灰色の岩肌がところどころに見える、木々もまばらな森の奥、白い野生蘭の生え群がる草むらの少し上、小さな岩場の上に、二頭の虎が、身を寄せ合って眠っていました。
空はうっすらと乳色の雲に覆われ、太陽はその向こうから、白く少しさみしげに、あたりの景色を照らしていました。風がかすかな悲しみを、眠っている虎たちの夢の中から吸いとってゆきました。そして少しでも良い夢が見られるようにと、こっそりと、愛の薬をその魂に塗ってゆきました。
二頭のうち、大きい方は雄、小さい方は雌でした。彼らは、ずいぶんと前に地球上で生きていたとき、母と子でありました。雌虎は、自分の子だった雄虎から、なかなか離れることができず、ずっとこうして一緒にいました。本当は、ここにいてはならないということを、雌虎は、なんとなく分かっていましたが、雄虎が決してここから離れようとしないので、仕方なく、そばにいるのです。
「ロクスタリム、カルカヤヒム」
どこからか、声が聞こえました。それは二頭の虎の名前でした。名前を呼ばれると、皆不思議に、胸が熱くなり、どきどきしてしまいます。二頭の虎は、はっと目を覚まし、周りをきょろきょろと見まわしました。するとどこからか、ずさりと、砂が崩れ落ちるような音がしたかと思うと、岩場から少し離れた、二本の細い立木の間の草むらの中に、白地に銀の縞模様をした、それは大きな双頭の虎が現れ、熊のように立ち上がってこちらを見ているのです。二頭の虎はそれを見ると、びっくりして恐れを抱き、喉の奥でうなりながら、牙をちらつかせました。
「ロクスタリム、カルカヤヒム、おとなしくなさい。わたしたちはおまえたちを迎えにきたのだから」
双頭の銀虎は言いました。そして、右の方の頭が、口笛できれいな旋律を鳴らし、左の方の頭が、それに和して小さな呪文を歌いました。すると、二頭の虎は、何かに操られるように、寝そべっていた岩場の上から立ち上がり、のっそりと双頭の銀虎のそばによってきました。
ろくす、たりむ、ろくす、たりーむ…
ロクスタリムと呼ばれた雄虎は、言いながら、静かに双頭の銀虎のそばに座りました。カルカヤヒムという雌虎も後に従いました。二頭が静かに行儀よく草むらの上に座ると、双頭の銀虎は、氷のように厳しかった青い目をふとゆるませ、彼らのそばの草むらにゆっくりと座り、「おお、良い子だ、ふたりとも」と声を合わせて言いました。
ろくす、たりーむ、ろおくす、たりーむ…
ロクスタリムは言いました。虎は、まだとても幼い魂であり、孤独を好む生き物なので、もともと、ものをしゃべることは苦手なのですが、このロクスタリムはその虎の中でも、相当に幼く、まだ、自分の名前以外のことばをしゃべることができませんでした。けれども、双頭の銀虎には、彼の言いたいことが、よくわかりました。ロクスタリムはこう言いたかったのです。「ロクスタリム、つらい。ロクスタリム、いやだ」
カルカヤヒムは、そんなロクスタリムの横顔を見ると、言いました。
かるかやひむ、ここ、いる。かるかやひむ、ろくすたりむ、いっしょ。
すると双頭の銀虎は、悲しく目を細め、同時に深いため息をつきました。右の方の頭が、ゆっくりと頭を振り、左の方の頭に、言いました。
「どうするね。ふたりとも、まだここにいたいと言っている」すると左の方の頭がそれに答えて言いました。「うむ。しかしもうこれ以上、時間を待っている余裕はない。とにかく何とかして、ふたりに言い聞かせないと」
