タイトル: ひらひらと
句集 著者:歌代美遥
出版社:文學の森
出版年月日: 2023.10.29
定価:2,750円
歌代美遥句集『ひらひらと』論
― 豊潤なる俳句 ー
俳句大学学長 永田満徳
『ひらひらと』は歌代美遥氏の第二句集である。私が代表を務める「俳句大学」の講師として、Facebookグループ「俳句大学投句欄初心者教室」の指導をされているとともに、俳句大学九州キャンパスにも参加して頂いている私にとってまことに慶賀すべきことで、心よりお祝い申し上げる。
第一句集『月の梯子』も素晴らしかったが、この第二句集も美遥俳句の新たな地平を切り開くものとして特筆されるものである。
ひとひらの花と乗りたる無人駅
あたかも美遥俳句の特色を言い表したような句である。本句集全体に漂う軽やかさと明るさと華やかさ、そして静けさを象徴している。
「ひとひらの」の句は乗る人も少なく、閑散な「無人駅」だけに「ひとひらの花」が乗り込む美しさや華やかささが浮き立つ。「花」という季語の持つ本意が鮮やかに生かされている。
琉金の鰭いちにちをひらひらと
この句は『ひらひらと』という句集の題となった。金魚という小動物への親近性を示すこの句も「ひらひら」の擬態語に「琉金」の生態を描いてあますところがない。「琉金の鰭」に注目し、「いちにち」をただ泳いでいるだけの金魚の姿を描いている。
退屈を飼ひ慣らしては金魚鉢
この句では「金魚鉢」という狭い空間の中で泳いでいる金魚を「退屈を飼ひ慣らし」と捉えているところに的確な観察眼がある。
出目金の泳ぐ真昼の古書の店
「出目金」と「古書の店」との取合せである。「出目金」の穏やかな動きと併せて、お客もまばらな、ものしずかな「古書の店」の佇まいが伺える。
このような一連の金魚を詠んだ静謐な世界は美遥俳句における的確な写生の目に依拠していて、一つの特色をなすものである。もちろん、美遥俳句には「闇」とか、「影」とか、いくらか暗い句材が無きにしも非ずである。
地芝居や死なせてくれと闇掴む
揚花火たちまち闇の落ちてくる
「地芝居」の役者の「闇掴む」仕草にしても、「揚花火」の後の「闇」が「たちまち」に空を覆う瞬間にしても、「闇」の側面をよく捉えている。「地芝居や」の句は「闇掴む」というアマチュアの役者としては大仰な表現におかしみがあり、決して暗くない。美遥俳句の屈託なさが出ていて、好感が持てる。
日脚伸ぶ齢を持たぬ影法師
「影法師」は「齢を持たぬ」と言う。そう言われてみると妙に納得できる。この句の「影」は作者独特の把握として屹立している。
影もまた生ある動き曼珠沙華
「曼珠沙華」はまっすぐに伸びた細い茎の頂の蕊に赤い炎のような花をいくつも輪状に開く。生々しく、簡単には枯れない。「影もまた生ある動き」という措辞は「曼珠沙華」の特徴をよく捉えている。
肥後椿影を連れつつ落ちにけり
「肥後椿」は花弁が大きく大輪一重咲きで、豪華な花。みずからの「影」もろともに落ちる様は「肥後椿」をよく捉えている。大柄な「肥後椿」の姿を肥後椿そのもので描くことなく、「影」で表現した手腕に拍手を送りたい。
「肥後椿」の句の「連れ」という語彙にも注目される。
芝居終へ春満月を連れ帰る
「芝居」見物した後で「春満月を連れ帰る」とはなんと豪華なことだろう。粋な描き方に魅力を感じる。
またひとり花を連れゆく遍路かな
「花を連れゆく」「ひとり」の「遍路」には決して寂しさがない。「花」を道行にすることによって、「遍路」の孤独の華やかさとも言うべきなかに、信仰の深さを物語っている。
「風」は頻出する語彙で、作者の精神の軽やかさを表している。
