ごまめ~の~いちょかみ・Ⅱ

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はみだしの人類学~松村圭一郎

2022-01-11 11:11:11 | 本の少し
 ☆☆☆☆☆

昨年の末に読んだ著者の「働くことの人類学」がおもしろかったので、続けて読もうと検索すると図書館にあったのがこの本。NHK出版の「学びのきほん」シリーズでさらに初心者用に書かれており、私にはピッタリ。さらに人類学が整理されました。と言いながら、人類学は多岐にわたっており、多くの視点でとらえなおしてあるので、私のこれからの覚書もある面あちらこちらへとまとまりのないようになってしまいそうです。

もともと文化人類学は、19世紀末から20世紀前半に西洋諸国がアジアやアフリカの植民地政策時代に、なぜ人類はこれほど多様な文化があるのか?その差異はどのように生じたのか?異なる他者とどう関係を築けばよいのか?この課題はこのコロナ禍をみれば未だ引き続いているように思えます。そして西洋社会が直面する問題を考えるとき、近代的な視点だけでは限界がある。人類学は近代文明批判の旗手として、そうしたある種の希望を語る学問と注目されてると・・・。

それを掘り下げると、「わたし」とはなにか「かれら」とはなにかいう基本が揺るいできます。「わたし」の人格や価値観が絶対的なものではなく、「わたし」と「かれら」との境界も輪郭もあいまいにみえてきます。各、国や地域の「伝統」は長い年月を経たものではなく、ごく最近になって成立したり、ときに捏造されたものだと。立場、立場で歴史は違う、これって「わたし」と「かれら」の関係を知れば当たり前のこと。

そして、その「わたし」でさえひとつでなく複数であると。誰と対面するかで「わたし」のあり方が変化すると、家では末娘の「甘えん坊」、部活では頼れる先輩、大学では「生徒」、バイト先の塾では「先生」と複数の役割をもって生きています。単なる分け方も「男」と「女」、「若者」と「老人」、「既婚」と「未婚」、「正規雇用者」と「非正規雇用者」、「日本人」と「外人」、血液型や県民性などひとりの「わたし」はいろんなカテゴリーをもちながらも、ある面単一のカテゴリーで結びつけられて判断されているのは、このコロナ禍では痛切に感じることでおます。「ワクチンの接種」「飲食と飲酒」「不要不急の外出」「若者と老人」なぜか、線引きしなければとそれもいたってあいまいな線引きで、ワイドショーががなりたてているのにはまいってしまう。

はなしはそれてしまいましたが、どうすれば「わたし」や「わたしたち」がともによりよく生きることができるのか。生き方には二通りがあると、「直線の生き方」と「曲線の生き方」があるのに、いつの間にか直線的に歩むのが正解として歩んできたようですが、いま一度、二つの歩み方があることを自覚するべきだし、それが「よりよく生きる」ことへのヒントがあるように思える。

「わたし」も大切「あなた」も大切、こんなことを教えてくれた、「人類学」でおました。




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