いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

芸術論的裁判。 trial by artistic theory

2022-03-04 20:23:55 | 日記
 (1)19年に完成した映画の出演者が禁止薬物使用で有罪判決を受けて文化庁所管の助成金が不交付となった処分に対する訴訟で、1審の処分「違法」判決に対して2審の東京高裁は1審判決を取り消して「適法」と判決した。上告して最高裁で争われる。

 (2)1審は有罪を受けた出演者が「脇役で出演時間も短く、(国が薬物犯罪に寛容だという)誤ったメッセージが広がることはない」と判断しての不交付違法判決だった。これに2審では「出演者は映画で重要な役割を担い、助成金を交付した場合に国は薬物犯罪に寛容だという誤ったメッセージを発したと受け止められる」として不交付適法判決だ。

 (3)証拠主義の裁判が禁止薬物使用で有罪判決を受けた出演者の映画作品での役割、存在感の評価という抽象的芸術論の判断で判決がわかれるという芸術裁判判決となった。公平、公正、中立の立場での裁判だから裁判官の芸術論、印象論ではなく、禁止薬物違反の有罪判決を受けた出演者の映画作品に国が助成金を交付することが適正かどうかの法律論、構造論で判断すべきだった。

 (4)それはまさしく犯罪防止、社会正義のパラダイム(paradigm)維持として「国が薬物犯罪に寛容だという誤ったメッセージを発する」ことになるかどうかの法律論だ。当時音楽家の坂本龍一さんは作品と出演者は別物で、映画作品の価値が出演者の事情には影響されない独立性がある趣旨発言をしていた。

 (5)芸術論としては高い見地からの理論ではあるが、芸術論と法律論、裁判論とは専門的役割、判断、観点、論理構成は違っており、これを同じにする、論じることはできない。論点は違うが芸術性がいかに優れて高いからといって表現、描写されている内容によっては観る側の精神性、理解性、判断性に理解を越える影響力があれば法的に一定の制限、制約はある。

 (6)裁判はあくまで証拠主義であり、その「証拠」を客観的、論理的、構造的に証明できなければ正当で有効な判断、判決とはいえない。裁判は主観論としての芸術論で判断、判決するものではない方法論の問題だ。

 そこで映画作品というのはシナリオ、脚本はあっても出演者の役割、表現、仕事、能力で成り立つものであり、作品と出演者は実体として「一体」と考えるべきだが、禁止薬物使用は出演者個人のこと、個人の有罪判決であり、映画作品が禁止薬物使用を啓発しているものではない限り作品の評価に影響するものではない。

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