まず、挙げなければならないのは歌代美遥氏自身が辞世の句として公言している句である。
蓮散らす風に生まるる辞世の句
「辞世の句」が仏教では象徴的な花である「蓮」との間に「風」を介在させることによって生み出されるという。ここにこそ、「風」に対する偏愛とともに、宗教的な敬愛が示されている。
風を聴くかたちして片栗の花
俯きかげんに咲く「片栗の花」が風に揺れる様を「風を聴くかたち」と見立てているところがいい。見立ての句が成功するかどうかはひとえに観察眼に懸かっている。
くしやくしやと風に揉まるる枯尾花
「くしやくしや」というオノマトペが効いていて、「枯尾花」に吹く「風」にふさわしい。オノマトペは俳句のような短詩型に有効な表現手段である。「ぱほぱほと鯉の口より春の水」にもオノマトペがうまく使われていて、春の雰囲気がよく伝わってくる。
日にまみれ風に細るや枯薄
枯れいそぐ芒に風のねぢれかな
枯すすきの二句は「日にまみれ風に細る」といい、「風のねぢれ」といい、独特で、しかも斬新な冬の「風」の捉え方があって、心惹かれる。
見えぬ風見せて夏蝶流れけり
木々増えて涼しき風の奥の院
天つ日の風を呼び込む古代蓮
「見えぬ風」と「夏蝶」、「木々」と「風の奥の院」、「天つ日の風」と「古代蓮」。いずれも、道具立てとしての「風」が生かされていて、「風」の諸相を味わうことができる。「風」の描写は他の追随を許さない。
初蝶の風の匂ふや三狐神
「三狐神」は家で祭る田畑の守り神。「初蝶」が運んで来る「風」を「匂ふ」と言ったところに感性のするどさがある。この句は「風」とともに「匂ひ」が組み合わせられているが、次は「匂ふ」という語彙に触れてみる。
厨から真みどり匂ふ蓬餅
時雨傘雫の匂ひたたみたり
「匂ふ」「蓬餅」に「真みどり」を見て取る、また「雫」に「匂ひ」を感じる感性には驚くばかりである。
煌めきの数だけ春の匂ひたつ
「煌めき」に「春」という季節の「匂ひ」を感じ取った句で、「匂ひ」に対する鋭敏な感性が窺える句である。
「煌めきの」の句は「匂ひ」と「煌めき」との取合せであるが、季語の「風光る」を含めた「ひかり」「光」の使用例は多く、光溢れる句集『ひらひらと』の広やかな裾野を形作っている。
鳶職の太きズボンや風光る
三代碑の一字一語や風ひかる
季語「風光る」がそれぞれの句材をしっかりと浮彫りにしていて、俳句の真髄を知ることができる。
春の宴祝杯ごとにひかりけり
春風や真鍮のもの皆ひかる
菊人形瞳に嘘のひかりあり
「春の宴」を「ひかり」になぞらえ、「真鍮」に春そのものを象徴化し、「菊人形」の「瞳」を「嘘のひかり」として意外性のある句にしている。
このように、句集『ひとひらと』を紐解きながら、「闇」「影」から「連れ」、「風」から「匂ふ」、「匂ふ」から「ひかり」と辿ってみると、不思議なもので、言葉の好みというより、句集の色合、さらに人柄さえも垣間見ることができる。
句集全体から俳句の多彩さ、豊富さが浮かび上がってくる。例えば、「春の野やけものの柄のをんな来る」「梅雨晴や主婦を略して旅路なる」の女性性の客観視、「広がるも流るるも気まま春の鴨」「波を呼び波に沈みて汐まねき」のリフレインや対句による自然法爾的な動物の生態、「へろへろとさびはじめたる花菖蒲」「水の色してとんぼうの生まれけり」の感覚の冴え、「もつれたる話これまで蠅叩」「六道のどの道選ぶ毛虫焼く」の滑稽味など枚挙に遑がない。
最後に、その他で心惹かれる句を取り上げておきたい。
涅槃絵をかかげ和尚は留守らしき
逃水を追うて捨てたる母の郷
蝸牛老いには老いの歩幅かな
一塊の冬となりたるロダン像
ジーンズのがばりと乾き春隣