【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

「寒祭」(かんまつり)

2013年06月30日 05時09分04秒 | 句集

http://www.kumamoto-bunkanokaze.com/details_book/nagata/index.html

・ 著者 永田 満徳 (ナガタ ミツノリ)
・ 発行所 文學の森
・ サイズ 四六判上製・カバー装
・ ページ数 269ページ
・ 価格 2,800円(税込み)
・ 発行日 平成24年9月27日
・ 申込先 くまもと文化の風ドットコム
TEL096-345-6209

永田 満徳 プロフィール
1954(昭和29)年 人吉市生まれ
1987(昭和62)年 「未来図」入会
1995(平成 7)年 「未来図」新人賞、翌年同人
2003(平成15)年 俳人協会熊本支部事務局次長(2010(平成22)年まで)
2005(平成17)年 熊本県文化懇話会会員
2009(平成21)年 日本現代詩歌文学館振興会評議員
2015(平成27)年 俳人協会熊本支部事務局長

共著  『漱石熊本百句』(創風社出版)
『新くまもと歳時記』(熊日文化出版賞受賞)
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「俳句界」7月号(文學の森)1023年7月1日発行

2013年06月26日 01時57分51秒 | 写真俳句
「写真俳句」 大賞!

俳句
溢れ出でこぼれしたたる藤の花

場所
「山田の藤」(玉名市の山田日吉神社)
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第5号【三好達治】

2013年06月16日 00時00分02秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

総合文化誌KUMAMO 第5号
NPO法人 くまもと文化振興会
2013年 12月15日発行


《はじめての三好達治》

阿蘇詩二篇「大阿蘇」「艸千里濱」
国民的作品かつ作者の転換期作品
                 永田 満徳
   初めに

 三好達治は、阿蘇登山の経験をもとにした詩「大阿蘇」と「艸千里濱」の二篇を発表している。阿蘇詩二篇は昭和十一年より昭和十二年にかけて書かれたものである。今日、両詩篇に対する評価は極めて高く、例えば「大阿蘇」は〈口語脈作品の代表的な一篇〉とされるし、「艸千里濱」もまた〈代表作の一つ〉とまでされている。三好達治は阿蘇の地には三度足を踏み入れている。最初の旅は陸軍士官予科時代の大正九年、大分の中津出身の学友と連れだって耶馬渓を越え、阿蘇に遊んだときである。再度の旅は昭和十一年で「艸千里濱」を詠い、三度目は昭和三六年二月で、石原八束氏とともに阿蘇山頂行のバスに乗って訪れている。

   一 大阿蘇
 
雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々と降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 瀟々と降つてゐる 
山は煙をあげてゐる
中嶽の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濠々とあがつてゐる
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
馬は草をたべてゐる
艸千里濱のとある丘の
雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
たべてゐる
彼らはそこにみんな靜かにたつてゐる
ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは靜かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は瀟々と降つてゐる

「大阿蘇」は世界最大のカルデラを形成している阿蘇中岳を背景に、豊かに繁る牧草の高原《草千里》で蕭々と降りしきる雨の中、ひたすら草を食べたり、ただ立ったりしている馬の群れを描いた風景そのものの作品である。この作品は、眼の前の風景を単に写生したものとみるならば、まるで〈無声映画〉や〈一幅の絵画〉を眺めるような思いがする。そういう印象を与えるのは作者が徹頭徹尾《見る》立場で描いているからである。三つの素材「馬」「雨」「山」が平易な口語で巧みに場面の中にうたい込まれている。
しかし、これは単なる〈静物〉としての風景ではない。それぞれの情景は、固定したカメラの広角レンズ越しのような視界の中で、「食べ(立ち)続ける馬」「降り続ける雨」「吐き続ける山」といった具合に持続的な動きとして捉えられている。特に文末の「てゐる」のリフレーンはそのすべてが現在進行〈……している〉の形をとっており、時制の《継続性・現在》を強く押し出している。そして、このような時意識は、末尾近くの一行「もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう」に収束し表現されている。この一行こそが、多くの叙景描写のうちから離れて、作者の心情を仮定形にひめて表明した唯一の部分である。そこには、大阿蘇を根源的に発見した感動が凝縮されていることはまちがいなく、人事全般を忘却せしめる大自然の息遣いが幾百年たったとしてもそのままの姿で〈いつまでも現在〉として存在し続けるだろうという一種異様な悠久感が打ち出されている。

