川沿いに、低いコンクリートの堤防がありました。その堤防の根元、石畳の道との間の小さな隙間に、一輪の小さな菫の花が、咲いていました。菫の花の前には、細い道を挟んで、白い壁をした大きな家があり、その家の壁には惨い弾痕がいくつかあって、窓の一つが壊れて、割れたガラスの代わりに、白い布を張ってふさいでありました。
やれやれ、という何かに呆れたような声がかすかに聞こえてきました。菫が、風に顔を揺らし、誰に言うともなく、つぶやいたのです。菫は、種になったり、花になったりを繰り返しながら、長い年月をずっとその同じ場所に咲き続けてきました。そして、ここで起こったことの何もかもを、見て来ました。
ふと、上から誰かが呼ぶ声が聞こえてきて、菫は顔をあげました。すると、風に乗って、ひとりの若者が自分のところに向かって降りてくるのが見えました。若者は、菫のそばにそろりと降りてくると、菫の前にひざまずき、言いました。
「停戦がなりたちました。しばらくは、平和になりそうです」
それを聞いて、菫は、何やら不思議な歌を歌ったかと思うと、くん、という空気を叩くような音をたてました。すると、ふっと菫の花が消え、そこにいつしか、菫色の服を着て、白い髭をしたひとりの老人の姿をした聖者が、静かに座っていました。菫の聖者は、元の姿に戻り、少し安らいだかのように、ひとつ、深い息をつきました。
「双方合意したか」聖者があまり興味もなさそうに言うと、若者が苦しそうに言いました。「いや、合意というべきか。要するに、大国の立場の問題です。どちらも、そっちを立てなければいけなかったということで。民族の対立と言うか、宗教の対立と言うか、本当に面倒くさい。歴史だの地縁だの利権だの、ありとあらゆるものが複雑に絡み合い過ぎている」
「ふむ。まあ、複雑に見えて、真実は案外簡単なものだ。そろそろ、人間も気づき始めている。どんなに馬鹿なことを自分たちがしているかということに。いずれ、こんな愚かな小競り合いの繰り返しも、止むときがくるだろう。それは、人間が互いに合意して納得してなり立つと言うのではなく、もうお互いに、すっかりやる気をなくして、自然に消えていくという感じになっていくだろう」
「そういうものですか」
「ああ。世界はもう変わっている。この現実は、もう現実ではないのだ。だんだんと人類にもわかってくる。いつかは、目を覚ます。そのときがきたら、もう、こんなことは、やる必要もないのだ。それがいつ来るのかは、神のみが御存じのことだが」
そう言うと聖者は立ち上がり、手の中に杖を出すと、ふわりと空に浮かび上がりました。若者もその後に従いました。
眼下の町に、砲撃を受けて、破壊された家々がたくさん見えました。若者たちが、憎悪の叫びをあげる死者の魂を何とかなだめて、導こうとしていましたが、死者たちの怨念は深く、彼らの癒しと導きの呪文も、なかなかに効かないようでした。
「苦労しているようだな」聖者が風に髪をなびかせながら言いました。若者が悲しそうに頭を振りながら、ため息をつきました。「はい。でもみんな、がんばっています。すっかりうまくはいきませんが、何とか半分ほどの死者を導くことはできました。でもあとの半分はいまだに地上に残って、敵を呪って殺そうとすることを、やめようとしません。このまま放っておいては、死者たちが生きている人間たちにまた憎しみを吹きこみ、火種が燃え上がってくる。そしてまた、大砲が打たれる。また多数の死者が出て、怨念を吐き始める。そしてまた…」
聖者は悲しそうに目を細め、細い息をひとすじ吐きました。そして静かに目を光らせ、眼下に広がる風景を見渡しました。所々崩れた家のある静かな町のあちこちに、菫色に光るものがありました。「…ずいぶんと壊されたな。やり直すか」そう言うと、聖者は、杖を振りました。すると、かん、という大きな音が、杖から鳴り響きました。聖者は呪文の歌を歌い始めました。そばにいる若者もそれに和して歌を歌い、聖者の魔法を助けました。
