子曰く、異端を攻むれば、ここに害やまん。(為政)
(しいわく、いたんをおさむれば、ここにがいやまん。)
先生はおっしゃった。間違っていることをやめさせれば、この世に苦しいことがなくなるでしょう。
*
このことばは、いろいろ解釈に迷いがあるようで、人によって現代語訳に違いがありますが、わたしはこんな風に訳してみました。
人それぞれに価値観は違う、という考えが主流になっている現代では、明らかに間違っていると思えることでも、自分と他人は違う、の一言でうやむやになってしまうことがあります。どう考えても、そんなことをすればひどいことになる、ということでも、それが間違っているということを、大きな声では言えない。「例えばこうではないかな?」と、控えめに婉曲に言わねば、手ひどい目にあわされてしまう。そういうことが、現代では、よくあります。
間違っていることでも、間違っているよといえない。それはどうしてなのか。それは、平等と自分勝手をわざと間違えて、好きなことをしている人が、たくさんいすぎるからです。正しいことと、間違っていることの、境目を、わからないようにしていなければ、いやなことになるという人が、たくさんいるからです。
このことばの現代語訳に、迷いがあるのも、今の世界では、正しいことを正しいと自信を持って言うことが、不可能に近いからなのです。手元の資料では、「間違っている意見でも、研究すれば、過ちを免れる」と訳してあります。どう考えてもへんな意見でも、いっぱしに扱わなければ、相手に憎まれて、やられてしまう。そういう意識があるからでしょう。
正義と偽善を混ぜ、汚い混合液をつくり、ありとあらゆるところに塗りたくっている。そういう人が、たくさんいる。ですから、正しいことをやりぬこうとすることが、厳しすぎるほどに厳しい。彼らは、正しいことなど、この世にあっては困ると思っている。そうでなければ、やっていることが、いやがうえにも馬鹿になってしまうからです。その馬鹿を、たいまいの金と暇と、あらゆる手間をかけてやっているということになるからです。
では、正しいことが、この世界にないのかといえば、決してそうではない。それは、舞台裏のすみに放って置かれているだけで、確かに存在している。それがなければ、すべてが苦しく、いやなものになってしまう。いえ、それがなければ、すべてがだめになってしまう。
当たり前の、真実こそが、正しい。あらゆる存在の美を、よしとしている愛が正しくなければ、すべてがないものになってしまう。それなのに、愚かな人は、それを間違っていることにしたいという。でなければ、自分が間違っていることになるから。
間違っていることを、正しいとして、生きていけば、どんなにうまくやっても、うその苦しさから逃げることができない。常に、嘘に真実の着物を着せるために、あらゆる努力をしていなければならない。そのために、あらゆる事実を曲げ、殺していかねばならない。
そうして、生きるものの世界が、あらゆる苦しみに、害に満ちることになる。
正しいことは正しく、間違っていることは間違っている。その明快な真実がわかっていれば、孔子のこのことばは、あっけらかんと、ただ事実を言っているだけになります。それが、解釈するものの首をあれこれひねるほどに迷わすのは、現代の真実が、恐ろしいことになっているということです。
(しいわく、いたんをおさむれば、ここにがいやまん。)
先生はおっしゃった。間違っていることをやめさせれば、この世に苦しいことがなくなるでしょう。
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このことばは、いろいろ解釈に迷いがあるようで、人によって現代語訳に違いがありますが、わたしはこんな風に訳してみました。
人それぞれに価値観は違う、という考えが主流になっている現代では、明らかに間違っていると思えることでも、自分と他人は違う、の一言でうやむやになってしまうことがあります。どう考えても、そんなことをすればひどいことになる、ということでも、それが間違っているということを、大きな声では言えない。「例えばこうではないかな?」と、控えめに婉曲に言わねば、手ひどい目にあわされてしまう。そういうことが、現代では、よくあります。
間違っていることでも、間違っているよといえない。それはどうしてなのか。それは、平等と自分勝手をわざと間違えて、好きなことをしている人が、たくさんいすぎるからです。正しいことと、間違っていることの、境目を、わからないようにしていなければ、いやなことになるという人が、たくさんいるからです。
このことばの現代語訳に、迷いがあるのも、今の世界では、正しいことを正しいと自信を持って言うことが、不可能に近いからなのです。手元の資料では、「間違っている意見でも、研究すれば、過ちを免れる」と訳してあります。どう考えてもへんな意見でも、いっぱしに扱わなければ、相手に憎まれて、やられてしまう。そういう意識があるからでしょう。
正義と偽善を混ぜ、汚い混合液をつくり、ありとあらゆるところに塗りたくっている。そういう人が、たくさんいる。ですから、正しいことをやりぬこうとすることが、厳しすぎるほどに厳しい。彼らは、正しいことなど、この世にあっては困ると思っている。そうでなければ、やっていることが、いやがうえにも馬鹿になってしまうからです。その馬鹿を、たいまいの金と暇と、あらゆる手間をかけてやっているということになるからです。
では、正しいことが、この世界にないのかといえば、決してそうではない。それは、舞台裏のすみに放って置かれているだけで、確かに存在している。それがなければ、すべてが苦しく、いやなものになってしまう。いえ、それがなければ、すべてがだめになってしまう。
当たり前の、真実こそが、正しい。あらゆる存在の美を、よしとしている愛が正しくなければ、すべてがないものになってしまう。それなのに、愚かな人は、それを間違っていることにしたいという。でなければ、自分が間違っていることになるから。
間違っていることを、正しいとして、生きていけば、どんなにうまくやっても、うその苦しさから逃げることができない。常に、嘘に真実の着物を着せるために、あらゆる努力をしていなければならない。そのために、あらゆる事実を曲げ、殺していかねばならない。
そうして、生きるものの世界が、あらゆる苦しみに、害に満ちることになる。
正しいことは正しく、間違っていることは間違っている。その明快な真実がわかっていれば、孔子のこのことばは、あっけらかんと、ただ事実を言っているだけになります。それが、解釈するものの首をあれこれひねるほどに迷わすのは、現代の真実が、恐ろしいことになっているということです。