---2023年9月15日(金)---
黄金の地の三河・駿河・甲州・信州から荒涼の坂東の地に、天下人の秀吉から移封を命じられた家康は一言の愚痴も口にしなかった。
関東郡代を命ぜられた忠次は昨日までの敵を温かく包み、荒れ狂う大河を治め、沼地を田園に変え、家康天下取りの経済基盤をみるみる確立。(叢文社)
徳川家康関東5ヶ国時代の知的指導者「伊奈忠次」のお話です。
豊臣秀吉により本拠地・三河・遠江から、関東に国替えを命じられた家康最初の施策は江戸の町づくりで、ほぼ未開であった江戸の町づくりに抜擢された伊奈忠次を語った本です。
〔国替え 三河・遠江・駿河・甲斐・信濃⇒武蔵・相模・上野・下総・上総〕
利根川治水を行った伊奈忠次という人物の事を知りたいと図書館で探して借りました。
しかし、この本は少々難しかった・・・(;'∀')
忠次の行った検地・知行・年貢制度改革など残された資料を解読していく形で、何をしたかと読み解いていくのですね~。訳分からん状態の所は読み飛ばしました・・・💦
しかし、生い立ちから家康に巡り合うまでのところ、つまり私の知りたかった部分はとても分かり易く書いてあり、楽しめました。
利根川の水路を変え外海に流れるようにした治水の話は今の東京の礎を作ったとも言われており、とても興味惹かれました。
以下は、ネットから抜粋、私の心覚えなので飛ばして下さいね。
伊奈忠次(通称・熊蔵。1550~1610)は、三河生まれながら、一向一揆の際には父・忠家とともに一揆側に身を置いた。長篠(ながしの)合戦で陣借りをして、後に家康に再び仕えた。
その後は、家康の嫡男・信康(のぶやす)付きとなったが、信康の自刃後には出奔して堺にいた。
天正10年(1582)6月、本能寺の変に際して、堺に来ていた家康に再会し「伊賀越え」にも護衛の1人として参加、再び帰参が許された。
三河・遠江の奉行職を委ねられ、後には代官衆の筆頭に抜擢される。秀吉の小田原征伐(北条氏滅亡)の際には、秀吉から駿河・遠江・三河の道路・船・橋梁の整備を命じられ、これを実行した。
家康が関東に入国した後は、関東代官頭として民政に力を入れた。
家康が忠次を見込んだのは「前代の領主であった北条氏は民政に長けており、領民感情は北条氏を懐かしんでいたから、その関東経営は難しかった」からである。家康は「伊奈忠次ならば、問題なく民政を行うだろう」と期待した。
関東は、日本最大の沃野であったが、利根川・荒川など大きな河川があって、季節ごとに氾濫を繰り返すばかりか、その流路もしばしば変えるために沼沢や荒れ地が増え、豊作と凶作とが交互に来るなど、農業の格差が著しかった。
忠次は、新田開発や検地などで土地の有効利用と農業の収穫安定を図った。こうした忠次の水利事業は成功を収め、後に「伊奈派」とか「備前派(忠次の官位が備前守であったから)」と称される。
忠次は、関東の水運・治水・土地の有効利用ばかりでなく、同僚の青山忠成らとともに、徳川家臣団の関東における知行割りも担当した。
家康の新しい領国での本格的な組織作りの基本となる作業である。家康の意を受けての知行割りであるが、その総奉行は四天王の1人・榊原康政であり、その下に忠次や青山らがいて、実行部隊となった。
知行割りは、武藏をはじめ江戸の周辺諸国に100万石を上回る天領(直轄地)を設置し、徳川一門・譜代上層部から42名を1万石以上の大名に仕立て、北条氏一族や家臣の支城を中心に、領国外の敵対勢力(例えば、伊達氏・佐竹氏・最上氏・上杉氏・里見氏など)に対峙するような形で有力な上級家臣団(四天王・十六神将/など)を領国の周辺部に置き、それ以下の石高の家臣団を領国の中央部に配置した。
上野・箕輪12万石の井伊直政、上総・大多喜10万石の本多忠勝、上野・館林(たてばやし)の榊原康政、下総・矢作4万石の鳥居元忠などがその代表的存在である。
こうした家康の新領国は、結果として江戸の強固な防衛態勢が敷かれることになった。
こうした功績に対して、家康は忠次に武藏国足立郡小室(埼玉県伊奈町)と鴻巣(こうのす)併せて1万石を与えた。忠次の領国経営も「民政」に力を入れ、領民からは「神様」として崇められたという。忠次の善政は、伊奈町という命名にもなった。