【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方―

2000年12月01日 10時55分00秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究 」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

           永田満徳

―目次―

序章 『豊饒の海』における内と外

第一章 世界解釈の小説

 一 『豊饒の海』の自注自解

 二 世界解釈と人間の活動

第二章 作品外の現実

 一 不如意な現実

 二 不如意さからの脱出

三 政治活動の意味

四 初期構想の急変の謎

第三章 『豊饒の海』の作品世界

 一 『春の雪』論―感情とその行方、及び『奔馬』論―行為とその行方

 二 『春の海』『奔馬』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

 三 『暁の寺』論―認識とその行方

 四 『天人五衰』論―自意識とその行方

 五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

終章  三島由紀夫の晩年

 

【目的】

本文は三島由紀夫の畢生の長編小説『豊饒の海』第四巻をひとつの作品として論じたものである。早熟の才能をほしいままにしてきた三島が精魂を傾けて書き上げた作品である。三島の集大成的な意味を持つばかりではなく、近代小説の一つの到達点を示す意味でも重要な作品である。自注自解の内容を踏まえながら、作者の意図を探ってみたい。

【要旨】

【序章】「『豊饒の海』における内と外」

   つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した。(中略)人から見れば、いかにも快い休息と見えるであらう。しかし私は実に実に実に不快だつたのである。(中略)一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

(「小説とは何か」『波』第十五号・昭和四十五年五月)

「暁の寺」脱稿後に不快感を表明し、「作品外の現実」と「作品世界」とに分けていることから、この時期に活発化してくる、いわゆる政治活動と『豊饒の海』という作品との内外を視野に入れて考察すべきである。

【第一章】「世界解釈の小説」

 一 『豊饒の海』の自注自解

作品理解の基礎的作業として自注自解の内容を検討してみると、

三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

とあるように、『豊饒の海』は作家になって以来考え続けてきた〈世界解釈〉を意図したもので、最終的には唯識論哲学の元に「ニルヴァーナ(涅槃)」に到達する物語であることがわかる。ただ、初期構想では「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、言はば『たおやめぶり』あるひは『和魂』の小説、第二巻『奔馬』は檄越な行動小説で、『ますらおぶり』あるひは『荒魂』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾチックな色彩的な心理小説で、いはば『奇魂』、第四巻(題未定)はそれの書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説で、『幸魂』へみちびかれてゆくもの、といふ風に配列」(「『豊饒の海』について」)することを考えていた。しかし、この構想が破綻を来たしているのは第三巻「暁の寺」からで、特に第四巻「天人五衰」は、初期構想とおよそ懸け離れた自意識過剰な主人公安永透が登場している。

 二 世界解釈と人間の活動

三島のこの意図は、

Ⅰ 身体 A 動物的・即物的・無言語=無意識的         身体の世界=無言語領域    

Ⅱ 心  B 記述的・分別的                  心の世界=有言語領域

     C 間主観的・二項対立的

     D 逆説的・詩的

Ⅲ 魂  E 非二項対立的・非二元的・無言語的・超個的・超意識的  魂の世界=無言語領域

という高尾利数氏(「ブッタとは誰か」・柏書房・二〇〇〇・三)の人間の活動のモデルが参考になるばかりではなく、この人間の活動そのものを描くことにあった。

【第二章】「作品外の現実」

 一 不如意な現実

〈肉体〉の不如意を克服し、身体の世界、つまり無言語領域を垣間見た三島にとって、新たに乗り越えなければならない心の世界、〈老い〉の不如意、そして〈裏切り〉の課題が浮上してくる。一言で言えば、「暁の寺」の、

生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられているやうなものだつた。そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ、といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。

と言う一節に尽きる。老いや裏切りなどの〈不如意な現実〉に苦しむ作家像が浮き彫りにされる。

 二 不如意さからの脱出

創作も含めた心の世界を地で行きながら、その世界からの脱出を「葉隠」・唯識思想や身体の世界に誘う自衛隊の体験などに急速に接近していくことで、精神的危機の回避を図ろうとした。

三 政治活動の意味

かくて集団は、私には、何ものかへの橋、そこを渡れば戻る由もない一つの橋と思はれたのだ。               (「太陽と鉄」『「批評」」・昭和四十年十一月)

四 初期構想の急変の謎

やがて楯の会の先鋭化とともに三島の精神もまた閉塞化していくことになるが、そのような作品外の活動が『豊饒の海』の初期構想の変更に影響を与え、作品外の精神状況が登場人物の造型に投影することになった。

【第三章】「『豊饒の海』の作品世界」

各巻のキイワードを人間の活動のモデルに当てはめると、『豊饒の海』はまさしく人間の活動の記録である。

 一 『春の雪』論―感情とその行方、及び『奔馬』論―行為とその行方

「春の雪」の清顯の感情や「奔馬」の勲の熱意が物語の展開上重要であり、清顕の死への情熱は〈何か〉を媒介とするものであるのに対して、勲の死への熱意は最初から明確に存在するものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」を持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。〈何か〉という漠然とした期待が明確な意志へと変わるところに第一巻と第二巻においての最大の違いがある。

三島 昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(新潮)連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんなあすこにあります。

三島 (中略)それに源流をたどる気持は、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。二・二十六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。(『毎日新聞』昭和四十二年十月二十一日)

この両者に通底している身体の世界とその無言語領域である「血まみれ」「血みどろ」といった源流意識が清顕や勲の成算を度外視した行動に走る原動力であった。『豊饒の海』第一・第二巻は、理屈で割り切れぬ、内部から発するものに突き動かされる人間の内面劇として、きわめて輪郭の明らかな小説になっている。

 二 『春の海』『奔馬』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかつた。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があつたと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であつた。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。(「谷崎潤一郎」論)

「劇的空間」を各人の性向のままに生き抜き、それがそのままニルヴァーナ(涅槃)であるということである。

 三 『暁の寺』論―認識とその行方

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。

「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

一部で詳述されるインド体験の中で特に重要なベナレスで感じた「つねに目前にくりかへされる自然の事象」である輪廻転生というのは、死が完全な終わりであることを意味せず、生の絶対的一回性を大きく相対化するものである。ここに三島が仏教の空観と相対主義を結びつける理由がある。

現在のこの世界は、本多の認識が作つた世界であつたから、ジン・ジャンも共にここに住んでゐた。唯識論に従へば、それは本多の阿頼耶識の創つた世界だつた。

「暁の寺」では、心の世界、有言語領域の典型である本多の認識に焦点が当てられる。本多繁邦の認識の世界は清顕や勲とはまったく対照的で、徹頭徹尾理性、知性、理智の世界、つまり心の世界である。「たえず世界を要約していなくては不安な心、まだ記録されていない現実は執拗に認めまいとする頑なな心」をもつ「癖」があり、「一旦理知をとおすことなしには、決して外界に接しない性質」を持つかぎり、理智の世界から抜き出すことができないといってよい。その認識の呪縛とその脱出や癒しに努力するにもかかわらず、認識という心の世界とその有言語領域の限界に気づき、無言語領域と有言語領域との対立が決定的となる。

 四 『天人五衰』論―自意識とその行方

本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

   本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

      (「バルタザールの死」「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

この「天人五衰」の構想に関するコメントにはある共通する語感が含まれている。前者は〈解達〉であり、後者は〈ニルヴァーナ〉であって、ともに仏教思想に淵源する概念である。三島由紀夫はあきらかに登場人物のいずれにも仏教的な世界に昇華する役割を担わせていると言っても過言ではない。

「天人五衰」は、登場人物のすべてが〈自意識〉のもたらす悲喜劇に翻弄され、究極的には同じ本多家の住人になることになる本多繁邦・秀・絹江の三者の物語ということになろう。登場人物が涅槃の中に入るという初期の構想は、透にしても、絹江にしても、〈自意識〉の呪縛から、例えば透のように盲目となることによって断ち切り、絹江のように自殺未遂によって〈自意識〉を逆手にとって解脱、言い過ぎであれば、その契機をつかんだと見てよい。しかしながら、本多は老いて死の認識によって解脱の端緒を他の二人以上に直接的につかむが、結局は〈自意識〉をあらわにするだけである。このように自意識を手掛かりにすると、「天人五衰」は登場人物の自意識からの脱出とその果てに、有言語領域の徹底化された世界を描き出したものであることがわかる。

 五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

三島由紀夫の自注自解の中で特に触れられることの少なかった『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」とは、無言語領域、有言語領域の違いこそあれ、人の生を一つの枠に見立てて、その中での各種の生き様をさぐり、その徹底化の果てに見えてくる清顕・ジンジャンの彼岸、勲の昇天、本多・透の認識の無を描くことにあったといわなければならない。これこそが世界解釈とその行方に他ならない。

【終章】「三島由紀夫の晩年」

つらつら自分の幼時を思ひめぐらすと、私にとつては、言葉の記憶は肉體の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとつては、肉體が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉體が訪れたが、その肉體は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。  (「太陽と鉄」『「批評」」・昭和四十年十一月)

三島の晩年は、無言語領域と有言語領域との対立の中で、「作品世界」では有言語領域の侵犯というかたちで幕が下ろされ、「作品外の現実」では無言語領域への参入というかたちで終焉を迎える。三島の晩年に浮かび上ってくるのはこの二種対立する言語領域に佇立する文学者の肖像である。

 

〔本文〕

 序章 『豊饒の海』の内と外

 三島由紀夫の畢生の長編小説『豊饒の海』第四巻は、その第一巻「春の雪」が昭和四十年九月号に雑誌『新潮』に連載され始めて、ちょうど第二巻「奔馬」の四十二年二月号の連載と見合うかたちで、いわゆる政治活動の走りとも言うべき自衛隊への体験をその年の四月十一日に果たしている。そして、昭和四十五年十一月二十五日は最終巻「天人五衰」の擱筆の日付と自決の日付とが一致していることは周知の事実である。これは三島由紀夫の晩年はこの『豊饒の海』の執筆と政治活動を抜きにしては語れないことを示している。この両者の関係を如実に述べているのは、昭和四十五年五月発行の『波』第十五号の「小説とは何か」という文章である。

 つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した。(中略)人から見れば、いかにも快い休息と見えるであらう。しかし私は実に実に実に不快だつたのである。(中略)一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

三島は最終行動の実行へと専心しつつあったが、自決の前日まで、『豊饒の海』を執筆していて、決して文学活動を放棄したわけでなかった。この作品内外の相克は実に恐るべきものがあったろう。『豊饒の海』を書くことは、作品内外の「二種の現実の対立、緊張」(「小説とは何か」)を作り出すべく努め、そこに身を置いて書くのを常としてきている三島由紀夫にとっても、「今度の長篇を書いてゐる間ほど、過度に高まつたことはなかつた」(「同右」)というように、なお一層対立、緊張を強いるものであった。それでも、第二巻「奔馬」では、それがうまく噛み合っていた。「怖いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと、事実の方が小説に先行することもある」(小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』構想社・昭和五十五・五)とあるように、「楯の会」の結成、およびその活動と「奔馬」の内容とは不思議に噛み合い、見事に相乗効果を上げて進んでいたから、「奔馬」の執筆時はむしろ精神的には高揚していて、作品内外の分裂はそれほど気にならなかったにちがいない。しかし、第三巻「暁の寺」の執筆を初めて間もなく、作品内外の均衡は崩れていくことになる。このことは〈実に〉という言葉を三度も使って強調しなければならなかった〈不快〉感とは無関係ではない。この「暁の寺」脱稿後の不快感は世界解釈の意図のもとに書かれようとしている『豊饒の海』という作品が残り、「作品外の現実」が「紙屑」になってしまったことに対しての言葉である。ここには明らかに「作品世界」と「作品外の現実」とはそれぞれ別のものとして捉えられている。「暁の寺」脱稿後に、この両者をことさら区別して考えなければならない事情が三島にあったということである。つまり、この事情は三島由紀夫の晩年を、『豊饒の海』の執筆過程と政治活動の軌跡という作品の内と外=〈二種の現実〉を視野に入れて考察すべきことを示唆している。