   二 艸干里濱

われ嘗てこの國を旅せしことあり
昧爽のこの山上に われ嘗て立ちしことあり
肥の国の大阿蘇の山
裾野には青艸しげり
尾上には煙なびかふ 山の姿は
そのかみの日にもかはらず
環なす外輪山は
今日もかも
思出の藍にかげろふ
うつつなき眺めなるかな
しかはあれ
若き日のわれの希望と
二十年の月日と 友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思はれ人と
ゆく春のこの曇り日や
われひとり齢かたむき
はるばると旅をまた來つ
杖により四方をし眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶ高原の牧
名もかなし艸千里濱

「艸千里濱」では、「大阿蘇の山」の風景的特色が見晴るかす眺望の中からパノラマ撮影のように一つの見落としもなく描き出されている。そしてさらに、その中から浮かび上がる外輪山は、「今日も」また〈山紫水明〉(「日本人の郷愁」)の言葉のごとく淡い藍色に染まっている。この風景は眼前の事実に違いないのだが、単なる事実そのものの色ではなく、「思出の」と冠することで〈追憶〉の抒情にまぶされている。つまり、かつて『測量船』から四行詩への転移について語ったときの「詩歌は、私にとつては、最も単純な、最も明瞭な何ものか」(「ある魂の径路」)という気息はなく、視界に入るものすべて、ここでは「思出の藍」色のフィルターを通した心象風景によって写し出されている。
 この詩は、喪失の悲しみを主動機として、詩全体に終始一貫して流れている〈旅愁〉の情緒を形づくっている。「甃のうへ」(『測量船』)が冒頭の「あはれ」のほか一つの主観語をも使用することなく、〈春愁〉の淡い情緒を漂わすことに成功している背景には、極力そういった語句の使用を控えることによって、どれだけ現代詩の抒情は可能かという実験的な自覚があった。ところが、ここら辺りから次第に主観的な感情の流露が著しくなり、三好特有な《感傷性》といったものが悲愁をおびた詠嘆的表現となって全面に立ち現われてくる。この「艸千里濱」の場合、現代詩の発展というよりも、「詩そのものの完成、詩そのものの美」を追求する審美主義的な詩人像が想定できる。

    三 詩歴

 おおよその詩的道程をみても、四十年間にわたる長い創作活動の中で、詩風の変貌ともいえるものが幾度か見られ、そのどの面をとるかで詩人像は大きく変わる。ここでは、詩型の面で著しい変化を遂げた三つの時期に分けてみる。初期は、口語・文語の二通りの用語に加え、散文詩・自由詩・定型詩と多様な形式を使って、現代の抒情詩のあらゆる可能性を試みた『測量船』の時期で、古典的な風趣と西欧のサンボリズムとを融合した詩風が特色である。第二期は、療養生活がもたらした『南窗集』『閒花集』及び『山果集』などの、F・ジャムの詩型を借りて、軽妙な機智を生かした印象写生風の四行詩の時期で、自然の事象を客観化して、最も明快な言葉で鮮明な心象風景を作り上げている。そして、第三期は、『艸千里』『一點鐘』などの文語雅語を用いて、古典的風韻をかもし出した伝統的詠嘆調の時期で、最初からその一面に内包していた古典的な要素が開花する。このように、全体像としては、昭和初期の「新詩精神」運動の方向を否定し、おおむね古典的風雅にふちどられた抒情の方向へ限定していったと言われても否めない。
そうした詩的道程の明らかな分岐点、あるいは転換点こそが、第二期までの口語脈印象写生風の世界と第三期以後の文語脈詠嘆的抒情の世界との相違にもとめられる。そして、その端的な比較の対象としてよく取り上げられるのが、まさしく「大阿蘇」と「艸千里濱」の作品である。なぜかと言えば、両作品が〈大阿蘇〉の風景を素材とし、しかもほぼ時を同じくして発表されたにもかかわらず、そこから受ける印象の違いによって「大阿蘇」の方は従来の口語的作品群の延長上にあり、「艸千里濱」の方はそれ以後の文語的作品群の直線上にあるなどと説明が加えられやすいからである。ちなみに、「大阿蘇」は、その四月に刊行された合本自選詩集『春の岬』に、『測量船』より三代四行詩集とともに『霾』詩篇中の一篇として編集された。また、「艸千里濱」は、その三ヵ月後の七月に発刊された『艸千里』に、『山果集』以後の長詩二十五篇中の一篇として集録された。しかし、これは両作品が初出雑誌に単独で発表された順序とは逆になっている。すなわち、「艸千里浜」は「大阿蘇」より一年早く、当時の年齢的にも高い層をねらって発刊された婦人雑誌『むらさき』(昭十一・九)に発表されている。三好が印象の違う詩篇を同じ時期に発表したのは単に発表誌の対象の違いばかりではなく、もっと根本的な原因があったように思える。

