白い霧の中を、一頭の月毛の雌馬がさまよっていました。空を見ると、霧の向こうに、かすかに、お日様の光が見えます。雌馬は、霧の中を歩いているうちに、どこからか水の音を聞きつけ、その音を求めて、草の上を歩き始めました。するとすぐに、灰色の小さな川の流れを見つけました。雌馬は喉が渇いていたので、その川の水をごくごくと飲みました。水は汚れていたので、少し苦いものが、喉の奥を刺しました。
「ユリヤレイム!」
どこからか、呼ぶ声がして、雌馬は顔をあげました。それはその雌馬の名前でした。自分の名前を呼ばれると、どうしても、心が焦って驚いてしまいます。雌馬はきょろきょろと周りを見回して、自分を呼んだ者の姿を探しました。すると、霧の空の向こうから、大きな白い馬が、白い翼をはためかせながら、飛んでくるのが、見えました。白い翼馬は、ユリヤレイムのそばにゆっくりと降りてくると、翼をたたみながら、言いました。
「ユリヤレイム、探したよ。どうして群れから離れるのだい?みんなといっしょにいるのが、いやなのかい?」翼馬は、やさしくユリヤレイムに声をかけました。するとユリヤレイムは言いました。
いやなの。きらいなの。みんな、きらいなの。
「どうして?みんな、君に意地悪をしたりしないだろう?」翼馬がいうと、ユリヤレイムはふいと顔を背けました。
みんな、ぶつかるの。いたいの。いたいの。みんな、ぶつかるの。くるしいの。
「ああ、そうだね。君はいつも、ぶつからないように気をつけているのに、みんなは、ぶつかってくるね。ぶつかると、いたいものね。でもそれはね、君に意地悪をしてるわけではないんだよ。まだみんなには、上手にぶつからないようにすることが、できないだけさ」翼馬は言いました。でもユリヤレイムは顔を背けるだけで、翼馬の言うことには耳を貸さず、川の水を飲み続けました。
翼馬は、そんなユリヤレイムの様子を見て、少し困ったように首を傾けましたが、しばらくして、ひゅう、と口笛のような音で鳴きました。するとユリヤレイムはその音のひきこまれるように川から顔をあげ、翼馬の方に歩いてきました。
「おいで、ユリヤレイム。お話をしてあげよう」翼馬は、ユリヤレイムを草の上に座らせると、自分もそのそばに座り、優しい声で、話を始めました。
「…そうだな。おもしろいことばを、教えてあげよう。こういうのだ。『アッラーは偉大なり。アッラーのほかに神なし』…どうだい? 不思議なことばだろう」
あらあ? いたい? なありい?
「そう、魔法の言葉だ。君にはまだちょっと難しいかもしれないけど、これはこういう意味なんだよ。『愛よりも大切なものはない。愛以外に真実はない』」
ああ、あい。しってる。それ、いいもの。とても、いいもの…
「そうだ、かしこいね、ユリヤレイム。愛は、とてもいいものだ。しってるね。草も、川の水も、光も、みんな愛だって、教えてあげたけど、覚えているかい?」
ああ、おぼえてる。みず、うれしい。くさ、すき。みんな、あい。いいもの、みんな、あい。
「そうだ。かしこいね、ユリヤレイム。お話はね、こういうのだ。…昔ね、カリールという名の、とても賢い美しい馬がいた。その馬はね、ある日、とてもすてきな、清らかな水の流れる、川を見つけた。それはすてきな川でね、流れる水は水晶のように澄んでいて、薔薇のような香りがして、それを飲むと、甘くて、おいしくて、体じゅうにお日様が満ちてきて、体がとても健康になるんだよ。その川の名前がね、アッラーという名だったのさ」
あらあ、かわ? みず、きれいな、みず、か、かりーる…
「そう、かしこいね、ユリヤレイム。それでね、カリールはね、他の馬がみんな、とても汚い、嫌な水を飲んでいるのを、見つけてね、アッラーという名前の川のことを、ほかの馬に教えてあげようとしたんだ。その水のほうが、ずっときれいで、それを飲むと、本当に、心にも体にも、いいことが、いっぱいおこるからだ。みんなの飲んでいる水は、灰色で、とても苦くてね、いつまでも飲んでいると、病気になってしまうような、きたない水だったんだよ。だからカリールは、どうしても、きれいな水の流れるアッラーの川のところに、みなをつれてきたかったんだ。それでね、みんなに、教えてあげたのさ。『アッラーは偉大なり。アッラーのほかに神なし』…つまりはね、こういうことさ。ほんとうの愛の川の水はとても甘くておいしいよ、ほんとうの愛の川の水以外の水を飲んではいけないよ。病気になってしまうから」
あーいーの、かわ。ああ、いいもの、かわの、みず、おいしい、あらあの、かわ、どこ?