  第一章 世界解釈の小説

 一 『豊饒の海』の自注自解

『豊饒の海』については三島自身多くのことを語っていて、各々の論者は自注自解の役割をするこれらの文章を自分の論に必要な部分のみ拾い出してつまみ食いするといった具合である。三島の自注自解の文章を素直に受け取り、そのすべての言説を作品と照らし合わせて、その異同を明らかにした論がいまだにないのが不思議である。もちろん、作者が意図を超えた読みの大切さがわからないでもないが、作者の作品解説と作品との関係を考察することは作品理解の基礎作業として必要なことではないか。従って、作品の考察は自注自解を跡付けていくことになる。

 三島由紀夫は「『豊饒の海』について」毎日新聞・昭四四・二・二六)のなかで、「小説家になつて以来考えつづけていた『世界解釈の小説』が書きたかつたのである。幸ひにして私は日本人であり、幸ひにして輪廻の思想は身近にあつた」と述べている。それが『豊饒の海』で、輪廻思想を頼りに世界解釈の小説を書こうとの意気込みで書かれていることはまちがない。いずれも雑誌『新潮』に連載された。第一巻「春の雪」が昭和四十年九月号から四十二年一月号までの十七回、第二巻「奔馬」が昭和四十二年二月号から四十三年八月号までの十九回、第三巻「暁の寺」が昭和四十三年九月号から四十五年四月号までの二十回、第一巻から第三巻まで一度も中断することなかった。第四巻「天人五衰」は連載中初めて二ケ月の休みを置いて、昭和四十五年七月号から四十六年一月号まで七回掲載された。

 では、どのような世界解釈の小説を書こうとしたのか。三島由紀夫自身の解説を見てみたい。

三島 〈中略〉それはいま書いてゐる「豊饒の海」のモチィーフでもあるんで、あの作品では絶対的一回的人生といふものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説なんです。

 三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。       (「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

三島 一番考へてゐたのは、第二巻(「奔馬」)なんか、国家主義運動みたいなのが出てくるでせう。それだけで反発する人がゐますけれど、三巻まで読んでほしかつたんです。といふのは、現世の人間がこれが極致だと思つて考えへたことが、三巻で空観のはうへ、空のはうへ溶け込まされちやうふ。その残念無念といふのは、書いてる人間も残念無念。それを設定するにはどうしても戦前の日本ですね。そこに第一巻、第二巻を放り込んで、第三巻で、空が一度生じたら、それからあとはもう全部、現実世界といふのはヒビが入つてしまふ。現実世界の崩壊と、戦後世界の空白とが、これもまた次元がちがひますけれども、それが一種のメタファアになるといふふうにして書いていきたかつたんです。

三島 僕にとっても、戦後世界といふのは、ほんたうに信じられない、つまり、こんな空に近いものはないと思つてゐるんです。ですから、仏教の空の観念と、戦後に僕が持つてゐる空の観念とがもしうまく適合すればいいんですけれどもですね。小説としてはもう完全に下り坂になるわけです。そこからはもう「絶対」も何にもない。

三島 それを僕は四巻で主人公を悪魔的な、小悪魔ですけれども、さうしたんです。それ以外にないやうな気がしたんですね。しかし、それも成功するかしないかわからないんです。つまり、非常に僕は姑息な手段だと思つてゐるんですよ。つまり、空を支へるのが、空観といふ形で、悪魔の仕業のやうに考へるわけね。             (「文学は空虚か」『文芸』・昭和四十五年十一月)

第一巻「春の雪」と第二巻「奔馬」では〈現世の人間〉の〈極致〉とされる〈絶対的一回的人生〉を送る主人公たちが登場し、第三巻「暁の寺」では戦後世界が持っている空の観念と仏教の〈空観〉とを一致させることによって戦後世界の空白と現実世界の崩壊とが一種のメタファアとして描かれ、第四巻「天人五衰」では第三巻の延長線上にあって、小悪魔的な主人公が登場し、空観を体現しながらカタストローフに至るというのである。

ただ、初期構想では「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、言はば『たおやめぶり』あるひは『和魂』の小説、第二巻『奔馬』は檄越な行動小説で、『ますらおぶり』あるひは『荒魂』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾチックな色彩的な心理小説で、いはば『奇魂』、第四巻(題未定)はそれの書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説で、『幸魂』へみちびかれてゆくもの、といふ風に配列」(「『豊饒の海』について」)することを考えていた。しかし、この構想が破綻を来たしているのは第三巻「暁の寺」からで、特に第四巻「天人五衰」は、

本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

 この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思えば、この少年、この第一巻よりの少年はアラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。 本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

    ( 「バルタザールの死」「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

というもう一つの初期構想ともおよそ懸け離れた自意識過剰な主人公安永透が登場している。それでも、三島は、次のような発言を繰り返している。

三島 〈中略〉それはいま書いてゐる「豊饒の海」のモチィーフでもあるんで、あの作品では絶対的一回的人生といふものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説なんです。

三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

(「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」前掲書)

第一巻「春の雪」・第二巻「奔馬」と第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」とを大きく隔てるのは戦前と戦後だが、絶対主義と相対主義との相違も企てられている。最終的にはその最高の相対主義である唯識論哲学に溶解し、いずれもニルヴァーナ(涅槃)に到達する小説であると言い張っている。この自注自解が「最後の言葉」と銘打ってあることもさることながら、結末部は昭和四十五年八月に書き上げられていたということであるから、『豊饒の海』の結末部がすでに決定されていた時点での弁であることは留意していい。

   二 世界解釈と人間の活動

各巻は主人公が二十歳で死ぬまでの数年間に限定されていて、その限られた空間をあたかも短距離走者が駆け抜けるように生き抜く「劇的な時間」が明確に打ち出されている。その「劇的な時間」をいかに生き抜くべきかが『豊饒の海』に課せられた課題であったろう。そういう意味では、『豊饒の海』がニルヴァーナ(涅槃)に到達する小説であるという三島の主張は首肯できる。高尾利数氏の「ブッタとは誰か」(柏書房・2000・3)を参考にして言うならば、『豊饒の海』はまさしく人間の活動のモデルを示そうとした作品であるからである。

高尾氏によれば、人間の活動は、

Ⅰ 身体 A 動物的・即物的・無言語=無意識的         身体の世界=無言語領域    

Ⅱ 心  B 記述的・分別的                  心の世界=有言語領域

     C 間主観的・二項対立的

     D 逆説的・詩的

Ⅲ 魂  E 非二項対立的・非二元的・無言語的・超個的・超意識的  魂の世界=無言語領域

の三段階に分類される。この分類は、高尾氏によれば、次のように説明される。

Aのレヴェルはまだ言語が発生していない段階で、ちょうど人間以外の動物の世界といってよい。何が何だかわからない状態で、何の区別のつかず、当然ながらまだこの意識もない言語以前の世界なのである。Bのレヴェルでは「記述的」と呼ぶのが適切で、ここで初めて「言(事)分ける」ことができるようになり、仏教でいう「分別の言葉」である。この言葉は人間が次第に成長して意識を持つようになり、記憶が生じ、その結果いろいろなものを区別することができるようにならなければ生まれてくるものではないから、Cのレヴェルである「心あるいは知性」が生じてきた段階でしか発現しない。このレヴェルは言うまでもなく、定義上客観と主観とを分け、二項対立的な言葉で表現する有言語の世界である。DのレヴェルはCとEのレヴェルとの間に位置するもので、Cの叙述的有言語の世界がどうしも分別・対立・区別の相にあるために、Cのレヴェルの言葉で心や知性を越えるEの段階を表現しようとすれば逆説であったり、あるいは極端に象徴的であったりして非日常の言葉を用いるほかはないという世界である。最後にEのレヴェルであるが、このレヴェルの世界は単なる知性や悟性では捉えられないもっと高くて深い相である。禅宗では「不立文字」などというように、いわゆる分別知というレヴェルを乗り越えた「魂」の段階なのである。

ここで注目したいのは、AとEとがともに無言語領域であることである。

そもそも病弱で自家中毒症状を呈し、級友たちから「アオジロ」と呼ばれ、腺病質で痩せこけていた少年期の三島にとって、自意識過剰で、自尊心が人一倍強かったがゆえに、肉体的劣等感は想像以上であったことだろう。その極みは兵役検査で不合格になったことであった。ボディ・ビル、ボクシング、剣道へと進むのも、兵役検査で不合格の烙印を押されたというという屈辱の反動であったことはまちがいない。驚くべき克己によって、貧弱な肉体は運動神経だけはあいかわらず欠いていたものの、頑健な肉体へと著しく変貌した。ボディ・ビルを始めてわずか一年で「薄紙を剥ぐやうにこの肉体的劣等感は治つて、今では全快に近い」(「ボディ・ビル哲学」『漫画読物』昭三一・九)と書くまでになっていた。年齢には関係なく、過激でない運動はということで剣道ひとつに絞っていきはすれ、肉体ほど不如意なものはないという考えは遠い過去のものとなっていた。このような文筆活動以外の身体の世界の経験に基づいて「肉体」の世界における「語りえぬもの」、つまり無言語領域を畢生の作品『豊饒の海』で表現したいと強く思ったにちがいない。というのは、井上隆史氏の言葉(「『豊饒の海』における世界解釈の問題」『國語と國文学』平成六年9月号)を借りれば、「言葉以前の領域」にまでも遡り、「未だ混沌たる世界における生の多面性」を「統一的世界像を打ち出すことができれば、それによって一つの世界解釈が成し遂げられる」からである。それは作品外の活動においても、作品内においても、〈世界解釈〉のできる位置を見定めることができる自負に支えられていたと思われる。三島の生そのものが世界解釈であったといってもいい。

第二章 作品外の現実

    一 不如意な現実

肉体的劣等感を克服し、身体の世界、つまり無言語領域のすばらしさを垣間見ることによって肉体の不如意の問題を解決した三島にとって、新たに乗り越えなればならない心の世界の課題が浮上してくる。それは老いに対する不如意であった。かつて拙論「三島由紀夫の〈老い〉の問題」(『方位』・一九九四・九)の中で、〈老醜〉に対する嫌悪感の根を乳幼時期祖母の病室の中で過ごした経験にもとめ、「この経験は乳児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、『人間がもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきである』という認識を育てた」とまとめて、この時期、特に昭和四十二年頃に〈老醜〉に対する決別を決意したと指摘したことがある。「天人五衰」には〈老い〉というものが最も多く記述され、最もその課題が示されているのは、「老いてはじめて、本多はこの世に生まれ落ちてから八十年の間といふもの、どんな喜びのさなかにも絶えず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた」からである。ここでも〈老い〉は〈不如意〉とまったくの同義語として扱われている。

三島由紀夫にとって不如意な現実はこの〈老い〉というものばかりではなく、一連の事件もあった。昭和四四年夏頃に合い次いで起こった「楯の会」脱会事件、つまり『論争ジャーナル』の共同創設者だった中辻和彦が他の数名の会員とともに脱会したあと、その一週間後には早大生で「日学連」と呼ばれた右翼的学生組織の中心人物、昭和四三年三月から三十日までに同じく滝ヶ原分屯地にて行った体験入隊の学生隊長を勤め、右腕的存在であった持丸博が脱会したことは少なからず〈裏切り〉の問題を三島に突き付けずには置かなかった。拙論「『蘭陵王』論」(『方位』・一九九〇・七)で触れているように、結尾の一文にその影響が認められる。「奔馬」では裏切りのため大きな挫折を強いられ、獄中に繋がられた主人公が「人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起つて、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだらうか?」と述懐していることも無視できない。「剣」(昭和三十八年)でもこの種の裏切りが重要な鍵となっていることからも、〈裏切り〉という問題は三島にとっては決してないがしろにできないものであることを物語っている。梅津齊氏もまた、まさしく「『裏切りの季節』―三島由紀夫の変容」と題した論文(「方位」・二〇〇〇・三)のなかで、詳しくはその論文に譲るとするが、これまで述べられることの少なかった演劇面からこの「『挫折』 や『裏切り』 というキーワード」で三島由紀夫の晩年を切り込んでいる。福島次郎氏の「三島由紀夫―剣と寒紅―」(平成十年三月)によると、「三島さんが、死ぬ直前に、『自分は、親しくしていた数人から、一度に裏切られた』ということを、激越な文章で東京新聞に書いていると雑誌で読んだときに、やっぱりという気持がした」という。というのは、三島との関係を偽名で本人には見せない約束で『日本談義』に発表したのを荒木精之が三島に送っていたことがわかり、そのころから三島の表情が険しくなったそうだが、その原因を自分の裏切りに求めているからである。ことの真偽はどのようであるとしても、この当時の三島周辺には〈裏切り〉というままならぬ現実が渦巻いていたのである。この不如意な現実の葛藤こそ、心の世界とその有言語領域での出来事であったといえよう。

