世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-05-10 07:15:57 | 月の世の物語・余編

空は竜胆の色をしていた。月はあこや貝の裏地のようであった。

白い衣服を身にまとった上部人は、黒曜石の大地の上に立ち、風に吹かれながら、さてどのような創造を行おうかと、考えていた。
彼は、上部人としてはまだ相当に若く、本格的な創造の次元魔法を学び終えて間もない頃であった。指導者からその魔法を学んでいたときは、あこがれの恋人に出会えた鳥のように胸がはずみ、学ぶことはそれは楽しく、彼は吸い取るように指導者の語る言葉を覚えていたものだが、実際に学んだことを、自ら行おうとするとき、何かしら、神の前に恐れ多きことをするかのようなわずかなおびえと、ためらいを感じている自分に、未熟さを思わざるを得なかった。

「あぉ、さり」彼はつぶやいた。…勇気は自分にあると思っていたが、新しきことに向かうとき、それは小鳥の雛のようにおびえることもあるのか。だが、とにかくはまず、最初にやらねばならないことは…、ふむ、わかっている。

彼は、右手を高くあげ、それをかすかに揺らし、風をその手にまきとった。風は旗のように彼の腕にまとわりついた。彼はその風に呪文を吹きこみ、ついこの間学んだばかりの、美しい呪文の歌を歌った。それは琴の音のような声で、彼の喉から流れだし、次元の彼方から光を呼んで、黒曜石の大地の上に、ひとひらの創造の衣をふわりと落とした。

「いゑ、み」…よし。基本の大地はできた。さて、これからが自分の工夫だ。まず自分に尋ねよう。わたしよ、何が欲しい。何が見たい。何を創りたい。

彼は、竜胆の色の空を見上げた。「ふ」…ほう、竜胆か。と彼は思った。そう、美しい花を見てみたい。青い竜胆の花野か。それはすばらしいだろう。うまくできるかどうかわからないが、とにかくためしてみよう。まずやらねばならないのは、竜胆の真の名を呼び、それを愛しているこの心を、竜胆に深く語りかけることだ。

彼は目を閉じ、青い竜胆の花の姿を思い浮かべた。それは緑の野の隅にひっそりと咲く、清らかにも青い、音なき音で語る、静やかなる乙女であった。その奥に白い小さな星を隠し、その痛みに、常に震えていた。愛の痛みを、どの花よりも、悲しく、深く感じるため、竜胆はあのようにも、澄んで青く、清らかなのだ。彼は、竜胆の花の真実に深く共鳴しながら、呪文を唱えた。

「ああ、神の胸に横たわる広き野の片隅に、沈黙の鐘を揺らす、小さき竜胆よ。あなたのひそやかなることのはとその微笑みの、美しきことをたたえる。それに深く感謝をささげる。あなたの美しいことを、わたしは心より喜ぶ。あなたの清らかなことに、わたしの心は震える。あなたの愛がこの世にあることの、いかにうれしきことかを、このうえなく神に感謝し、あなたに感謝する。あなたは愛である。ゆえに、存在する」呪文は、そういう意味であった。

ほう、彼は一息、風を吐いた。基本の大地の上に、ただ一つ、青い星のような、竜胆の花が咲いた。彼は、急いでもう一つ違う呪文を唱え、その竜胆に仮の魂を灯した。すると竜胆は風に揺れ、かすかな歌を歌った。それは、普段ならば、野に紛れて、決して聞こえはしない、かすかなる竜胆の清らかな愛の歌だった。

彼は、それから、基礎の大地の上に、多くの竜胆を咲かせ、青い竜胆の野を創るつもりだったが、その、たった一輪の竜胆の歌が、あまりに澄んで美しかったため、それを思いとどまった。竜胆が、本当はどんな歌を歌っているのかを、彼はまだよくは知らなかったのだ。それゆえに、その竜胆の歌う歌に、彼は驚きいり、しばし聞き浸ってしまった。竜胆は歌っていた。

ゆめみる しろきそらのふねにて
あなたに あいたい
ゆめみる あおきのの かたすみにて
あなたの こえを ききたい
ゆめみる ぎんのみずの ほとりにて
あなたの まなこに しずみたい

ああ…
若い上部人はため息をついた。「り」…なんと美しいことだろう。
彼は、創造の魔法を一旦打ち切り、自分が、初めて創った、たった一輪の竜胆のそばに歩み寄ると、そっと膝をついて、静かにも喜びに満ちた微笑みで、竜胆を見下ろした。竜胆は繰り返し、歌っていた。

ゆめみる ほしのきぬのかげにて
あなたの むねのいたみを
すべて わたしのゆめに つつみたい
ゆめみる あおきもりのしたにて
あなたの かげるまなこを てらしたい…