双頭の銀虎は、ロクスタリムとカルカヤヒムの顔をかわるがわる眺めると、声を合わせて同時にしゃべり始めました。
「ロクスタリム、カルカヤヒム、残念だけれど、もうこの森に住むことはできなくなるのだ。なぜなら、君たちの一族は、もう地上では滅んでしまったからだ。地上の人間たちがね、君たちの毛皮や、骨からとれる薬などを欲しがって、君たちをみんな殺してしまったのだ。もう地球上に、君たちと同じ種族の虎はいない。君たちはもう、地球上では、滅びてしまったのだ。わかるかい?ロクスタリム、カルカヤヒム、君たちはもう、その姿を捨て、別の虎の一族に、籍を入れねばならないのだ。そうでないと、虎として地球上で生きられなくなるからだ」
ろくすたりむ、ろおくす、たりーむ…
ロクスタリムが言うと、双頭の銀虎は、苦しそうに息を吐きました。「困ったな、まだいやだと言っている。どうすればいいと思う?」左の頭が、右の頭に尋ねました。右の頭は、ふうむ、と言いながらしばらく考えて、カルカヤヒムの方に声をかけてみました。「カルカヤヒム、君はどうだい?君はかしこい。ぼくたちの言っていることが、わかるね?」
かるかや、ひむ、かる、かや、ひむ、かるるかあやひむ、わから、ない…。
双頭の銀虎は、互いに横目でまなざしを交わし合うと、二頭の虎たちには聞こえないところで、会話を始めました。そして何分かの沈黙が続いたあと、右の頭が言いました。
「ほんとうにね。できることなら、いつまでも、ここにいたいだろう。ここは、昔から、君たちの一族が住んでいた、とてもいいところだった。食べ物もたくさんあって、水もきれいで、花もたくさん咲いていた。神様が、君たちのために、それは心をこめてていねいに作って下さった、とても美しい森だったのだ。それを捨てて、去っていくのは悲しいだろう」ロクスタリムは、座ったまま、聞いているのかいないのか、ただぼんやりと前を見ていました。カルカヤヒムは何も言わず、ロクスタリムの横顔を見ていました。左の頭が言いました。「ロクスタリム、カルカヤヒム、残念だけれど、この森は、もうすぐなくなってしまうのだ。君たちはもう、別の森に住まなくてはならない。仕方のないことなのだ。もうここにはいられないのだ。わかっておくれ。悲しいけれど、ほんとうに悲しいけれど、もうここはなくなる。君たちはもう、地球上では滅びてしまったから」
ほろび、ほろ、び、なに? かるかやひむ、ほろびた。い、いなくなた…?
「ああ、地球上にはもう、君たちはいなくなってしまったのだ。カルカヤヒム、悲しいけれど、もう、君たちだけなんだよ、この一族の虎は。ほかの虎はもうみんな、それぞれに姿を変えて、ほかの一族に籍を移している。君たちもそうしなければならないのだ。要するにね、少しばかり、姿が変わって、名前が変わるだけだ。怖くはないよ。痛い思いなどもない。慣れるのに、少し時間がかかるかもしれないが、つらいときは、必ずぼくが助けにいってあげるから。さあおいで、いっしょに行こう、ロクスタリム、カルカヤヒム」
ろくすた、りむ、りいむ、ろくす、た、たりーむ…
ロクスタリムが言いました。双頭の銀虎は、困ったような顔をしました。どうしても、ロクスタリムはこの森から離れたくないようなのです。カルカヤヒムは、首を傾げたり、目をぱちぱちさせたりしながら、ロクスタリムの様子をじっと見ていました。
かるかやひむ、どこにいく?