このような〈肉体〉や〈老い〉の不如意、そして〈裏切り〉を一言で言えば、「暁の寺」の、

   生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられているやうなものだつた。そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ、といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。

という一節に尽きる。この一節は、〈人間存在〉の〈不如意〉という現実に直面しながら、「文」と「武」の間の「極度のコントラストと無理強ひの結合」(「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」『サンケイ新聞』・昭和四十五年七月七月日)を過激に実践し、泥沼のような状況になり、悪戦苦闘する事態に陥っていた当時の三島の状況とみごとに符合していると言わなければならない。

二 不如意さからの脱出

 そうはいっても、当時の三島由紀夫をこと細かく検証してみると、この人間存在の不如意に対処するのに本人自身が自覚的であったかは定かではないが、いくつかの努力が払われていたことがわかる。

 まずは、昭和四十二年九月に「葉隠入門-武士道は生きている」(光文社)を刊行していることである。「戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるぺージを読んで感銘を新たにした本といへば、おそらく『葉隠』一冊であらう」と述べているほどの本である。三島はその説明で「合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ自分の目を向けさせるといふ機能を営みながら、かへつて人間の死の問題を意識の表面から拭ひ去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ暴発力を内攻させたものに化してゆく過程を示している。死を意識の表へ連れ出すといふことこそ、精神衛生の大切な要素だといふことが閑却されてゐるのである」と述べている。〈死〉という生の遮断によって保障される精神の自由を「精神衛生の大切な要素」に数えている。三島好みの逆説といえばいえるが、しかしこの逆説に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という有名な一句に対する彼ならではの解釈が窺える。そして、いみじくも田中美代子氏がその「解説」で「三島由紀夫は、何にもまして思索の人、観念の人であった。それ故、その果て知れぬ思念の深海の水圧に耐えかねて、時には自己を軽やかな外気に向かって解き放ちたいと願った」と言っていることから、『葉隠』への親近は、〈精神衛生〉の上からも、〈自己を軽やかな外気に向かって解き放ちたい〉という気持ちからも必要であった。実はこの『葉隠』について、ステイシ・B・ディは精神医学の立場から、「『葉隠』の基盤をなす心理精神的力は、副交感神経的様式のものであり、単に二十一世紀を生き抜くための英知であるばかりでなく、日本のみならず、西洋、その他の地域でも過去五十年の間、意識的であれ、無意識的であれ、抑圧されてきた文化を解放し、すべての若者に対し教育上の有益な門戸を開き、それを向上させるための英智でもある」(「西洋から観た『葉隠』の驚異」『葉隠シンポジウム』葉隠研究会・平成四年十一月)と述べて、『葉隠』に副交感神経的働きを認め、〈抑圧されてきた文化を解放〉するものであるという、驚くべき見解を示している。実践行動の行き着く先に「死」を覚悟する知行合一の哲学「陽明学」などを推奨して行くのも、それらが「葉隠」と同じく、副交感神経的様式の思想であったからである。

そして、「葉隠」などと同じように心の均衡に寄与したものに、「大乗の深層心理学」と呼ばれる「唯識」思想が挙げられる。三島が死を決意したのはいつなのか定かではないが、自衛隊の体験入隊や「楯の会」の活動等の最も切迫した只中で、死ぬことも恐れずに自然に受け入れられるようになるにはどうすればいいのかについても、説得力のある説明をしてくれる「唯識」思想に心引かれるのは当然といえば当然であったろう。この「唯識」思想が端に『豊饒の海』の輪廻転生を理論的に支えるためのみのものであれば、ドナルド・キーン氏のように、「仏教の部分は、ここにそれを絶対に加えねばならぬほど三島にとって重要に感じられたのであろう。いや、むしろ仏教を論じたこの部分こそ、三島が四部作『豊饒の海』を書かねばならぬ理由だったかもしれないのである」(『日本文学の歴史』⑮・一九九六・九)と述べて、三島が『暁の寺』において〈仏教の部分〉を重要視していること注目することはなかったはずである。確かに〈仏教の部分〉はその追求の仕方に異常すら覚える。この〈仏教を論じたこの部分こそ〉当時の三島由紀夫の精神状況の反映がある。「唯識」思想は潜在意識=深層心理を考えるフロイトなどの精神分析学の登場によって、にわかに脚光浴びるようになった。もちろん精神分析学が設定する分析装置よりも徹底しているものの、「唯識」思想の阿頼耶識が精神的治療に活用されている深層心理、無意識の問題を含んでいることから、現代の心理学者も関心を持っていることに留意する必要がある。

従って、阿頼耶識という深層心理、無意識への関心こそ、この当時の三島由紀夫がいかに精神的均衡を図らざるを得なかったかが窺い知れるということである。そしてまた、副交感神経的様式への親近は当時の三島が交感神経を高ぶらせていたことの逆証明にもなるということである。交感神経的様式が優勢である西洋文化を身をもって示しながら、副交感神経的様式が優勢である東洋文化へ接近を図っていたのである。

    三 政治活動の意味

ところで、「交感神経」と「副交感神経」という言葉は心身医学用語である。人の身体の各器官をコントロールしている自律神経は「交感神経」と「副交感神経」とに分けられるが、「交感神経」は緊張をもたらし、「副交感神経」は弛緩をもたらす働きがある。この両者がバランスよく機能し合っていれば、毎日を快適に過ごしことができる。しかしそれが何らかの事情で、一方だけが働き続けるようなことがあると、やがて自律神経失調症を招くことになる。身体の内外の刺激や環境の変化に敏感に反応するのがこの自律神経である。当時の三島由紀夫は、常に崖っぷち立たされているようなもので、副交感神経に比べて交感神経が際立って働き続けていたといってよい。そのような不安な状態で将来のことを考えるということを繰り返えせば、将来に対する思考は不安感と結合する。物事の一つの面を取る癖が一旦できあがると、どんなものでも、その面でしか捉えられないように自動化、つまり習慣化してしまうのである。「暁の寺」における破滅意識は本多の認識の反映であるとするならば、それは三島の自動化、習慣化された不安感の投影と言い換えることができる。ナチス・ドイツについて、「本来芸術に求めるべきものを、芸術では満足せず実際行為の世界に移し、生の不安を社会の不安に投影し、死との接触により生の確かめを無理やり作り出し、戦闘的行為によつて、それを証ししようとした」(「若きサムライのための精神講話」)としたと述べていることに興味を持つのは、作品との関係で生じる〈生の不安〉の処理の方法が〈社会〉に向かい、みずからの〈死〉と結び付くという、あたかも三島自身の作家工房を見せつけられた思いがすることである。

 そのような交感神経を刺激する不安な状態、つまり人間存在の不如意がますます「作品外の現実」、つまり政治活動にのめり込む契機になったであろうことは想像に難くない。というのは、「太陽と鉄」(講談社、昭和四十三年一〇月)に次のような記述があるからである。

 政治活動の第一歩である昭和四十二年五月初めての自衛隊体験で、落下傘の操縦訓練の際の「私の自意識から解き放たれてゐた」ことに始まり、訓練をすべて終えた夕方、一人で風呂に行き、宿舎に帰る途上のこと、「精神の絶対の閑暇あり、肉の至上の浄福があつた。(中略)私は正に存在してゐた!/この世界は、天使的な観念の純粋要素で組み立てられ、夾雑物は一時彼方へ追ひやられ、夏のほてつた肌が水浴の水に感じるやうな、世界と解け合つた無辺際のよろこびに溢れてゐた」と感じ、いかなる〈自意識〉からも無縁に、ただ今ここにある喜びに満たされる。それから十カ月後、富士学校での学生たちとの第一回の自衛隊体験では「肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だつた」(「同右」)とあるように、〈集団〉による〈同苦〉によって〈個性の液化〉され、〈神聖が垣間見られる〉ことを求めたことは、三島由紀夫の〈自意識〉の解放の問題を探るうえで重要な意味を持っていると言わなければならない。

   私一人では筋肉と言葉へ還元されざるをえない或るものが、集団の力によつてつなぎ止められ、二度と戻つてくることのできない彼方へ、私を連れ去つてくれることを夢見てゐた。それはおそらく私が「他」を恃んだはじめであつた。

 これもまた「太陽と鉄」の文章からであるが、自衛隊の体験によって得られる〈他〉という概念こそが〈自意識から解き放たれ〉る働きを果たしているのがわかる。「心臓のざわめきは集団に通ひ合ひ、迅速な脈搏は頒たれてゐた。自意識はもはや、遠い都市の幻影のように遠くあつた。私は彼らに属し、彼らは私に属し、疑いやうのない『われら』を形成してゐた」(同右)という心境は、思えば昭和三十一年の地元の夏祭りで神輿の担ぎ人の一員として参加し味わった陶酔と質を同じくしているといってよい。〈集団〉のもつ力を改めて思い起こす気持ちであっただろう。〈集団〉の一員となったことで、かえってあれほど苛んでいた〈自意識〉を〈遠い都市の幻影のやうに遠く〉に感じることができたのである。

 「実感的スポーツ論」(『読売新聞』夕刊、昭和三九年十月五、六、九、十,十二日)で、剣道の際に挙げる叫びを、私一個を突き抜けて得えられる〈喜び〉として、「渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには『現象』が飛びすぎ、こちらには『本質』が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと一体化することの最も危険な喜びを感じずにはゐられない」と述べている。これは初めての自衛隊体験で得た〈よろこび〉と同質のものである。そして、少年時代、あれほど嫌悪していたのにもかかわらず、いまやその叫びが好きになったのはなぜだろうと自問しながら、「思ふに、それは私が自分の精神の奥底にある『日本』の叫びを、自らみとめ、自らゆるすやうになつたからだと思はれる」と述べていることは、精神の〈奥底〉=〈本質〉の叫びが自己という殻を破り、「日本」という集合意識に到達する瞬間に発せられることを言い止めている。

   この叫びには近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。(中略)それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐたるところの、民族の深層意識の叫びである。このような怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰えて呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。(「実感的スポーツ論」)

と述べ、この〈深層意識〉は「日本」という集合意識の言い換えであるが、〈深層意識の叫び〉であるがゆえに、三島一個人を越えたものの〈唯一の解放〉につながることをいわんとしている。この巧みな比喩によって浮かび上がってくるのは三島由紀夫という個人の滅却である。三島にとって〈集団〉が意味あるものになり、「日本」という集合意識の存在を知ったことは、自己を越えて、他者も自分と同じ存在とみなす共同存在性が育つという「自己探求」の過程を示している。そしてこのことは、「楯の会」に傾注していく契機となり、結果的には日本回帰、天皇制への傾斜を招き寄せる素地となったと言っても過言ではない。

   かくて集団は、私には、何ものかへの橋、そこを渡れば戻る由もない一つの橋と思はれたのだ。(「太陽と鉄」)

 この〈一つの橋〉とはもちろん〈自意識〉とは対極にあるものであり、いわば脱自の感覚そのものである。これは近代的な自我意識を否定しようとしていることと同義である。三島の〈神聖〉的なもの、超越的なものへの志向はこの脱自の感覚とはおよそ懸隔を生じるものではないといえよう。

