~空からの贈りもの~

「森のこもれび」の山崎直のブログです。

その人の身に自分を置き換えて…

2020-07-17 22:41:17 | 日記

無症状のコロナの陽性患者が居るホテルで、

カウンセリングをしていたという

臨床心理士の先生とお話ししました。

患者さんは、コロナに感染したことよりも

自分が会社に戻れるだろうかという

ことの方を心配している。

精神的に追い込まれて行ってしまうと、

言ってました。

そして、コロナによって分断が

起こっていると…

私も息子が発熱しPCR検査を受けたとき

私は、自分自身が汚染物になったような気がし

何とも言えない孤独感を味わいました。

結果が陰性だったので、よかったね!で

終わりましたが…

Go To トラベルも東京を排除し、

前倒しして開始するそうです。

感染者が増えているから当然という考えも

ありますが、なぜ分断を作ってまで

今、開始するのでしょうか。

臨床心理士の先生は、ナチス・ドイツの

時も分断が起こった、人間の中には

違うものを排除するというものが

あるのかもしれないと言ってました。

コロナ感染によって社会の分断が

気が付かないうちに広がっていくことに

とても気になります。

手を取り合うことも出来ないコロナ禍で

感染者の数にばかり目を向けるのでなく

その人たちの思いを想像してみることが

大事ではないかと思ってしまいます。

初女さんは、”人さまに起こることは

自分にも起こる”と言われ、いつもその人の

立場に立って思いを寄せていました。

 

『目の前にいるその人の身に自分を置き換え

苦しい時は苦しい思いで

嬉しい時は嬉しい思いで、

ともに悲しみ、ともに喜ぶという気持ちで

聞いています。

             佐藤 初女』

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季節の巡りに支えられたこと

2020-07-15 00:00:00 | 日記

自分の人生で一番辛かった時、それは子供を

亡くした後ですが、何をしても慰められると

いうことがありませんでした。

どんなに泣いても涙は枯れることが

なかったし、生きるということが自分の中から

消えていたので、人の言葉も通り過ぎて

行くばかりでした。

唯、こんなに悲しいのに、そんなこととは

関係なく季節は巡って来るという、

当たり前のことに、なぜか支えられて

いたのです。

そのことの意味が、今までさっぱり

わかりませんでした。

今日櫛谷老師の講演を読み返していたら

”そうか”と思えたのです。

それは『どれだけどんな事件があっても

ちゃんと夕日が沈む時間がくれば、

ちゃんとその時間に沈んでいく。

そういう絶対的あり方で、この世界は

さらさら、その日は暮れていきます。

ちっとも滞ったり早足になったりしないで

何の忖度もなく、あるがままに、暮れるべき

ものがただ暮れていきます。

あるのは徹底のひかりのみです。

それが思いの放たれた風光です。

この世は、思いが手放されたあり方で

滔々(とうとう)と流れてやみません。』

この文章を目にしたとき、何をもっても

慰められなかった私の心を支えてくれた

のが、季節の巡りだったという不思議が、

ほどけて行くような気がしました。

何があっても変わらないという絶対的な

あり方で、この世界はさらさらと流れている

その中にこの自分という存在があるのだ…

そのことが絶望の中で、私を支えてくれて

いたのです。

この小さな私が、偉大なる大きなものに

守られているのですね。

あの頃の私は、来る日も来る日も

息子のもとにいくことばかり考えて

いたのですから…

何という感謝でしょう…

生きているということは、無条件の愛に

包まれ守られているんだ…

そういう気がします。

 

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さらさら生きる

2020-07-14 23:39:05 | 日記

友人から、内山興正老師のお弟子の

櫛谷宗則老師の講演のコピーが送られて

来ました。

かなりのページ数で、1回読んで理解できる

ものでは到底なにのですが、読み終わり心に

留まったことの一つに、老師が聖書中の

パウロの言葉を引用して語っていた

『さらさら生きる』という言葉。

私は、生きるとは大地を踏みしめるように

頑張って歩んで行くことだと思って

いました。

老師は、「われわれ、いつでもこっちを掴み

あっちを掴み、ああしなきゃこうしなきゃ、

これも必要あれも必要と思って、いっぱい

自分で縄を編んで自分を縛っている

わけです。

そしたら身動きが取れないのは当然です。

そうではなくて、「さらさら生きる」って

ことですよ。」と語られています。

「さらさら生きる」とは、今までの自分の

にはありませんでした。

でも、考えてみると初女さんは難しいことが

起きても「自然に任せましょう」と言われ

動じたり、とらわれたりという姿を

見たことがありませんでした。

そして、すべてを手放して

『神の計らいは限りなく

生涯私はその中に生きる』

この言葉を生き切った方です。

確かに初女さんの生き方は

「さらさらと生きる」という言葉が重なる

ような気がします。

だから、あんなに透明な光を放って

いたんですね。

老師の講演の副題が

「~いのちの、いのち自身に向かって、

刻々と新たに透きとおっていく力をもって、

我がいのちとする~」でした。

 

