やっぱり「神道(シントウ)は間違っている!?」だけでは誤解されそうなので、「或いは神道と呼ばれる経緯」と言う袖見出しを付けときました。でも、まだピンと来ませんね。どうしましょう。
うーん、こんな事で悩んでいてもしようが無い。続かせて頂きます。
さて、神道の文字が初めて出てきたのは昭和12年です。宮地直一と言う東京帝国大学(東大ですね)の先生が、今まで「神祇史??」の授業科目を「神道史」に改めたのが最初です。それ以前は神道的な倫理観を「神祇??」と呼んでいたのでしょうね。
それは兎も角、神道は今から78年前に出てきたと言えます。その後、世界共通語である「シントウ」と「神道」が重なったのでしようか。
神道のルーツは弥生時代を通り越して縄文時代にはその原型が現れています。さらに鳥居の原型らしきものが朝鮮半島にある。
もう数千年前から日本に神道的なの倫理観が伝わっているのに、昭和の時代になるまで神道の名が出てこなかった。どう呼ばれていたのかも殆ど分からなかった。これはどう言う事なのか。
何の事はない。神道は宗教と言う認識ではなかった。日本人の生活そのものだったと言う事です。だから宗教名が無かっただけの事。宗教じゃないのですから当然ですね(もう、何を言っているのか自分でも分かりませんわ)。
その証拠に私のブログを読んでいただいている奇特な貴方。貴方がもし外国人に「神道とはどんな宗教ですか」と質問されて、明確に答える事が出来ますか。出来ないでしょう。
私だって「八百万の神がどうたらこうたら・・・・・・」としか言えませんもん。明確に答えられる人はもしかして、神職でも少ないように私は思いますね。
逆にキリスト教の方が詳しく説明出来ます。キリスト教徒でなくてもイエスキリストが人々の罪を背負って十字架にかけられた位の事は、誰だって知ってますしね。
神道は日本人の生活であり古来からの倫理観です。呼び名なんて無かったし、必要もなかった。だから仏教が伝来しても神道は宗教ではないのだから、宗教的な対立が殆ど無かった。故に神仏習合なんて前代未聞な宗教観が現れたと言えます。
さて、どうでしようか。ここまで私の話が理解出来ましたでしょうか。
うーん、分かりませんか。それはしょうがないです。書いている私だって何を言っているのか分からなくなってるし・・・・・・・。
まぁ、これは私の想像なのですが、昔の日本人は神社にお参りに行っても神棚を奉っても、それが普通の生活と考えていた。生活の一部だった。それが宗教だとは思わなかった。考えていなかった。意識もしていなかった。だから特別な名称で呼ぶ必要が無かったのではないでしょうか。
日本人の無意識の中に神道がある。だからどんな宗教も神道を犯す事が出来ない。そんな稀有な倫理観が神道なんだと思います。
最後に「神道(シントウ)は間違っている!?」とのお題の方が間違っていましたね。「神道は宗教では無い」とした方が良かったかも。
いやいや神道は無意識なものですから、お題を付ける事自体が間違いだったのかも知れません。
うーん今回のお題は、今の私には少々難し過ぎでした。何となくですが、ニュアンス的なモノを感じていただければ良しとしたいです。
ではでは。