カルカヤヒムが、ふと双頭の銀虎の方を見て、尋ねました。すると双頭の銀虎は、言いました。
「ヨニブの森の虎、という一族に、入ることになる。その一族は、地球上では、人間の保護を得て、だいぶ数を増やしている。ふたりとも一緒だよ。ヨニブの森の虎は、君たちによく似ている。少々体が大きくなって、微妙に模様が変わるし、ことばも少し勉強しなければならないかもしれないが…、何、大丈夫だ。神さまはいつも助けて下さるから。それに…」右の頭が言いかけたことを、左の頭が続けて言いました。「…ヨニブの森は、ここの森よりずっと豊かだ。たくさん虎がいるからね。花も、それはおもしろい花が咲いている。川があってね。鳥が時々来る。森は深くて、濃い緑の匂いがする。お日様の光が差し込むと、そこらじゅうに、琥珀を散らしたかのように、光が舞い散る。おいしいものも、いっぱいある。君たちの知っている友達もいるよ。君たちはひとりが好きだけど、やっぱり、いつもひとりぼっちはいやだろう?たまには、友達にも会いたいよね?」
双頭の銀虎は、一生懸命、ふたりを説得しました。ふたりのうち、どうやらカルカヤヒムは、その気になってきているようでした。彼女は、ヨニブの森に、昔姉妹だった虎が住んでいると聞いて、どうしてもその姉妹に会いたくなってしまったのです。それでカルカヤヒムは、ロクスタリムに決意を促すように、彼の耳元に鼻をぶつけました。しかしロクスタリムは、双頭の銀虎の話が、半分もよくわからなかったので、ただ憮然として、ろくすたりっむ、ろくすたりむと、繰り返すだけでした。つまりは、何もわからないまま、ただいやだと言っているのです。
双頭の銀虎は、また横目でまなざしを交わすと、困ったように、ほうと息をつきました。右側の頭は、少し口を歪めて、白い牙をかみつつ、しばしの間考えました。そして苦しそうに目を閉じたかと思うと、ふと目を開けて、左側の頭に、言いました。
「仕方ない。もう最後の手段でいくか」すると左側の頭も言いました。「それしかないね。このまま放っておくこともできない。この森はもう、なくなってしまうから…」「ぼくがやろうか?」「いや、いっしょにやろう。こんなことをやるのに、君だけに責任を負わせるわけにはいかない」
双頭の銀虎は、横目でまなざしをかわしつつ、少し悲しげに微笑みました。そして、ふっという、息を合図に、声を合わせて同時に呪文を唱えました。すると、日の光が突然濃く、ロクスタリムの周りにあつまり、それは光に染まった水晶の糸のようにもつれあって、ほぼ一瞬の間に、ロクスタリムを丸い光の繭の中に閉じ込めてしまいました。カルカヤヒムが、びっくりして、ぎい、と高く鳴いて立ち上がり、そこから跳びのきました。左側の頭が、カルカヤヒムの名前を呼び、おとなしくしなさい、怖くはないよ、と言い聞かせました。するとカルカヤヒムは、ふっと我に返った様子で、そこに立ちつくしたまま、茫然と光る繭を見ていました。
双頭の銀虎は、器用に後ろ足で立ち上がると、ロクスタリムを閉じ込めた繭を軽々と持ち上げ、肩に担ぎました。そしてカルカヤヒムに、ついてきなさい、と言いました。カルカヤヒムは素直に、双頭の銀虎についてきました。双頭の銀虎は、人間のように、二本の足で歩いて、繭の中のロクスタリムと、カルカヤヒムをつれて、森を去りました。歩いていくうちに、周りの風景がぼんやりと溶け始め、いつしか繭をかついだ双頭の銀虎とカルカヤヒムは、細長い洞窟の中の一本道を、静かに歩いていました。洞窟の壁には所々、日の光を集めて珠玉に閉じ込めた明るい灯がとめつけてあり、暗い洞窟の道を照らしていました。やがて、道の行く手に、小さな赤茶色の石の扉が見えてきました。双頭の銀虎は、その扉の前に立つと、何か不思議な合い言葉のような言葉を唱えました。すると、音もなくその扉が開いて、双頭の銀虎とカルカヤヒムは、吸い込まれるようにその扉の向こうに入っていきました。
扉をくぐると、そこには不思議な風景が広がっていました。目も眩むほど天井の高い広大な寺院の中のような空間があり、大理石の床には、何か、乳色の石板を組み合わせて作った大きな四角い書棚のようなものがたくさん生えていて、それが寺院の床に幾つも列を作って行儀よく並び、はてしなく向こうまで続いているのです。上を見ると、書棚はとても高い吹き抜けの天井のてっぺんまで届いていて、上の方は、何やら白くかすんでいて、よく見えません。書棚とは言いますが、もちろん本をつめているわけではなく、棚を仕切った大きな広い枠の中では、白や黄色や薄緑や虹色の、馬でも中に入っているかのような大きな繭が一つずつ入っていました。繭は時々、何かを思い出したかのように、ぴくぴくと動いたり、不思議に光っていたりしています。少し離れたところにある違う列の棚では、小さな枠の中に、鼠や兎くらいの大きさの繭が入っていました。空気には不思議な薬香の気持ち良い香りが漂い、それをかいでいると、魂の中にわだかまっていた暗い不安が、ゆっくりとほどかれて、清められてくるような気がしました。
ここ、どこ?