ゆりやれいむ、みず、のみたい。あらあ、のみたい。
「いい子だね、ユリヤレイム。もうしばらくは、ぼくのお話をお聞き。…カリールはね、アッラーの川があることを、みんなに、教えてあげたんだ。でもね、カリールには、アッラーの川が見えたのに、ほかの馬には、見えなかったんだよ。それでね、カリールはね、困ってしまったんだ。アッラーの川は、そこにあるのに、みんなには、それが、わからなかったんだよ。それでね、みんなはね、ほかのところに、もうひとつちがう川を見つけて、それが、アッラーの川だと、思ってしまったんだ。カリールは、それはちがうって言ったけど、みんな、信じなかった。新しく見つけた川は、前の水より、少しは、きれいだった。けれど、やっぱり何か苦いものが混じっていた。いつまでも飲んでいると、みんな病気になってしまう。カリールにはそれがわかった。でも、どうしても、本当の、アッラーの川が、みんなには、見えないんだ。なぜだと思う?ユリヤレイム」
なぜ? わからない。あらあ、みえない。あらあの、みず、のめない。かなしい。
「ああ、そうだ、悲しいね。カリールには、わかっていた。みんなにはね、愛が、見えなかったのだ。わからなかったのだ。だから、本当の愛の水の流れる、アッラーの川が、見えなかったのだ。カリールは悲しかった。何度も、その川は、アッラーの川ではないと、みんなに教えたのだけど、みんな、信じなかった。カリールは、悲しくて、群れを去っていった。そしてそのまま、帰ってはこなかった。カリールが、いなくなるとね、群れはとても、寂しくなった。なぜだろう? わかるかい、ユリヤレイム」
かりーる、いいうま、だから?
「おお。かしこいね、ユリヤレイム。そのとおりだよ。とても、きれいな、いい馬だったからだ。ほんとうにね。カリールがいる間は、みんな気づなかった。カリールが本当にすてきな馬だったと、いなくなってから初めて、気付いた。それでね。みんな、カリールの言ったことを思い出しては、今も、こう言っているんだ。『アッラーは偉大なり。アッラーのほかに神なし』…アッラーの川の水を飲もう。アッラーの川の水以外は飲んではいけない。そして、みんなは、今も、みんなの知っているアッラーの川の水を飲んでいる。…でもね、彼らのアッラーの川は、本当のアッラーの川ではないのだ。悲しいね。それを教えてくれるカリールは、もういないんだよ。ああ、どうしたら、いいんだろうね。みんなに、本当のアッラーの川を教えてあげるには、どうしたらいいだろう」
ユリヤレイムは、翼馬の話を聞いているうちに、ほんとうにその美しいアッラーの川の水を、どうしても飲みたくなってきました。どんなにか、おいしい水だろうと、思うと、心が踊るようにうれしくなってきました。そして、ほんとうにほんとうの、その川の水を飲むにはどうしたらいいのだろうと、その小さな頭で考えました。翼馬が、やさしく、ユリヤレイムに声をかけました。
「ユリヤレイム、君なら、どうするかい?」
ゆりや、れいむ、かりーる、さがす。かりーる、すき。かりーる、かりーる。おしえてくれる。かりーる、かりーる、あらあの、かわ、しっている。
「そう、かしこいユリヤレイム。そうしよう。カリールを探そう。教えてくれる。さあおいで。群れに、帰っておいで。体がぶつかって、時々、痛いかもしれない。それでもね、みんなをきらいになったりしないで、なかよくして、やさしくしてあげておくれ。できるだろう?ユリヤレイム。君はかしこくて、やさしい馬だ。きれいなきれいな、月毛のユリヤレイム。みな、仲良くして、おたがいに、やさしくしていれば、いつか、カリールが来てくれて、本当の、アッラーの川を、教えにきてくれるよ」
ほんとう? かりーる、くる。あらあ、のかわ、おしえ、くれる?
