昨日の日記で【園内の様子などはまた別の日記で】として、今日は別のことを書こうと思っていたのが
たぶん2~3日も先になると、たった一時間ほどのことなど今の頭じゃ覚えてらんねぇんじゃない?
なぁ~んて自分で考えてしまったワケでね、 やっぱり続けて書いとかなきゃと思った次第。
ん? 誰に言い訳してんだろね? (^O^) バッカみたい。
1550年に宣教師ザビエルが来堺したり、それから9年後に来た宣教師ビレラが、濠で囲まれた街を
「ベニスのよう」と表現したように、仁徳天皇の御陵は今とはずいぶん違ってちょっと西へ行ったら
もうすぐに大阪湾で、外国から当時の飛鳥や藤原、そして奈良の都への大和路に向かうために
一番最初に上陸した場所、それが堺でした。
大陸と日本を結ぶ重要な位置を占め、中世には遣明船の基地として大陸から渡来した先進技術や文化を日本文化へ昇華させることに貴重な役割を持つと同時に当時自由都市として栄えました。
かつては今の大阪府より大きく今の奈良県をも飲み込んでいた堺県が、1086年の廃藩置県から
1889年に市制を敷いてから100年を記念して大仙公園の中に2万6千平方メートルの庭園が
作られたそうです。
『築山林泉回遊式』という庭園様式で対岸に中国様式の建物があるのは
初めて訪れた日本人には「え?」と思わせる造りになっています。
一番南の奥、日本の大阪・堺市の泉北丘陵を桃源郷に見立てて水源とし
そこから流れ出た水が川となってここの大海へ流れ出て、その先に中国が
見えると言う設定になっているようです。
桃源郷にあたる桃源台には流杯亭(りゅうはいてい)と言う建物が建ち、その土間に当たる
部分には友好都市中国の連雲港市から贈られた石に流れを彫み、曲水を再現してあります。
この曲水の流れの模様は花果山の石の中から生まれた孫悟空の顔に似ているといわれています。
そのあたりからスタートした流れは初夏には花菖蒲や杜若が風情を競う「杜若池」とその水辺に
静かにたたずむ「青苔亭」を流れます。
その後も季節の華がそれぞれに咲くように設定された場所を流れ進み、庭園を見下ろせる1番
高い場所にある傘亭(かさてい)や中国江西省にある名勝を模した築山廬山(ろざん)の
麓を徐々に広がりながら古代より現在に至るまでの堺の人々の生活と文化を育んでいる石津川
として大海原に注ぎ出ます。
間には春燕橋(しゅんえんきょう)や印月橋(いんげつきょう)と映波橋(えいはきょう)も設置されて
川の両側を楽しめるようになっています。
大海に見立てられた池には鴨や鯉が悠々と暮らし、見る者を和ませてくれます。
城下町や豪族の庭として残されている公園にも物語などがあるようですが、栄華を誇る造りとは
全く違って庶民感覚でありながら、千利休や豊臣秀吉に愛された町としての歴史をも含めて
勝海舟まで巻き込んで、いにしえの外交の中心地の面影も付け加えられているようです。
さて、明日は此処で咲いていた花の話題でも ・・・