、時流、ちゅうか、一人になった時、ふっとつくづく考える事のある。俺ァもがきよる。時勢ば変えにやいかん、推し進めにやいかんてもがきよる。ばってん、いくら俺がもがいても、やっぱり時勢は流れて行きよる。こらァどういう事か? そン 中で俺ァもがきながら流されて行きよる。一方にやまた楽々と時流に乗って先頭ば切って行きよるもんもある。一体こらァどういう事か?……
実学党蚕軒の息子で有能な官吏である山田唯雄も新旧の混乱を行く抜き、どちらかといえば現実主義的で割り切った考え方のできる人間である。
    唯雄 俺ァ官員たい。政府の方針に従うて、政府で決めた事ばその通り人民に施して行く。それが俺の仕事たい。
この両者は時の流れを機敏にとらえ、そうであるがゆえに当時としてはかなり前衛的な生き方を通した人物であろう。ただ、あまりにも現実主義的で体制に無批判的に従う山田のような人物ではなく、今日的に見ればむしろ体制を批判し、民主主義を先取りする考えを持った河瀬の方が魅力的である。
 最後は、第一とも第二ともタイプを異にする、割り切って〈生きる〉ことのできない佐山健次のようなタイプである。ちなみに、「『城下の人』の思想」(前掲書 )という文章のなかで「割り切って片づけることができぬ人間」として石光真清を取り上げているが、「日本人発見」(東京新聞・一九八七・一・二六)という文章で再度触れているほどであるから、真清という人物に強い関心を寄せていることがわかる。佐山と真清との親近性を指摘できるが、それ以上に、割り切って生きることのできない人間への共感の深さが感じられて興味深い。
  佐山 俺ァ……随分あっちこっち歩いて廻った。何度も変節漢と呼ばれながら歩いて廻った。俺ァ、おととしの夏のあの江津湖の堤ばよう覚え取るぞ。貴公でさえ、敬神党はえぬきの貴公でさえ、志ばたてて東京へつっ走るて聞いて、俺ァ百間石垣ば後ろ飛びするつもりで洋学校のゼンスのところへ走った。そのゼンスのもとで、一時は俺ァついに求めよったもんば得たて思うた。ばってん、やっぱりだめだった。ゼンス先生が一本の金線ていいなはった事ァよう分る。ばってん俺ァ、その一本の金線が信じ切れんだった。それよりァ俺ァ、光也の心中がよう分るて思うた。よう分るばってん俺ァ、もう敬神党にもついて行き切らん。俺ァ、どぎゃんしたらよかつか。
 それにしても、佐山は「風浪」の登場人物のなかでは最も悩み多き人物なのである。自分の拠って立つべきものを求めて思想遍歴をする佐山に、「風浪」執筆当時はそれほどでなかったとしても、絶対神に救いを求めて入信したキリスト教体験がほの見えているのかもしれない。河瀬のように先見の明を持ち、時代を切り開いて行く人物のほうがむしろ主人公になりえたはずだが、しかし佐山のような割り切って生きることのできない人間であったからこそ、当初主人公らしい主人公のいなかった劇の中で主人公として浮かび上がってきたと言えないか。登場人物のなかでモデルを背負わないで自由に描かれたのは佐山であったというのも当然である。
 作者によれば、佐山という人物は「『風浪』以来今までぼくが考えてきたとらえかたってものは、何ていうの、未来ってものを考えている個人ってものが、結局未来ってことを考えることによって、自己を否定しなければならないという、そういうことがらの積み重ねにおいて歴史というものは進むのではないか、推し進められるものではないか」(「解説対談」『木下順二作品集Ⅳ』前掲書)という考え方の「原基形態」として出てきているという。ここでは、順二の歴史劇というものがどのようなものなのかということが佐山を通して語られている。そこで注意したいのは、『わが文学の原風景』(小学館・一九九四年)で触れている原「風浪」の執筆当時「自分というものを意識し出した」という記述である。その自覚が「ものを書く」(『わが文学の原風景』前掲書)という劇作家としての自覚につながり、さらには最後の書き直しの時には「歴史というものを意識することができた」という歴史認識の萌芽に触れた「歴史について」(『労働運動史研究』一九六三)の記述に発展することになるからである。つまり、これら一連の発言や文章は、多年にわたる「風浪」執筆期間が劇作家の誕生をうながし、木下戯曲の特色である歴史劇の「自己否定によるドラマの創造」というものの端緒を把握するまでになったということを窺い知ることができる。こういう意味で、「風浪」は歴史劇の原点をなすものであることはいうまでもなく、木下文学のすべての起点をなすものであるといえる。