「本当さ。君にも、いつか、出会うことができるだろう。美しいカリールに。それはすばらしい馬だ。優しくて、美しくて、みんなに、親切にしてくれる」
ゆりや、れいむ、かりーる、すき。かりーる、あいたい。
「ああ、会えるとも。いや、本当はもう、会っているかもしれない。群れの中のどこかに、帰ってきているかもしれないよ。彼はね、ほんとうに、びっくりするくらい、とんでもないところから、飛び出してくることがあるから。時には、信じられないくらい、不思議なところに、いたりするから。みんなのところに帰って、カリールを探してみよう。そしてみんなに、カリールのお話を、教えておあげ。本当の愛の川のお話を。さあ、ユリヤレイム。おさらいだ。今からぼくが言うことを、もう一度言ってごらん。『カリール、アッラーの川。真実の愛の川を、教えてくれる。カリール、美しい馬。アッラーの川、教えてくれる』」
かりーる、あらあ、のかわ、おしえ、くれる、かりーる、きれいな、うま、あい、おしえて、くれる。あい、いいもの。いいもの、あい。あーいー、ああ、いい、あいい、あい、のかわ、あらあ、のかわ。あいの、みず。かりーる、かりーる、かりーる…
「いいよ、ユリヤレイム。覚えていられるだけ、覚えていなさい。群れに戻って、みなと仲良くして、みなに、カリールの話をしておあげ、本当の愛の水の話を。そうすれば、きっといつか、君は、カリールを見つけることができるだろう。さあ、いっしょにおいで」
翼馬はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、歩き始めました。ユリヤレイムも立ち上がり、その後を追いました。ふたりで歩いていくと、やがて霧がはれ、青い草原に群れているたくさんの馬たちの姿が遠くに見えてきました。太陽は十一時の位置にあって、明るく草原を照らしています。鹿毛や、栗毛や、葦毛や、青毛や、斑毛や、いろいろな馬がたくさん群れて、それぞれに、草を食べたり、池の水を飲んだり、じゃれあって遊んだりしていました。ユリヤレイムは群れを見ると、少し気持ちがうれしくなって、すいこまれるように、群れの中に帰っていきました。ユリヤレイムの姿は、すぐに、群れの中に混じって、見えなくなりました。翼馬は、ほっとした様子で、群れをしばらく眺めていました。
かりーる、あらあの、みず…。
かすかに、群れの中から、ユリヤレイムの声が、聞こえました。翼馬は、ふっと息を吐くと、小さな声で歌を歌いました。するとすぐに、翼馬の姿は消え、そこにいつしか、馬の紋章の旗を持った水色の服を着た若者が、立っていました。彼は言いました。
「…ちょっと、やりすぎたかな。でも、ユリヤレイムは賢い馬だ。ほかの馬と比べて、難しいこともよく理解できる。だから時々、群れから離れてしまうんだろう。他のものより段階が進んでいるものは、どうしても、皆と気持ちがあわなくて、ひとりになってしまう。そういうものには、何かもっと、新しいことを知ることが、必要なんだ。ユリヤレイム、君はもうすぐ、カリールになるかもしれないよ」
水色の服を着た若者は、一通り群れの様子を眺めると、旗を消し、代わりに目の前に自分のキーボードを出しました。そして、今日の馬の指導記録を打ち込み、ひとつ、ほっと息をつくと、キーボードを消し、指をぱちんとはじいて、目の前に小さな木の扉を出しました。
「ユリヤレイム、また明日会おう」そう言いながら、彼は扉を開いて、その向こうに消えていきました。
かりーる、かりーる、かりーる…、おしえて、あらあ、の、かわ…
月毛のユリヤレイムは、群れの中を歩きながら、美しいカリールの姿を、いつまでも探していました。