すると、もりもり、という音が地の底から聞こえてきて、町のあちこちに無数の菫の花が咲き始め、それはほとんど数分のうちに、町をすっかり覆ってしまいました。菫は一見、無秩序に、町じゅうに咲き乱れているかのように見えましたが、聖者の目には、それがとても複雑な魔法計算によって作られた、正確な文様を描いていることがはっきりとわかりました。その菫は、生きている人間の目には決して見ることはできませんでしたが、かすかな香りを風にまぜ、歌を歌い始めました。菫の歌は、香りとともに、町を流れて行き、生きている人の耳から聞こえぬ声のままに、その魂の中にしみ込んでゆきました。
いわいの おかを こえて
あほうが ゆくよ
なぞの はためく
おりの なかに
あいが あるの
その菫の歌を聞いて、若者は目を見張り、言いました。「おや、あれは…」すると聖者は、目を細めて、ふふ、と笑いました。
「菫は愛するが、人類にはまことに厳しいことを言う」
聖者は菫の紋章が完成し、それによって、だんだんと死者たちの怨念が静まってゆくのを確かめると、また、ほお、と深いため息をつき、今度は上空を見上げて、少し目の色を変え、幻視をしました。若者も、それ気付いて、聖者に従い、同じように上空を幻視しました。
空の上で、黒い巨人と、灰色の巨人が、互いににらみ合い、腕をからめあって取っ組みあったまま、石のように固まって動けないでいるのが見えました。巨人は不思議な雲でできており、少しの風にも揺らいで消えそうなほどに、半分透けて見えましたが、なぜか消えてしまわずに、そこにあって、いつまでも互いをにらみ合い、互いの体をぎりぎりとつかんでいるのでした。
「見よ」聖者は言いました。「ひとりしかいないはずの、唯一絶対の神が、ふたりで相撲をとっている。全知全能、唯一絶対の神が」
若者が悲しげに言いました。「はい、見えます。あれが、絶対の唯一神なのですね」
「ああ、そうだ。悲しくも幼い、子供の夢だ。自分だけが世界で一番でいたいという」
ふたりの目の前で、巨人たちは、とっくみあったまま動かず、ただ互いをにらみ合っていました。そうしていつまでもそのまま、固まっていました。聖者の耳に、巨人の心の中の叫びが聞こえました。それはこう言っていました。おまえが、邪魔だ。おまえが、邪魔だ。消えろ、消えろ、消えろ…。
聖者は目を閉じると、眉を寄せて悲しげにうつむき、かすかに首を振りました。
「人類よ」と彼は言いました。「…もうわかっているはずだ。あれが何かということに。唯一絶対にして、全知全能の神など、ありはしない。唯一にして在りて在るもの、その言葉に値するものがあるとすれば、それは愛のみだが、おまえたちはその真の意味をわかることができず、唯一という言葉を、虚無の寂しさにおびえるおまえたちの魂の、幻の逃げ小屋にしてしまった。己以外のもの全てを恐れ、妬み、憎む、人間のおびえが、それを創り上げた。唯一絶対にして、全知全能の神。それは、全てのよきものと力をそなえ、全てを超越して全てに勝利できる完璧の神。人類よ。おまえたちはそういうものになりたかったのだ。そうすれば、自分以外のものすべてに打ち勝ち、すべての恐怖から解き放たれ、己の真実の姿に目をふさぐ過ちから逃げられると思ったか。だが、それがどんなに悲しいことになったか、今おまえたちは目の前にまざまざと見ている」
若者も、言いました。「…悲しいことです。今まで、たくさんの、美しい使者たちが、人類に教えてきた。愛の真実の姿が何であるかを。でも、人類には、わからなかった…。ただ、怖かったのです。自分以外の、何もかもが。それゆえに、欲しかった。全てが。全ての力が。それが、全知全能の神というものなのですね」