 

 

 

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初女さんの伝える”感謝”

2020-07-12 21:21:27 | 日記

若い女の子が、ふ~とため息をついた後で

「ため息をついたら幸せが逃げて

行っちゃうんだ」と言ってました。

私は、心の中で”ため息で幸せは逃げないよ”と

言ってました。

幸せは、幸せの条件が整ったから幸せになれる

というものではないし…

幸せは、自分が「幸せ」と思った瞬間に

幸せになれるのだから…

若い時には、こういうことが分からなくて

幸せを探していた気がします。

今、少しずつ分かってきたことは

人は余分なものを全部取っていったら

何が残るか…

それは、愛と感謝だと思うのです。

愛と感謝があったら人は生きていけるって

私は信じています。

愛と感謝は、獲得していくものじゃなくて

生まれたときに、誰の中にも備わって

いるものだから…

愛された記憶がないから人を愛せない

なんて心配しなくても大丈夫

不安や怖れに心を明け渡さなければ

自分の中の愛と感謝が立ち上がってきて

くれる、そのことを信じていれば大丈夫!

何度もブログに書いた初女さんのこの言葉が

私は大好きです。

『鳥はどうして飛んでいるのでしょうか。

きれいな花を咲かせるのはどうしてでしょう。

誰も答えることができませんが、これ感謝です。

こういうことを深くとらえない人もいますが

すべてが感謝ですし、感謝は生活の上で

基本的なことです。

感謝も何もなく、ただ目がいくことだけで

暮らしていると、心がうつろになってきます。

すべてが当たり前のようになっています。

うではない。

いま私たちが何もなくこうしていられることが

感謝なのです。

小さな悩みに常にとらわれている人も

いますが、感謝があれば日々の悩みも

なくなります。

            佐藤 初女』

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再びの「花を持って、会いにゆく」長田弘

2020-07-10 22:58:16 | 日記

スーパーに行くと、お盆の野菜

(胡瓜やなす)が、かごに入って売って

ました。

えっ!もうお盆なんだ!とびっくり

自粛後の時間は、早回しのように過ぎて

行きます。

亡くなった人を思う時、自然と空を見上げて

しまいますが、吉本ばななさんは

『亡くなった人たちは、私のことを

上のほうから見ているわけではなくて、

そばに来るときは、なんとなく自分の内側に

その人の目があるような気がするんです。』

と書かれています。

なるほど、そうかもしれません。

それでも、ふっと空を見上げ、

「見守られているんだな~」って

そんな気持ちに包まれることも、

私は好きです。

長田弘さんの「花を持って、会いにゆく」を

読んでみたくなって、検索したら

何と、自分のブログが出てきました。

5年前の彼岸花が咲く頃に、やっぱりこの詩が

恋しくなって、ブログに載せていました。

再び、お盆を前に…

この詩は、そういう詩なんですね。

 

  花を持って、会いにゆく

春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。

歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうでないということに気づいたのは、

死んでからだった。もう、
どこにもゆかないし、
どんな遠くへもゆくことはない。

そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世から一番遠い場所が、
ほんとうは、この世に

いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ
人生の最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。

病に苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる。

ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指すのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。

春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。

春の日、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

 

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「いのちとは…」日野原重明・和田重正・佐藤初女

2020-07-08 16:05:40 | 日記

「いのち」って何だと思いますか?」と

聞かれたら何と答えるでしょう…

日野原先生は「命の授業」で子どもたちに

『命というのは君達の使える時間の中に

あるんだよ」と伝え、

子どものうちは与えれている時間を全部

自分の為に使いなさい。でも大きくなったら

その時間を他の人の為、社会の為に

使わないといけない。

生きてきた時間のうち、人の為に使った時間が

多い人が天国へいけるんだよ。』と話していた

そうです。

和田重正先生は、『「自分」はすなわち

”いのち”なんだ…

いのちが一番大切だということは

自分にとって自分が一番大切だということに

なります…

いのちが働くとはどういうことかを

知らないといけない。

いのちというものは、自分を拡大する方向へ

活動する性質を持っています。

そしてその活動が我々に感ずるのには

欲望という形をとります…

欲望には、クダラナイのとクダラナクナイのが

あり、いのち(自分)を大切にするというのは

クダラナクナイ欲望の為に自分を働かせること

だということになります。

自分を大事にするということは、

自分の持っているものー物でも労力でも

知恵でもなんでも出し惜しみしないで、

ひとの為に使うことだというわけです。』と

書かれています。

(一部省略しているので、分り難かったら

ごめんなさい)

佐藤初女さんは

『いのちとは生きること。

人は、誰かに仕えるために生まれてきた、と

言われますので、人のお役に立ちように

生きることです』と、言われています。

3人の方々の表現はそれぞれ違いますが

同じ方向を示しているように思います。

”いのち”とは…

ずいぶん生きてきたのに、この問いに

スパっと答えられない自分がいました。

先生方の言葉を

じっくり味わって見たいと思います。

 

