NPO法人 くまもと文化振興会
2014年9月15日発行
《はじめての三島由紀夫「奔馬」》
〈 昭 和 神 風 連 〉 を 目 指 し た 主 人 公
一 三島由紀夫と「奔馬」
「奔馬」は、昭和四十二年二月号から翌年八月号にかけて分載された後、昭和四十二年二月に新潮社から刊行された小説である。連作長編小説『豊饒の海』四部作のうちの第二巻にあたる。寺田透氏が『豊饒の海』論(『文芸』昭47・8) のなかで、この「奔馬」を〈優作〉と認め、主人公飯沼勲は作者が作者の外界に胚種をとらえ成長させてもう一人の自己となしえたという理由で「気持ちがわるい位感染力に富んだ、強い表現力ゆえに、嫌悪を覚えつつも傑作と言う他ない作品」と評したのはつとに有名である。
「奔馬」を一口で言えば、〈神風連史話〉に傾倒する主人公飯沼勲が昭和の神風連を標榜しながら昭和維新を企て、その挫折ののちに海に臨んで割腹自殺をする物語である。第四十章からなる「奔馬」であるが、第九章がそっくりそのまま山尾綱紀著「神風連史話」という小冊子の掲載に使われている。この「奔馬」の基本的モチーフとも言うべき「神風連史話」について 、寺田氏はまた、「奔馬」という作品の不可解な点を三つ挙げていて、その第一に〈神風連史話〉が三島たちの昭和四十五年十一月二十五日の行動の完全な予告であることの意味は何かと述べている。そして、松本鶴雄氏は、それを踏まえた考えのもとでの「三島由紀夫作品論事典」(「三島由紀夫とは何であったか」『国文学』学燈社・昭56年7月号) の「奔馬」の項で、「特に〈神風連史話〉第二巻の十分の一の量を占め、単なる小説効果にとどまらない。この史話が、死と結びついた時のみ純粋は存在し、目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという勲の行動原理を生み、ひいて 三島の精神構造とも相似形をなすことを考え合わせると、無視できない点であろう」と記している。
寺田氏にしろ、松本氏にしろ、「奔馬」における〈神風連史話〉なるものに注目し、「奔馬」という作品そのものと三島由紀夫の自決との関連に言及していることで共通している。
二 三島由紀夫と神風連
三島由紀夫と神風連との関係についての論考で 、大久保典夫氏が(『三島由紀夫 携』19・学燈社) のなかで「三島由紀夫の死としての決起の趣旨は 、『檄』に端的に現れているが、三島が近代的なサラリーマンたる自隊員に向かって、ハンド・マイク一つ持たずに決起を呼びかけたのは、電線の下を通るとき頭上に扇子をかざしたというあの神風連の故事にならったのかも知れない。この無垢の純情を嗤えようか」と書き、三島の生涯にわたる知己である村松剛氏が『三島由紀夫の世界』(新潮社・2・9)のあとがきのなかでさえも、「日本人としての魂をとりもどせと、市ヶ谷台上で三島は死を賭して訴えました。当面の問題としたのはアメリカ製の憲法であり敗戦後の社会でしたが、神風連的な心情がその根底に息づいていたことは、 疑いを容れません。」と述べていることに最も注目している。
この指摘にうべなう気持ちがあるのは、昭和四十二年一月一日元旦の「年頭の迷い」と題する『 読売新聞』の文章のなかで、「 西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本に行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの指導者の一人で、壮烈な最後を遂げた仮屋霄堅が、私と同年で死んだという発見であった。 私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合うのだ」と書いて、仮屋に同化しつつ〈 英雄〉としての死の決意を確認していることと深く関連しているからである。つまり、これら本人自身の発言によっても、晩年の三島の自死に至る過程に神風連との関わりが容易に予想できる。
三 「 源流」意識
三島由紀夫が一地方の士族抵抗である神風連に対して異常なまでに興味を寄せるのは、「神風連といふものは、目的のために手段を選ばないのでなくて、手段イコール目的、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離といふのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神といふもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんフ ナティックな純粋実験ここだつたと思ふのです。」(「 対談=日本人論」番町書房、昭41、10)と述べ、神風連が 手段と目的を完全に一致させた「フ ナティックな純粋実験」であったという神風連把握があるからである。確かに手段と目的が乖離しなければ、集団の行動は一糸乱れず、成功するか否かに関係なく、目的を完遂することができる。総論賛成各論反対では具体的な解決策を講じにくいのが常である。「奔馬」において、主人公である飯沼勲を通して、行動原理の理想とした神風連をなぞることになることからも分かるように、「奔馬」作品そのものが「フナティックな日本精神の純粋実験」を試みたものであるといえよう。