 このように、集団の意味の覚醒と〈奥底〉=〈深層意識の叫び〉の自覚という問題がくしくも「唯識」の深層心理的側面とも重なり合う部分を持っていることに注目しなければならない。なぜなら、自我意識のすべてを含む第七識である「末那識」を立て、さらにその奥に、究極の識、無我の流れとしての「阿頼耶識」を設定する「唯識」がまさしく自我の存在を否定する思想体系であるからである。この無我の「唯識」思想の理解と相俟って、三島の内部では超自我の必要性が否が応にも高められたとみてよい。昭和四十二年に中村光夫との対談(『人間と文学』昭和四十二年刊)で、三島は「自我固執」が「何か守る」という形の「不自然な倫理観」を「日本の近代文学全体」に与えたと批判していることからもわかるように、三島の内なる「自我」との対決のためにこの「唯識」思想を作品に取り入れたといえる。つまり、このまま自我の殻に閉じこもり、自意識だけを過剰に増殖さて行けばいずれ近代的な自我意識は根を上げて崩壊してしまうであろう。これは自意識の極限を生きた三島であればこそ、気付くことのできた自我の崩壊の未来像であり、切羽詰まった超自我への希求であったのである。

 いずれにせよ、交感神経をなだめる役目をしたものは「葉隠」や「唯識」思想ばかりではなく、このような外部への発散もまた自意識からの解放に大きく働いたということである。「唯識」思想によって自我の矮小化を知り、政治活動によって超自我の必要性を理解したことは疑いようのないことである。

   四 初期構想の急変の謎

このように三島由紀夫の晩年を見たとき、

しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

(「小説とは何か」)

と述べていることは意味深いことである。この〈しかし〉以後の言葉は、「春の雪」「奔馬」の執筆時においては「過度に高まつた」(「同右」)とはいえ、適度に保たれていた作品内外という〈二種の現実の対立・緊張の関係〉が「暁の寺」執筆中に失われ、〈作品外の現実〉が霧散してしまった無念さを意味している。「暁の寺」執筆の〈一年八ヶ月〉を年譜で見てみてもわかるように、昭和四十四年八月には三島の怒りを買い、『論争ジャーナル』の中辻、万代らの数名の会員が「楯の会」を脱退し、さらには最も信頼していた学生部長の持丸までも脱会するという経験や、一〇月には国際反戦デーで、「十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正をまちこがれて自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外された(略) 日だつた」(「檄」)という痛切な経験を味わっている。これらの経験が「作品世界」と張り合う形で拮抗していた〈作品外の現実〉を〈紙屑〉化してしまったと思われる。いうなれば〈作品外の現実〉の失望と見合う言葉である。

思えらく、何もかも三島の私費でまかなわれていた私兵集団「楯の会」が昭和初期に「死のう、死のう」と叫んで切腹をした宗教団体と類似しているのは故なしとはしない。他者が介在しない、閉鎖的な集団が辿る道筋は決まって現実と遊離し、先鋭化し、死を前提にする過激な行動で終焉を迎えるからである。祖国防衛構想の破綻に始まり、会員の離脱、少数派による行動へと向かい、果ては切腹による自決は、「楯の会」が「奔馬」で描かれた勲の軌跡と追うことになる。それは三島が現実のほうを強引に「奔馬」に引き寄せたともいえる。自らの言葉で通じる範囲の集団に狭められた「楯の会」はおのずから三島の自意識内の集団にならざるを得ない。このように「楯の会」が虚構化していったとき、まったき意味の文武両道もまた虚構化の道を突き進んでいったと思われる。「楯の会」という集団そのものが生の不如意の問題になっていったのである。「盾の会」の結束の強化を取ったとしてもどうしようもないことであり、それほど当時の三島由紀夫は精神的に追い詰められていた。それはそのとき、本人が意識していなかったとしても文武両道の名のもとで量られていた精神の均衡は崩壊していくことになる。精神の解放であった政治活動が皮肉なことに精神の抑圧になってきたのである。

この時点から、とどのつまり「作品外の現実」であった政治活動もまた人間存在の不如意の一つとして襲ってきて、どちらに行くにしても八方塞がりの状態となったことは明らかである。そのような作品内外の不如意さからくる認識や自意識の問題がまず『暁の寺』に現れ、「天人五衰」に大きい影を落とすことになった。「暁の寺」ではあるが、松本徹氏が三島「自らの認識者としての在り方を極端に肥大化させ、この世界を覆いつくさずにはおれないのである」(『三島由紀夫の最期』文芸春秋・平成十二年十一月二十五日)と指摘していることに同感するのにやぶさかではない。つまり、第三巻「暁の寺」では認識の呪縛、第四巻「天人五衰」では自意識の地獄が前面に押し出されてくることになったと考えられる。「暁の寺」も「天人五衰」も初期構想を変更してでも、本多繁邦を通してどうしても引き剥がすことのできない当時の三島由紀夫自身の精神状況を書かざるをえなかった作品だったといえる。「暁の寺」脱稿後に不快感を吐露した三島が長期連載『豊饒の海』で唯一二カ月の休みを入れて書き始めた「天人五衰」ではその主人公透が本多と同じ認識者として登場し、認識者の世界がさらに徹底化されていることは無理のないことである。

このような身体の世界と心の世界の軋轢を意識的、あるいは無意識に『豊饒の海』という作品に投げ入れていることは明らかである。

 

(その2に続く)

 

 

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三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方― その2

2000年12月01日 10時45分17秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日(その2)

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究 」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

            永田満徳

 

第三章 『豊饒の海』の作品世界

一 「春の雪」論―感情とその行方、及び「奔馬」論―行為とその行方

さて、『豊饒の海』は、

清顕が時代を動かさなかつたやうに、本多も時代を動かさなかつた。そのむかし感情の戦場に死んだ清顕の時代と事かはり、ふたたび青年が本当の行為の戦場に死ぬべき時代が迫つていた。その魁が勲の死だつた。すなはち転生した二人の若者は、それぞれ対蹠的な戦場で、対蹠的な戦士を遂げたのだつた。

この本多の述懐は、『豊饒の海』第三巻の「暁の寺」が三島の分身である本多の認識の世界のこととして語られることからこの作品を見取り図として考慮すべきである。第一巻「春の雪」は清顕の感情の戦場を、第二巻「奔馬」は行為の戦場を描いた作品だといえる。さらに同じく戦場と名付けるならば、第三巻「暁の寺」は本多の認識の戦場、第四巻「天人五衰」は透の自意識の戦場とする、各戦場の格闘とその行方をそれぞれ描いているものと思われる。

     ① 清顕の情熱と勲の熱意

第一巻「春の海」・第二巻「奔馬」では主人公の性格付けに特徴がある。第一巻の松枝清顕と第二巻の飯沼勲は、三島の自注自解にあるように、何よりも〈絶対的一回性〉を送るために、死への志向を持つ青年として造型されている。両者の物語において、清顕は無意志の青年と規定されているのに対して、勲は「神風連の純粋に学べ」というスローガンを掲げる意志を持った青年と規定されている。この規定にこそ、第一巻は「たおやめぶり」、第二巻は「ますらおぶり」という初期における最も基本的な構想の意図が込められている。三島は絶頂のうちに二十歳で夭逝する転生者の物語という共通項のなかで、全く性格の違う主人公の軌跡を描き分けることに作家的力量のすべてを賭けたと言っても言い過ぎではない。その意味では、『豊饒の海』は三島の構想力を遺憾なく発揮した作品であるといえる。

「春の雪」の構想という面で、主人公清顕という性格に注意すべきであるということすでに先田進氏が指摘している。富と権勢をほしいままにする新興貴族である松枝侯爵家の嫡子清顕は「自分にとつてただ一つ真実だと思はれるもの、とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない『感情』のためだけに生きること」を宣言して憚らない。そのような清顕でありながら、その「感情」の底に「何か決定的なもの」を期待する心象を持つ人物として描かれている。漠然と求めている「何か決定的なもの」は聡子と洞院宮典王殿下との間の《勅許》による婚約成立によって実現する。構想の側からすれば、《勅許》という禁忌の成立ゆえに彼の感情が噴出するのではなく、むしろ彼の感情が噴出するために、禁忌の成立が必要であったといえよう。その《勅許》に至るまでの、聡子との恋の駆け引きのさまは、清顕の一方的な思い込みで、被害意識とみまごうほどである。その感情の絶え間ない感情の起伏こそが、絶対の不可能への挑戦の基盤をなしている。本多が聡子との関係に逡巡している清顕に対して決意を促すように、「行為の戦場と同じやうに、やはり若い者が、その感情の戦場で戦死してゆくのだと思ふ。それがおそらく、貴様をその代表とする、われわれの時代の運命なんだ」といみじくも言ったのも故なしとしない。清顕は感情の戦場で戦死することで、大正時代の若者を代表することになるからである。

何が清顕に歓喜をもたらしたかと云へば、それは不可能といふ観念だつた。絶対の不可能。聡子と自分との間の糸は、琴の糸が鋭い刃物で絶たれたやうに、この勅許といふきらめく刃で、断弦の迸る叫びと共に切られてしまつた。彼が少年時代から久しい間、優柔不断のくりかへしのうちにひそかに夢み、ひそかに待ち望んでゐた事態はこれだつたのだ。(中略)絶対の不可能。これこそ清顕自身が、屈折をきはめた感情にひたすら忠実であることによつて、自ら招き寄せた事態だった。

磯田光一氏は《勅許》を受けるという「障壁」によって、「情念純化」を生き抜く物語としてこの作品をとらえている。田阪昂氏は情熱が不可能の追求であるという、かなり自己流のバタイユの把握を踏まえて、「絶対不可能な事態に立ち至ったとき清顕は、『今こそ僕は聡子に恋している』と内心の叫びをあげ、生まれて初めての至純の愛の情熱をいだくわけである」と述べている。「至高の禁」を犯すほどの突出した情熱にこそ、清顕の不可解な行為の本意を読み取るべきである。「不可能」は絶対であろうがなかろうが、一つの制限、あるいは一つ障壁である。《勅許》というのは一つの制限であり、障壁である以上、行動の選択を狭める以外に行動することはできない。しかし、〈屈折をきはめた感情〉であればこそ、その障壁に隔てられれば隔てられるほど純化し、瞬発力を溜めるのは当然の成り行きである。優柔不断な性格の持ち主という設定自体は、《勅許》という障壁の出現によって劇的に興隆する感情を浮き彫りにさせる効果がある。ここで初めて、「僕はなかなかはじめないが、一旦はじめたら、途中でやめるやうな男ぢやない」という科白は暴発とも言うべき感情の急変の伏線になっていたことがわかる。

「奔馬」の場合は、飯沼勲の性格は見る者の立場になった本多繁邦の視点を通して描かれる。例えば、初対面のときの目に注目して、「正面を睨んで、外界の何ものも受けつけない」ものを感じ、「『人生について、まだ何も知らない人間の顔だ』」と思い、「『降り積つたばかりの雪が、やがて溶けもし汚れもしようということが信じられないでゐるときの顔だ』」と見たように、あまりにも自分の世界を強固に保ち過ぎることへの警戒感を持ち、純粋無垢の危険さを察知している。本多の認識の正しさは、憂国の至情から昭和の神風連を決行する直前に逮捕された新聞の顔写真を見て、「決して家常茶飯に融け合わない、非日常的に澄んだその光りに深い印象を受けた目はそのまま残っている。つねに眥を決しているという感じのあの目は、正にこの日を目ざしていたのだ」という感慨を持つことによって証明される。そのような勲の姿勢で最も印象に残るのは、決起の際最も頼みとする洞院宮から尋ねられて、

はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、陛下が御空腹ではなく、すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いもの喰へるか』と仰言つて、こちらの顔に握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上がつて、直ちに退つてありがたく腹を切らねばなりません。なぜなら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりましようか。飯はやがて腐るに決まつています。これも忠義ではありましようが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

と答えているところである。ここには〈忠義〉そのものよりも事の成就如何にも関わらず、〈死〉あるのみとして、死への熱意が突出していることに特色があるといわなければならない。

純粋といふ観念は勲から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。勲はスローガンを拵えた。「神風連の純粋に学べ」といふ仲間うちのスローガンを。

純粋とは、花のような観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念。あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。