     四 歴史のパラドックス


 ところで、この木下の歴史観ともドラマ観ともいうべきものを捉えるために参考となるのが石光真清の父のことを「生活に根ざした」人間として評価している「『城下の人』の思想」(前掲書 )という文章である。この人物評は、「風浪」の登場人物にも言えることである。
  河瀬 なぜ、て、大百姓はゆとりのあるけん相場の上がった所で手持ちば売る事が出来うが? 小百姓はやっと上納の時に今とれた米ば売らにやならんばってん、そン時は誰も一せいに売る時だけん米の値は下ってしまう。そして水呑になってみッと、水呑が旦那さんへの徳米だけは米で納むるけん、昔とおんなじ、これも自分がかつかつ食うだけも残るりやせん。どっちば見たッちゃ、肥ゆる一方、痩する方は痩する一方たい。
という言葉や、
  藤島 われわれ同志二百、九分がた迄ァみんな微禄者たい。それも、禄はもう召し上げられて、ちっとばかり賜わった奉還金ももう残っちゃおらず、中にゃ膝隠しの板屏風の陰でそっと房楊子ば削りよる者もおる。提灯の輪曲げばしよる者もおる。俺のうちも……俺ァ……貴公はきょう何しに釣りに来とッとか知らんが、俺ァ、小野も、ここに今晩の晩飯ば釣りに来とッとぞ。ここで釣れんなら、俺達ァ今夜は飯抜きで寝にゃならんとぞ。
という言葉に見てとれる登場人物たちの行動の原点が「生活に根ざした」ところから出ている。もっとも、河瀬の場合下から汲み取ったものの先見の明があり、藤島の場合下からの切羽詰まったものの逆行があるという違いがある。しかしこの違いを乗り越えて、この「生活に根ざした」生活者の視点こそが「風浪」という作品の魅力となっている。「人間が創造の中に参加している、しかし同時にその中で非常に多くの無駄と犠牲が払われてゆく、そういう両方からの関係として、歴史――具体的には近代の歴史、もっと具体的には後進国としての日本の近代化の歴史、それが必然的に含んでいる矛盾、二重構造、それをわれわれはどのように感じどのようにそれとあい対していったらいいのか」という文章(「歴史について」前掲書)は、〈無駄〉と〈犠牲〉を抜きにしては歴史の創造はありえないという考え方を示している。この考え方の何より大切なことは、歴史の進歩が孕むマイナス面を視野に入れて歴史を眺めているということである。この歴史のマイナス面への注視は、「生活に根ざした」生活者の視点から生み出されているといわなければならない。
 この歴史観を謎の多い佐山の行動に当てはめて考えると、佐山の行為こそが〈明治の熊本〉が抱え込んでいた歴史のマイナス面を代弁するものであった。西郷軍に身を投じるという反動的ですらある佐山の行動の〈無駄〉、あるいは〈犠牲〉によってこそ、〈明治の熊本〉は日本の歴史の一断面を示すことになる。
 第四幕で神風連の乱に加担しようとしたはずの佐山が神風連の乱に参加している藤島に対してその挙兵の無謀さを指摘したとき、その指摘は藤島に対してというより、自分自身に対してという感じが強い。原形「風浪」では題名(注6)が「敬神党」であり、その内容はその敬神党の無謀さを描いた作品だという。ここに、原形「風浪」から流れている「風浪」の一主題があると思うのだが、敬神党の無謀さからいかに抜け出せるかという問題の解決が佐山の藤島を切るという行為であったと言ったら言い過ぎであろうか。
