日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

平成21年第142回芥川賞候補作品「ビッチマグネット」舞城王太郎作

2010年03月02日 | Weblog
 今回は芥川賞の受賞作無しと決定された。それで候補作の一つ「ビッチマグネット」が文芸春秋の3月号に掲載されていたので、それについて述べてみる。
 この作品は私(広谷香織里)の語りという形で展開する。私には床の中で人生を語り合ったこともある仲の良い弟(広谷智徳)がおり、さらに母(広谷由紀子)がおり、、愛人(佐々木花)のもとに走り、家に寄り付かない父親(広谷和志)がいる。この作品はこの4人の家族を中心に展開される家族小説である。この4人の人生経験を通じて、家族とは何か、姉弟愛とは何か、恋人とは何か、結婚とは何かが、要するに人生とは何かが追求される。良い作品である。
 ビッチマグネットとは耳慣れない言葉である。Bitchとは作者によれば「ひどい女」、「嫌いな女」、「いやな女」を指す言葉であり、三省堂の「英和辞典」によると「あばずれ女」「ばいた」「売春婦」となっている。いずれにしてもあまり良い言葉ではない。Magnetとは、訳すまでもなく磁石のことである。直訳すれば「ビッチばかり引き寄せる磁石」となる。意訳すれば「悪い女とばかりと付き合う男」となる。しかしここでいう「Bitch」を文字どうりに悪い女と訳すわけにはいくまい。悪という言葉には文字どうり「悪」と云う意味があると同時に、既成の概念にとらわれることのない、「強い」と云う意味があり、自由な自立した女、他人の意見によって自分を変えることのない、自分自身の考え方、感じ方、物の価値観、行動原理を持って動くことのできる、男にとっては極めて扱いにくい女と云うことになろう。それは智徳にとっての塩中柚子、三輪あかりであり、私の恋人岸本文彦に対する私であり、父に対する母であり、愛人である佐々木花といえるであろう。それではそんな強い女が求める男とはどんな男なのであろうか?要するにBitchMagnetとはどんな男であろうか?そこでこの作品に登場する男たちを観察してみると、智徳も、父親も、岸本文彦もどこか頼りの無い、弱さを持っている。恋愛とは楽しさがあると同時に、そこにはストレスもある。落ち着いたストレスの無い関係が必要になる。一緒にいて気が休まる、どこか手を差し伸べたくなるような優しくて可愛い存在が必要になる。3人ともそんな可愛さを持った存在である。強さと弱さが相補いあって、良い関係を作り上げていく。その関係がなくなったとき破局を迎える。私は高校を卒業し、臨床心理士を目指して大学に入り、資格を取るには、大学院に入る必要があるので、そのための勉強をし、大学院に入り、卒業と同時に資格を取り、臨床心理士として自立つする。それまでの数年間の人生経験がこの作品の軸である。そこには愛があり、憎しみがあり、それ故の衝突もあるが、お互いに理解し合い、和解が成立する。私のトラウマとなった父の不倫を恨みながらも、それを悪と決め付けることはできない。父の愛人で公認会計士の資格を持つ佐々木花さんとの付き合いを通じて、愛には様々な形態があるのを知る。人間としての、大人としての責任を父に追及することも出来るが、人は結局はInparfect(不完全)な存在であり、決して杓子定規にはいかないと悟り、父を許すことが出来るようになる。そのことによって、父の不倫が原因で男不真に陥っていたトラウマから自らを開放していく。母は父との離婚を決意し、新しい恋人(後藤某)との結婚を決め、恋する女として美しく変身する。父は母と別れた後も未練たらたら、母はきれいさっぱり、次を目指す。男と女の違いがそこにはある。
 佐々木花さんは父と別れたという。父のW不倫が原因だという。男は複数の人間を同時に愛することのできる存在である。しかし父は花さんに云う「自分の君に対する愛は他の女性の場合とは違った、もっと上の段階にあり、恋愛的な好き嫌いの関係ではなく、それを超えたところにある深く人間的な理解の部分で信頼できる関係に進んでいるんだ」と。勝手な言い草だと思いながらも花さんは悪い気はしない。お互いに何を考えていることやら。
 私は花さんと仲良くなり時には話し合う。歳はっても人を愛する気持ちに変わりはないと花さん(46歳)は云う。しかし違うものは死だという。若いころは概念として死を理解していても、実際には、永遠の生が与えられていると錯覚している。しかし、加齢とともに死を実感する。死があるから人は生について考える。自分の夢や希望を未来に継続したいと思う。そこに結婚があり、生殖がある。土葬にしろ、火葬にしろ、散骨にしろ最後に残るものは骨である。そこから生が始まり、そこで生は終わる。骨は人間の原点なのだ。人間の零は骨なのだ。そこに肉がつき、皮が張られる。そして人が形成され、大人になる。それは同時に精神の発達でもある。そこにはその人間の経てきた歴史があり、物語がある。そして肉体と精神の発達の彼方に死がある。死とは何か、それはそれまでの人生で人が冒してきた罪に対する贖罪だといわれている。たとへ罪の意識を持たなくとも、人が生まれながらに持つ原罪が故に存在自体が罪なのだ。罪とは何か、罰とは何か、そして許しとは何か。それが死によって解決される。そこには人の罪に対する裁きがあり、それが、この世の因果応報のシステムであり、摂理である。石原慎太郎氏(第34回芥川賞受賞者)はこの作品を批評して「(この作品は)だらだらと長いだけで、小説として本質何を云っているのか判らない」と云っているが、私はそうは思わない。登場人物の人間の本質としての様々な愛の形態を追及し、その結果として表れる罪の意識を見つめようとしたのではないかと思う。
 この作品は私と弟との関係を通じて展開される。私は高校時代に中学生の弟と同じ布団の中で寝ていたという、ちょっと奇妙な近親相姦的な関係にあった。勿論性的関係があったわけではないが、それほど仲が良かったのである。それ故に弟の行動には特別な関心を寄せていた。ある日弟が携帯電話をかけながら自慰行為を行っているテレホンセックスの現場を目撃しショックを受けたりする。相手は塩崎柚子ちゃん。同級生である。テレホンセックスなんて我々の時代には考えも及ばないことである。大体携帯電話なんかなかった。ダイヤル式の固定電話があっただけである。弟は柚子ちゃんや三輪あかりちゃんなどと云う数人のガールフレンドと付き合っているのに、私は大学生になるまで恋人一人作れない。弟は当の昔に姉離れして、私の布団の中から離れていた。私は孤独で淋しい。弟と柚子ちゃん、あかりちゃんの中も問題を含んでおり、決して順調にいっていないようである。三角関係があったり、それが原因で先輩からいじめにあっている。それを見ている私は絶えずいらいらし弟に干渉ばかりして嫌われている。殴り合いの喧嘩をして怪我までしている。おそらく嫉妬心からであろう。そんな私も、弟から嫌われた寂しさを紛らわすためか、本当に好きになったかはわからないけれど岸本文彦と云う恋人を作り、やっと弟離れをする。両親の別居という衝撃がトラウマになって、男性不信に陥り、弟以外の男性を愛せなくなっていたのであろう。
 いずれにしても、私にとって弟の智徳は柚子ちゃんや、あかりちゃんに翻弄され続け、いかにも頼りの無い、手を差し伸べなければならない弱さを持った可愛い男性なのである。私は弟にとってBitchmagnetなのである。

                     文芸春秋 2010年3月号 文芸春秋社刊より


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