「純粋」にしても、「全生命を賭けてでも、自己に燃焼し尽くしたいというそのこと自体」に他ならないと捉え、目的達成を目指す熱意そのものに生甲斐を感じる勲像を提出している。「神風連史話」にしても、勲に宛てた手紙の中で、本多は「物語の危険は矛盾の除去であり、この山尾綱紀という著者も、書かれた限りの史実には忠実でせうが、こんな薄い小冊子の内容の統一のためには、多くの矛盾を除去したにちがひありません。」(九)と述べているように、「神風連史話」は、『神風連血涙史』他の先行文献に依拠しながら多くの情報を切り捨て、また独自の記述を付加する操作によって組み立てられたものであった。その求心的な構成は、「神風連史話」を類書から質的に隔てる特徴となっている。「神風連史話」は、いわば「純化された物語」とでも言うべき性格を備えた書物なのである。「神風連史話」における神風連について、山口直孝氏は「強度の現世否定の理念と実効性の希薄な行動様式とを併せ持つ集団として表象されている」(「『奔馬』の構造―『神風連史話』の解体と再生―」『昭和文学研究』平成八・二)と述べているように、成算を度外しした、死への熱意そのものが主題となっていると見てよい。

そのような「神風連史話」に心酔する彼だからこそ、挫折という現実すら、「現実が一つ崩れたあとも、すぐ別の現実が結晶しはじめて、新たな秩序を作りだすという観念に、いつのまにか馴れはじめてゐる自分に気づゐた。その新らしい結晶からは中尉はすでに弾き出されてゐた。そしてその威丈高な軍服姿は、出口も入口もない透明な結晶体のまはりをうろうろしてゐた。勲はもう一つ高度の純粋へ、もう一つ確実性の高い悲劇へ辿りつゐたのだ」というふうに、矛盾の除去に働くのは当然のことである。「純粋」という観念はその除去の方便として機能するのである。彼は外部によって自己変革するような人物ではない。つまり、自己閉塞状況を打開する意志はまったくなく、自己本位の役割を演じ続ける。従って、処々に描かれる右翼・軍部・社会の状況は本質的に重要な事柄ではないのであって、勲の弧絶さが強調されはすれ、決して物語に決定的な影響を与えるものではない。

このように、清顕の死への情熱は〈何か〉を媒介とするものであるのに対して、勲の死への熱意は最初から明確に存在するものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」を持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。〈何か〉という漠然とした期待が明確な意志へと変わるところに第一巻と第二巻においる最大の違いがあり、通低しているには主人公の意志の問題である。ともあれ、清顕と勲はともに〈椿事〉を待望する少年の系譜に添う人物であり、その人物たちの集大成的な役割を担わされているといえよう。清顕の「情熱」や勲の「熱意」は、大正時代であったからこそ可能になったともいえよう。戦前の社会の大きな特徴である天皇という絶対者の存在を抜きにしては成り立たないからである。

     ② 「血まみれ」と「血みどろ」

ところで、清顕の「優雅」や勲の「純粋」の実質については近年疑義を挟む論が多く出されていて、むしろ清顕における聡子の「優雅」の模倣性、勲における「神風連史話」の「純粋」の模倣性が問題にされてきている。清顕の「優雅」も勲の「純粋」も彼らの内部から発し、彼らの行動を方向付けているように思われる観念は外部で提示されたものを学んで得たに過ぎない。「優雅」や「純粋」が完全に先験的に与えられたものでないことは、清顕や勲自身によって絶えずわが身が疑われていることからもわかる。それでは、彼らの内部から発せられるものは何かといえば、清顕においては「情熱」、勲においては「熱意」とか呼ばれるもので、それはいずれも利害打算を抜きにしたファナテックで、身体的活動そのものである。

そういう意味で言えば、「春の雪」においては、蓼科の存在は無視できない。聡子の乳母である蓼科は狂言回し的な存在で、清顕と聡子の間に介在し、二人の行く末に重大な影響を及ぼしていることは明らかである。

蓼科はいつのまにか、一つの説明しがたい快さの虜になつてゐた。自分の手引で、若い美しい二人を逢はせてやることが、そして彼らの望みのない恋の燃え募るさまを眺めてゐることが、蓼科にはしらずしらずどんな危瞼と引きかヘにしてもよい痛烈な快さになつてゐた(中略)

実際蓼科の役目は聡子を悪から護るためにあつた筈だが、燃えてゐるものは悪ではない、歌になるものは悪ではない、といふ訓へは綾倉家の傳承する遠い優雅のなかにほのめかされてゐたのではなかつたか?

蓼科の独自性は、〈若い美しい二人〉の運命を弄ぶことに喜びを得ようとすることにあるのでなく、人間世界の「情熱の法則」に通じ、情熱の政治的力学を知り尽くしているという自負を持っていることである。清顯に優雅の典型と思われている聡子にとって優雅の指南役は蓼科であったことを忘れてはならない。優雅のいろはに長けている彼女が、一見世俗のすべてから遊離しているかのような「優雅」の裏にある「血まみれなもの」を知悉している「血まみれなものの専門家」であることは強調してもしすぎることはない。「血まみれなもの」の源流であり、「暗い熱い血と肉にひしと包まれた形而上的な何か」である無言語的領域の子供を宿した聡子は既に蓼科の世界の住人である。つまり、蓼科は優雅のなかにある身体の世界に通暁している無言語領域の人物なのである。

そのような蓼科によって引導を渡された清顯が、密会を通して、「かねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めてゐる」ことを知ることになるのは時間の問題であった。清顕の情熱の噴出はいわばこの身体の世界の住人である蓼科の導きによって行われたという他はない。

一方、「奔馬」においては、禊の錬成会を飛び出した勲の行動を「素盞鳴尊」に比され、「荒ぶる魂」だと慨嘆される場面からいって、飯沼勲自身身体の世界に親しんでいることはまちがいない。「奔馬」がこうした身体の世界「荒魂」を描こうとした作品だと言っても過言ではない。

「どうして帰らんのだ。これだけ言はれても、まだわからんのか。」

と勲は叫んだが、これに応ずる声は一つもなく、しかも今度の沈黙はさつきのとは明らかにちがつて、何かの闇の中から温かい大きな獣が身を起こしたやうな感じのする沈黙だつた。勲はその沈黙に、はじめてはつきりした手応へを感じた。それは熱く、獣臭く、血に充ち、脈打つてゐた。

死を賭した決起に参加するかどうかを試す最も重要な場面であるだけに、参加の反応を〈獣〉と比喩し、〈熱く、獣臭く、血に充ち、脈打っていた〉という「獣」的イメージで表現していることは、「奔馬」の世界が身体的世界であり、無言語の領域でることを物語っている。本多が「暁の寺」において、「民族のもつとも純粋な要素は必ず血の匂ひがし、野蛮な影がさしてゐる」と回想している場面は、飯沼勲が体現している身体の世界・無言語領域を的確につかんでいたと言わなければならない。従って、勲の考える「純粋」は「匂やかな桜の花」の観念と「血みどろの屍体」、「切腹の観念」とを直結させたものであるが、これは清顕が「優雅」の観念を「血みどろの実質」と見るのとはまったく同質のものといえよう。この結び付きようのない対蹠的な観念をみごとに結び付けることのできるキーワードは身体の世界・無言語領域以外にはない。

    ③ 「源流」意識

三島由紀夫は、神風連の事績を、

神風連といふものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離といふのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神といふもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだつたと思ふのです。

(「対談=日本人論」・番町書房・昭和41・10)

と述べ、手段と目的とが一致する希有な運動であるとして、

三島 〈中略〉絶対者に到達することを夢見て、夢見て、夢見るけれども、それはロマンティークでもあつて、そこに到達できない。その到達不可能なものが芸術であり、到達可能なものが行動であるといふふうに考へると、ちやんと文武両道にまとまるんです。到達可能なものは、先にあなたのおつしやつたやうに死ですよね。それしかないんです。だけど芸術の場合は、死が最高理念ぢやないんですよ。芸術といふのは、もうとにかく生きて、生きて、生き延びなければ完成もしないし、洗練もしない。だけど行動となると、十八歳で死んだつてよいんだからね。そこで完成しちやふ。ぼくは、ただ為すこともなく生きて、そしてトシを取つていくといふことは、もう苦痛そのもので、体が引き裂かれるやうに思へるんです。だから、ここらで決意を固めることが、芸術家である生きがひなんだと思ふやうになつたんです。

(「三島由紀夫 最後の言葉」前掲書)

と行動と芸術の違いが述べられてはいるものの、政治的というより芸術的なものといっていることに注意しなければならない。手段と目的が乖離しなければ、その分、行動はしやすくなる。「奔馬」は勲を通して、そのことを示すことになる。「ファナティックな日本精神の純粋実験」という言葉は、「神風連史話」と勲の関係からしても、「奔馬」作品そのものが「ファナティックな日本精神の純粋実験」を試みたものであるといえよう。

 この「ファナティック」なものへの嗜好は、

三島 どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きで仕様がない、うんとファナティックな、蒙昧主義的な、そういふものがとても好きなんです。それがぼくの中のディオニソスなんです。ぼくのディオニソスは、神風連につながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいふべき破壊衝動につながつてゐるんです。

「いまにわかります」(『図書新聞』昭和四十五年十一月十八日)

とあるように、根深いものであり、『豊饒の海』の主人公はもとより、ほとんどの登場人物が〈破滅衝動〉に突き動かされるのも無理のないことである。

三島 昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(新潮)連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんなあすこにあります。

三島 (中略)それに源流をたどる気持は、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。二・二十六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。

(『毎日新聞』昭和四十二年十月二十一日)

この「源流」意識と密接に関わっているのである。身体の世界といい、その世界の無言語領域というのはまさに「源流」意識そのものであるからである。

    ④ 現世離脱

 「春の雪」の「何か」を待ち望む心象は、何の変哲もない日常への脱出願望であることは論を待たない。無意志・無感動の清顕の性格付けはこの願望の対比として設定されたものと思われる。こうした志向は、現実的な規範、制約から遁れることで、初めて獲得しうる至福の世界を希求してやまない。そこでは、一切の行為が、それを規定する現実世界、社会制度等による汚れを蒙ることなく、もっとも純粋な結晶となりうるからである。死を賭しての至福世界への到達といったところで、それは、そもそも徹底した現実忌避によってのみ辛うじて支えられるという性質のものにすぎない。

このように、現実からの離脱のみが強調され、その結果その離脱の過程そのものがこの小説のストーリーとなるのである。

柴田勝二氏がすでに述べていることだが、

清顕は聡子との関係を深めることによって、さらに彼岸的な場所に自己を追いやっていくことになる。その時にこの作品は世俗からの離反の物語としての姿を現すことになるのである。(中略)もともと聡子は優雅という価値を媒介させて天皇の彼岸性へとつながっていく人間であったが、さらに現実世界に域外へ自己を追いやっていくのである。(「優雅の行方―三島由紀夫『春の雪』論―」『日本文学』平成一〇・九)

「彼岸」への志向こそ、初期構想で三島が語っている「ニルヴァーナ(涅槃)」を示している。「春の雪」における「ニルヴァーナ(涅槃)」は、時には〈情熱〉に点火しうる「感情」という「とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない」無言語の世界を通して達成されたものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。

『豊饒の海』の勲が身体の世界の住人であることは、

勲はそこに、この薄暗い電燈の下、黴くさひ畳の上に、自分の焔の確証を見た。頽れかけた花の、花弁は悉く腐れ落ちて、したたかな蕊だけが束になつて光りを放つてゐる。この鋭い蕊だけでも、青空の眼を突き刺すことができるのだ。夢が痩せるほど頑なに身を倚せ合つて、理智がつけ込む隙もないほどの固い殺戮の玉髄になつたのだ。

とあるように、反理智の立場に立っていることからも窺える。かつて寺田寅彦が「頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからであるけがを恐れる人は大工にはなれない。失敗を怖がる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がいい人は戦士にはなりにくい。」(「鉄塔」・昭8)と述べた文章を持ち出すまでもなく、本多のように理智的であればあれば行動の障害になるからである。