   主人公は(たぶん)死ぬ。模索しぬいた 結果かれは、ついに反動的な西郷軍に身を投じる。そのような道を選ぶより、自分にとって生きる道はないとかれには見えたからである。(中略)死ぬ、という行為はこのように私の作品の中で、あるときは抵抗であり、あるときは『生きるための』死であった。(中略)自分が直接犯したことは ないにもかかわらず、歴史的な負い目として自分が負わねばならない責任――せんじ詰めれば、そういう責任を生きていたのではとうてい負い切れぬということになる。責任を回避せずに未来を切りひらいて行く ためには、私たちは死ぬよりほかないではないか。/だから私たちが現実に死ぬ、ということがまったくナンセンスであるかわりに、劇中の人物は、そういう私たちに代わって死んでくれることができる(『アカハタ』・一九六三年十一月三日)
 佐山と藤島の関係で最も指摘すべきは、河瀬の言葉として「あの二人ァ子供の時からの……ひと頃は心ば許し合うとった仲ですけんな」とあるような設定になっていることである。佐山にとって藤島は自分の分身といえる存在で、そういう存在であるがゆえに、そういう藤島を切るということは、自分にとっては〈生きるための死〉であり、藤島に対しては〈代わって死んでくれる〉ものである。佐山は藤島のそういう身代わりとしての死によって、自分の生をつかんだのである。佐山の生そのものがいかに〈生きる〉べきかという「風浪」自身の解答でもあった。
 佐山 うん、光也ば斬った。はっと思うた時ァもう斬っとった。とり返しのつかん事ばしてしもうた、俺ァ。……ばってん、その時俺ァ思うた。これでやっと道の開けた……
 この台詞の意味は極めて重要である。この「道の開けた」という一言は、藤島を切るという行動を通して初めて、佐山が行動家に脱皮を遂げたことを示している。そればかりか、どちらかといえば非行動的なインテリの悪弊を抱え込んでいる佐山が思索家から抜け出して、歴史に参加するダナミックな行為者になったことを意味している。西郷軍に参加することは作者みずからも認めているように歴史の流れに逆行することであるが、行為者としての佐山からみると、「自分が正しいと思うものを追求して行く行為が、結果としては自分を否定する行為でしかない」(「序章」『ドラマとの対話』一九六八年)という意味での自己否定であるならば、歴史の〈負い目〉〈犠牲〉の只中に赴くことで、歴史に寄与するという逆説を歩むことになる。
いずれにせよ。佐山の存在こそは、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を示しているのである。順二が「風浪」を視野に入れつつも、「進歩的なものはますます進歩的であらねばならないが、それがつねに否定されることによって新しく進歩的なものをその中に作り出してくるということを内在させて問題をとらえなければ、戦後の現代というものはつかめない、というより、戦後の現代をつくりだすことができないと考えます。ただしこれだけだと否定のための否定のように誤解されるかも知れない。そこで『主体』の問題をもっと考えなければいけないのですが」と述べた「歴史について」(前掲書)という文章は、一九六八年の『ドラマとの対話』に結実することになる「自己否定によるドラマの創造」という順二独自のドラマ論の芽生えを感じさせる点で興味深い。歴史の進歩に対する絶えざる否定によってもたらされる〈『主体』の問題〉に言及し、〈主体〉の創造の問題を含んでいるこの文章を踏まえて言うと、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を佐山の行為に見ることによって、まさしく〈主体〉の問題がおのずから浮かび上がってくる。


    五 自己否定による〈主体〉の創造


