◇『心淋し川』
著者:西條 奈加 2020.9 集英社 刊
時代小説、現代小説なんでもいござれという話題の女性小説家の一人
西條奈加の作品。第164回直木賞受賞作で、小説すばる連載の作品を単
行本化した連作短編集。
はじめてお目にかかったが、筋の運びといい人物造形といい堂に入っ
ているし何よりも人情の機微を巧みに映し出している。
江戸は根津権現近くの窪地に長屋風に固まったその日暮らしの貧乏所
帯が屯する六兵衛長屋。心町と書いてうらまちと呼ぶ。そこを流れるど
ぶのような川が「心淋し川(うらさびしがわ)」である。
ここで生まれここで育ったちほ。早くこの薄汚れたどぶ川沿いの長屋
から逃れたい。付き合っている紋染職人の元七に二人の行く末を問いた
だしたら親方に京都の職人に弟子入りし腕を上げて帰って来いとわれた
と…。本人も修行してきたいということでまたも夢は潰えた(心淋し川)。
醜女ばかりが4人も寄り集まっている。いずれも六兵衛旦那の妾であ
る。醜女が好みという六兵衛も変わっているが、同じ家に住まわせると
いうのは質が良くない。しかし4人は喧嘩はしてもなんとか助け合って
暮らしている。
そんなある日最年長のりきが旦那の風呂敷包みから見つけた張形。い
たずら心から小刀で仏像を彫ってみる。後で旦那は行きつけのヤッチャ
場の世話役衆にうっかり見つかったが趣向の意外性を面白がり、人気を
博したという。りきは亡くなった祖母の面影を映しただけだったのだが
…。
旦那の六兵衛が亡くなった。路頭に迷うはずの4人の女はりきの仏像
のおかげでこの長屋に居続けることができた(閨仏)。
料理人だった余吾蔵は兄貴分の稲八が病を得て亡くなり四文屋という
飯屋を引き継いだ。六兵衛長屋の連中が辞めないで続けてくれというか
らだ。
食材の仕入れに立ち寄る根津権現の境内で「はじめましょ」という尻
とり歌を口ずさむ女児ゆかに出逢う。余吾蔵は昔身ごもったからといっ
て女を捨てたことがある。るいと言った。そのるいが良く歌っていた
「はじめましょ」の尻取り歌。もしや、と思って母親に会ってみたら案
の定自分が捨てたるいだった。ではゆかは二人の子なのか。昔のことは
謝って、三人で出直せないかと思ったのだが、るいが言うには二人の子
は生まれてすぐに亡くなり、ゆかは寺に捨てられていた子だという(は
じめましょ)。
大店薬種商「高鶴屋」の内儀だった吉は落魄の身で今は六兵衛長屋の
住人である。一緒に住む一人息子の富士之助は半身不随、意のままにな
らない不満を母親にぶつけ喚いてばかりの毎日である。
富士之助は我儘に育てられたため辛抱がきかない。油問屋山崎屋の娘
江季を見染め結婚する。吉はこれまで通り身支度から食事まで世話を焼
こうとするが嫁の江季はこれを嫌い別居。吉は生き甲斐を奪われる。
ほどなく高鶴屋は主人が亡くなる。富士之助は遊び癖がおさまらない。
盛り場で侍と諍いを起こした富士之助は半身不随の大怪我をしてしまっ
た。
店の凋落が始まる。まだ若い身だからと江季を離縁し実家に帰した吉
はやっと息子を独り占めにできた。息子の我儘に振り回される哀れな母
親ではなく、憑かれたように我が子に執着する姿があった(冬虫夏草)。
人の一生は生まれ落ちたその時から決まっている。ようはそう思って
いる。
根津遊郭の葛葉という元娼妓のようは見目が良くない上に気性が荒く、
口が悪いため人気は良くなかった。しかしこうした、裏表のない威勢の
良さを買ってくれるひいき筋の旦那もいて、出雲屋の隠居は葛葉を落籍
し六兵衛長屋を世話してくれた上に、「好きな人がいたら」と言ってく
れて瓦職人の稲八と一緒になることができた 。
ある日外出したようは、つわりのせいで立ち眩みせいで道端にうずく
まっていたところやさしい見目のいい女がいたわってくれた。かつての
同僚で廓で一番の明里姐さんだった。観音と言われるほどやさしい人気
者だった。明里は近くの小料理屋にようを誘い昔話に興じた。その折り
二人が妊娠していることが明らかになり、明里の腹の子の父親は旦那で
はなく旦那の札差の手代だという。隠れて会っていたのだった。
その後しばらくたったある日差配の茂十が読売の話として明里の心中
事件を伝えた。客と虚構の時間を過ごす廓で、自分を偽って生きてきた
明里が最後にほんとの自分を世間に訴えたのだと思った(明けぬ里)。
差配の茂十はかつて息子の修之進が夜盗の地虫と出会い捕り物紛いの
争いになった時に地虫の手下の一人に斬り殺された。その折りに首領の
地虫の顔を見た。その地虫が六兵衛長屋近くに住んでいることを確かめ、
友人の錦介発案で六兵衛長屋の差配に滑り込み、地虫を監視し続けた。
それから18年になる。優しい差配とみられるよう根津権現わきの小屋
に住まわせ食事の面倒も見てきた。四文屋の稲次が手下らしいというこ
とも分かった。周囲に楡爺と呼ばれ、なんの懸念も持たれず過ごしてい
る楡爺に対して茂十は次第許すような気持になる。悪行を尽くし燃え尽
きた男の残骸の姿を見る思いで楡爺を見る。
ある雪の朝、楡爺は発作を起こし逝く。いまわの際に「斎助」と叫ん
だ。あの時修之進と切り結んで死んだのは楡爺の息子だったのか。息子
を失った哀れな二人の男が互いに胸を重ねて泣いていた(灰の男)。
(以上この項終わり)