飯沼勲の世界がまさしく手段を弄せず、ファナティックに、そして動物的に行動をする無言語の世界であったからこそ、

社を背にして立つ勲のまはりに、二十人の若者が集まつた。勲はそれらの無言の目が、等しく夕日を受けて燃え立つて、身も心も天外へ拉し去つてくれる灼熱した力を翹望して、自分につかみかかろうとしてゐるのを感じた。p211

とあるように、決起の仲間に〈無言の目〉で見守られながら〈身も心も天外へ拉し去つてくれる灼熱した力を翹望〉することができるのである。〈身も心も天外へ拉し去つてくれる〉への〈翹望〉は、公判の最後の陳述において、「一身の利害」を超えて、「身一つで天に昇ればとよい」と答えていることからも、いわゆる昇天願望がより強く打ち出されている。この身体的世界を通して達成される昇天願望こそ、三島が語っている「ニルヴァーナ(涅槃)」の問題と大きく関わるものである。いわば、川端康成の「ニルヴァーナ(涅槃)」が平面的であるのに対して、三島のそれは直線的であるのである。

このように、『豊饒の海』第一・第二巻は、理屈で割り切れぬ、内部から発するものに突き動かされる人間の内面劇として、きわめて輪郭の明らかな小説になっている。

   二 「春の雪」「奔馬」における「ニルヴァーナ(涅槃)」

それにしても、三島が語った「ニルヴァーナ(涅槃)」は一般に理解されていることとは違って、彼独特の「ニルヴァーナ(涅槃)」観であるように思われる。ここにニルヴァーナという言葉を使っている「谷崎潤一郎」論の次のような文章がある。

谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかつた。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があつたと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であつた。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。

この文章は谷崎を〈長寿〉型の作家として、その秘密を解き明かそうとしたものである。三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいる。谷崎の本質というものは谷崎の〈長寿〉が〈老い=死=ニルヴァナ〉という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いている。つまり、三島が谷崎を通してみた〈ニルヴァナ〉は、己の本分を尽くし、しかるべきところに落ち着いた先に到達されるものであるということである。従って、『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」とは、各巻の主人公が「劇的空間」を各人の性向のままに生き抜き、それがそのままニルヴァーナ(涅槃)であるということである。

このような「ニルヴァーナ(涅槃)」観を実際の『豊饒の海』に当てはめるとどうなるか。松枝清顕の場合は、落飾した聡子に「死を賭して」会おうとした結果、ついに病に倒れた折、

   清顕はすでに自分を、松枝家という岩乗な一族の指に刺さつた「優雅の棘」だとはさらさら考えなくなつてゐた。さりとて自分も亦、その岩乗な指の一本に他ならぬと、思い直したわけではない。彼がかつてわが内に信じた優雅は涸れ果て、魂は荒廃し、歌の原素となるやうな流麗な悲しみはどこにもなく、体内をただうつろな風が吹いてゐた。今ほど優雅からも遠く、美からさへ、遠く隔たつた自分を感じたことはなかつた。

しかし、自分が本当に美しいものになるとはそのやうなことだつたかもしれない。こんなに何も感じられず、陶酔もなく、目の前にはつきりと見えている苦悩さへ、よもや自分の苦悩とは信じられず、痛みさへ現の痛みとも思はれぬ。それは何よりも癩病人の症状と似通つていた、美しいものになるといふことは。

という境地に至る。この境地は感情に生起するすべての計らいを喪失した状態を示している。感情を唯一の手がかりにした清顯がそのとらえどころのない感情を放し飼いにし、本能のままに生きた証である。〈美しいものになるとは〉という言葉は感情の戦場でつかみ取った「ニルヴァーナ(涅槃)」ということになる。従って、「奔馬」の有名な最後の場面は、勲の行為の戦場で勝ち取った「ニルヴァーナ(涅槃)」の世界である。

勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突つ込んだ。

正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫変と昇つた。

飯沼勲の場合は、意のままに生き抜いた果てにつかんだ瞬間で、死と引き換えに幻視することができた〈日輪〉=「ニルヴァーナ(涅槃)」であったといえる。

 

(その3に続く)

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三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方― その3

2000年12月01日 10時45分00秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日(その3)

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

三島由紀夫『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

         永田満徳

 三 「暁の寺」論―認識とその行方

初めに

「奔馬」において、徐々に露呈してきた本多繁邦の見る者としての立場は飯沼勲の行動を絶えず相対化するものであった。この立場は相対化する思想として展開される「暁の寺」にそのまま引き継がれていくことになる。本多と転生者との乖離はこの時点より決定的になるのである。

「暁の寺」は二部構成である。一部は戦時中の出来事で、インド体験を詳述し、作品全体の均衡を欠くとの批判が出るほど輪廻転生を巡る記述がある。そのインド体験で特に重要なベナレスの「喜悦」は輪廻転生と深く繋がっている。ベナレスで感じた「つねに目前にくりかへされる自然の事象」である輪廻転生というのは、死が完全な終わりであることを意味せず、生の絶対的一回性を大きく相対化するものである。死が新しい生の誕生を促す区切りであるところに、ベナレスの「喜悦」は生じている。ここに三島が仏教の空観と相対主義を結びつける理由がある。絶対的一回主義の身体的世界から相対主義の心の世界への移行を示すのがベナレスの体験であり、第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」の導入の役割をはたすことになる。多くの仏教書を読みあさり、輪廻転生の根拠を唯識論に求める。「暁の寺」を『新潮』に連載中の昭和四十四年四月(「『豊饒の海』について」)の段階で、「世界解釈の小説」を書くことを宣言しているのは、この巻でこそ自己を含めたこの世界全体を現象させている究極的な識が阿頼耶識だとする唯識論に援用しながら、本多における「世界解釈」を披瀝しようと思ったからである。

ここにこそ、三島自身が、

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。

「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

といった真意がある。第三巻「暁の寺」における唯識論が『豊饒の海』四巻の要になっているだけに留まらず、身体の世界から心の世界への転換を示す重要さに触れていると見たい。

     ① 阿頼耶識の世界

本多の熱心な輪廻転生の研究によって未知であり、脅威であった輪廻転生は、「もつとも恐るべきことは、(あの転生の奇蹟も含めて)、すべての謎が法則に化してしまつた」ことによって、本多の認識の一部と化すのである。輪廻転生するのは阿頼耶識で、「一瞬もとどまらない『無我の流れ』としながらも、「すべての認識の根」であり、「阿頼耶識は、かくてこの世界、われわれの住む迷界を顕現させてゐる。すべての認識対象を包括し、かつ顕現させてゐる」という。つまり、迷界としてのこの世界は自己の認識が作り出したものである。本多繁邦は縷々として言葉を尽くして探索した結果、「この世界はすべて阿頼耶識なのであった」と結論づけるのである。

   現在のこの世界は、本多の認識が作った世界であったから、ジン・ジャンも共にここに住んでいた。唯識論に従えば、それは本多の阿頼耶識の創った世界だった。

ということであれば、『暁の寺』そのものが〈本多の阿頼耶識の創った世界〉であることになる。第一巻から第二巻に至る終始副主人公の役割であった本多がこの巻では主人公の座に躍り出たことを意味している。従って、このことは主人公の転調とは捉えず、清顕・勲・本多という流れにこそこの物語の一貫した意図を読み取ることができる。本多こそは、これまでの主人公に比べて、より現実に近い人物である。『豊饒の海』の最初の二巻は傑作ではあるが、三島色のあらわな、いかにも予定調和的で作り物めいている。しかし、『暁の寺』になってくると、我々の人生のように退屈で、何が出てくるかわからないほど混乱している。本多が心の世界、有言語領域の住人であるからである。

     ② 認識の世界―心の世界

   ……ここに思ひいたると、本多の目には、周囲の事物が今まで思ひもかけなかつた姿で眺められてきた。

 これは唯識論の「真の意味」を知り得たという直後の感慨であるが、その後の「暁の寺」二部の展開を見れば基本モチーフを示しているといわなければならない。昭和二十年、アメリカ軍の空襲を受けて焼け野原になった渋谷の情景に対して、本多の心はこの「焼跡」さえも「顕現」させ、「破壊者」は自分自身であったと気づくのである。この阿頼耶識は本多の理解した阿頼耶識と言ってもいいのだが、それだけに特異な認識で、「日ごと月ごとにますます破滅の色の深める世界を受け入れる」ことにしても、「刹那刹那の確実で法則な全的滅却をしっかり心に保持して、なお不確実な未来の滅びに備える」ことにしても、「一瞬一瞬の生滅」という阿頼耶識の生成面よりも破滅面を強調するのである。この作品の劇的な幕切れとなった本多の別荘炎上こそは、

  焔、これを映す水、焼ける亡骸、

   ……それこそベナレスだつた。あの聖地で究極のものを見た本多が、どうしてその再現を夢見なかつた筈があらうか。

とあるように、本多繁邦の阿頼耶識による破滅の再現にほかならない。『暁の寺』の登場人物すべてが悪意のある人物であり、破滅型の人物であるのは故なしとしない。本多の阿頼耶識による破滅意識の投影だからである。

 このように、「暁の寺」は繰り返すまでもなく、 本多の認識の織りなす世界が描かれた作品である。第四巻「天人五衰」の門跡の「心々ですさかい」という、すべてを相対化する言葉は本多の『豊饒の海』で辿ってきた輪廻転生が本多の相対的な認識世界のことであったことをみごとに喝破してみせたことになる。

ところで、本多繁邦の認識の世界は清顕や勲まったく対照的で、徹頭徹尾理性、知性、理智の世界、つまり心の世界である。「たえず世界を要約していなくては不安な心、まだ記録されていない現実は執拗に認めまいとする頑なな心」をもつ「癖」があり、「一旦理知をとおすことなしには、決して外界に接しない性質」を持つかぎり、理智の世界から抜き出すことができないといってよい。ドイツ文学者の今西もまた、四十そこそこで独身であり、かつ想像の世界をもった人物として登場する。今西は、「石榴の国」と名付けた「性の千年王国」を夢見つづけている。「石榴の国」は、「この世のものならぬ美しい児」=「記憶に留められる者」と、「醜い不具者」=「記憶を留める者」の二種類の人間によって成立する。そして、美しい人間は、記憶に留められるために、若く美しいうちに、不具者によって殺されてしまうのである。この今西の想像の二項対立的な王国は、ほとんどそのまま本多の認識の雛型であり、『豊饒の海』のテクスト内における構造説明と言っても過言ではない。今西の造型はいささか戯画化されているが、本多の二項対立的な心の世界を明確化する役割が担わされている。その意味で、もし転生者が「心の流れ」によって引き継がれていくとすれば、心の世界の徹底化された自意識の持ち主透こそは、今西の生まれ変わりといっても過言ではない。

    ③ 認識の世界からの脱出

そのような本多の世界で、本多の「認識の目を免れしむる」ものが存在する。それはベナレスの体験とジン・ジャンの存在である。本多の認識の世界を此岸とすれば、この両者は彼岸あり、『暁の寺』はこの此岸と彼岸の対立のドラマであると言っても過言ではない。

 「ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった」と認識する本多にとって、

   自分の理智が、彼一人が懐ろに秘めた匕首の刃のやうに、この完全な織物を引き裂くのではないかと恐れた。/要はそれを捨てることだつた。少年時代から自分の役割と見做した理智の刃は、すでにいくたびかの転生の襲来によつて、刃こぼれのしたまま辛うじて保たれてゐたが、今はこの汗と病菌と埃と人ごみの中へ、人知れず捨てて行くほかはなつた

というほどの反理智の世界が〈ベナレス〉であった。〈汗と病菌と埃と人ごみ〉こそが本多がいまだかつて経験したこともない、本多の日常世界と隔絶した反理智の世界である。本多は自分の理智を捨てさえすれば〈ベナレス〉という彼岸の住人に成れることを知り過ぎるほど知っていた。しかし、その不可能性を知らしめたのは外ならぬジン・ジャンであった。

 ジン・ジャンの存在また、「彼の認識慾の彼方に位」するものであった。本多にとって、ジン・ジャンは「精力」信仰の対象であるヒンズー教のカーリー女神の変形であり、あるいは密教の孔雀明王と同一化される聖的女性である。そうであるがゆえに、