 順二自身が「西洋化ってことが熊本の場合には相対的に意義があった。学校党が旧藩時代を維持する。一方で右翼の神風連があるのに対して、横井小楠の実学党は、ジェインズの西洋至上主義といっていいかどうか そういう考え方でことを進める意味があった」(『ジェーンズとハーン記念講演』前掲書)と熊本の人物関係を手際よく語っていることを参考にして言えば、〈西洋化〉を軸にして、実学党・敬神党は左右両極の存在として相対恃していることになる。歴史の事実からみると、実学党はその中間に当たり、むしろ敬神党と相対峙しているのは洋学校というべきであるが、しかしそれぞれ大なり小なり対立関係があったなかで、「“薩長土肥(=肥前)“に日本明治維新の主導権を握られた肥後として、“第二の維新”を自分たちの手でという、どういう意味かでナショナルな意識を底に持った動きであった。肥後人としての意識の限りで、それは反対の極に位置した神風連にも共通するものだったといえる。またそういう意味でこの意識は、熊本バンドの性格にも微妙な影を落しているといえる」(『熊本洋学校と札幌農学校』朝日新聞・一九七二・六・二六)と述べているように、〈自分たちの手〉という意識それこそが〈第二の維新〉という大義に邁進する青春群像の〈主体〉の有り様を表していた。
 このような青春群像のさなかにあって、佐山は佐山で変節漢と罵倒されながらも、学校党を起点として敬神党・実学党・洋学校と右から左へ渡り歩き、民権党にも接近する。そしてついには西郷軍に身を投じるかたちで歴史のパラドックスを体現しようとするその姿に、佐山自身の〈主体〉創造の有り様も見えてくる。奇妙な言い方だが、佐山健次の場合、〈主体〉を創造しようとするがゆえに〈迷う〉ように見えながら、〈迷う〉ことによって〈主体〉の創造を拒んでいると言ったらよいであろうか。反動的な西郷軍への参加という〈迷う〉ことからの脱出が全き意味での〈主体〉の創造といえるかどうかの問題が残るにしても、佐山は安易な〈主体〉創造に走るのではなく、一処に留まろうとする〈主体〉を否定することによって、より高次な〈主体〉創造に赴こうとする、言わば螺旋的〈主体〉創造の象徴的な人物であるということができる。こう考えなければ、順二のいう「自己否定による〈主体〉の創造」という問題の意味は把握できない。この問題の根幹をなすものは停滞を嫌い、固定化を否定する、まさに〈迷う〉ことを是とする精神である。ここに順二の〈主体〉創造論のユニークさがある。
 従って、このような佐山の〈迷う〉軌跡を「学生劇団の仲間と妙義山や砂川の基地闘争に加わるうちに、キリスト教に代わる行動基準を自分のなかに見出したと信じきっていたぼくに、迷うことの意味を教えてくれたのが『風浪』の佐山建次だった」(内山鶉「木下・宇野コンビのもとで」月報十一『木下順二集2』岩波書店・一九八八・十一)と指摘する評が存在するのも当然である。この内山鶉が〈迷う〉ことそれ自体に「風浪」の価値を見出していることは注目すべきである。もちろん「私が感動したのは、彼がまよっている、つまり行動の方向を見いだせずにいることにたいしてではなく、そうした状況にもかかわらず、なおもそれを乗りこえて行動しよう、行動の方向を見いだそうとしているその姿にたいしてである」(「『戦後』の終焉」はる書房・一九九一・九)という村山也寸志の踏み込んだ論があるとはいえ、「迷うことが恥とされる雰囲気のなかで、『そこから先はぼくにはわからない』といえることが正当な権利だとさえ思えるようになった」(前掲書)という内山鶉の文章は、〈迷う〉ことに対する率直な感動が告白されているだけに、〈主体〉の有り処に苦悩した「風浪」発表当時の時代状況を如実に物語っている。「風浪」はまさしく時代の刻印が鮮やかに刻み込まれている作品だと言える。


    終わりに


