東京出張は他大学の視察ということで出かけましたが、ちょうど大学祭のシーズンで二つの大学の大学祭を見学しました。そこで大学教育とはなんぞや、高校生は何を大学に期待しているのだろうか、ということを考えました。
最初に行った大学では、ホームカミングデーであったこともあって、卒業生が自身の現在の仕事と、大学時代に考えていたことなどを講演されました。もっとも印象的だったのは「(自分が必要としていたのは)自分が考えてみたいことを考えさせてくれる授業だけ」という言葉です。考えるために大学にいった。そして今も考え続けている。考えることが楽しい。そういうお話でした。学びの主体は自分にある、ってことだと感じました。また、ひとつの事象をさまざまな違う角度からとらえることが大事で、そのためにも学際的な学びが重要であり、異分野、異文化の人と議論し合う環境が大事だと、それが大学という「場」ではないかという指摘があったと思います。
もう一つの大学では、学生さんたちがとても熱心に研究発表をしていました。ポスターも手作りだし、模型もつくってすごい力作です。大学祭に来ている子ども達も大喜び。顕微鏡で血球細胞見せてくれたり。ただ、ちょっと専門的な質問をしても全然的外れな答えが返ってきたりで、ちょっと残念
でも楽しそうなんですよ。とにかく熱気いっぱい。だからもうちょっと深いところまで勉強してみたらもっと楽しいんじゃ、、、というのは老婆心か。
大学って知の喜び・楽しさを満喫するところであってほしいなと思うんですが、大学によって対象はさまざま、そして学びの深さもさまざま。さてわたしの大学ではどうか、ということを考えてみると、私自身はかなり深い思考を学生に求めるけれど、学生はどっちかというとそこまでは求めていないわけで、毎年葛藤があります。気が付いてくれるような指導が必要なんだと思いますが、やはり学びというのは主体的なもの。自分自身が求めずして得られるものではないので、深く知りたいと本人が思い、行動に移せるような「場」とか「きっかけ」とか「出会い」とか、そういうのを作っていくのがわたしの仕事なんだろうなと思います。
しかしここで思い浮かぶのが【笛吹けど踊らず】という現実。
私たちが生きるこの世界は、おもしろいことであふれていると私は思っていますけれど、それをいかに伝えるか、そこが問題だなと思います。
最初に行った大学では、ホームカミングデーであったこともあって、卒業生が自身の現在の仕事と、大学時代に考えていたことなどを講演されました。もっとも印象的だったのは「(自分が必要としていたのは)自分が考えてみたいことを考えさせてくれる授業だけ」という言葉です。考えるために大学にいった。そして今も考え続けている。考えることが楽しい。そういうお話でした。学びの主体は自分にある、ってことだと感じました。また、ひとつの事象をさまざまな違う角度からとらえることが大事で、そのためにも学際的な学びが重要であり、異分野、異文化の人と議論し合う環境が大事だと、それが大学という「場」ではないかという指摘があったと思います。
もう一つの大学では、学生さんたちがとても熱心に研究発表をしていました。ポスターも手作りだし、模型もつくってすごい力作です。大学祭に来ている子ども達も大喜び。顕微鏡で血球細胞見せてくれたり。ただ、ちょっと専門的な質問をしても全然的外れな答えが返ってきたりで、ちょっと残念
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大学って知の喜び・楽しさを満喫するところであってほしいなと思うんですが、大学によって対象はさまざま、そして学びの深さもさまざま。さてわたしの大学ではどうか、ということを考えてみると、私自身はかなり深い思考を学生に求めるけれど、学生はどっちかというとそこまでは求めていないわけで、毎年葛藤があります。気が付いてくれるような指導が必要なんだと思いますが、やはり学びというのは主体的なもの。自分自身が求めずして得られるものではないので、深く知りたいと本人が思い、行動に移せるような「場」とか「きっかけ」とか「出会い」とか、そういうのを作っていくのがわたしの仕事なんだろうなと思います。
しかしここで思い浮かぶのが【笛吹けど踊らず】という現実。
私たちが生きるこの世界は、おもしろいことであふれていると私は思っていますけれど、それをいかに伝えるか、そこが問題だなと思います。