   ジン・ジャンを、決して手の届かぬ(そもそも彼の手の長さと認識の長さとは同じ寸法だつたから)、決して認識の届かぬところへ遠ざける作業だつた。

といった、本多の認識の及ばぬ存在として描かれざるを得えなった。そのような存在でありながら、五十八歳の本多を「生の放つ魅惑によつて」「誘惑」するのである。ジン・ジャンが「本多を不断の生へといざなふ」のは本多が認識の不毛の世界に生きてきたからである。しかし、そのようなジン・ジャンを、

   インドのあのやうな体験から、この世の果てを見てしまつたと感じた本多は、認識の爪が届かぬ領域へ獲物を遠ざけることによつて、日だまりに横たはり、樹脂のこびりついた毛を舐つてゐる、怠惰な獣の嗜慾をわがものにしようと思つたのである。

とあるように、認識とは対極にあり、認識の及ばぬ領域に存在するものとするのである。ジン・ジャンにしても、本多のそういうインド(ベナレス)の宗教体験と見合う形で形象化されているとみてよい。ここに、本多繁邦の痛ましいほどの理智の呪縛と反理智への希求の立場が窺える。

     ④ 認識の呪縛からの癒し

 それにしても、認識という理智の対極にインドの体験があるとすれば、インド(ベナレス)の体験は本多の精神世界にある作用を及ぼしたからにほかならない。それは、

   未知にむかつて噛みつき、すべてを既知の屍に化し、その死体置き場の領域へ組み入れてしまふという認識の恐ろしく退屈な病気を、インドがかつて一度癒してくれたのではなかつたか。

とあることからもわかるように、認識という〈病気〉の〈癒し〉である。本多は病んだ精神の〈癒し〉をインドの体験で学んだことをジン・ジャンに「恋」するという形で求めようとしたともいえる。「暁の寺」第二部がジン・ジャンに対する本多の恋慕の物語という体裁を取るのは無理のないことである。ここにこれまでと違った人物造形がある。創作ノートでは本多の子を生む展開を考えていたらしい。

 しかし、自分の性を知り抜いているがゆえに、「自分の肉の欲望が認識慾と全く平行し重なり合ふといふことは、実に耐え難い事態であつたから、その二つを引き離さぬことには、恋の生れる余地はないことを本多はよく知つてゐた」から、「本多の恋は、認識の爪のなるたけ届かない遠方へ、ますますジン・ジャンを遠ざけやうとする」のである。

ジン・ジャンを水晶の裡に保つことが自分の快楽の本質だと思はれたけれど、持つて生まれた究理慾とも袂を分つことができなかつた。

 ここにしてついに、認識家からはみ出すことができない本多繁邦にとって、ジン・ジャンは〈快楽〉のもつ〈癒し〉には到底なり得ないのである。ジン・ジャンは彼岸の存在であるがゆえに、「一種の光学的存在」であり、「肉体の虹」である。「永遠の不可知」な存在になって行くばかりである。ここに、本多は「エロティシズムの極致」を認め、そこに「死」を想定するのである。

   もし恋の赴くままに認識を否定し、認識から無限に遁れ出ようとし、ジン・ジャンを決して認識の及ばぬ領域へ連れ出そうとすれば、認識の側からの反抗は自殺に他ならない。

とまで考える。無言語領域である〈認識の及ばぬ領域〉への遁走は諸刀の剣であって、認識という〈病気〉の〈癒し〉という面と、認識の〈自殺〉という面とを併せ持っている。認識という〈病気〉の〈癒し〉を求めるならば〈自殺〉しか有り得ないことになる。とどのつまり、「暁の寺」ではさまざまな努力にもかかかわらず、本多繁邦はおのれの認識家としての枠から一歩も出ることなく終わることになる。認識という此岸の敗北は歴然としている。認識がある限り、彼岸へは達しえないと悟った本多にとって、認識の中心である自意識を徹底的に味わい尽くすことが課題になってくる。そして、「天人五衰」では有言語領域での彼岸の達成というものが主題となったと言わなければならない。

終わりに

 認識という猛獣の爪は伸びるばかりで、『山月記』の李徴の自尊心と同様に、その爪を扱いかねている。本多繁邦の認識家としての苦悩は深い。現代人が陥っている認識という心の呪縛をこれほど描き切った小説がありえたろうか。心の世界とその有言語領域の限界を描くことこそがまさしく三島が意図した「世界解釈の小説」であった。ジン・ジャンはもともと第一巻の清顕、第二巻の勲と同様に中心的人物となるところが、適当なモデルが見つからなったことによって、『暁の寺』がふくらみのない小説になったという指摘(松本徹・『三島由紀夫の最期」・文藝春秋・平成十二年十二月)は妥当だとしても、むしろ本多の認識の世界、つまり心の世界とその有言語領域がどういうものであるかを開示してみせたところに意義がある。

    四 「天人五衰」論―自意識とその行方

     初めに

「天人五衰」は「暁の寺」の本多の認識、つまり心の世界にさらに錨を下ろそうとした作品である。これは『豊饒の海』を書き続けてきた三島にとって、第一巻・第二巻の身体の世界の対比として必然的に書かざるを得なかった作品でもある。次の初期構想は『豊饒の海』の展開上の内的必然によって変更されたと見ることができる。

   本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

   この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思えば、この少年、この第一巻よりの少年はアラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。

   本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

「バルタザールの死」(「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

   あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るという小説なんです。

           (対談「三島由紀夫 最後の言葉」昭和四十五・十一・十八)

しかしながら、この「天人五衰」の構想に関するコメントにはある共通する語感が含まれている。前者は〈解達〉であり、後者は〈ニルヴァーナ〉であって、ともに仏教思想に淵源する概念である。三島由紀夫はあきらかに登場人物のいずれにも仏教的な世界に昇華する役割を担わせていると言っても過言ではない。

     ① 〈自意識〉の構造

 「天人五衰」はたしかに他の巻と比べて作品としての破綻を指摘することが多いが、しかしこの登場人物の昇天のドラマという構想は無視することはできず、試みが半ば成功し、半ば不成功に終わったことを登場人物の〈自意識〉を手がかりに辿ってみたい。

 〈自意識〉に注目する所以は、登場人物のすべてが〈自意識〉のもたらす悲喜劇に翻弄され、〈自意識〉を、本巻の思想的背景として全編に散りばめられた仏教思想、なかんづく〈唯識論〉と密接にかかわらせているからである。三島によれば、〈唯識論〉では「識」というものを八つの層に区分する。最初の五つは眼・耳・鼻・舌・肌のいわゆる五感である。第六の「意識」は、それらを統合する身体感覚であり、第七の末那識はそれらすべてを実態であるかのごとくに錯覚させる、それ事態は虚妄にすぎぬ〈自意識〉である。「天人五衰」は究極的には同じ本多家の住人になることになる本多繁邦・秀・絹江の三者の物語ということになろう。この三者に共通するものこそ、強烈な〈自意識〉である。例えば、本多と秀の場合、

   本多と少年の目が会つた。そのとき本多は少年の裡に、自分と全く同じ機構の歯車が、同じ冷ややかな微動を以て、正確無比に同じ速度で廻つてゐるのを直感した。どんな小さな部品にいたるまで本多と相似形で、雲一つない虚空へ向つて放たれたやうな、その機構の完全な目的の欠如まで同じであつた。

とあるように、それはまたまさしく「本多の自意識の雛形」であると言ってよい。最初に出会った瞬間、すでに本多と透の両者には〈自意識〉を介在させたところで〈相似形〉をなしていた。この本多と透との〈自意識〉の〈相似〉はむろんのこと、

   彼は自分より五つの年上のこの醜い狂女に、同じ異類の同胞愛のやうなものを感じてゐた。

二人の硬い心、一方は狂気によつて保障され、一方は自意識によつて保障されてゐる

とあるように、透と絹江もまた〈同胞愛〉という共通項があり、狂気という〈自意識〉によって透と関わりを持つことになる。しかし、この三者の関係を〈自意識〉によって括るとしても、その〈自意識〉の質には微妙な違いがある。透と絹江は若さの〈自意識〉とでも言えるものであって、本多は老いの〈自意識〉とでも言うべきものである。また、絹江は狂気の働きで〈自意識〉を逆手にとることによってその無傷性を保持している。それに対して、本多と透は、

   この少年こそ純粋な悪だつた!その理由は簡単だつた。この少年の内面は能ふかぎり本多に似てゐたからである。(中略)その生涯を通じて、自意識こそは本多の悪だつた。この自意識は決して愛することを知らず、自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し、すばらしい悼辞を書くことで他人の死をたのしみ、世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びやうとしてきた。

とあるように、〈自意識〉の持つ〈悪〉に染まっている。透のその〈悪〉は若さゆえに、よく言えば純粋で、悪く言えば無自覚でさえあるが、本多のそれは、老年に至る人生の経験によって〈自意識〉の〈悪〉を十分認識しているだけに質が悪いと言える。そして、老いによる〈自意識〉の無残さは本多に象徴されていて、特に本多における老いの〈自意識〉の問題が章を追うごとに浮かび上がってくる仕組みになっている。

 このように、登場人物すべてに〈自意識〉による汚濁の痕跡が見受けられ、本巻の主眼が〈自意識〉の諸相を描くことに置かれ、本巻が〈自意識〉の物語と見まがうばかりである。

     ② 〈自意識〉からの脱出

 そもそも、この〈自意識〉は〈見る〉という行為と切り離せないもので、透ほど〈見る〉ことに執着している者はいない。

   眺めることの幸福は知つてゐた。天賦の目がそれを教えた。(中略)もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。/そこまで目を放つことこそ、透の幸福の根拠だつた。透にとつては、見ること以上の自己放棄はなかつた。自分を忘れさせてくれるのは目だけだつた。

   不可視のものを「見る」とはどういふことか?それこそ目の最終的な願望、見ることによるあらゆる否定の果ての目の自己否定なのだつた。

 これらの記述からもわかるように、〈認識〉が〈自意識〉と置き換えられるならば、〈見る〉、つまり〈自意識〉の徹底が究極的には〈自己放棄〉、ないし〈自己否定〉をおのずから招来することを期待することになる。これは〈自意識〉からの脱出ということができる。それほどに〈自意識〉の〈足枷〉にがんじがらめになっていることを示している。言わば、その〈自意識〉からの開放の過程そのものがこの小説の筋の展開となっていることはまちがいない。

それぞれ〈自意識〉を内在させている登場人物のうちで、〈自意識〉の温存というかたちではあるが、狂気によって〈自意識〉をそのままに転位させて、本多や透のような〈自意識〉による自壊を免れているのは絹江ひとりである。この絹江の〈自意識〉の転位は、

   絹江は狂気によつて、あれほど自分を苦しめていた鏡を破壊して、鏡のない世界へ躍り出すことができた。(中略)古い玩具の自意識を五味箱に捨ててしまつてからは、精巧無比の、第二の、仮構の自意識を造り出して、人工心臓のやうに、それを自分の内部にきちんととりつけて、作動させることができるやうになつた。

と言うほど完璧なものである。それに対して、透は〈自意識〉の〈悪〉に無自覚であったがゆえに、〈自意識〉による聖化(自殺)を試みて、ものみごとに失敗する。この失敗によって失明した透は、

   透の目が外界を映さなくなつた代りに、もはやその失はれた視力と自意識に何の関はりもない外景は、緻密に黒いレンズの表を埋めるようになつた。

とあるように、〈自意識〉の世界から隔絶してしまう。これは、皮肉にもある面から言えば、〈自意識〉の網目から逃れることができたと言える。田中美代子氏が「阿頼耶識とは、その先にある「一瞬もとどまらない『無我の流れ』」なのだった。即ち、それこそ失明後の透の姿が体現しているところのものであろう」(『天人五衰』解説・新潮社文庫・昭和五二・一一)とまで言い切っている。とすれば、透もまた、〈自意識〉の瓦解という精神の死によって「ニルヴァーナ(涅槃)」の住人になったとすれば、三島の構想通りの展開であって、よく評されるような破綻を来たした作品だという評価、または透は「贋物」であるという刻印は即刻取り外さなければならない。

