マルコム・キルターは、白い電話機を耳にあて、そこから聞こえる強い罵声に耐えながら、しきりに頭を下げていました。
「…はい、申し訳ありません。すべてはこちらの責任です。…はい、最大限の努力をしております。わかっています。そこのところを、どうか…」
そこは、小さなビルの三階にある事務室でした。マルコムの隣の机では、若い社員がもう一人、電話を片手に、同じように、平謝りに謝っていました。彼らのほかに、もうひとり、五十がらみの女性の事務員がいて、彼女もまた、電話を片手に話をしながら、しきりにボールペンでメモ帳に何かを書いていました。
彼らは、ある健康食品会社の、小さな販売代理店の社員でした。いや、三日前まではそうだったと言うべきでしょうか。三日前、突然、社長が会社のお金を大部分持ち逃げして、愛人と一緒に消えてしまい、会社はそれでほとんど崩壊状態に陥ったのです。
マルコムは、受話器を置くと、一つ深く息をつきました。それと同時に、若い社員も電話を置き、悲しそうな顔をして、肩を落としました。マルコムは彼に呼びかけました。「そっちはどうだった、ヒュー」すると、ヒューと呼ばれた若い社員は、顔をゆがませてマルコムを振り向き、言いました。「めちゃくちゃです。なんでこんなことになるんですか。能無しのくそやろうって言われましたよ!」ヒューは涙で目がうるんでいました。マルコムは、眉を歪めて目を閉じ、額をもみながら、言いました。
「今やるべき最優先することは何だ? 本社のロバーツさんには一応連絡を入れておいた。能無しのくそやろうどころじゃないことを言われたが、打てる手は一応打っておいてくれるそうだ。さて、今おれたちにやれることは何だ?」マルコムは考えようとしました。しかし、彼の頭の中には、さっきの電話から聞こえた罵声ばかりが響いて、何も考えるこができませんでした。ヒューが責めるように言いました。「なんでボスは逃げなかったんです?ほかの役員も社員もみんな逃げましたよ。あんな社長のやってた会社なんて、なんでぼくらが責任もたなきゃいけないんだ。逃げて当然ですよ。ほんとに、なんでぼくも逃げなかったんだ」彼がそう言ったとたん、また電話が鳴りました。ヒューはあわててそれを取りました。耳を刺すような女性のどなり声が聞こえました。ヒューはただ、「申し訳ありません、申し訳ありません」と電話口に向かって繰り返していました。
事務室のすみで、落ち着いた対応をとっていたミセス・アトキンスは、電話を置くと、静かに立ち上がり、給湯室に入っていったと思うと、すぐにコーヒーを人数分持って出てきました。
「いや、ありがとう、アトキンスさん。コーヒーなら自分でいれるのに」マルコムが言うと、ミセス・アトキンスは答えました。「いいんですのよ。こんなときならなおさら。とにかく落ち着きましょう。焦ってもしょうがない。果たすべき責任は果たすのが、仕事というものですもの。わたしも、できることはやりますわ」
「ミセス・アトキンス」マルコムはコーヒーを受け取りながら、感銘を受けたように言いました。「他の社員は男も女も誰も来なかったのに、なぜあなたは来たんです?あなたには何の責任をとる必要もないのに」
「その言葉はそのままあなたにさしあげますわ。なぜ逃げませんでしたの?社長のやったことのしりぬぐいなんて、あなた、する必要はないじゃありませんか」
するとマルコムは、ゆがんだ笑いをしながら、言いました。「ほんとうに、なぜでしょうね。逃げてもよかったんだが、できなかった。ただそれだけだな」
そのとき、また電話が鳴りました。マルコムはコーヒーを机の上において、電話を取りました。大口の取引先からの電話でした。マルコムは、無意識のうちに背筋をぴんと伸ばし、まるで幻の王様に拝礼しているかのように、頭を下げながら、消え入りそうな声で電話の受け答えをしていました。
ミセス・アトキンスはそんなマルコムの様子を一瞥した後、鳴り始めた他の電話を取り、落ち着いた声で受け答えをしました。
「…ええ、わかっております。もちろんですわ。やれることはすべてやるつもりです。御希望通りにはいかないかもしれませんけれど、何とか、来月くらいまでには。はい?それではだめですか。では…」
