いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

新潮社の攪乱(かくらん)。 disturbance of shincho-sha

2018-09-25 19:38:25 | 日記
 (1)新聞の宣伝、広告欄でどうみてもあきれてモノも言えないような内容物が載っているのは、スポンサーがカネさえ出せば拒絶できない表現、出版の自由があるからだ。それでも新聞メディアの良心、良識を疑われてもおかしくないものもある。

 (2)新潮社が性的少数者(LGBT)を「生産性がない」と攻撃する衆院議員の寄稿特集を掲載し国会でも問題として取り上げられたものを、さらに別号で批判に対してこれを擁護する特集を組んで発売したことに対して、新潮社社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」(報道)と新潮社としての見解を発表した。

 冒頭のように表現の自由、出版の自由からすれば一方の見方、考えだけを選別して文章を発表、書籍を発刊することはむしろ差別、偏見につながるもので、多様な意見、考え、思想を述べる機会を与えることは必要なことだ。

 (3)多様な意見、考え、思想の中から最大公約数としての理念、概念をつくりあげるのが民主主義、自由主義の社会の基本姿勢である。そういう意味では新潮社がLGBTに批判的な国会議員の意見、考えを述べる機会を与えて、さらにそれを「そんなにおかしいか」(企画特集)と擁護する特集を組むというのは一方的な立場、考えのみをとらえてまさに擁護する差別的な偏見方針であり、せめてこれに反対する立場、意見、考えも新潮社としては特集すべきであった。

 (4)ここまで実績と名声のある新潮社が初版に重ねて差別的意見、考えを擁護する文章特集を組むことに社内での編集ガバナンスが働かなかったのか、名の通った責任のある出版社として意図が分からずに理解できないが、同社長が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足」と批判しているのだから新潮社がそういう編集方針の偏った(bias)出版社でないことは一応わかる。

 社長がいちいち出版物に目を通して許可を与えることなどできる話でもなく、国会、社会で騒ぎになって初めて新潮社としての考え、方針、ガバナンスを示したということだ。

 (5)冒頭の新聞の宣伝、広告欄でのあきれた表現も、表現の自由、言論の自由、出版の自由との理解なのだろうが、確かにこれを新聞が選別して掲載を認否することになれば表現、言論の自由は一方的に制限される危険性だ。

 判断するのは読者、国民、社会であり、一定の自浄作用はあるが、その前にメディア、出版社、業界としては多様な比較論を提供して示す良心、良識が求められている。

 (6)それが民主主義、自由主義社会の言論、出版の自由に課せられた出版社、業界の重い責任とコンプライアンス(compliance)だ。
 新潮社は同特集を組んだ「新潮45」を休刊とした。

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