「ああ。存在というものは、決して完璧にはなりえぬ。自分は自分であるゆえに、自分以外のものには、決してなれぬ。それが、不完全というものだ。存在は不完全ゆえにありとあらゆる創造を行ってゆく。どんなにすばらしいものを創ろうとも、決して満足することはない。創造は果てしない。やればやるほど、足りぬことがわかってくる。ゆえに存在は永遠に不完全で在り続ける。全知全能など、決して実現することはない。もしそれがあるとすれば、虚無のみだ。全知全能にて、何もかもが完璧に備われば、もう何をする必要もなく、存在する必要すらない」
あほうが いくよ
なぞの はためく
おりの なかに…
ふたりが会話を交わしている間も、菫は歌い続けていました。聖者は瞳に寂しさを灯しつつも、少し表情を明るませ、笑いました。「菫が歌っている。人間に、馬鹿はもうやめろと言っている。あれが菫と言う花だ。人間を、いつも厳しく諌めている。蒲公英ならば、どんな苦い人間であろうと、愛し、あなたはすばらしいと、歌うものだが、菫は菫ゆえに、愛しながら、人間を厳しく諌める。それが菫というものだ。菫は菫の歌を歌う。蒲公英は蒲公英の歌を歌う。そしてどちらも、美しい。どちらも、世界に、欠くことのできぬ、美しい存在だ」
「はい」若者は、静かに答えました。
いわいの おかを…
菫の歌の声は、上空を流れ、幻の巨人たちの耳にも届きました。すると、ふと、灰色の巨人の方がそれに気づき、顔を揺らして、まごまごとした様子で、こちらを振り向きました。聖者は、その顔をみて、ほ、と少し驚いたような声をあげました。
巨人の顔は、その体の大きさ、頭の大きさに比して、まことに、小さかったからです。それはまるで、大きな広場のような顔面の真ん中に、小さな目鼻が鼠のように集まり、互いに身を寄せ合って寒い震える体を温め合っているかのようなのでした。
ああ…。聖者の口からまた、ため息が漏れました。何ともいえぬ憐れみの感情が胸に生まれました。
「全知全能にして唯一絶対の神よ。孤独であろう。誰もがお前を恐れるが、誰もおまえを愛しはしない」
聖者は幻視をやめました。上空の巨人の姿は、すぐに見えなくなりました。
聖者は若者に、一つの仕事を言いつけました。すると若者はすぐに、はい、と言ってそこから姿を消しました。聖者は巨人の見えなくなった空をしばし悲しげに見上げると、ふわりと地上に降り、また元の堤防の隅に戻って、呪文を唱え、一輪の菫の花に姿を変えました。
彼はここで、もう何百年かという月日を、菫の花の姿をして過ごし、その深い根から密やかに呪文の歌を流しながら、大地にしみ込んだ惨い悲哀を清め、地質浄化を行ってきました。そこは、その国にとっては、いわば心臓部のような重要な秘密のある場所でした。本来ならばそこは、人間たちによって清められ、大切にされなければならないところだったのです。しかしそこを、人間たちが勝手に開発し、それによって大地の大切な秘密が悲哀に侵されてしまい、国を守る霊的システムが壊れてしまったのでした。そして、国には醜い戦が起こり、それは長い間続き、今も終わってはいない。しかし、その悲哀がこれ以上深まることなく、国の人間の魂を、これ以上暗く惨い悲哀の中に迷わせていかないためにも、彼はそこにいて、大地の悲哀を清め続けていかなければならないのでした。
唯一の巨神が、ふたりで相撲をとっている、幻想の空の下、町の片隅に咲いている、誰も振り向きはしない、一輪のしおれかけた菫の花が、一体何をしているのか。たぶん、人間は永遠に知ることはできない。たとえ知ることがあるとしても、はるかなはるかな、未来のこと…。しかし菫にとっては、それは別に、どうでもいいことでした。