   四 詩集刊行の空白期間の意味

 この阿蘇詩二篇が発表された時期の文学活動は、詩集に限って言えば、昭和十年に第四詩集『山果集』(四季社)を出版したきり、昭和十四年に第五詩集『艸千里』を出版するまで、実に“四年間”というものの空白、ないし停滞期間が見られる。これは、彼の戦前における出版過程を知るものには珍しく不思議に思われる。
この詩集刊行の空白期間こそ、時代への態度決定の逡巡、ないし猶予期間でもあって、戦時体制への随伴行動がほぼ固まりかけるのは、「一従軍記者」(「日本人の郷愁」)として上海に赴き、日本の自然に対する愛情、すなわち〈祖国愛〉に目覚めることになる昭和十二年以後のことであるといえる。そして、この時代への随伴的態度は、日本文化協会から特別扱いの用紙配給を受けて出版した『一點鐘』(創元社・昭和十六年十月) の例が示すように決定的なものになる。それに併せて、昭和十年三月、保田与重郎らの『日本浪曼派』創刊の辞で言挙げした「我が古典の未樹、我が趣味の未修」の克服という叫びに呼応するかたちで、それ以後伝統的文芸の抒情形態をもっぱら採用することになる。従って、詩集刊行の空白期間に発表されたこの両詩篇が象徴するのは、詩集刊行の空白期間が文語詩の詩風確立の時期であるとともに、時代への態度決定の時期でもあるということである。そういう意味で、阿蘇詩二篇は極めて重要な意味を持つものである。
三好自身、自分の過去を振り返ったエッセイの中で、「さまざまな前後の影響に揺さぶられふりまはされつづけながらの境涯にあつて、私は私なり思案を重ねないわけではなかつた」(「巻後に」『定本三好達治全集』)と述べ、時代の荒波に翻弄された〈境涯〉を語っている。ここに、時代に対して真摯に向かえば向かうほど、その荒波に呑まれこまれていく一人の痛ましい詩人像が泛かび上がってくる。

    終わりに

いずれにせよ、伊藤信吉氏が愛着をこめて「私は九州阿蘇の草千里浜をたずねたとき、三好達治の二篇の詩を思い浮かべ、そこに亡き詩人の声が永く遺ることを思った」(角川版『三好達治詩集』評伝)と述べている。三好達治の絶唱阿蘇詩二篇は、世界規模の地質的な特色で有名な阿蘇の風物を文芸化したことによって、これからもさらに多くの読者に深い感銘を与え続けることだろう。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)


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井上微笑②【球磨から近代俳句の興隆に尽力した】

2013年06月12日 00時53分52秒 | 週刊ひとよし
微笑と白扇会
白扇会の活動の時期は碧梧桐と虚子の対立が激化する前の、子規派の幸福な時期であり、蜜月の時期であった。
こういう時期であったがゆえに、虚子・碧梧桐を始めとして新派俳壇の有力な人物を多数選者・寄稿者に加えることができたのである。

微笑と夏目漱石(1)
井上微笑宛の夏目漱石書簡は現在7通存在している。明治36年5月10日から明治38年1月5日の間である。この往復書簡の期間は俳人漱石から小説家漱石に移る最も重要な時期であった。
微笑の選句の依頼に対して〈大多忙〉と俳句との〈絶縁〉状態を理由に断り、代わりに虚子と碧梧桐を紹介している。微笑としては「白扇会報」に少しでも彩りを添えたいという気持ちがあった。





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井上微笑③[球磨から近代俳句の興隆に尽力した]

2013年06月09日 14時51分51秒 | 週刊ひとよし
内容
微笑と夏目漱石(2)
漱石書簡で浮かび上がってくるのは、微笑の熱意であり、情熱である。そして、漱石の「白扇会報」に対する労りであり、親切心である。

微笑と正岡子規
微笑と白扇会が子規の影響化にあることはまちがいない。ただ、子規派にしても、虚子派と違った子規派の支流との見方も成り立つ。
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