 ところで、本多はどうかと言えば、その内面の軌跡を透や絹江ほどには簡単には説明することはできない。その複雑な内面を〈自意識〉の有り様で探るとすると、

   老いてつひに自意識は、時の意識に帰着したのだつた。

という記述があり、この〈自意識〉と同列になる〈時意識〉こそ、本多が老年に達して捉えることのできた〈老い〉の認識と相応するものである。この〈自意識〉の鏡に照らし出される〈老い〉はその〈醜さ〉を余すところなく露呈することになる。

   七十の声を聞いてからといふもの、朝起きてまづ見るのは死の顔である。(中略)今朝もまだ生きて射た、と朝目覚めて、第一に本多に告げるのは、咽喉のこの海鼠のやうな痰の球である。同時に、生きてゐるからにはまだ死ぬ恐れがある、と第一に知らせるのもこの痰の球である。

老いて死を感じるのは何も特別な感慨ではない。しかし、今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた、と思ひ当たつた。(中略)

老いてはじめて、本多はこの世に生まれ落ちてから八十年の間といふもの、どんな喜びのさなかにも絶えず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた。

とあるように、老いることが生きることの自覚とつながる時、にわかに特異な感慨としてクローズアップされてくる。「卑俗の最大唯一の原因は、生きたいという欲望だった」と言っていたのは本多自身ではなかったか。〈老いることが生きること〉の自覚は、自分の〈卑俗さ〉をそれはそれで自覚することになる。この〈老い〉は〈死〉を意識することによって、

   死を内側から生きるといふ、この世の少数の者にしか許されてゐない感覚上の習練を、本多はおのずから会得してゐた。(中略)この世をひとたび終末の側から眺めれば、すべては確定し、一本の糸に引きしぼられ、終りへ向って足並をそろへて進んでゐた。

というように、死者の眼・末期の眼と呼ばれるものを獲得する。そして、この死者の眼は「我とは、そもそも自分で決めた、従って何ら根拠のない、この南京玉の糸つなぎの配列の順序だった」とか、「自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るやうなことはすまい。それはただ観念の相である」とか考えるように、傍観者としての立場を捨て、諦念・あるいは悟りに近い感慨をもたらす。

 従って、月修寺への再訪は、この悟りの心証をつかみつつある本多にとって、

   自意識こそは本多の悪だつた。(中略)彼が悪を自覚し、悪からつかのまでも遁れ出ようとして際会した印度だつた。

という『豊饒の海』第三巻「暁の寺」の〈印度〉での経験のように、〈自意識〉の悪から身をはがす試みであったろう。というのは、およそ思考の極、認識の極に住するごとく、

   寺は冷光を放つやうになつた。(中略)あたかも彼の認識の闇の世界の極みの破れ目から、そそいで来る一縷の月光のやうな寺に他ならなかつた。

とあるように、月修寺は、〈認識〉の極みとして位置づけられていて、〈認識〉、つまり〈自意識〉の彼岸に屹立する存在であるからである。死の宣告とも受け取れる病を患っている本多にしてみれば、その月修寺へ辿る道は死出の旅路とも言うべきもので、

   本多はそういう標識を見るたびに、冥土の旅の一里塚といふ言葉を思ひ出す。この道を自分がもう一度帰るといふことは理不尽に思はれる。(中略)奈良へ二三キロ。死は一キロ刻みに迫つてゐた。

とあるように、自殺行にも似た行為であって、生きて帰らぬ覚悟で成される体の行為である。そうであるがゆえに、末期の眼よろしく克明に表現されているといえよう。これはいみじくもある言葉を思い起こさせる。日本の文学に連綿と伝えられてきた「道行」という言葉である。いずれも作品のクライマックスにあり、急に調子が高く美しい文章になり、あたりの景色や自然がよみこまれて流れるように死への道を歩むのである。渋澤龍彦が実際の道をたどってみて、あまりにも作品と違うのに驚いている(「三島由紀夫をめぐる断章」『三島由紀夫おぼえがき』・『すばる』昭和五八・七)ことからもわかるように、三島は生涯の最後の作品でみごとに古典派の素顔をのぞかせている。

     ③ 自意識家の末路

 それでも、有名な最終場面、

   この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。

という〈何もない〉世界の描出はいったい何を意味するのか。本多自身の諦念を表していると見る向きがあるが、否である。この虚無化した世界はまさしく本多自身の終局の〈自意識〉そのものを表象していて、彼の〈自意識〉が一向に滅びていないことを示している。なぜなら、本多の〈自意識〉の、

   邪悪な傾向は、こんな老年に及んでまで、たえず世界を虚無に移し変えること、人間を無へみちびくこと、全的破壊と終末へだけ向つてゐた。

とあるように、身の回りの世界を虚無化してしまうのである。所詮、過剰な〈自意識〉を持つかぎり、虚無の目を捨てることはできず、鈴木貞美氏が「もたらされたのは、『唯識』の本質ではなく、色即是空の認識ではないか」(「『豊饒の海』について」『解釈と鑑賞』平成四年九月号)と言っているような〈自意識〉という〈認識〉の網目にすくい込まれるだけである。ここに、三島自身が述べている「この小説の結論が怖い」(「『豊饒の海』について」昭和四十四・二)という真の意味がある。三島は本多が諦念どころか、いずれその〈自意識〉の無残な屍をさらすことを予測していたのである。

「心々ですさかい」という有名な聡子の言葉は唯識思想を語っているといわれているが、相対化視点そのものである。三島自身がそもそも仏教の「空観」と相対主義を同一視しているところに問題がある。ただ、この場面は、「最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説」という意図を込めたものと思われる。そういう作者の思惑に沿うことは危険であるといえるが、有言語の領域の徹底化された世界を描くことにあったとすれば納得がいく。

     終わりに

登場人物が涅槃の中に入るという初期の構想は、透にしても、絹江にしても、〈自意識〉の呪縛から、例えば透のように盲目となることによって断ち切り、絹江のように自殺未遂によって〈自意識〉を逆手にとって解脱、言い過ぎであれば、その契機をつかんだと見てよい。しかしながら、本多は老いて死の認識によって解脱の端緒を他の二人以上に直接的につかむが、結局は〈自意識〉をあらわにするだけである。この三者の相違はひとえに自殺という行為の有無にかかわっている。透も絹江も、未遂であるものの、自殺に踏み込んだという行為に注目するならば、この両者はまさしく行為者ということができる。これは、三島の生涯を通しての課題、「認識」と「行為」の相克という課題が終局の形で示されている。

    五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

それにしても、三島由紀夫にとって認識や自意識という心の世界はそれをとことん追求することによって、逆説的に認識や自意識心の世界、つまり長年の文学という有言語の問題からの離脱を企てたのかもしれない。第四巻「天人五衰」のみならず、『豊饒の海』四部作の脱稿の日付が三島自身の自栽決行日と同じ日付になっていることの意味は大きい。決行前に本巻が書き上げられていたとする説の当否は問題ではない。本巻擱筆の日付を自決の日付とした三島の意図こそが大切である。自殺という行為こそが三島において〈認識〉の桎桔から身をはがし、「自意識」のしがらみを脱ぎ捨てる道を選んだということである。自殺というのは決してゆきづまりの結果ではなく、その回避ために行われるのだという。三島にあっては人間存在の不如意による精神の瓦解という最大の危機を回避するためのものであった。その意味で、この最後のカタストローフが精神の崩壊者「本多繁邦への厳しい懲罰」(「悲しみの琴」『文芸春秋』昭和四七年)という林房雄の謂いは正しい。

従って、三島由紀夫の自注自解の中で特に触れられることの少なかった「ニルヴァーナ(涅槃)」は、人の生を一つの枠に見立てて、その中での各種の生き様をさぐり、その徹底化の果てに見えてくる清顕・ジンジャンの彼岸、勲の昇天、本多・透の認識の無を描くことにあったといわなければならない。これこそが世界解釈とその行方に他ならない。

  終章 三島由紀夫の晩年

このように見てくると、『豊饒の海』は本多の認識、透の自意識が心の世界の表象であり、

私の中の二十五年間を考へると、わたしはその空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とは言へない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。(中略)

   私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのでないかといふ感を日増しに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気になれなくなつてゐるのである。

(「果たし得てゐない約束」「私の中の二十五年」『サンケイ新聞』・昭和 四十五年七月七日)

という戦後の嫌悪感と、

私は昭和二十年から三十年ごろまで、おとなしい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。

   この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。

(「果たし得てゐない約束」「私の中の二十五年」前掲書)

という戦後の内なる心の世界〈シニシズム〉との離脱とが分かちがたく結び合わされていて、みずから意志的につかみつつあった身体の世界で造形された清顯の感情、特に勲の行為が戦後失われてしまった牧歌的な「潮騒」の主人公新治の〈無知〉の系譜に沿う身体の世界との二元的対立の物語として読むことができる。『豊饒の海』の中からこの二元的対立を無知と理智、絶対主義と相対主義、戦前と戦後というふうに取り出しすのに容易であり、新たに身体的世界と心の世界、つまり無言語領域と有言語領域を付け加えておきたい。ただ、無言語領域には魂の世界もある。思えらく、三島は身体的世界の無言語領域そのものが魂の世界であると考えていたのかもしれない。

ここで、高尾氏のAの身体の世界からとEの魂の世界へと辿る人間活動の段階を『豊饒の海』に当てはめてみると、しかし一般の人間活動の段階とは違い、第一巻「春の雪」はCの心の世界とAの身体の世界の中間であるBからAの身体の世界と辿り、第二巻「奔馬」はAの身体の世界そのままの世界を描き、第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」はCの心の世界の段階で低回し、最終場面もまたCの心の世界の徹底化の果てそのものの世界を示唆しているといえよう。心から身体に、つまり有言語の世界から無言語の世界に至るという一方の人間活動を押さえつつ、有言語の世界の果てを見尽くすという特異な人間活動の理解こそ、三島の「世界解釈」の意図であったということができよう。これには、「太陽と鉄」(「批評」・昭和四十年十一月)のなかの、

つらつら自分の幼時を思ひめぐらすと、私にとつては、言葉の記憶は肉體の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとつては、肉體が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉體が訪れたが、その肉體は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。

という特異な生い立ちに淵源が認められる。三島にとって肉体は身体と同等の意味を持つことは言うまでもない。幼児期特異な家庭環境によって人一倍有言語領域になじんだ三島にとって、無言語領域は憧憬の対象であり、無言語領域への没入はおのずから有言語領域との対立を強いるものであった。いうまでもなく、無言語領域への参入こそが昭和四十五年十一月二十五日の割腹自殺であったのである。このように考えて初めて、『豊饒の海』はまさしく無言語領域に対する有言語領域の侵犯の物語であるということができる。三島の晩年に浮かび上ってくるのはこの二種対立する言語領域に佇立する文学者の肖像である。

 

 注1 岡野守也『唯識のすすめ』(NHK出版、一九九九年・十月)参照。

  3 水島恵一『自己探求の心理学』(社会思想社、一九七七年十月)参照。

  4 保坂歴彦『死のう団事件』(角川文庫・平成十二年九月)参照。同じ著者の『三島由紀夫と楯の会事件』(角川文庫・平成十三

    四月)の「あとがき」で、この両事件の類似を指摘している。

  5 先田進「三島由紀夫『春の雪』の世界―禁忌の侵犯をめぐって―」(『日本文芸の潮流』・おうふう、平成六・一)

  6 磯田光一「『豊饒の海』4部作を読む」(新潮社、昭和四十六・一)

  7 田坂昂『三島由紀夫入門』(オリジン出版センター、昭和六〇・十二)

  8 対馬勝淑「三島由紀夫『豊饒の海』論」(海風社、昭和六十三・一)

  9 柴田勝二「模倣する行動―三島由紀夫『奔馬』論」(「近代文学論集」『日本近代文学会九州支部』、平成一〇・一〇

 本文の引用は基本的には新潮社版『三島由紀夫全集』(昭和四十八年~五十一年)に拠った。ただし、そこに含ま れない創作ノートやインタビュー等については雑誌、新聞掲載のものに拠っている。

(終了)

 

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