周は二代に監みて、郁郁乎として文なるかな。われは周に従わん。(八佾)
周は、夏殷二代の文明を手本として、かぐわしき豊かな文明をつくった。わたしは周の心に学ぼうと思う。
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わたしが今、こうして遠い先人に、自分の人生の手本を求めているように、孔子もまた、すばらしい先人に手本を求めました。彼が君子の基本のモデルとして仰いだのは、周建国の功労者、周公旦でした。
このように、すばらしい人には、すばらしい先人がいる。それは、どのようにがんばっても、決して追いつけない存在。追いつこうとしてはいけない存在。はるか先にいて、いつでも目標とできる存在。それがいてくれるこそ、今自分が、どんな壁にぶつかろうとも、進んでいける。そういう存在。
あんな人がいたのか、と、心底感動できる人に出会うことができた。それが文書の中の歴史の人でも、真に、人間に感動することができた。それが、その人の、すばらしい力になる。
周公と、孔子を比べることなど、ばかばかしい。孔子には、周公が必要なのです。はるか彼方に、道標のように立ち尽くしてくれている、ともし火。決して追いつけない。届くことはない。それでも、彼は、はるか彼方から、自分を見ている。それが、孔子にはわかる。なぜなら、自分も同じだからだ。
愛が、仁がわかった人なら、間近に見るほどに、周公の気持ちがわかるからなのだ。何のためにそれをやったのか。わかりすぎるほどにわかるからだ。
愛だからこそ、わかるのだ。
孔子もまた、はるか彼方にいて、わたしを見返してくれている。そのまなざしを感じる。だから、わたしは、どんなに孤独でも、やってこれた。どんなことがあっても、乗り越えるんだと、がんばりとおすことができた。
あの人がいたから。
目標は、追いつく必要などない。嫉妬することほど、ばかばかしいことはない。あの人がいるから、今のわたしが、やることができる。
ひとりで立っている。あの人も、わたしも。きっとそれは、永遠に同じだろう。もしことばをかわすことがあったなら、きっと、微笑んで、心の中でささやくことだろう。「いうことはおなじだ」と。
おまえも、わたしも、永遠にやっていくのだと。