三人の中では、一番、ミセス・アトキンスが落ち着いているようでした。マルコム・キルターは、この普段は目立たない女性の思わぬ強さに驚いていました。彼女の対応の仕方は、まるで平常と変わりがありませんでした。マルコムとヒューは顔を見合わせ、こういうときは、男の方がだらしないなというような、苦い笑いを交わしました。
苦情と催促の電話ばかりに受け答える一日は、あっという間に終わりました。終業時間になっても、三人は家に帰らず、事務室の椅子に座ったまま、ぼんやりとしていました。中で一番若いヒューが、茶色の髪をかきむしり、悔しげに泣き始めました。
「うそみたいだ、こんなこと!どうすりゃいいんです?払わなきゃいけない金が一文もない。みんな社長が持っていっちまった!あんな女ひとりのために!!」
「会社の資産を処分してなんとかするしかないだろう。アトキンスさん、確かありましたよね」
「ええ、土地が少し。将来自社の社屋を建てるために買っておいたものですわ。ほかにめぼしいものはありません。どうします?」
「ほんとに、どうする?とにかく、とにかく、何かを、やるしかない」マルコムは前髪をぐしゃりとつかみながら、自分に言いました。
ヒューは泣き声混じりに言いました。
「なんでぼくらがこんなことしなきゃいけないんだ!まるで地獄だ!なんでですか!ボスは、なんでこんなこと、やってるんですか!」
ヒューのわめく声に、マルコムは答えました。「落ち着け、おれは、こんなことを経験するのは、初めてじゃない。地獄なんてのはな、こんなものじゃないんだ。もっとひどい地獄はある。だがな、地獄を見て、泣きわめくばかりで何にもしないのは、馬鹿だ。本当に頭のいいやつはな、地獄の底をのたうちまわって、そこから獲物を取ってくる。大事なのは、どんな地獄に落ちても、自分の旗は決して捨てないということだ」
「旗?」ヒューが、呆れたように返しました。「なんですかそれ?金になるもんですか?」
マルコム・キルターは上を見上げ、深いため息を天井に向かって吐きました。ミセス・アトキンスが静かに立ち上がり、また給湯室に入って、コーヒーを持ってきました。二人は、礼を言いながらそれを受け取り、一口、それを飲みました。すると不思議に、胸に固まっていた氷のようなものが解け、マルコムもヒューも、幾分、落ち着きを取り戻しました。
マルコム・キルターは、この小さな会社で、部長という肩書はもらっていました。年は四十路半ばと言うところでしょう。ヒューは三十代に入ったところでした。マルコムは時計を見ながら言いました。
「そろそろ約束の時間だ。今から支社に行って、頭を下げてくる。ロバーツさんが手はずを整えてくれたんだ。恥ずかしい事情も何もかも話してくる。それしかないだろう。ぶっちゃけ、真実を言ってわかってもらうよりほかはない。土地を売って金ができるまで待ってもらえるかどうか、尋ねてみる」
「そんなことできるわけないじゃないですか!」ヒューが叫びました。
「だがほかに何の方法がある?やってみねばわからない。ひとすじでも希望があるのなら、おれはそれにすがってみる。行動を起こせば、反応はある。そこから何か始まるかもしれない。それがおれの信条だ」
マルコムはヒューの咎めるような視線に背を向け、椅子にかけていた上着を羽織りました。するとミセス・アトキンスが風のように彼のそばに寄ってきて、少しゆがんでいた彼のネクタイを直しました。
「や、ありがとう、アトキンスさん、何もかもやってくれて。お礼の言いようもないほどだ。助かります」
「いいえ、わたしも、キルターさんと同じ意見ですから。不動産会社につてを持っていますから、今からそこの知り合いに電話をかけますわ。なんとかしてみます。なんでも、やってみねばわかりません。それにしても、キルターさん、『旗』って、なんですの?」
ミセス・アトキンスが尋ねると、マルコム・キルターは、ふっと笑って、顔を崩しました。「男のプライドってもんですかね。お笑いになっても結構ですよ。今時、ギャグにもなりませんから。地獄なら、もっとひどいのをわたしは味わったことがある。だが、わたしは、自分の旗を下げることだけは、したくなかった。戦に負けても、旗だけは最後まで立ち上げる。それはこの、わたしの、旗ですから」マルコム・キルターは、自分の胸に手をあてながら、きっぱりと言いました。するとミセス・アトキンスは、唇を悲しげに歪めて微笑み、言いました。