カルカヤヒムが尋ねました。すると双頭の銀虎の左の頭が答えました。「ここは蚕堂(さんどう)というところだ。だいじょうぶ、怖くはない」すると次に、右側の頭が言いました。「君たちは、ここでしばらくの間、繭につつまれて眠ることになる。魔法の繭の中で、自分の体を少し変えるのだ。そんなに長い時間はかからない。すぐに出てこられる。出てきたときにはもう、姿も名前も変わっている。カルカヤヒム、君には、わかるね」
かるかやひむ、なまえ、かわる。
「ああ、そうだ。種族が変わるから、名前も変わる。もう決まっているから、教えてあげるよ。繭から出てきたときの、君の名前は、マリテラシム。ロクスタリムは、アスカルディムになる」
なまえ、かわる。つらい。
「ああ、そうだね。君は、長い間ずっとカルカヤヒムだったからね。つらいとは思う。でもきっと、すぐに新しい名前に慣れるよ。みんなこうやって、段階を上がるときや、いろいろの事情があって他の動物や種族に変わるときなどに、自分の姿や名を変えていくのだ」
扉の前でしばし話していると、この広大な蚕堂の管理人の一人が、薄青い服を着た数人の精霊を連れて彼らの元に飛んできました。管理人は、銀虎に挨拶をすると、カルカヤヒムを精霊に連れて行かせました。双頭の銀虎は、管理人に事情を話してから、ロクスタリムの入った繭を、別の精霊の手に託しました。管理人は、銀虎から手渡された書類を手に、銀虎に挨拶すると、ロクスタリムの繭を持った精霊を連れて、蚕堂の奥に帰っていきました。
「だいじょうぶだろうか?本人の了解もなくやってしまうと、後が苦労だ。無事に姿を変えられるといいんだが」右の頭が言うと、左の頭が答えました。「こんなケースは初めてじゃない。ここの人は専門家だ。こういう場合のやり方も心得ている。ぼくたちはとにかく、これからも観察を続けながら、新しい環境と名前に、彼らを慎重に慣らしていくよりしかたがない」「そうだな」
そう言うと、双頭の銀虎は蚕堂の管理人や精霊たちに挨拶をし、扉を開けて蚕堂の外に出ました。そして、閉めた扉の前で呪文を唱え、変身を解くと、双頭の銀虎の姿はたちまちのうちに消え、そこに、水色の服を着た二人の青年が現れました。片方の青年は、虎の紋章のついた白い旗を持っていました。
「とにかく、ロクスタリムの観察はこれからも注意深く続けていこう。いや、アスカルディムだったか」「うむ。みなより成長の遅いものは、小さなことで深い傷を得て、魂の病気にかかってしまうおそれがある。十分に愛でつつんでやらねばならない」
どこからか、からん、と石の鳴る音が聞こえてきました。すると二人は同時にその音がした方に顔を向けました。片方の青年が言いました。「ああ、森がとうとう壊れるんだね」もう一人の青年が答えました。「うむ、あの一族の名残は、これで永遠に消え去ることになる」
「人間は、わかっているだろうか。ひとつの種族を自分たちが滅ぼしたということが、どういうことになるかということを」
「わかっていたら、あんなことはしないだろうさ。ロクスタリムも、カルカヤヒムも、いなくなった。もう、永遠に、あの一族がこの世界に現れることはない。神がお創りになった、本当に美しい種族だったのに」ふたりの青年の胸の中に、言いようのないさみしさが、小人のように住みつきました。目にうっすらと涙がにじみました。
「ロクスタリム、カルカヤヒム!」一方の青年が、何かに感極まったように、洞窟の向こうに向かって、叫びました。どこからか、かすかに、空耳のような木霊が、返ってきました。
ろくす、たりーむ…、かるかや、ひむ…