上部人は、まるで、清らかにも美しい乙女に、初めて出会った少年のように驚いて、竜胆を見下ろしていた。胸がかすかにときめくのを感じた。それは、まるで、少年の味わう淡い恋心にさえ、似ていた。もちろん、彼はもうとっくに知っていた。美しい女性に出会い、その人に恋をするとき、男がどのような気持ちを味わうのかを。それが苦しくもせつなく、時には己の魂さえ迷わすほど、激しい痛みをもたらすものであることを。

「とえ、こり」…神よ、これまで見たこともないほど、美しいものに出会うとき、人はだれも、恋に似た感情を味わうものです。ああ、神よ。そうであればこそ、恋とはまことに美しいものです。

上部人は、青い竜胆の前に、ひざまずき、ただ心を吸われるままに、その歌に聴き浸っていた。彼は幸福に微笑み、恋をしてもよいと思った。それほどに、竜胆は美しかった。

時は過ぎた。上部人はただ、一輪の竜胆の前に佇み、その歌を聞いていた。しばしの間、世界はそれだけで満たされてしまった。もうほかには何もなかった。竜胆がいて、自分がいて、ただ、歌が流れていた。微笑みがそれにこたえて、こぼれおちた。幸福だった。

ゆめみる かなたの みさきにて
あなたの ちいさき ほしのひかりに
そまりたい
ゆめみる はてなき みちの
さなかにて
あなたの さむきむねを あたためたい

上部人はただ竜胆を見つめ、ただその清らかな歌に聴き浸っていた。魂を奪われていると言ってもよかった。彼はそれを認めた。自分は彼女に、恋をしてしまったのだ。これ以上はないというほど、美しい恋を。

ああ。そうして、どれだけの時間がすぎたか。ふと、月が陰ったのに、上部人は気付き、目をあげた。あこや貝の裏地のような月が、少し灰色に陰っていた。そのとき、ふと、ぽん、という音がして、彼は下を見た。すると、もうそこに竜胆の姿はなかった。魔法の、効力が切れたのだ。彼が灯した仮の霊魂が、今、消えたのだ。上部人は、う、と喉を詰まらせた。そして、竜胆の消えてしまったあとの大地の上を手でさすり、竜胆の気配を探した。だが、もう、竜胆はどこにもいなかった。もう彼女は消えてしまったのだ。

灰の氷のような寂しさが、彼の胸をよぎった。ああ!彼は胸の中で、裂けるような叫びをあげた。失いたくないものを、失ってしまった。その悲しみが、ひととき、彼の魂に、きしるような割れ目を生んだ。

なんということか。なんということか。なんということを、わたしはしてしまったのか。

上部人は心の中で叫んだ。創造とはこういうことか。愛とは、こういうことか。ああ、愛するほかないというものを、愛してしまわずにはいられないというものを、創る、創ってしまう。これが、創るということか。それが、ああ、消えてしまう。上部世界の創造の魔法では、維持管理の魔法を続けて行かない限り、それはいつか燃え尽きて次元の彼方に消えてしまうのだ。なんという悲哀。わたしは、まだ、こんなにも、未熟だったのか。なにも、わかってはいなかったのか!

彼は、竜胆のいた大地の上にうずくまり、声もないまま、ほたほたと涙を落した。たった一輪の竜胆でさえ、この世界から消えてしまうということが、どういう悲哀をもたらすかということを、彼は知った。

風が吹き、時が流れたことを彼に教えた。涙はもう乾いていた。やがて上部人は、ふう、とため息をつき、平常の自分を取り戻した。そして、かすかな悲哀に染まった瞳をあげて立ち上がり、もう一度、魔法を試みた。呪文を高く歌い続け、黒曜石の大地の上に、ひとひらの、竜胆の野を創った。青い竜胆の花たちが、風に吹かれ、その小さな鐘を揺らしながら、清らかな斉唱を始めた。

ゆめみる あなたのむねの なかにて
あなたの こころに ひかりたい
ゆめみる あなたのみみの かたえにて
あなたの さみしさに ささやきたい

上部人は、竜胆の野を見はらしながら、小さく息をつき、この野をできるだけ長く存在させてゆくために、管理の魔法をやって行くことを自分に戒めた。創造ということが、どのように重いものであるかをわかっているつもりで、わかってはいなかったことを、あの消えていった一輪の竜胆が教えてくれたのだ。

「はりよ、たみ」…一輪の、竜胆よ。あなたは、消えてしまった。だが、決して、消えはしない。なぜなら、わたしは、あなたを、この上なく美しかったあなたに、恋すらしたことを、決して忘れはしないだろうから。

上部人は言いながら、空を見上げた。

竜胆の空に、あこや貝の裏地の、月があった。




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