 

 

 

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初女さんと白玉

2020-07-07 18:30:55 | 日記

昨日、メッセンジャーのやりとりを

している時に、なぜか突然思い出したのですが

初女さんと羽田空港で食事をしていた時に

デザートに、白玉だんごだったか、白玉あずき

だったか?とにかく白玉を頼んだのです。

ところが、いくら待っても白玉が来ない

ちょっと遅すぎるんじゃないか~と

思っていたら、初女さんが小さい声で

「白玉の作り方を知らないんじゃない?」と

言うのです。

聞いた時、ええ~?と、びっくりしましたが

「知らなかったらメニューに載ってないでしょ」

と、誰かが言って…

それから暫くして、白玉が出てきて初女さんと

食べたのですが、普通なかなか注文したものが

出てこなかったら、ぶつくさと文句を

言うのに、初女さんは本気で作り方を

知らないのではと、心配してました。

今、思いだしても初女さんの人となりが

感じられます。

どんな小さなことを取っても、そこには

初女さんの生き方が見えてきます。

凄くて、素敵で、チャーミングな方でした。

白玉の思い出です。

 

 

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自然を前にして

2020-07-06 23:37:03 | 日記

梅雨とは思えない、土砂ぶりの雨

又しても大災害が起きました。

自然を前にしたとき、人間は無力です。

唯、この大雨が過ぎ去ってくれるのを祈る

ばかりです。

それは太古の昔から、そうだったのかも

しれません。

自然とともに生きていくとは、どういうこと

なのでしょう…

       海辺にて

              長田 弘

 いちばん遠いものが、

 いちばん近くに感じられる。

 どこにもいないはずのものが、

 すぐそばにいるような気配がする。

 どこにも人影がない。それなのに、

 至るところにことばが溢れている。

 空には空のことば。雲には

 雲のことば。水には水のことば。

 砂には砂のことば。石には石のことば。

 草には草のことば。貝殻には

 貝殻のことば。漂着物には

 漂着物のことば。影には影のことば。

 椰子の木には椰子の木のことば。

 風には風のことば。波には

 波のことば。水平線には

 水平線のことば。目に見える

 すべては、世界のことばだ。

 すべてのことばのうちの、

 ひとのことばは、ほんの一部にすぎない。

 風が巻いて、椰子の木がいっせいに叫んだ。

 悲しむ人よ、塵に口をつけよ。

 望みが見いだせるかもしれない。

 ひとは悲しみを重荷にしてはいけない。

 

 

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「忙しい」という言葉~初女さん

2020-07-05 22:58:59 | 日記

緊急事態宣言が解除となり、いつもの日常が

戻って来た途端に、時の進みが速く感じるのは

なぜでしょう…

気が付けば7月になっていました。

ステイホームの時は、時間をかけて

料理をしたり、ちくちくとマスクを縫ったり…

特別なことをしていたわけじゃなく、

家にいたのに、その時間を楽しんで過ごせて

いたのに、今は時間だけがどんどん進み

自分だけが置いて行かれているようです。

初女さんは、どんな時でも静かでした。

初女さんの傍にいるだけで、ばたばたしていた

心が落ち着き、静かになるのです。

今は、初女さんがいないから…

そうか、初女さんのおむすびを作ろう

おむすびを結んでいると、あの静かな

初女さんの時間が戻ってくるから…

『「忙しい」という言葉を、私はなるべく

 使わないようにしています。

 「忙」という漢字が、「心を亡ぼす」と

 書くことからわかるように、「忙しい」と

 思って口にすることは、決して望ましい

 ことではないと思うからです。

 今ここにいる限り、あくせくしても

 ほかのことはできないのだから、

 そこの雰囲気に浸っていたほうが

 いいのです。

          佐藤 初女』

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先がみえないのは当たり前~池田晶子

2020-07-04 23:00:13 | 日記

初女さんは、「先を考えるから不安になるの

先のことは、誰もわからないものです。

今より確かなことはないの。

今を生きてください」と、言われてました。

このコロナ禍、不安を抱いている人が多いと

思います。

コロナがなかったら、今頃オリンピック特需に

沸いていたかもしれません。

本当に先のことはわかりません。

そのことを哲学者の池田晶子さんが書いていて

成程な~と思いました。

  「先が見えないのは当たり前 

「先が見えない不安」とは、

]人々の口癖である。

しかし、人生の先がみえないのは、

当たり前のことである。

そんなのは今に始まったことではない。

人生の価値は、生活の安定や生命の保証に

あると思っていると、そのこと自体で、

人は萎えてくるように思う。

倒産から脳梗塞まで、人生には色々あるのが

当たり前だからである。

むろん、それはそれで本当に

大変なことである。

けれども、そんな大変なことどもを、

どれだけ萎えずに生き抜くことができたか、

それこそが人生の価値なのだ。

そう思っていた方が、逆に生き易いような

気がする。

                                             池田 晶子

 

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