 順二は一九九五年五月三〇日・三一日の両日にわたる熊本公演に際して、熊本公演パンフレットのなかで、「昨年東京で、五つの劇団合同の形で、今度の熊本公演と同じく広渡常敏演出で上演した。それを私は、(なにしろ半世紀前の作品だ)自分のものともひとのものとも分からない気分で観て意外におもしろかったが、それはこの作品が、案外ルカーチのいう"前史"になっていたからかも知れないと、私は自慢していいのかも知れない。/ルカーチというのは一九七一年に死んだハンガリーの優秀な文芸評論家だが、彼は"すぐれた歴史文学は、過去を現在の直接の前史として蘇らせるものだ"といっている」(「『風浪』熊本公演へ」)と述べ、自作品に対して自信のほどをのぞかせているが、「専門劇団の場合は一切承諾しなかった。書き終えてすぐから、ドラマのとらえ方についての自己批判がこの作品にあったからであり、その点は今も変わらない」(「あとがき」前掲書)という自己批判の文章(注7)を知っているものにとって奇異な感じがする。この自作に対する全く正反対な評価を下した意味は、絶対的価値であったイデオロギーの終焉とその後に訪れた価値の多様化という現在の状況を抜きにしては考えられない。特にこの〈前史〉という言葉に注目するならば、「風浪」発表当時内山鶉を始として多くのものが〈行動基準〉を見出そうとして、あるものは政治に、あるものは宗教に走った歴史をかんがみて、ポスト・モダン以後の思想への懐疑、ないし思想混迷のなかでそれぞれの〈主体〉の有り様を模索するに至った現在の状況を踏まえて吐露された言葉である。つまり、「風浪」は時代を先取りした、いわゆる〈前史〉的な作品だという作者の自負を窺い知ることのできる言葉である。
 「風浪」の佐山健次の問題は現在のわれわれの問題である。


注1 次の家系図を見ると、竹崎順子・徳富蘆花・徳富蘇峰・ひいては横井小南も木下順二に連なる親族であることがわかるだろう。
注2 この文献は竹崎茶堂について詳しく述べられているものの、木下順二氏自身に確認したところ、参考にしていないということである。
注3 『風浪』の〈自己批判〉は、「『風浪』というのは、歴史の流れを並列的にとらまれたとらえ方で書かれているというのが、自己批判です」(「《座談会》歴史と文学」・『文学』一九五六年六月号)と語っているのを代表として、「一つの歴史的事実、それは自然的事実ということばでおきかえてもいいですけれども、それらが進行していくのを、こちらが戯曲の形で描くという形式になっているという意味で、いいかえれば、僕は絵巻物的だ。並列的っていうような、そういうふうにもいえる」「解説対談」(「木下順二作品集Ⅵ」・未来社・一九六二)と語っているように、〈歴史の流れ〉に倚りかかって描いたという点にある。
注4 『図説・熊本・わが町』(熊日出版局・昭和六三年)の「明治六年熊本市街図」と参考に掲げて置く。なお、南西に「祇園山」とあるのが現在の「花岡山」である。
注5 「風浪」の稿の数え方には論者によって混乱があるが、順二自身の「解説対談」(「木下順二作品集Ⅵ」前掲書)によれば、「『風浪』の第一稿(『人間』に発表し、未来社から刊行した)を相当書き改めて今度の上演台本(第二稿)をつくった」とあり、第二稿は〈上演台本〉であって、その存在は確認できない。
注6 「初稿の『風浪』は、「神風連」という名の書きかけの原稿だった」(岡倉士朗「あとがき」ぶどうの会公演パンフ『素顔』復刊6号・一九五三・十二)
注7 次は「ぶどうの会第5回公演パンフレット」(一九五三年一〇月)のなかの文章である。
ぼくはぼく自身の改作に決して満足していない。この戯曲は、ぼくにとってはっきりと不満なのである。けれどもそれは、「改作」ということではもうどうにもならない不満なのだ。全く新しい作品を書くことによってでなければどうにも解決できない不満なのである。
注5で触れたように、この改作した公演台本が決定稿とされる第三稿につながるものであるなら、決定稿においてさえ、「風浪」に対する自己批判は訂正されることはなかったということができる。

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