この「フ ナティック」なものへの嗜好は 、三島由紀夫の自死の七日前、昭和四十五年十一月十八日発行の『図書新聞』における「いまにわかります」と題する対談で、「どろ臭い、暗い精神主義――ぼく 、それが好きで仕様がない、うんとフ ナティックな、蒙昧主義的な、そういふものがとても好きなんです。それがぼくの中のディオニソスなんです。ぼくのディオニソスは、神風連につながり、 西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいふべき破滅衝動につながつてゐるんです。」とあるように、神風連が三島由紀夫の「破滅衝動」として心奥に根付いているものである。
さらにもっと深く「破滅衝動」を探ってゆくと、「奔馬」を含む『豊饒の海』の連載のさなかに、「 源流をたどる気持 、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。二・二六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。」(『毎日新聞』昭和42年10月21日)と述べているところに突き当たる。この「原流」への遡及が「奔馬」執筆時の心中に宿っていたこということは看過することができない。「奔馬」という作品は、日本人精神の「原流」の直流としての〈フ ナティックな純粋実験〉を神風連の作中人物を通して探ってみることにあったと言わなければならない。
四 「奔馬」と「刀」
そもそも神風連が熊本で決起した原因が欧化主義の一環として発布された明治政府による「廃刀令」であったことは歴史的な事実である。 渡辺京二氏の『神風連とその時代』(葦書房、昭和52、3)によれば、神風連の志士たちにとって容認できなかったのは、〈帯刀被髪〉という風儀の問題であり、その風儀は政治的制度とは違って、日本民族の精神に関わる問題を孕んでいるものだという特異な認識を持っていたということである。その認識を端的に言えば「神風連が固執したのは、たとえば廃刀令ひとつとってもあきらかなように外形の問題であった。つまり彼らにとって外形と精神とひき離せぬものであって、外形すなわち風儀を否定すれば精神はそのときただちに死ぬのであった」というものである。
「奔馬」においても、重要な場面で、神風連の「刀」に対する拘りとの類縁を感じさせる所がある。例えば、剣道部の「合宿に参加しなかったのは、ただ竹刀に飽いたからである。竹刀の勝利があまり容易であることに飽き、竹刀が剣の単なる象徴に過ぎぬことに飽き、又、竹刀が何ら『本物の危険』を伴わぬことに飽いたのである」という文章 は、剣道においては自他とも認める主人公飯沼勲の関心が〈竹刀〉から本物の〈刀〉と移行てしていく契機ともなって、勲が本物の行動家・実践家と突き進み、〈日本刀 〉で自刃する最終場面に繋がっていく非常に重要な箇所である。
或いまた、飯沼勲が決起の成否の最大の決めてである武器として、「それよりも日本刀だ。どうしても二十本は揃えなくちゃ」と言っていることは、勲たちがいくら〈神風連の純粋〉に学ぼうとしたといっても、近代兵器で武装した昭和の軍隊に対して〈日本刀〉で戦うのは無謀極まりなく、時代錯誤もはなはだしい。しかし、「昭和の神風連」たらんとした飯沼勲は神風連と同じように〈日本刀 〉を自らの純粋精神と引き離せないものと考えていたとしたらどうだろうか。とどつまり、三島が主人公に〈刀〉を掛け替えのないものとして扱わせているところに「奔馬」の特色がある。
五 三島由紀夫と熊本という風土
このような考察から浮かび上がってきたのは、晩年の三島由紀夫の脳裏には、日本人の純粋な精神の発露である神風連の存在の重要性への認識があり、神風連の行為を擬えて実践して果てる過程で、日本精神の体現者としての神風連、そしてそれにもまして神風連の由縁の地としての〈熊本〉が大写しになっていたということである。
三島由紀夫文学が海外での外高い評価を得ていることは、この国際社会で日本が三島の作品を通して見られることである。もしそうであるならば、それは三島が精神の拠り所にした神風連とその神風連を生んだ〈熊本〉という風土が注目されることでもあることを忘れてはならない。