「男の人の旗ですか。いいですわね。わたしも旗を持っていますわ。少し、色が違うかもしれませんけれど」
マルコム・キルターは、ミセス・アトキンスに微笑み返すと、風のように身を翻し、事務室の扉を開けて、出ていきました。その後ろ姿を見送ったヒューが、苦しそうに笑い泣きしながら、言いました。
「…自分の旗か。男の、プライドか。骨董品じゃないんだ!くっそう!」
ヒュー・ラムリーは、机をどんと叩きました。涙がぽたぽたと机の上に落ちました。「ちきしょう、地獄の底の、獲物か…!」
ヒュー・ラムリーは机の上に置いた拳を見つめながら、言いました。そのとき、また電話が鳴りました。ミセス・アトキンスがそれをとろうとしましたが、それよりすばやく、ヒューがその電話をとりました。
「…はい。ああ、今、出たところです。もう少しでつくと思うんですが。…ええ、わかっています。すべてはこちらの責任です。できることはすべてやります。便所掃除でもかって?…はは、おもしろいですね。ええ、やりますよ。それはきれいになめるように掃除します。…もちろん!」
ヒュー・ラムリーは、目に涙を流しながらも、落ち着いた声で受け答えました。こんちきしょう、馬鹿にしやがって!という彼の心の中の叫びが、ミセス・アトキンスには聞こえました。
ミセス・アトキンスは、冷めたコーヒーの器をトレイの上に集めると、給湯室の中に姿を消しました。そして、器を洗って片づけながら、ふと顔をあげ、目の前の白い壁を見つめました。その目が一瞬、金色に光りました。
「旗か。ふむ、なかなかおもしろいことをいう」と彼女は言いました。しかしそれは女性の声ではありませんでした。ふと、ミセス・アトキンスは小さなめまいを感じ、ゆらりと体が揺れたような気がしましたが、すぐに自分を取り戻しました。食器を片づけつつ、彼女は考えました。
(キャリーに電話をかけないと。今頃は家にいるわね。彼女に頼んだら、土地を何とかしてくれるかもしれない)ミセス・アトキンスは給湯室から出ると、さっそく電話をとり、番号を押しました。
そんな彼らの様子を、事務室の隅で、白髪の背の高い若い男がじっと見つめていました。ほう、と彼は言いながら、事務室を見まわしました。もちろん、白髪で長身の若者の姿など、他の人間には見えはしませんでした。見えたらそれはびっくりすることでしょう。
彼はさっきまで、ミセス・アトキンスの中にいて、様々なことを彼女といっしょにやっていたのですが、その用も一旦終わったので、彼女の体の中から出てきたのです。
白髪の男は、ミセス・アトキンスとヒュー・ラムリーの様子をしばしじっと見つめていました。二人は、終業時間を終えてもかかってくる電話に、必死に受け答えしていました。彼らの胸の中で、悲しみや恨みやかすかな希望など、様々な感情が複雑に渦巻いて、鳴き騒いでいるのが、白髪の男には聞こえました。
「人類よ…」彼は、若者の姿に似合わぬ低い男の声で、言いました。「さて、どこまでやれる。地獄には、まだ先がある。ここが底だと思うてはならぬ。どこまで、自分の旗を持っていられる」
白髪の男は、冷たい金色の目で彼らを観察し、興味深い情報をいくらか収集したあと、口の奥で何かをつぶやき、ふっとそこから姿を消しました。
そのころ、マルコム・キルターは、支社の駐車場に車を止めたところでした。彼は車のドアを開けて、外に出ると、どくどくと弾む胸をおさえつつ、自分を落ち着かせようと空を見上げました。紺色の空に白い月がかかっていました。その空を金の目をした聖者が飛んでいましたが、それに彼が気付くはずもありませんでした。
マルコムは、月に祈るように言いました。「おれは何でやっている?こんな、絶望的なことを。逃げてしまっても、誰も文句は言うまいを。なにがおれにそれをやらせる?わからない。が、やらずにいられない。これが、おれって、ものか!」マルコム・キルターはにじむ涙を目じりに感じながら、一歩を踏み出しました。彼の上着の裾が、風に旗のように翻りました。支社の明るいガラスの扉を開きながら、彼は叫ぶように言いました。
「グッド・イヴニング!」